六) 飛鳥の都 一貴王子との別れ

 住吉き、そこから輿(こし)って、陸路(くがじ)大和かいました。アバケが先触(さきぶ)れでき、道案内きな何度したりしています。

「まるで()たみたいで言葉がわからん」

父上では、ここは田舎だからで、けば、言葉筑紫(ちくし)とそういはない、ということで安心しました。和歌(うた)も、使言葉じといっていそうですから、言葉からないには和歌(うた)問答(もんどう)をすればいのじゃ、などっています。 

大和飛鳥(あすか)きましたが、太宰府とは随分(おもむき)です。明天皇のおも、(いらか)注601)ではなく()いてあります。(こけ)えていて、それなりに(おもむ)きはじられますが、屋根見慣れたには、みがいといました。けれど、ったことをすぐすのははしたない、という父上(いまし)めをにはしませんでした。

額田王(ぬかひめ)はこっそりと、「なにか田舎たみたい、御笠かしい」、と、(ささや)きました。

父上屋根のことをおきしました。「火事にもいのだが、それだけ(つい)えも(かさ)む。御笠では(かま)沢山あり、お屋形普通となっていて、ほれ、鬼瓦(おにがわら)という()よけのせることまで流行(はや)りだしたりしている。

最近段々豪奢(ごうしゃ)なものになってきて、幸山(さちやま)大君禁止令されているのだが、”これだけは例外に”とてくるのがくてなかなかまらない」

ノリキオデザイン鬼瓦

そして、言葉を継がれました。「大和国々は、死後世界のお注力してきたので、つくりには日本(ひのもと)れているが、おはなかなか立派なものだ。鬼瓦じように、段々豪勢なお墓造りが流行したが、これも舒明殿以降薄葬令注602)をるようになられて、いわば無駄(つい)えもったにやく。そのうちにれていって、せてあげよう」

にしてもしばらくは、てくる御笠かしく、のような自然とこぼれてたものです。

 
 (あさ)()な 筑紫(ちくし)(かた)を ()つつ

         ()のみそわがく いたもすべ()み (注603

 

額田王(ぬかだのひめみこ)飛鳥いてすぐ、予定されていたように、明天皇御殿出仕(しゅっし)することになりました。

父上は、「ここのたちを、田舎者(いなかもの)くすように。それさえれば、御身(おんみ)注604〉の振舞注605)をにすれば、このどもはみなひれすのではないかな。妻問(つまど)い(注606)にくるには、充分注意して吟味(ぎんみ)注607)するのじゃぞ」と、軽口注608)のようにおっしゃいながらも、にはっているのがえ、(ねた)ましく自分ずかしくわれました。

「おいつけみます。有難うございました」と、しおらしく、額田王(ぬかひめ)ぐんで、おえの輿って、明天皇御殿かいました。

は、昨夜額田王(ぬかひめ)のところにおれを、とって寝間にきましたの、いがけない出来事きがまだっていて、もおれらしい言葉けられませんでした。おするには、あまりにもずかしいので、これ以上のおめておきます。ただしいという気持ちは、より以上のものになった、ということだけはえますが。

 

多賀えてくれるところでは、舒明天皇は、このところご病気がちで、外出もままならぬご様子とのことでした。

しばらくたって、いになった御殿女中頭(じょちゅうがしら)からいてきた、と、額田王のその様子えてくれました。額田王出仕してからは、舒明天皇さまは、筑紫(ちくし)大和までの道中(どうちゅう)和歌(うた)、と、がいないとれないといったじだったそうです。

しかしそれもしばらくので、ご病気み、明天皇のお相手より、中大兄(なかのおおえ)皇子や、には海人(あま)皇子の、おのお相手をすることのくなったようです。

 中大兄皇子は、明天皇嫡男(ちゃくなん)注609)ではありませんので、ぎはどうなることか、とがかまびすしい(注610)ものがあるそうです。葛城(かつらぎ)王子は、そのようなまれるのをがり、嫡男(ちゃくなん)ではありませんよ、と強調するように、を「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」とされたわけです。も、「じゃあ、えよう、じく(だい)をいれよう」と、大海人(おおしあまの)皇子注611)とされたそうです。
 

五線の筑紫琴 ところであるのこと、屋形中大兄皇子えました。名目(めいもく)は、が、筑紫(ちくし)しいをおちといたので、せてしいとのことであったそうです。由緒(ゆいしょ)注612)あるなどを、ごになっていらっしゃったようですが、そのでも筑紫(ちくし)(ごと)注613)にをとめられたそうです。

どのように(だん)ずるのか、などしく父上かれていました。「りにわが息長(おきなが)(しの)ぶとしよう」、と父上られて、爪弾(つまび)かれ、おいになられました。

 

れば 先立(さきだ)つ けだしくも 

(した)びに ()もれる。(注614 

また、からわった時計(ときばかり)注615)の絵図(えず)も、興味深くごになっておられたそうです。しそうないがおに出ていた、と父上苦笑(にがわら)いされていました。大和世話になる()(ゆえ)手土産としてげた、ともっていました。 

 

父上は、めて明天皇一統方々に、このちやら、める方策測量縄張(なわば)り、()れせぬ築堤い、和歌(うた)などを屋敷講話されることになりました。その屋敷でのお講話手伝いにおびになられます。和歌(うた)のおしのには、「安児、こういう情景、どのようにむか」とご質問があります。

一生懸命えていると、講話けている(きん)(だち)注616)は、自分たちはえないで、えている姿ばかりを注目しているようにじられて、面映(おもは)ゆい(注617じもしました。「額田王(ぬかだのひめみこ)王女(つま)()いするのだろうか」というが、飛鳥ではくなっていると、心配して、のお殿様何度もご注進(ちゅうしん)げた、と多賀してくれました。

中大兄皇子はからくり(注618)がきじゃ、おまけにけぬい」と、父上はそうもっていました。額田王(ぬかだのひめみこ)宿下(やどさ)がりで屋形えた、「中大兄皇子早速筑紫(ちくし)けぬものを、時計(ときばかり)(とう)(こく)けぬものを、と工匠頭(たくみがしら)じられた」と、してくれました。

しばらく()って(たからの)女王から、「中大兄大和琴(やまとごと)ったので、是非殿におしいただきごれたい」、と、使いがあり、かけられました。

りになってのおでは、「けぬれた、であった」そうです。(げん)やし、さも一回きく、綺麗蒔絵(まきえ)注619)が(ほどこ)してあったそうです。しかし、本当のおは、にコトよせて、と駄洒落(だじゃれ)ではなく、だったそうです。

女王のおは、「額田王(ぬかだのひめみこ)中大兄(なかのおおえ)夫人に」、ということだった、そうです。つまり、養女額田王(ぬかだのひめみこ)を、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)正夫人としてえたい、というであったそうです。父上は、それはばしいこと、とご返事されたそうです。

婚儀(こんぎ)明天皇のご病気中でもあり、ごく内輪(うちわ)でなされ、父上も「もう、そちらにげたなのですから」と、ご列席になられませんでした。こちらはこちらで、しい毎日いていたこともあったのですが、お父上は、額田王(ぬかひめ)中大兄皇子のものになることを、たくないお気持ちも少しあったのではないか、などったりもしました。


 額田王(ぬかひめ)き、かな日々二年きました。そのでは、いろいろと出来事があったようです。が、そのでもきな出来事は、明天皇くなられ、長男吉野皇子注620)ががれるかどうかごたごたがあり、結局(たからの)女王(じょおう)大王位(だいおうい)がれ皇極天皇(こうぎょくてんのう)注621)になられたことでしょう。

中大兄皇子大王位に、というかったようですが、まだいし、筑紫(ちくし)との談合加羅国々との折衝などで、大和えるわけにはいかぬ、と鎌足殿一緒筑紫との往来しい日々っていらしたそうです。

せる、額田王では、中大兄皇子(ぎみ)大海人(おおしあまの)皇子が、ぐんぐん頭角わしていて(注622)、筑紫との連絡役充分できるようになっている、とのことです。額田王性格からして、大海人皇子にも興味っているのだろうなあ、ということは容易想像できました。

多賀からいたのですが、アバケと久慈良警護たちも、加羅へと召集がかかっていたそうです。「のことが心配」というアバケに、父上は、「当地での警護は、中大兄絶対責任つ、とっているから心配するな、しっかり筑紫まで一貴様をおりするのじゃぞ」とって見送られたそうです。

「しばらくのでもお一緒めてよかった、加羅って宇佐にもしえたなら、達者ごしている、とえてくれ」、と多賀久慈ったそうです。

「その久慈ったといますか、こんなこましゃくれたことをったのですよ。宇佐岐兄は、わしがいことのところでごせたことを、ましくうだろうなあ、と」。

 

明天皇跡継のことで、いろいろとゴタゴタがあったそうですが、私達には影響ぎていきました。一度鎌足どのが屋形され、父上いことおをされたことがありました。

繰言(くりごと)注623)になるが、おだったらなあ。まあ、どのが無事今度めをたせば、お正太子で、政事(まつりごと)にもることにもなろう。今日鎌足殿のことは、きたくないかもしれないが、えていていよ。いたことは他言無用じゃ、よいな」と、鎌足どのがおえになるに、んでいました。

まで、政事わることについては、もおっしゃったりえてくださったりされたことがないのできました。としての心構えのつとして、天下情勢えておこうというお心遣いなのでしょう。

鎌足どのに父上されるには、「政事について、もう意見うことはない。日本(ひのもと)が、満矛大君のおしになされた、“じない道理のある日本(ひのもと)”としていてしいとうのみじゃ。筑紫じゃ、大和じゃ、いや、新羅百済高麗めて、それぞれがいがみあっているではない。ただ心配は、殿注624)が中大兄遠慮勝ちで、結局女王どのでっているようなものだ。まだ、ひと波乱もふた波乱もあるやもれぬ。だが、までの鎌足殿判断をみていると、じるにりるものだ。中大兄大海人兄弟もシッカリしたえが出来るとた」

言葉がれて、「そうはっても、加羅国々は、こちらより苦労をしている。このたび即位された百済義慈殿は、日本(ひのもと)りにしているが、新羅高麗にしている。出来れば、双方からめられてはかわぬので、日本(ひのもと)百済応援してしくないもの、とっている。高麗も、日本(ひのもと)大和とのにくさびをめないかと、虎視眈々(こしたんたん)注625)という有様じゃ」

このようにされ、最後に、「中大兄はシッカリだが苦労らないので、まで余裕がないようじゃ。大兄かすのにるのなら、を、お使いたいように使えばよろしい」というようなことでした。

 

そのもお二人きます。

有難いお言葉ですが、高麗大和ぶなどありましょうか?」と、鎌足どのがされると、「充分ありえような。元々殿は、それほど加羅にはりたくない、とっていた。だが、女王山大との義理大事にされるなので、高麗ぶなどはえられない。しかし、殿所縁(ゆかり)どもや軽皇子(かるのおうじ)から一派れがどうえているか、その問題じゃ」と、父上されます。

新羅はどうきましょうか?高麗西百済日本(ひのもと)三方からまれていますが」

新羅えている、とわねばなるまい。宰相(きん)春秋(しゅんじゅう)は、なかなかの傑物注626)とこえているでのう。大和も、殿跡取りのことで、でゴタゴタしているではないのじゃが」

かにせのとおり、中大兄皇子なのに、何故女王さまもそのところがれませぬ。格好からっても軽皇子、などとおっしゃいますが、中大兄皇子も、不足はないのに、と、大海人皇子など大憤慨しています」

「ここはつ、お中大兄皇子わせて、たらねばなるまい。しかしらのるではない。先方にはまったとせておいて、ててるのじゃ。えておくのが、肝要注627)と思うが、な」

鎌足殿はおまれると、女王御殿ってかれました。一言でも、安児どのはいかがおごしか?などおきになられるか、などった間違っていたのでしょうけれど、ちょっとしいがしました。

この(かん)は、中大兄皇子は、筑紫大和というより、女王名代(みょうだい)という立場で、筑紫られることがくなっているそうです。

 

そして、最初におをした、一貴様飛鳥(くだ)ってえて、盃事(さかずきごと)をした、というになります。

固めの盃 

()におかけになった、一貴様のことは心配でした。

しかし、一貴様絶対きておりになる、ひょこっと元気なおせてくださるとじて、和歌気持で、おりを()っていましたのに。

ひさかたの きて 草枕(くさまくら) 

(たび)(きみ)を 何時(いつ)とかたむ (注628

 

枕詞「ひさかた」を「に」にける、破格注629)の使は、筑紫御笠(あめ)(みやこ)意味だと、きっと一貴様父上ならかってくださることといます。

 

このところ、中大兄皇子が、ご不在がちなのをいことにして、額田王(ぬかだのひめみこ)時々屋形びにてくれるのは、とてもしいひとでした。

以前父上場面設定して問答をさせてくださったように、二人でそれぞれ恋人同士になって、ご披露できないような、たわけ相聞歌(そうもんか)注630)をみあったりもしました。

 

 その(七)に続く   (トップページに戻る