(三) 太宰府・御笠の都へ
もう鏡の里の思い出話は聞き飽きたことでしょう。 お話を太宰府(注301)御笠の都に移しましょう。
ある秋の日のことでした。父上が、お出かけになっていた都から久し振りにお屋形にお帰りになりました。多賀が言うには、あまりご機嫌がよろしくない、とのことです。
屋形の大広間に沢山の人が呼び寄せられました。二人の兄たちも呼ばれています。
時が経つにつれて、人々の声が段々高くなっていきます。「われら鏡一統を幸山君さまは潰そうと思っておられるのか!」
「いや大君さまも今が大変なんじゃ。ここで手を助けておけば松浦は安泰じゃ。」「なにゆえ、大殿様まで、都に上がらねばならぬのか、今まで同様、年に二度の年貢納めに、お顔を見せてあげればよかろうに」
「若様たちが鏡に残こされても、われらがお守りすればすむが、大殿様とおひい様のお二人は、誰がお守りするのじゃ!」
父上の声が聞こえます。
「皆ようく聞け。鏡は天ご一統(注302)の幸山大君さまあっての松浦じゃ。カラの国の戦に負けたら、天のご一統、大君様もなく、鏡もなくなる。知ってのとおり、亡き先代大君さまとわしの父上は、母こそ違え血を分けた兄弟じゃ。 ご本家の願いであれば、なんで断れよう。皆のもの留守をしっかりして、火の国衆や豊の国衆に侮られぬように頼む」と、仰られると、あとは皆、声もなくなりました。
「それよりも皆の者、この機会を良い方に向けようぞ。のう玉島よ、もうお前も十七と立派に一人前じゃ。わしが、遠い都から指図していたのでは、ふるさとの人びとの気持ちも判らなくなることをおそれる。お前が今後は、松浦の頭領じゃ」
兄、玉島王子はあまりの驚きで、しばらく声がでません。
「でも、差配などのこといかようにすればよいものやら」
「心配は無用じゃ。母御を後見役につけよう。租庸調のことなら、わしよりも詳しい」 続けて、「久利王子は、外との備え、外への繋ぎなど心して務めるように」。
そして大きな声を張り上げられて、「吉日は、思い立った時が吉日、と昔から言うではないか。明後日は、老いも若きもこぞって集え!岬の陣屋で祝宴じゃ!」
玉島兄の心情はどのようだったでしょう。世はカラでの戦の話しで持ちきりでした。 わが国と仲の良い百済、とそうでない新羅。百済を何かにつけて攻めてくる新羅。その北の高麗は又その北の国々と戦争をしている。百済を助けて戦うわが日本軍。人びとが口々に語るのは、その戦いでわが軍が断然強いこと。子供心にも私達の国がそんなに強くて、百済の人たちも頼りにしていることなどを誇らしく思っていました。
戦いで亡くなったり傷ついたりする人も多いのに、なぜ戦をするの? なぜ仲良くできないの? など女女しいことは恥ずかしくて口にも出せなかった頃でした。
玉島兄が、こんな歌が出来ました、と威張って父上のところに見せにきました。
梓弓 引きみゆる このますらをの
心は壱ぞ 撃ちてし止まむ(注303)
父上は、戦いの元気付けに和歌を使うのは邪道だ、と仰って、兄は可哀想にしょげていました。しかし、このような勇ましい和歌が、盛んに聞こえていた時代でした。
又、「この度は、もうお目にかかれぬのではないか、と私の占いに出ています。なにとぞ此度は、ご一緒させてくださいませ」
「わがまま申すな、此の度のお話は大君様たっての頼みなのじゃ。吉備(注304)・摂州(注305)や毛野(注306)国などとの折衝役で、場合によっては摂州まで行かねばならないかもしれないのだ」
「それなら尚更のこと」
「しかし、ようく考えてみよ。この松浦の国はどうなる。お前がおれば、豊の国もまさかの時には助けてくれる。玉島にはまだお前の後見が必要じゃ。そうだもう一つ頼みがある。ほかに頼む者もおらず、勝手で済まぬが、和多田の母子の面倒も見てやってくれ」
母上は気色ばんで、「何を仰いますか、とんでもない。向こうもここへは来たがらないでしょう。都に一緒にお連れになられたら如何ですか」
「そうもいかない。あの娘、なんといったか、宮姫といったか、玉島の遊び相手にどうかと思ったりするのじゃが」
「貴方様としたことが、何ということを仰いますか! あの娘は貴方様のお子ではありませんか。兄妹を娶わせるおつもりか!」
「仕方あるまい、白宮に頼むとするか」などと、二人は、終日(注307)言い争いながらの引越し作業でした。
宇佐岐はこのところ姿を見ませんでした。久慈良が云うには「兄者は、丸で馬鹿になったようでメシもよう喰わん、折角の陣屋でのお祝いも要らん、と云うのでわしが二人分貰えて儲かったけどな」
出立の前の日、宇佐岐がこっそりと来て、戸の外に包みを置いて逃げるように去っていきました。開けて見ると、きれいな桜貝でした。どのようにして描いたのか判りませんが、貝の内側には、きれいに女の人の顔が描かれていました。
私も何か悲しくなり涙に暮れていますと、多賀はわけも知らずに、「わたしが一緒にいくのだから心配されますな」と云ってくれました。
桜貝が多賀の目に止まらなかったのでホッとし、やっと落ち着きました。
玉島浜の 忘れ貝
われは忘れじ 年は経ぬとも(注308)
私には、あまり御笠の都、太宰府にはよい覚えが残っていませんでした。 物心ついた二~三歳のころ、父上が都に上がられるのに従って、母上と一緒に牛の背に乗って揺られて行きました。
今、思い返しますと、幸山大君の即位のお祝いだったようで、どこもかしこもお祝い気分が満ちていました。そのころ巷では、次のような和歌がよく歌われた、と父上が教えてくださいました。
もろびとの こぞりて祝ふ 大君の
待ちにし時は 今ぞ来ませり(注309)
都は確かに道も広くて家々も立派なのも多かったけれども、埃っぽかったし、匂いも国と違う臭い匂いがしていたのが強く頭に残っています。
屋敷の近くに立派なお寺がありました。柱や壁は朱色や金色に塗られ、瓦は薄茶色で、夕日に映えてきれいでした。そのお寺には大きな鐘があって、近くで、ぐお~お~んと鳴った時などびっくりして耳を塞ぎましたけど、後で耳からころりと耳垢が出てきて、何となく恥ずかしい思いをしたこともあります。
一つだけとっても嫌だった覚えがあります。それは厠(注310)です。国では、厠は流れの上にうまく作られていて、いやな匂いもしません。都ではおまるという桶に用を足して蓋をすると、奴婢がどこかへ持って行って洗ってくるのですが、おまるが置いてある厠が、カビやなんぞの入り混じった嫌な臭いで、なるだけ我慢しなくてはいけないのが、とっても嫌でした。
父上にそのことを言いますと、「もうじき長雨の時期になるから、そうすれば嫌な臭いも一緒に流してくれる。今は雨の少ない季節だからみんな我慢しているのですよ」と教えてくださいました。
そのこと一つとっても、都よりず~っと鏡の里の方が住みよいところと思えました。
青丹よし 御笠の都は 咲く花の
匂ふがごとく 今盛りなり(注311)
このように歌った方がいらっしゃると聞きますが、私には、花の盛りには嫌な臭いも消えて良かったということなのでしょうか、と皮肉っぽく感じてたものです。
父上が仰るには、「都はしばらく朝倉(注312)の方に移っていて、最近又、御笠に戻ってきたのでほとんど皆新しく建替えられているので、綺麗なものだ」 とのことで、すこし安心できました。
このたびの都上りは、荷物も多いので、鏡の浦から船の旅にしようか、ということになりましたが、陸路に変えられたそうです。多賀がつぎのように教えてくれました。
「二十尋(注313)の船二艘が手配できず、十尋船では女子供は乗せられない」、と父上が仰り、陸路にしようということになったようです。
二十尋船は、みんな大君さまの主船司が押さえられているそうです。ここの浦の船だけでなく、松浦全部いや、火の国の船乗衆みな押さえられたとか。最近は、船の材料の樟や槙の木も少なくなってしまって、火の国でも随分奥地に行かぬと見つからない。たとい見つけても木挽きが最近ではめっきり少なくなったとかで、新しい船は最見ることができない、などということです。そして、「物だけが船で都まで運ばれるようになった」と、聞いているそうです。
しかし、あとでこっそりとこのようなことも教えてくれました。母上が、父上が船での出立ということで、別れの歌をお詠みになられたそうです。
それは、次のような和歌だったそうです。
君が行く 海辺の宿に 霧立たば
吾が立ち嘆く 息と知りませ (注314)
多賀が云うには、「わたしが思うに、息長姫の伝来の呪術を恐れられ、海路を陸路とされたのではないか」とのことですが、私には、ことの当否は判りませんでした。
「船旅は楽といえば楽だが、一旦荒れたらどうしようもない。また荒津(注315)から都までは潮待ちもせねばならぬし、一番確かなのは、わが足じゃて。幸い、安児は野育ち同様で元気じゃが、心配は多賀の足だけ。多賀だけ船で荷と一緒に行ってくれれば、荷の見張りなどの心配もなくなる」と、父上は仰られ、多賀のほかは皆、陸路で都に向かうことになりました
鏡の里から玉島の浜を過ぎ、海辺の崖の上の小道と浜辺とを何度も上り下りを繰り返し、きれいな姿のお山(加耶山という名だそうです)が見えてきました。
この加耶山は、いつぞや豆太が木こり奴として売られそうになったところです。
木こりの仕事は大変だそうです。特に、加耶山は元岡の里に設けられた、くろがねの吹き上げ処に使う薪をとる仕事が、最近増えて大忙しだそうです。昔は、ここの木は目通り(注316)ふた尋なければ切ってはならぬ、という定めがあったそうですが、最近ではひと尋の木でも切って元岡に運んでいるそうです。
父上が仰るには、「このままでは加耶山は禿山になってしまう。切った後には必ず苗を植えるべし、と大君にあらためてお触れしてもらわなければなるまいて」ということでした。そして次の和歌を詠まれました。
鳥総立て み加耶の山に 船木伐り
薪に伐りてしも あたら船木を (注317)
「とぶさ」など始めて聞きましたので、その意味を父上にお聞きしました。
「鳥総とは、大地の神様、木に宿った神霊に捧げものをして、伐採するお許しを受ける儀式のおりに、若木の枝を添えてお願いする、その若木のこと。伐採した後、その枝が元の木のように育つようお祈りするのじゃ。最近は、そのようなしきたりを守らない杣人(注318)が増えているようでこれも困ったことじゃ」と、教えていただきました。
やがて国ざかいの関所が見えてきました。関所でお父上が「ご苦労、ご苦労」と、声を掛けられますと、番所の頭領しいのが、「お殿様の方こそ、本当にご苦労なことでございます」と、平伏して見送ってくれました。
関所の先の海を見下ろす小高い岡にきれいなお社がありました。
「ここのお社は、そなたの母御の祖先お祭りしてある、鎮懐石神社(注319)じゃ、ご挨拶していこう」と、父上が仰います。
社守の年寄りの夫婦が、さくら湯と干し柿を出してくれて、「ここのご祭神は、安児姫さまのお母上の八代前の息長女王様(注320)です。とても立派な方だったのです。それでこのように皆がご遺徳を偲んでお祭りしているのです」などと説明してくださいました。それを聞いて、すこし誇らしく思いました。
そこを、過ぎると随分広い国が広がっていました。歩きながらいろいろとお話をして下さいました。
「ここら一帯が一番昔から開けたところで、大君様ご一族、天一族の本貫(注321)の地とも云える。ここの雷の社が代々の霊をお祭りしているところ。この度は、日も下がってきているし、下宮(注322)からのご挨拶で済ませて、先を急ごう」と仰って、今津の宿に入りました。
「昔はこのような宿はなく、旅は苦渋なものとされていた。和歌で、旅には草枕という枕ことばが付くことは、この前教えたので覚えておろう。百済の国に行った時など本当に草を枕に寝たものだ。皆、祠や大きな木の下で野宿をしたものじゃ。そのような経験をすると、家のありがたさがよく判る。今のように、どこにでも銀銭(注323)を払うと泊めてくれて、ご飯もいただける世の中は贅沢なものよ」などと、父上はお話してくださいました。
その百済への旅立ちの折母上は、この今津のほんの先の出立地の荒津まで、見送りに来られたそうです。そのときのお歌一首(注324)も教えてくださいました。
草枕 旅行く君を 荒津まで
送りそ来ぬる 飽きたらねこそ (注325)
今津の宿で泊まりました。疲れていたのでしょう、床に着いたら、すぐ寝入ってしまい、すぐ朝が来ました。
お粥の朝ごはんが済んだら、宿から、干し柿や、かち栗(注326)を分けて貰い、それに水筒の水を入れ替えて早速出発です。お昼過ぎには都に入れるそうです。
父上の前には、金色の大きな槍を持って、何人もの従者が前触れして進みます。周りの景色が珍しく、あっというまにお昼前の一休みになりました。
一休み後は大変でした。ぞうりの鼻緒は切れるし足は痛むし、涙をこらえて足を引きずりながら、遅れないように歩きました。多賀だっても、我慢できないのではないか知らん。私も船に載せてもらったらよかったかなあ、など思っていましたら、誰かがお父上に知らせたのでしょう、お父上が行列の後ろの方にお出でになりました。
「つらいか、よし、こうしよう」、と、ぽんと抱えられて気がついたら、父上の肩の上でした。着物の裾がまくれているのに気付き、恥ずかしくてたまりませんでした。
もう覚えていないくらい昔に、肩車をしてもらった記憶はあります。こんなに気持ちが良いものだ、と改めて知りました。遠くの山も近くの木々も、ゆっくりゆっくり揺れながら動いて行きます。
「どうだ安児、歌でも詠んでみぬか」と、父上が仰います。
しばらく考えて、 ”ちちの実の ととさまの背の かたぐるまふわふうわ揺れ いとおかしけれ” と詠みました。
お父上はそれをお聞きになって、「安児、下の句はまあよい、気持ちがそのまま表れているからな。しかし上の句はいただけないなあ。枕詞にこだわりすぎている。確かに、父親の枕詞は、ちちの実だが、かたぐるまは、大体父親が子供を肩に乗せる、ということは皆知っていることだろう」と、仰います。
「では父上、どのようにすれば良いのでございましょう?」と、ちょっと拗ねてお聞きしますと、
「父の背、は余分というもの。枕詞の練習というのなら、上の句を変えてみたらどうかな。
久方の 光を浴びつ かたぐるま
ふわふうわ揺る いとおかしけれ (注327)、どうじゃな。」
真面目に添削をして下さって、拗ねたのが恥ずかしく思いました。
都に近くなった時、沢山の人たちが鍬や籠を持って働いていました。その仕事を指図していた人が、「鏡のお殿様ではありませんか?」と、声をかけてきました。
「ああ、中富殿か久し振りじゃな、元気そうでなにより。ところで、今日は何をなされてか?」
「ご覧の様に大君のお言いつけで、水堀(注328)の仕事のはかどり具合を見に来ました。」
「それはご苦労な、人手の方は如何かな?」
「ご承知でございましょうに。見てください。人の数はあるものの、年寄り、女子供が殆どです。」
「ご苦労なことですね、では、又都でお会いしましょう。ああ、これはわが末娘の安児じゃ、足が痛いというので、この通りの格好で失礼」
裾をはだけているのを、若い男の人に見上げられて恥ずかしくて、目も上げられませんでした。もう朱雀門(注329)も近くに見えます。「父上、安児はもう歩けます!」と、言って、無理に飛び降りるように、肩から下ろしていただきました。
この時、この様に出会った人と、先々、長~あく、お付き合いするようになるとは夢にも思いませんでした。
朱雀門を入ったところで牛車(注330)が待っていました。お父上が、牛車の中であの若い人について、おおよそ次の様に話してくれました。
「あれはな、春日の中富一統の者。中富は、もともと対馬の出と聞く。もう十年ほど前のことじゃが、百済から質としてこられたセシムが、セシムとは向こうの言葉で王子ということじゃが、対馬にまず、滞在されたのじゃ。そこで饗応役を務めたのが、先代の中富殿じゃ。ひと月ほど対馬滞在の後、都に見えられたのじゃが、そのとき付き添ってきたのが、あの鎌足じゃ」言葉を続けられて、
「なんでも、先代の中富の殿が、同じ年頃の息子鎌足にセシムのお相手役をさせたら、えらく気に入れられ、また、あの者ももの覚えがよく、すぐにセシムの言葉がわかるようになったそうな。都に来て、大君にもえらく可愛がられ、セシムが国に帰った後も、鎌足を都に留められてあのように、何かと重宝されている」ということでした。
そして父上が、隋の国は使節としてお出でになった時の、何事も珍しくまた心細くもあったことなどお話してくださいました。ただ、文字を沢山知っていたので随分助かったし、向こうの人も感心してくれたものだ。安児は女子じゃけれど、いつ役に立つかも知れぬゆえ、文字の読み書きだけはおろそかにしないように、と諭してくださいました。
外国に行くと、ふるさとが懐かしくなつかしく思われるものだ、と昔を思い出して、父上は、次の和歌を披露して下さいました。
外つ国の 清き川瀬に 遊べども
加沙の都は 忘れかねつも (注331)
都の屋形に着いて、お手伝いが足を洗ってくれて揉んでくれた後も、しばらくは動けませんでした。船に預けず持って来た袋を広げ、片付けながら寝入ってしまいました。
夢の中で鎌足どのや幸山大君が出てきて、外国の人と話しているようでしたが、昼見た顔と違ってなんだか恐い顔に見えました。
当時の私は知りようもありませんでしたが、当時の都は大変な混雑であったそうです。
多賀がいろいろと教えてくれます。たとえば、新羅の使いが来て大層横柄だったことだとか、今までと違って、服装も韓国風が唐国風に変わってきたので、大君は、お前達は新羅の使者とは認めない、と追い返されたこととか。
それを根に持って新羅の使いは、大唐と組んで百済と日本をぶっ潰してやる、とほざいて帰ったとか。帰さずに斬っておしまいになればよかったのに、と周りが申したが、大君さまは、それは短慮というもの、戦になればともかく、今は義兄弟を誓った仲、先方が違約すればともかく、日本の名にかかわる、と申されたとか、です。
しかし、百済からは、新羅が攻めて来る、何かとノミの食いついた跡みたいな細かい不平を理由に攻めて来る。是非助けの兵を動員して欲しい、と矢のような催促があっているというようなことや、大君さまも高句麗に使者をたてて、なんとかこの状態を解決したい、となさっていらっしゃるが思うようには事は運ばないようだ、ということや、高句麗は高句麗で、唐国と北で戦をしていて、日本に応援を頼みたいくらいだ、ということです。
後で、父上にもお聞きしましたら、図を描いて説明してくださいました。けれども、どこの国とどこの国が、なぜ争うのか合点がいきませんでした。
そういうことで、わが国は戦人がいくらいても足りることはないようです。生めよ増やせよ、と子宝はいくらあっても良い、とはいえ、悪いはやり病も外っ国から入ってくるのが最近多いようで、そんなこんなで、みんなが大変だということのようです。 特に、戦人でカラの国に出かけ、留守をみどり児と過ごす若女房殿が一番大変のようです。多賀も夫が帰らぬ人になった一人ですが、多賀が昔から懇意にしている、額田の女房どのも同じだそうです。
額田女房は、和歌詠みの名手だそうですが、夫の帰りを願って、このような和歌を詠んだ、と多賀が教えてくれました。
他国は 住み悪しとそ言ふ 速く
早帰りませ 恋ひ死なぬとに (注332)
そう聞かされましても、わたしには、遠い国の話で、自分にその火の粉が降りかかってくるとは、夢にも思えませんでした。
相変わらず、みそひと文字を習ったり、手習いをしたり、綾取りをしたり、貝合わせをしたり、の毎日でした。
年が変って、一つ年を取りました。父上が、年号が仁王(注333)十年になったから、公文の日付も間違えないように、と係りの祐筆(注334)に仰っていました。
もうそろそろ、鏡の里に帰れないのかなあ、と、夕方、近くの鐘つき堂で薄れいく景色を眺め、鏡の山の上からの海と島々の眺めを懐かしく思いだしていました。
そこに多賀が私を探しに来ました。 父上が大極殿から下がって来られて、多賀ともどもお呼びになっている、と云います。 何事かと、お話しを聞きに急いで帰りました。
父上が、多賀に言います。「そろそろ姫も、行儀作法を修めなければなるまいが、どうか」
「どうか、と仰られましても、もうお決めになられたのでございましょう」
「うむ。奥の額田女房の手元でどうか、ということだが。あそこには、同じ年頃の姫もいることだし、手習いなども一緒にできるし、一挙両得と思うのじゃが」
「せめて、わたくしを付けてやっていただけませんか。お屋形様のお世話は、それ、ふた月あまり前にお目見えした与射の女房がわたしよりもよろしかろう、と思いますが、ふふっ」
「なにをそのような・・・。しかし確かに与射の女房は気が利くし・・・」
「安児姫は、利発といってもまだ幼い子ですから、誰か気心の知れた者がついてあげないと心が塞がってしまいかねません」
「多賀のわっぱ共の面倒は、どうする気じゃ?」
「もう上の宇佐岐は、十歳になります。本人の希望もあり山鹿(注335)の絵師のところに今年の初めから出て行きました。下の久慈良は、いつぞや若殿様のりりしい太刀佩姿を見て、どうしても戦人になりたいとねだります。お屋形さまにこんなお願いをするのも、と思い、別当(注336)殿の伝手を頼って当麻一党の手下で修業することになり、春になり阿蘇の山の雪が解ければ、そちらに出けることに決まりました」
そんな話しがなされました。
当麻一党というのは、阿蘇衆の中でも力士が多いことで有名です。
父上もいつぞや、その昔の、当麻の蹴速と出雲の野見宿弥との天覧試合の話を聞かせて下さいました。(注337)当麻の蹴速は、野見の反則の蹴技を食って負けたけど、大君は、その潔さを愛でられたと聞きます。
二人の子たちが多賀の元を離れる話しを聞いて、多賀にたずねてみました。「多賀は、宇佐岐や久慈良たちのことは気にならぬのですか?」と。
「弟の子とはいえ、親同然に育てた二人、勿論気にはなります。しかしいずれは自分で生きていく。親離れは早い方が良いのですよ。このような和歌もあります。厳しいでしょうがこれが本当の親の愛というもの」と次の和歌を詠じながらも、目からは涙がこぼれていました。
垂乳根(注338)の 母に障あり 聞こえしも
な帰り来そ 事しなるまで (注339)