(四) 額田王と共に
それからの二年間ほどは大変でした。 額田女房様のご房室の一間に、多賀と一緒に住まわせていただくことになりました。
額田姫とは一つ違いです。とっても人なつっこい女の子です。こちらは、ぬか姫と呼び、むこうはヤスコ姫と呼び、まるで姉妹みたいと御殿内でも有名になりました。
帯の締め方、髪の結い方、御殿の中の歩き方にはじまり、座り方、目上の方への挨拶の仕方、戸の開け閉め方、ものの言い方、女奴への仕事の言いつけ方、手水(注401)の使い方、沢山のことを多賀から教わりました。
その合間に、額田女房様から、ぬか姫と一緒に、もろこしの国の字を習います。字を習うだけでなく、硯、墨、筆などのご用具の手入れの仕方仕舞い方、きちんとできるまで何度も何度やり直しです。 そうしてやっと墨を摺ることを許されます。
その墨を摺るときの作法も大変です。力を入れて音でも立てようものなら、もうその場で何もさせてもらえません。賢いぬか姫が得意になってすいすいと墨を摺るのをただ見ているだけ、これがとても辛いのです。
おまけに墨を摺ると手が黒くなり、磨き粉や糠で洗ってもなかなか落ちません。ハゼの実で擦るとよく落ちるのですが、一度試してみて二の腕(注402)まで腫れ上がりました。肌に合わないようです。
んなこんなで、奥のご祐筆のお手伝いを許されるまでに二年以上かかりました。
お習字のお手本は、千字文(注403)というもろこしのご本から、女房様が木の薄板に抜書きしたものでした。 まず、焼物の板に水で何度も何度も書き試しを繰り返します。一つの文字を何百回も繰り返し空で書けるようになって、初めて木の板に清書させていただけます。
父上から教わった字が殆どでしたので、私にとっては、これは問題ありませんでした。けれど、いつもお母様の女房様から、この字は何と読みますか?と私には聞かずに、自分が聞かれることが多い、ぬか姫が悔しそうにしています。
ある時、「ねえ母上、どうして、お手本の千字文には、十二支の字が入っていないのですか?」と、ぬか姫が聞きます。
「そんなことはありませんでしょう、ヤスコ姫はどうお思い?」と、こちらにお鉢が回ってきました。
「確かにぬか姫の仰るようになぜか十二支は殆ど入っていません。確か最初の方、四番目の句に辰が入っているだけだったと思います」
悔しそうな顔は見せませんでしたが、ぬか姫が「じゃあ、十二支のこの字は何と読みますの?教えて?」と、これは難しいだろうとばかりに、いたずらっぽい目をして聞きます。
陶板に書かれた字を見れば、十二支の三番目の字「寅」です。 お父様から以前、星座のことを教えてもらいながら、方向方位も教わっていましたので知っていました。
「トラと読んでいますけれど本字としては、インだったと思います。意味は確か敬うという意味」と、答えましたら、「もう降参!やはりお姉さま!」と、平伏されたのにはびっくりでした。
ぬか姫のことは、詳しくお話ししておかなければならないでしょう。
一言では言えない方でした。私には親切にしてくださいました。私の方が少しだけ先に生まれたのですが、姫の方が体は大きく活発で、御殿のしきたりもよく存じていましたので、自然私の方が反対に、妹分のようになっていきました。
ただ、和歌などのこととなると私の方がお父上から教わっていましたので、少しはませていましたが、ぬか姫は負けず嫌いで、おまけに賢いお子なので、お歌など一度聴いたらすぐ諳んじられます。
ある時など、次のように大君のお御製(注404)の替え歌なども作られ、大声で詠じたりして、額田女房様に、ひどく叱られたこともありました。
あおによし 加沙の都に たなびける
天の白雲 見れば飽かずも(注405)
ぬか姫のことをもう少し続けましょう。
室見川(注406)のほとりの、額田というところから、大君様の御殿にお見えになったようです。背の君(注407)は、七年ほど前に新羅に大君のお使いで行かれて、事故にお遭いになられたそうです。若くて賢い額田女房様の話しを聞かれた大君様が、乳飲み子だった姫ともども御加沙にお招きになったそうです。
御殿の中で、女房たちが、「本当に姉妹のよう。賢いぬか田の姉姫さまに、可愛い鏡の妹姫さま」とささやいているのが聞こえたりもします。 私が、「いいえ違います。わたくしの方が姉さまです。だけれど、賢さも可愛さも妹に負けているけれど」と再々教えてあげたりしました。
ぬか姫は本当に賢い方ですが、可愛いと云われる方がお好きのようでした。ぬか姫は物知りでいろんなことを教えてくれます。
「安児姉さま、そんなことご存知でなかったの?」などいいながら、「昨日の表からのお使者のお名前はOOだとか、あの女御さまと△△の女房様は閨を一緒にしている」などなどです。
眉のむだ毛の抜き方、眉の引き方、紅の差し方などについても、いろいろと教えてくれました。代わりにこちらからは、父上からいただいたカラ文字のお手本を見せながら、字の崩し書き方を教えて差し上げたりしました。
毎日毎日遊んでいて、ちっとも飽きないぬか姫でした。 松浦の白宮の小夜姫や遊び仲間のことも、最近は思い出すことも少なくなりました。それよりも夢の中までぬか姫が出てきて、幼い子供に戻って拳遊びをしていたりもします。前世(注408)からの姉妹なのかなあ、と思ったりもしました。
あるとき、春の若菜を摘みに、御殿の近くの石山のふもとの野に出かけたことがありました。
豊のお妃さまも話を聞かれて、「是非に」とお見えになることになりました。そうなりますと、女だけでは心配と、父上も、警護のものを引連れての参加ということになりました。
額田女房様、与射女房殿、雑色(注419)・婢女など沢山の一行となり、仰々しくて賑やかな菜摘になりました。
つくしも、そこここに頭を出しています。 ぬか姫が自分の菜摘くしに、きれいな飾りを付けているのを父上がごらんになって、
「ぬか姫は賢いなあ、誰から菜摘くしの故事(注410)を習ったの?」
「いえ、ただ、土をほぐしますゆえ、すぐ汚れます。せめて使う前までは、きれいにしてやっておきたく、飾りたてました。お目ざわりに、なりましたでしょうか?」
「ええと、五代前になるか、敷名大君様が、野の菜摘する郎女(注411)の菜摘くしがきれいな串だったのに目を留められ、どこのお嬢さんかと声をかけられ、そのご縁で、大君様のお側にあげられたという故事が、歌になって古歌集に残っている。ぬか姫のその心がけ、悪くはないぞ」とお褒めになりました。
私は、「いやだなあ、自分を売り込むなんて、どんなお歌ですの?」 とお聞きしましたら、歌ってくださいました。
♪”きれいな掘り串を持つきれいなお嬢さん、 わたしは、戸手の識名と申す者 あなたのお家とお名前をどうぞ教えてください”♪(注412)という歌でした。
海の向こうの戦のことは忘れてしまうほど、のどかな春の野に、お父様のお声が遠くまで霞んで行きました。
豊のお妃さまも、「とても楽しかった」、と何度も父上に礼を言っていらっしゃいました。 父上が、お妃は歌のお声がとっても綺麗、と安児が言っていましたので、是非に、とお頼みになりました。
細く通るお声が、父上のお声を追いかけるように霞んでいきました。
菜畑に 入り日薄れつ 鐘の音も
流れつ おぼろ月夜かな (注413)
その翌日のことでした。ぬか姫がお母様から聞いた、と云って、「大和のうがや一統の寳女王さま(注414)が、近々筑紫に上ってみえる。なんでも大勢の兵士たちを引連れてくるから、都も騒々しくなるだろう」、ということを教えてくれました。
なぜか不吉な予感がしました。多賀が教えてくれました。うがや一統というのは、大昔は天の一統と同族だそうです。鵜屋不葺合命という将軍の息子達が、東の大和に根拠地を造ったそうです。今では、大和・河内・摂津・近江・山城と大きく勢力を伸ばしている一統だそうです。
大和の田村王(注415)の奥方さまは、寳の女王とまわりから呼ばれているそうです。田村王はのちに舒明天皇とおくり名されたので、舒明天皇で話を続けましょう。
舒明天皇との間に、王子や媛子を四人お産みになられた。 けれど、お体があまりお丈夫ではない舒明天皇のマツリゴトの手助けをされ、今では大和の実質的な差配をされているそうです。
もう、四十を過ぎたおばあさんなのに元気が良い方だとか、気が強く男勝りで義理堅い、宝石や黄金つくりの飾り物が好きだし、食べるものにもうるさい方だ、とか、大奥では噂が噂を呼んで、まるで鬼子母神(注416)のような、というところまで話はどんどん進んでいっています。
お子様の王子たちも、親に似て利発(注417)で元気だそうです。 カラの国の戦の応援を、うがや一統に大君が頼まれたので、義理堅い寳女さまは、いやがる舒明天皇やその配下を押さえるためにも、自分も筑紫に上る(注418)、と仰っているそうです。
しかし、心配する 舒明天皇のまわりの人たちが、いろいろと大君さまに条件をつけているそうです。 二百艘もの戦つくりで工匠(注419)たちは不足しているのに、寶女王の行宮(注420)築造で、朝倉あたりの人手はみな狩り出されているそうです。
太宰府の御殿にある、泉水をめぐらした庭の評判を聞きつけた、蘇我大夫が、女王のために、夜須(注421)の行宮にも欲しいと無理を言ったとか、かまびすしい(注422)ことしきりのこの頃です。いずれにしてもこのような準備に一年以上かかることでしょう、というのが多賀の見通しです。
ところで、御殿の奥は、女の人ばかりが住んでいます。めったなことでは、この大奥から出ることはありません。 そのめったにないことですが、お祐筆が病で臥せっていたときに、御用が生じ、女房様から墨役に行くように言いつけられました。
墨を摺る役として、ということでした。以前、墨が手につくと、糠袋でこすってもなかなか落ちないので、多賀に頼んで、竹を削って墨を挟むようにさせたら、うまく手が汚れないようになりました。女房様は、それをご存知だったようです。
控えの間で、墨を摺り、文机(注423)までお持ちしました。
それで帰ろうと目を上げますと、「そなたは、鏡の姫ではないか」と、声が聞こえました。 なんと一貴王子が、お祐筆の代わりに筆を持っていらっしゃいます。びっくりして物も言えずにいますと、そこにお使者が入ってきて、控えの間に下がろうとしました。 何と、そのお使者までが、「そなたは、鏡の・・・」と、言います。 またもやびっくりして、お使者を見上げますと、都に来るときに、父上の肩に乗っていたところを見られた、あの中富の若者ではありませんか。顔が自然と赤くなって、控えの間に下がりました。
大君が若い二人に、「おまえ達もなかなか隅にはおけんな。ヤスコ、あれはなかなかしっかりものだ。ただ言っておくが、赤めしはまだだからな」などと、聞きたくもないお話をしばらくなさっていました。
大君が、「ではこの文を大和の 舒明天皇の元へ届けてくれ。あと一貴皇子、向こうの王子兄弟が下見に筑紫に上って来た時に、鎌足と相談してあれらの世話の件よしなに(注424)、頼んだぞ」と、お話は終わったようでした。
この時の情景を、三十一文字におこしてみましたが、ちょっと照れくさくて、お父上にも、ぬか姫にも言えませんでした。
大君の 大奥の間を かしこみと
侍従ふ時に 逢る君かも (注425)
七夕の節句休みで、久し振りに宿下がり(注426)の時のことです。
最近、笹に短冊を掛けると願いが叶うとかで、恋心の和歌などに思いを託すことが都では流行っているそうです。 父上は、「そのようなことは世が厳しいからかえって流行るのだろうな」と仰って、この屋敷では七夕飾りは不要と仰います。
与射女房や多賀などと、久し振りに鏡の里から届いた長芋で作った、芋粥をいただこうとしているときに、突然のお客様です。
「断りも入れずにお訪ねして申し訳ない」
「これはこれは鎌足どの。いやいやこちらも笹の葉も酒の相手もいず無聊(注427)をかこっていたところ、こちらへどうぞどうぞ。これ与射の、酒の支度をお願いしますぞ」
「いやいや、お構いなく、鏡どののお顔を拝見すれば気も落ち着くか、と参上した次第で申し訳ありません」と、声は奥の間にと、遠ざかっていきました。
仕方なく、多賀を相手に芋粥をいただき、寝間に下がろうとした折でした。奥の間からお酒が入ったせいなのでしょうか、父上が珍しく声を高くしておっしゃったのが聞こえてきました。
「確かに、おのれの申すことが理に適っていよう。兵を引けば人々も楽になろう。しかし、われら天一統は古より大君が仰ることは神の声。たとえ青鷺を、鶴、と大君が言われたら、その鷺は、鶴ということになる。これが、天一統の下のわれらの運命というもの」
「しかし、新羅がモロコシと組むと分かって勝てますか?」
「くどい、もう申すな。そのようなこと、滅多に他人に洩らすでないぞ」あとは声も納まり、どうなることかとちょっと驚いた私でしたが、安心して休みました。
翌朝与射女房が、「おととい、松浦から長芋と一緒に届いた姫様への小箱」と、言って渡してくれました。 包みを開くと、なにやら貝殻が沢山入っています。
女房殿が申すには「鏡の宇佐岐なるものが、自分で拾って作った貝合わせだそうで、安児姫に届けて欲しいとのことです。あまりきれいとも見えず、捨てようかと思ったのですが」と、言います。
折角遠路届けてくれたのだから、と受け取り、あとで貝を一つ一つ開いて見てみますと、びっくりするのは、その内側の綺麗なことです。このようなきれいな絵の具を、宇佐岐はどうやって手に入れたのでしょうか。最近は百済からの渡来人が多いと聞くので、おそらくその方面からでありましょう。
昔もらった桜貝よりも、数段上手な絵でした。二十ほどの、ハマグリ貝の片方の内側に、いろいろときれいな花やら虫などの絵が描かれています。 ハマグリ貝は、皆同じようでも、一つ一つが少しずつ違っていて、きっちり合うのは一組きりありません。誰が一番早く合わせられるか、競うのが貝合わせです。
けれど、このように絵が描いてある、綺麗な貝合わせは、初めて目にします。 なぜか、アワビの貝も一つだけ混じっています。 アワビはハマグリよりも数段大きいので、そこに描かれている絵も飛びぬけて大きいのです。おまけに、その女の人の顔は、自分と似通っているようにも見え、なぜかドキドキッとしました。
あわびの貝は片方きりありません。いつぞやお父上から教わった和歌を、思い出しました。
伊勢の海人の 朝な夕なに 潜るとう
あわびの貝の 片思ひにて (注428)
「なるべく早く、顔を見せるように」、との伝言です。
額田女房どのに宿下がりをお願いして帰ってきますと、父上が待ちかねたように仰いました。
「松浦から知らせがあり、息長の具合が良くないそうだ。なんでも半年前くらいから、食べ物が喉を通りにくくなり、薬師も匙を投げているそうだ。ついては、是非安児に会いたい、ということだ。船の手配はしている。執事をつけてあげるので出来るだけ早く鏡へ行ってきておくれ」
「父上は?」
「うむ、行ってやりたいのじゃが、このところ御用繁多でな。息長は安児に会いたい、というが、わしに来てくれとは言っていないしな」
うがや一統の軍勢の応援の話しが遅々として進んでいない、ということは都の噂となっています。義理がたい寶女王は応援する気、舒明天皇は戦いが苦手、蘇我大夫も歳を取ってきたので昔のように戦の先頭に立つのはどうも、という立場ということのようです。
しかし、蘇我大夫の、二番目の息子の入鹿殿が女王様のお気に入りで、と二派に分かれているとかです。そのようなことで、父上が不在だと大君様もお困りになられるのでしょう。
執事を供に、久し振りに鏡の里に帰ることになりました。み加沙から荒津までの大路が、途中でいくつも普請(注429)がなされているので、船で下ることになりました。
荒津までは小船でしたが、そこから二十尋の大船に乗換えましたので、船酔いもせず鏡の里に三年ぶりに帰ってきました。
母上はすっかり年をとられて白髪のまるでおばあさんのようでした。体全体が細くなられて、床に着かれていましたが、私を見るなり起き上がられます。
「どうぞお休みのままで」と、兄達が申し上げてもお聞き入れにならず、はしために手伝わせて身支度されました。
兄達に向かって、「どうしても安児に伝えたいことがある。今から明日の朝まで安児と二人きりにして欲しい、次の間にも人は入れるな、きっとだぞ」と、病人とは思えないくらいの強い口調でキッと目を光らせられますので、皆の者は何も言えずお寝間から退散しました。
母上は豊の国から嫁いでみえましたが、元はといえば、母方は息長一統で大加羅の出だそうです。
奥の大鏡の前の灯明をともされ、練り香草を焚かれます。勾玉の首飾りを取り出され、ご自分と、私にも掛けさせ、一心に呪文を唱えられます。しばらくすると香草の匂いが体に染み渡り、母上の呪文に合わせて自分も唱えています。
夢かうつつか(注430)分からぬままに、鏡の中のご神体の白龍がわたしに入ってくるような感じがしました。母上が、叶うことと叶わぬこと、見通せること見通せないこと、について教えて下さいました。
「この秘儀については絶対他言無用。おのれの娘に伝える時以外は」
と、くどく念を押されました。
朝も白々と明けましたが、母上はまだ鏡に向かっていらっしゃいます。呪文が聞こえません。「お母様」、と声をかけますと、そのまま崩れ落てしまわれました。
「誰か!」の声に久利王子が飛んできて、その場を見るなり、
「よくもまあ今まで保ったものだ、死後の塚の位置、葬儀の手配り、皆済んでしまっている。モガリ(注431)を済ませたらその手筈通りにやるだけ。父上にも都から来るに及ばない、と伝えるよう念を押されていた」と、一気に喋り、
「ところで、一晩中何を話しされたのか。何処ぞに銀銭の壷がある、など教えて下さったのではないか?」
「何を仰るのですか。一緒にお祈りをしただけです。」あとから、玉島兄も加わり、「実のところ、租庸調の差配はみな母上がやってくれていた。年々倉の中身が薄うなって、母上が何処ぞに、と思っていたのだが」と、疑いの目で見ます。
母上の死を悲しむというよりも、倉の中身のことばかり気になっているようで悲しくなりました。
鏡の里で遊んだ子達も、皆、働きに行っています。ただ残っているのは、白宮の小夜姫だけのようです。執事をやって問い合わせさせますと、「今は綿花を紡ぐのに人手が足らず、空の明かりがある間は、紡ぎ車を止めるわけにはいきません」との事です。
もっと詳しく、と聞き合わせますと、「もうわたしは姫という立場でなく、一家を紡ぎで支えていて忙しい、あなたのような御姫様とは違うのだ、会いたくない」という事のようです。
折角楽しみにしていた古里の景色も、すっかり色褪せてしまい、こんな和歌しか出てきませんでした。
ふるさとの 川のせせらぎ 変らずも
うつし世の声 聞くぞ悲しも (注432)
白龍の鏡は、お母様が安児に、と前以て形見分けとして皆に伝えていたようで、鏡だけを抱えて都に帰りました。
うがや一統の使節一行が大和からはるばる見えた、という話は都中に広まっていました。総勢二百人以上で、わたしと同じ歳の十二になる葛城王子も連れてみえ、とりあえず橿日宮(注433)を行宮(注434)にされている、ということです。
葛城王子も後に、中大兄皇子と呼ばれましたので、ここでも中大兄皇子として話を進めましょう。
いにしえには、幾度かうがや一統とのいさかいがあったと聞きますし、この度もきな臭いという噂も飛んでいるとのことです。
しかし、使節の主使の蘇我大夫は、なかなかの人物と父上が何かの折りに仰っていました。
父上はこのところ大君様や蘇我大夫さまなどとの宴席が多いようで、一貴皇子や鎌足どのも、ご接待に大童(注435)のようです。ある宴席で、蹴鞠のことが話題に上がったそうです。
蘇我大夫が、「中大兄皇子も大好きなので、筑紫の蹴鞠の名足の技を見せていただけないものか」と、言い出されたそうです。
「それも面白かろう」、と、大君もお許しになり、蹴鞠の会が、表の紫宸殿(注436)の前庭で行われることになりました。特に奥の女共も苦しゅうない、ということで、最近では珍しく、晴れやかな舞台が出来上がりました。
蹴鞠の規則はよく分かりませんが、数人で鞠をけ上げて失敗するとだんだんと減っていき、最後に残った人が、第一の名足となり、大君からご褒美をいただく、という事だそうです。
一番最後に、勝ち進んできた一貴皇子と、鎌足どのが蹴合うことになり、満座がどよめきました。私も、どちらが最後の名乗りを受けるのか、手に汗が出ているのを忘れてしまったくらいでした。しかし、その後に起きたことで、その汗は冷たく凍りつきました。
結果は、一貴皇子の沓の紐が切れ、鞠と一緒に沓が飛んでしまい、試合は中断しました。見証役(注437)の父上の鏡王が、「再度、沓を履きなおしての試合」、と、裁定しました。
しかし、大君が、「いや、装備が悪いのも技量のうち、一貴の負けじゃ、中富、天晴れであった」と、おっしゃいました。
「さて中富、褒美は何を望む、何なりと申せ」しばらく間があって、
「本当に望みを申してよろしいのですか」
「くどいぞ」
「それならば申し上げます。カラの地から兵を戻して新羅と和平を・・・」
言い終わらない内に大君のお顔が真っ赤になり、「何を申すか!小癪な!一貴、こやつを斬れ!」 あたりは騒然となりました。
大君の傍らで蹴鞠を観ていた蘇我太夫が静かに、 「大君様」と、声を出されました。
「お怒りはごもっともですが、元はといえば、われらが蹴鞠を所望(注438)した故に起きたことで、こちらがお詫びしなければなりますまい」と、平伏され、言葉を続けられました。
「われらが斑鳩の里は、まだまだ化外(注439)の国。蹴鞠にせよ、築城にせよ、和歌の道にせよ、いろいろと大君のお教えを乞わなければ、とかねてより思っていたところです。本日、このような仕儀(注440)に当たり、斬るのはいつでもできることでしょうが、もし、しばし延ばしていただき、この者を、斑鳩の里の帰化(注441)のために使わさせていただくわけにはいかないでしょうか?」
蘇我太夫の静かな声音に、大君様のお顔の朱色も引いていき、「中富、お前は運の良い奴だ、今日只今から、おのれの身柄を、うがや一統に渡す」と、仰られて、紫宸殿の奥へ入られました。
後で聞きましたところでは、もうふた昔前の新羅との戦で、まだ若かった蘇我大夫が、満矛大君の下で戦った際の、その軍師(注442)ぶりが際立っていたそうです。その戦もわが方の大勝利だったそうです。
大君も、蘇我大夫には、一目おかれているそうです。それにしても、男が生きるとは大変なことだ、ということが分かったような気がします。鎌足どのも、国を思っての意見でしたでしょうに。
後に、父上のところに、蘇我の下に心ならずも入ってしまわれた、鎌足どのから届いた和歌を聴かせていただきました。
春日なる 御笠の山に ゐる雲を
出で見るごとに 大君をしぞ思ふ (注443)
蹴鞠事件の後のある日、百済の客人が見えて大君様と難しいお話をなさっていると、風がその噂話を運んでくれました。
額田女房様が、私と多賀をお呼びになりました。横には、なにやら不安そうな顔をしたぬか姫が座っています。
「突然の話しだけれど、大君様の御用で海の向こうに行かなければならなくなりました。姫も連れて行きたいけれど、そうもいきません。わたしの背の君どのも、かの国でお亡くなりになっているし、私は向こうの土になってもそれはむしろ喜ばしいことなのですが、こちらに残る姫が可哀想すぎる」と、仰います。
「大君様がどうしてそのようなお仕事を、あなたさまに押し付けるのですか?」と不思議に思いお聞きしました。それへのお答えがある前に、ぬか姫が
「額田女房の輿入れ、という噂は本当だったのですね」と言って泣き崩れました。
横でじっと話を聞いていました多賀が、口を挟みました。「今度いらした百済のお使者に、大君さまが、近頃カラの国から渡来した茶の湯というものを客人に振舞われました。その時に、ご接待された額田女房どのをご覧になり、ご執心されたそうです」
私が、「ぬか姫が可哀想、お断りできないのですか?」と聞きますと、額田女房どのが、「私も、その、姫のこともありますし、お話しをお断りお願いできませんか、と申しましたら、大君様もお困りになられ、鏡の殿様にご相談されたのです」
父上の話が出てびっくりして、「それで父上は何と言って、おとりなししてくださったのですか・・・」
ほかに沢山、若い女御方もいらっしゃるのに、どうして、どうして、と思ったり、なぜ!理不尽(注444)な!と思ったり、ぬか姫の心を思いやり、父上が何とかしてくれるのでは、と期待したりしました。
しかし、額田女房どのは話を続けられます。 「鏡の殿様は、お国の今後がかかっていることだし、お断りは難しい。姫のことが心配なら、大君様にお願いして、然るべく(注445)お取計らいを頼んでみようと」と、仰って下さいました。
「それでどのようなことに?」
「それで、安児姫にもよろしくお願いしたいのです。大君様は、姫は鏡の家に養女として入れる。扶持(注446)も付け、名も額田王としようぞ、ということに決まりました。私はこれで安心して外っ国に旅立てます」と、仰られ、涙をぽろぽろと流されました。
頼りにしていた父上にも、どうにも出来ないことがあり、受け入れなければならないのが残念で残念でなりませんでした。世の中には情けというものは無いのでしょうか?
しかも、後の話になりますが、額田女房どのは、新羅の軍勢に追われて、百済義慈王万歳!と、後宮(注447)の数百の官女たちの先頭にたって、崖から宮城の裏の大河に身を投じたそうです。
その場所を後に、新羅の兵士は無情にも落花岩(注448)と名付けたそうです。このこともあとで時間がありましたら、詳しくお話したいと思います。
慌しく数日後に、荒津までお見送に行きました。お船が出て行くのに皆手を振りヒレ(注449)を振り、涙をながし無事を祈りました。
船が見ななくなるまで声を嗄らしながら名を呼び続け、千切れるように手を振っていた額田王のことが今でも目に焼きついています。
荒津の海 幣奉り 祈りてむ
早還りませ 垂乳根の母 (注450)
三条のお屋敷に、ぬか姫じゃなかった、今では額田王となった妹と一緒に帰り、今度は本当の姉妹として過ごすことになりました。御所と違って気楽に、お父上がお暇の折には和歌の手習い三昧(注451)の、和やかな日々が続きました。
おんなの子には皆訪れるものが来ました。まず、年下の額田王、すぐに私と、否応無く乙女になり、与射女房があか飯を配りましたので、都ではちょっとした評判になったようです。外に出るのには衣笠〈注452〉を被るようになり、供を付けないといけないなど今までのように気ままな外出は許していただけなくなりました。
普段見ていると、前と変わらないお茶目な額田王です。しかし、額田王は前と違って、嬉しい時と悲しい時の現れ方が大きくなっていっているようでした。
あるとき、御所に一緒に出かけた時の出来事をお話ししましょう。
お客人の接待のお手伝いに上がるように達しがあり、多賀が私達を引連れて御所の控えの間にて御用を務めることになりました。
近頃カラの国から渡来した茶の湯が客人に振舞われます。
額田王と私が、椀に入れてお持ちしますと、お付の方が受けてお匙で毒見をされて、初めてお客人がお飲みになられます。折角の湯加減がぬるくなってしまう、と多賀はぼやいていました。
「目を上げてはならぬぞ、つまずかないようにすり足で歩め」との指図でした。
その通りにしましたので、どのようなお方に茶の湯を差し上げたのかも知りませんでした。額田女房殿が、このような接待の席で異国の客人に見初められた、という前例がありますし、なるたけ顔を見られぬよう、そればかりに気を取られていて、終わってほっとしました。
しかし、額田王は違ったようです。「あの飛鳥の王子様は利発〈注453〉そうだ、安児姫が差し上げた寶女王さまは、あまりお元気がないようだ」、など言います。どうやら、おぐし(注454)の合間からちゃんと見ていらしたようで、驚きました。
またあるとき、「満矛大君さまが、それぞれ位を決められて、位に合った冠を被るようになり、殿方の髪・姿が昔とは随分ちがってきた」などと、父上がお話しをされました。すると額田王が、ちょっとの間に髪をみずら(注455)に編んで、「昔はこのように?」、と顔を見せました。両耳脇にふっくらと髷を結い、花簪が挿してあり、何とも云い表わしようのない美しい姿でした。
「そのような姿二度としてはいけませぬ、女子が男のなりをすると災いを招く」と父上がおっしゃいました。
私は昔、息長女王といわれたお方は、韓の国に男姿で出征された、とお聞きしているのにな、と思いましたが、口には出せませんでした。
先ほど言いましたように、 外出のさいには必ず男衆と共に出かけるよう注意を受けていました。牛車に乗るほどの距離でもないので、以前は、よほどの時でなければ歩いて御殿にも出向いていました。
最近は都も荒れてきて、野伏〈注456〉とやら山賤〈注457〉とやらの得体の知れない奴輩が、明るい内から徘徊〈注458〉するようになり、お父上も男衆を増やされました。
松浦の玉島王に頼んで男手を集めようとされましたが、思うような手下が集まらず、多賀の伝手で当麻一党から五人ほどきてくれました。なんと久慈良との再会です。
久し振りにみる久慈良はいっぱしの若武者気取りです。しかし、久慈良は、顔を見ても目を背けてしまい、なぜか話したがりません。きっと恥ずかしいからだろう、と思いましたら、「当麻一党は衆道(注459)だから、兄貴分たちが怖いのだろう」、と額田王が教えてくれました。
彼女はどこでこんなことを覚えてくるのだろう、と不思議でした。しかし、私は額田王の気持ちは、本当はそのように、明るいものではないことを知っていました。それは、あるとき、彼女の和歌の下書きを見てしまったからです。
始まりの句が、どうでもよいようになれ、という言葉で始まる和歌など初めて知りました。
よしゑやし うら嘆げき居る ぬえ鳥の
わが念へるを 告げる如くに (注460)
お父上も額田王の気持ちの振れが大きいのを感じられたとみえ、そのような気持ちを沈めようと思われてでしょう、私達によく仏様のお話をしてくださいました。額田王のお父様がいらっしゃる、夕日が沈む西の浄土の方へ、次の和歌のように二人でよくお祈りをしたものです。
心わび なじかは知らね 身に沁みて
入り日に山も 茜にぞ映ゆ (注461)
」