(七) 中大兄皇子、そして鎌足のもとへ 

このようなやかな日々くはきませんでした。ある筑紫(ちくし)から早馬使いがきました。

幸山大君からの書状だったそうです。書状封印されて、巻紙げるなり 「そんな!」と、父上絶句(ぜっく)注701)されています。近寄りがたい雰囲気です。

部屋もられ、しばらくしてをおびになられました。

 

かにってくように」と前置きされて、内容えてくださいました。

一貴皇子(いきおうじ)大君名代(みょうだい)百済いたら、新羅兵せにい、部隊全滅した、ということ。 

一貴皇子亡骸(なきがら)は、不明のままであること。

百済兵りの(げん)では、んだ民家もろともかれた、とのこと。

新羅兵唐兵(とうへい)装束注702)も見られたとのこと。 

百済救援めていること。

幸山大君陣頭って、乾坤(けんこん)一擲(いってき)注703)の勝負をかけると、っていること。

幸山大君留守日本(ひのもと)采配は、筑前(ちくぜん)大分(だいぶ)(ぎみ)注704)に依頼することにした、とのこと。 

此度(こたび)一貴皇子戦死については、一党(たくら)みがあったと判明一党長柄(ながら)豊崎(とよさき)で、大君によって成敗(せいばい)注705)された、ということ。

大和一統後詰(ごづめ)注706)の三万必要であり、至急女王に、東国(とうごく)および吉備(きび)軍勢をまとめさせてしい。

以上のことを談判せよ。

皇国(こうこく)興廃(こうはい)交渉にかかっている、がびの言葉

 

というくべき内容のものでした。 

 

このところれず、いているうちにふわ~となって、気付いたら寝間多賀がぬれた手拭(てぬぐい)やしてくれていました。父上は?ときますと、女王御殿御用ってかけられた、ということでした。

幸山大君が、おに入りの歌人大伴(おおともの)家基(いえもと)注707殿によくわせた、あの、「かば」でまるにはこの気持ちのさがからないのかなあと、あのいたにはけなくわれました。、あの脳裏(のうり)注708)によみがえり、荒涼(こうりょう)注709)とした戦場かびがって、まりませんでした。

 つわもの共の夢のあと

()かば 水漬(みづ)(かばね) ()かば、むす 

      大君(おおきみ)の ()にこそなめ かえりみはせじ (注710

 

(あと)は、一貴様がおりになろうとなられまいと、仏門(ぶつもん)ってにおすがりしてきる以外いだろうと、めました。 

 

ところが、そのようなことが(ゆる)されない、とんでもないことがいかかりました。      

(たからの)女王(じょおう)さまと父上がおいになられた父上をおびになりました。

(やすこ)不憫(ふびん)注711)なじゃ。星回りはくはないとっていたが、一貴殿のことはこれは運命めてしい。かれとってあのような・・・、ない」

「いいえ、お父様、そのように安児のことをっていただき、ありがたくっています」

「それよりも、女王との談判首尾(しゅび)注712)は如何でございましたか?」と、おきしますと、

殿との出来た。それがじゃ。えげつないとはこのこと。足元おって」とまでにたこともいお父上のえらい剣幕注713)です 。

しばらくがれて、されたのでしょう、やかないてられ、けられます。

の、安児かせたくないだが、いてわなければならない」

何事でございましょう?」

今度(こたび)助太刀(すけだち)注714)のは、までいてきていた以前からの約定(やくじょう)注715)ゆえ、先方げられないじゃ。じゃが、いざとなってもう条件けてきおった」

「???」

安児を、中大兄のところに寄越せとうのじゃ」

「!!!」

まぬ」と、いきなりきしめられました。

えてみると、女王は、安児息子に、と以前より目星(めぼし)注716)をつけていたのかもれぬ。息子のために、日本(ひのもと)血筋しかったのであろう。それならそうとってくれば、それなりに対応出来たものを!」

「・・・・・」 えないでした。

「しかし、してみれば、いの筑紫に、先々ることができたとしても、そなたのせがっているとはとてもえない状態。いぶせき(注717大和だが、あの中大兄であればそなたを粗末にはしまい、いやきているりはさせることはない。・・・・・」

やっとのことで言葉てきました。「こうには額田王(ぬかだのひめみこ)がいます。仏門にとおいしようか、とったりもしました。このけ、うはれのまりと、おえいただいた父上のお言葉のように、覚悟出来ています。これも星回りのでございましょう」とりながらも、()もなくれてきました。

 
 父上
が、あまりにもんでしまったのことを心配して、くから気心れた多賀けてくださったので、飛鳥御殿かうのにも非常心強うございました 多賀はこのいたに、のお輿れにえるのはせです」と、ってはくれました。 しかし、もいたそうな素振(そぶ)りをせましたが、それ以上のことはいませんでした。 この輿入れのんでいるも、にとっては、他人事(たにんごと)のようなじでした。 随分に、額田王(ぬかひめ)が、“よしゑやし うらげき()るぬえ(どり)の わが(おも)へるを げるくに”とんだ気持ちがわかるがしました。

 
 飛鳥御殿額田王(ぬかだのひめみこ)うなり、「よくてくれました」、と、本当んでくれました。これは意外でしたし、ホッとしました。なにか嫌味(いやみ)皮肉っぽいことをわれることを覚悟していたのですが。 額田王いので、沢山大奥のお女中に、どうやれば女王われないか、どうすれば中大兄皇子のおられるか、など助言してげているそうです。 それがよくているので、からかれているそうですが、けないしい出来ていないようです。 この飛鳥中大兄皇子宮殿でも、いろいろきていたようです。

(あと)うと、ああそうだったか、とたることも随分とあります。額田王(ぬかだのひめみこ)てくれたことで、安心して出来てくれたので、ホッとしたのかもしれません。矢継に、まるでれたに、御殿内人々の、もろもろのかせてくれました。額田王は、にはしませんが感情起伏がはげしいく、かつきがです。中大兄いおですから、しばらくしてそれを見抜き、きのさ、その機智(きち)んだお()でられてはいるものの、(ねや)へのれはいつしか、のいていらっしゃるとか、多賀(すずめ)のさえずりをいたといってえてくれていました。

中大兄皇子いの大海人(おおしあまの)皇子は、るともらぬ出来のよいで、また、とてもオマセな皇子だそうです。額田王よりふたつ年下だそうですから、まだ十四五くらいでしょう。額田王調子で、チョッカイけたのではないかといますが、大海人皇子額田王にのぼせがっているそうです。いものですから、にはすぐわかるようで、御殿内外ではになりはじめているそうです。

 そのような状態で、額田王が「安児よりもず~とず~っとすばらしい女性」などとけしかけるように、中大兄皇子寝物語にでもしたのではないでしょうか。談判に、これいと、幸山大君要求じる褒美にと、(たからの)女王んで所望(しょもう)したものではないか、と想像出来ました。

 

御殿がって三日後に、もういただろうから、と、御殿では早速いの(うたげ)されました。正式夫人としてではなく、また、いわば強引入内(じゅだい)注718)なので、のさえずりのにならぬようにと、ささやかにされたのはにとってはいでした。中大兄皇子んで、りのいた銚子(ちょうし)御酒(ごしゅ)きましたら、こののように、ふわ~っとしてしまいました。

気付くと額田王(あお)いでくれています。「おさま。どうなさったのですか。おにはおかったのに。かお具合いでもおい・・・」 

同様で、なおかつる、額田王もつけず、「は、このところのものが・・・」 「では撫子(なでしこ)(せん)をお持ちしましょう。」と、額田王います。

どなたがまれたかはじませんが、のように(なな)(はな)いこまれています。

 

  (はぎ) 尾花(おばな) (くず) 撫子 をみなえし 

        また (ふじ)(ばかま) 朝顔(あさがお)(はな) (注719

 

撫子種子(たね)は、のものの不順薬効(やくこう)があることなどいてってはいましたが、「いやそれにはびませぬ」と、るようなきりてきません。

「とされますと、おさまにはお心当たりが?」、と、りしたような額田王(かた)です。

からはいにくいのですが、多賀事情承知しています。彼女いてください」と、うのが精一杯でした。

このは、額田王から中大兄皇子わりましたが、皇子もこれにはえました。「やはりここは鎌足を」と、鎌足どのを至急せられましたそうです。

これからおしするのは、後々、わが(つま)鎌足どのからおきしたことです。

 

後宮(おおおく)れたをなごが、他所宿していた、それもやんごとなき(注720一貴皇子を、となれば、それこそ飛鳥のさえずりも、ひとがしいものになるだろう。また、筑紫との関係もこじらせるわけにもいかぬしな。どのように始末をつけるか、本当にあのえたぞ」、と、いました。

「このようなことでめられないでしょうか」、と、鎌足どのは、中大兄皇子げたそうです。ここはつ、(たからの)女王一役(ひとやく)っていただくことで如何でしょうか」と。

具体的には、どういう方策があるのか」と、皇子がおきになられ、「女王に、三輪(みわ)明神(みょうじん)注721)の夢のお告げがあった。陰陽師(おんみょうじ)注722)のいで、このたびの(つま)()いはなかったことにしなければ、いが、うがや一統全体に及ぶ、というでは如何?」と、鎌足どのがえたところをげたそうです。

「ふむ。だが、筑紫(ちくし)すわけにもくまい。もう(ひと)工夫(くふう)必要だろう」と、って、言葉がれたそうです。

「おおそうだ。(なんじ)妻人(つまびと)半年難産(すえ)くなったという不幸があったな。まだ嫡子注723)も出来ずにいる、鎌足中大兄に、御殿女子のどなたか是非わがへ、と願いたことにしようぞ。うむ、これはい、これはい、鎌足異存はなかろうな!」と、められたそうです。

時々妹分(いもうとぶん)額田王のところにびにえる、「王女安児」の(さい)(しょく)(けん)()ぶりは有名だったと、多賀後々までいました。その王女が、中大兄皇子後宮(おおおく)られた、といてがっかりした大宮人(おおみやびと)注724)もかったし、それを下賜された鎌足はなんという果報者(かほうもの)注725)よ、と評判になったことなども、多賀えてくれました。

流石(さすが)知恵者父上今回は、「もしや、と、わぬでもなかったが、所詮(しょせん)注726で、女子微妙変化まではとれなかった、ない。中大兄殿りができた」と、中大兄皇子鎌足どのにげられたそうです。

時代考証無視の花嫁姿

早速飛鳥鎌足どのの屋敷では、盛大(うたげ)かれました。屋敷父上のお聴講えていた、()()大勢えられ、やかしともおいともつかぬ言葉けていたりで、騒々(そうぞう)しいかぎりでした。

鎌足どのは、一人ではしゃいで、みなさんにおめられ、ご自分でも幾度って、しさをされました。そので、子供しい玩具(おもちゃ)れた、というような、あからさまな歓喜(よろこび)でした。

 

  われはもや (やす)()()たり みなの 

            ()(かて)にすとふ たり (注727

 

 

いをぐのもいやで、気分(すぐ)れぬと一通りのお目通(めどお)りをませて、かせていただき、にこもっていますと、多賀気分如何部屋ました。本当多賀るだけで、ほっとさせられました。

多賀四方山話(よもやまばなし)注728)のついで、というじでいがけなくも、宇佐(うさ)()をしてくれました。

百済での仕事一段落(ひとだんらく)して故国(ふるさと)ってきて、のお殿様においしたいと、飛鳥ってきたそうです。父上はおびになられ、屋敷二人かれて、毎日のようにあちらののお穿()じっていらっしゃる、としてくれました。

二人(ふたり)?」としますと、()女性出会った、と、れてました。」

「どんな(ひと)?」

宇佐には勿体(もったい)ないほど可愛らしいひとです」

「どんなじの?」と、ねてききますと、

の、まだお化粧(けしょう)らないころの、安児みたいな」

もっともっときたかったのですが、(うたげ)わったようで、鎌足どのがえました。

ほどまでの酒宴(さかもり)のときの状態でなく、きちっと相対(あいたい)されると、げられのようなことを(おおせ)られました。

安児(やすこ)どの、この一貴様(いきさま)のご不幸やみげます。ゆっくりとおできませんでしたが、此度(こたび)無礼千万振舞いよう、なにとぞおしあれ。中大兄殿殿が、これが一番上策(じょうさく)、とされ、めが舞台って、ひとさしをおおせつかった次第。ともかく、は、御腹のやや無事出生第一じられることが、一貴様への供養(くよう)注729)になることでしょう。 一応雀共(すずめども)らすにも、夫婦(めおと)えておかなくてはなりませぬ。そこのところを無礼われませぬよう、御心得(おこころえ)おきくだされ」

せです。中大兄どの後宮一度ったです。本来なら、身籠(みごも)りをしていたと、成敗(せいばい)されてもないです。いがけなく、鎌足さまにげられ、ややめとせられる、このせはございません」

薄暗のともしで、鎌足どのは「では大事にされよ」と、かれて、すっとかれました。いましばし、ゆっくりとおをしていただきたい気持ちでしたのに、・・・。 寝間(しとね)注730)にまれて、をくれた宇佐(うさ)()や、七山(ななやま)での一貴皇子(いきおうじ)との出会い、父上肩車での鎌足どのとの出会いなどのことを、終夜(しゅうや)(とう)が、走馬灯(そうまとう)注731)のように、かびげてくれるのをじながら、りにちました。


 その(八)へつづく        (トップページに戻る