タリシヒコ考『タリシヒコの謎に挑んだ人たち』  新しい歴史教科書(古代史)研究会

第二部 明治維新から昭和二十年の敗戦まで

 

第五章 明治維新から太平洋戦争終戦後までの古代史をめぐる社会環境について

 明治維新によって天皇親政の体制となります。日本帝国憲法も公布され、この体制は1945年(昭和45年)8月15日に昭和天皇のポツダム宣言受け入れまで続きます。 

主な流れは次のようです。

1868年(慶応4年) 王政復古(五箇条の御誓文)
1868年(慶応4年) 廃仏稀釈令(太政官「神仏分離令」布告)
1869年(明治2年) 修史事業勅諭(修史の詔発表)
1877年(明治10年) 西南戦争
1889年(明治22年) 大日本帝国憲法公布
1889年 東京帝国大学に史学会設立(*1)
1890年(明治23年) 教育勅語公表
1892年(明治25年) 久米邦武筆禍事件
1894~1895(明治27~28年)日清戦争
1904~1905(明治37~38年)日露戦争
1912年(明治45年)明治天皇崩御
大正デモクラシー(1918年平民宰相原敬就任)
1917年(大正6年)ロシア革命
1921年 (大正10年)平民宰相原敬暗殺さる
1924年(大正13年)治安維持法の制定
1937年(昭和12年)日支戦争(盧溝橋事件発生)
1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦

このうち歴史研究に影響を及ぼす事柄は次のようなものがあげられます。

●明治天皇の 修史事業勅諭(修史の詔発表)1869年(明治2年)
●日本帝国憲法の発布1889年(明治22年)
●教育勅語の公布1890年(明治23年)
●教育機関として大学の設置と外国からの教師招聘、そして1889年 東京帝国大学に史学会の設立 

また、憲法制定に伴って法律の整備も進み、「不敬罪」も制定され(明治十三年1880制定)、皇統の研究発表には注意が払わねばならなくなります。(東京帝大美濃部達吉の「天皇機関説」にたいする不敬罪告発、『記・紀』の古代天皇や聖徳太子の実在について論じる津田左右吉に対する「不敬罪」告発(実刑判決)などがあります。) 

そのような時代背景もあり、民間の学者が自由に研究で来た江戸時代と違った歴史研究環境となってきます。それをよくあらわしているものが「朕〈ちん〉惟〈おも〉フニワカ皇祖皇宗〈こうそこうそう〉国ヲ肇〈はじ〉ムルコト宏遠〈こうえん〉ニ・・」ではじまる教育勅語でしょう。

 しかし、帝国憲法の発布についての勅諭に、「朕は祖先の偉業を受け万世一系の帝位を継ぎ云々」という言葉から始まっているようにがあるのですから、『日本書紀』や『神皇正統記』の精神に副わない範疇での研究にとっては、江戸期より歴史研究にとっては、厳しい環境となったと思われます。

参考までに帝国憲法の前文と言われる「上諭」を掲げておきます。

 【朕、祖宗〈そそう〉ノ遺烈〈いれつ〉ヲ承ケ、万世一系〈ばんせいいっけい〉ノ帝位ヲ践〈ふ〉ミ、朕カ親愛スル所ノ臣民ハ、即チ朕カ祖宗ノ恵撫〈けいぶ〉ヲ慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念〈おも〉ヒ、其ノ康福〈こうふく〉ヲ増進シ、其ノ懿徳〈いとく〉良能ヲ発達セシムルコトヲ願ヒ、又其ノ翼賛ニ依リ、倶〈とも〉ニ国家ノ進運ヲ扶持〈ふじ〉セムコトヲ望ミ、スナワチ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践〈りせん〉シ、ココニ大憲〈たいけん〉ヲ制定シ、朕カ率由〈そつゆう〉スル所ヲ示シ、朕カ後嗣及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲシラシム。
国家統治ノ大憲ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ。朕及朕カ子孫ハ、将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ、之ヲ行フコトヲ愆〈あやま〉ラサルヘシ。】


修史事業の顛末

江戸期では鶴峯戊申が8世紀まで筑紫を中心とした倭国が存在した、というところまで論考された、その托鉢を継ぐものはいなかったのでしょうか。本居宣長の卑弥呼は熊襲の女酋説を継ぐのはどうなったのか、それを良く示しているのが、明治天皇の修史の詔で始められた修史事業の顛末です。

 修史事業は、国学者と漢学者との混成であり、修史の詔に漢文で書くこと、と規定されていることも問題を複雑にしたと言われますが、内部抗争や久米邦武の筆禍事件により、久米や頭株の重野安鐸の帝大教授辞職もあり結果的に国史編纂はまとまらずに終わります。


明治年間の古代史研究の状況 

明治年間の古代史研究の状況について内藤湖南が説明しているところを参考までに紹介します。『日本上古の状態』1919年(大正8年)という論文に、明治大正期の歴史研究を取り巻く環境を、湖南の立場から、述べているところがありますので、抜粋し抄訳紹介します。

明治以後史学が盛んになったとはいえ、日本の側から歴史を観察する、本國中心主義が依然として國史界を支配し、少し際どい研究法を用いると、神職及び教育家等から激しい攻撃を受ける事を常であった。國史の研究はどこまでも本國中心でなくてはならないとし、日本國成立の素因を外界の刺激に幾分かは依るとすることさえも不都合とするのである。彼らは、外國の資料によって研究することは、記録の不確實なる朝鮮によることは寛容しながら、記録の確実な中国の歴史より研究することに対しては排斥する傾向が強かった。だから日本の古代についての見解の程度は、今日に於いても依然として國学者流の策を脱していない。これは今後の国史研究上の一大問題とせねばならない。】


明治~敗戦時までのタリシホコについての論者を選ぶ

この明治帝の欽定大日本帝国憲法のもとでの歴史研究がどうであったか、「タリシヒコの謎」に迫る事ができたのか、数多い論者の中で次の三人程に絞ってその論旨をみてみたいと思います。例えば、内藤湖南の論述の中で、鶴峯や久米などの評価も見る事ができますので。

西の内藤湖南、東の白鳥庫吉と並び称された二人に加え、国史の方からでなく、日中の通交の歴史という方面からの『日華文化交流史』を著した木宮泰彦を取り上げます。

なお、津田事件の津田左右吉も戦後の国史研究に大きな影響を与えたのですが、津田の国史観は、本人が白鳥の弟子を自任されるだけあって、「タリシヒコの謎」についても、タリシヒコ=聖徳太子とされて、何も論評を見い出すことができませんので除外し、歴史研究の時代背景の説明などで津田左右吉の意見は参照していきたいと思います。


三者の発言の紹介

内藤湖南・白鳥庫吉・木宮泰彦のそれぞれの「タリシヒコ」に関係する発言や、「卑弥呼」や「倭の五王」についての発言も紹介します。


①内藤湖南

略歴:1866年(慶応2年)生まれで、1934年(昭和9年)に没しています。生まれは秋田県で秋田師範を卒業し、しばらく秋田で小学校の訓導を勤め、19??年(明治20年)に上京し、新聞・雑誌の編集に携わり19??年(明治40年)に京都帝国大学が東洋史学科が開設されたときに講師として招聘された。明治42年に教授になり、東京帝大の白鳥庫吉との邪馬台国論争「東の白鳥の吸収説、西の内藤の大和説」が有名。


内藤湖南のタリシヒコの謎に関係する発言

内藤湖南は、隋との交渉は聖徳太子が行ったとしています。しかし、『隋書』と「日本の伝承」との相違点などについて見解を述べることはありません。わずか以下に紹介する『増訂日本文化史研究』弘文堂1930(昭和5)年11月発行 のなかの「聖徳太子」に「日出づる処の天子、日没する処のてんしに書を致す、恙なきや」の国書について、聖徳太子が書いたもの、と言われているところだけです。

【卑弥呼が中国と通じた、と中国の史書にある。これは熊襲などの女酋が女王と偽ったのだろう、とする学者がいるがそうではない。又、『宋書』には倭の五王の叙爵記事がある。これは朝鮮の日本府の長官が偽って名乗ったものだという説もあるがこれもそうではない。

古の外交を担当していたのは帰化人であった。『魏志』にあるように、中国からの文物は博多あたりで検査を受ける。印章も担当に預け放しであるから、帰化人の担当者の思うままに作成される。彼らが使者として行くと、先方の鴻臚寺の管理役人と示し合わせ都合よく上表などを作る。これを聖徳太子が、帰化人外交の外交権を取り戻し、小野妹子などの名家の者を使者とするようになった。

「日出づる処の天子云々」の国書は、その語気から察するに、太子自ら筆を執ったものであろう。太子のように巧妙に中国と外交したものはいない。】(『聖徳太子』より抄訳)


内藤湖南のタリシヒコに関係する発言でこれ以上詳しく言及している文章を見つけることはできませんでした。つまり、聖徳太子が小野妹子を使者として派遣するまでは、国の外交・通商は、渡来人に任せっぱなしだったので、記録などもいい加減なのだ、ということにしています。

この内藤湖南の論調は『卑弥呼考』(初出『藝文』1910年)でも共通しています。やはり外交は帰化人任せであり、卑弥呼という女王は大和朝廷の倭姫命である、とされています。倭の五王も、大和朝廷の天皇の方々とされています。

この内藤湖南の古代史史観を観るには『卑弥呼考』での発言を見るとよくわかります。内藤湖南は、『卑弥呼考』で、『魏志』にある邪馬台国は大和であり、卑弥呼は垂仁天皇の四番目の娘、倭姫命としています。何故そういえるのか、それは『隋書』の記事で明らかである、と言います。「大和」の名は古くから中国に伝わっていて、『隋書』には「邪靡堆」と書かれていることからも明らかであり、九州説は間違いと論じています。


その『卑弥呼考』の関係部分を抄訳して紹介します。

【中国の史書に見える女王卑弥呼を神功皇后としたり、或いは筑紫の女酋としていて、近年は後者を取る者が多いがいずれも間違っている。

 中世足利時代、僧周鳳が『善隣国宝記』で中国史書にある倭国というものは果たして日本なのだろうか、という疑念を示した。つまり、倭国の東千里にある倭種の国のいずれが「日本」なのか、ということであり。これは鶴峯戊申が『襲国偽僭考』でも指摘している。

 しかし、松下見林は、神功皇后説を述べているが、それが九州説に一転したのは、本居宣長の『馭戎慨言』で、「卑弥呼は神功皇后であろう。しかし、魏に使いしたのは朝廷の正使ではなく、熊襲の類が女王の名声を使い偽りの私的な使いを出したのだ、としたからだ。

 また、鶴峯は景行天皇の熊襲征伐でも生き残った国が、神功皇后の時代に、姫尊を立てて女王としたのが「卑弥呼」として中国に伝わった、とした。この説は世の学者を靡かせる力があった。

 明治以降も大体において鶴峯説の範疇である。菅政友、」吉田東伍、那珂通世、久米邦武それらの著書は全て筑紫の女酋説で、筑後か肥後かなど小差があるだけ。彼らはみな「陸行一月」を「一日」の誤りとしている。鶴峯は「水行十日」を二十日の誤りとしている。

このように史書の記事を軽々しく変更する説には従えない。また、宣長のように、「偽って魏使を受ける」というような説は、児戯に等しくあり得ないことだ。

『魏志』にある「邪馬壹」は「邪馬臺」の誤りであることはいうまでもない。『梁書』・『北史』・『隋書』みな「臺」としている。魏の時代でも「大和」は中国に「邪馬臺」として認識されていた。『魏志』にある「七万戸」の大国は、辺境の筑紫に求めるより、王畿の地に求むべきである。この邪馬臺の地は大和国より広大で、当時の朝廷の直轄領を包括していたと思われる。

結論として、卑弥呼は倭姫命である。】と、このように、邪馬台国大和説と卑弥呼倭姫命説を述べています。


湖南は、九州説を支持する学者たちが、史書の記述を読みかえることについて批判していますが、ご自身の大和説は、「南を東に読み替える」ことで成り立っていることについては無言ですし、邪馬臺は大和と自明のことと強弁しています。それに、七万戸の大国に大和を比定するのは流石に無理と思われたのでしょうか、朝廷の直轄領全体というように弁解しています。まさに湖南が、宣長の「偽って魏使を迎えた」説を「児戯に等しい」と批判しているのは、下世話で言う「目くそ鼻くそを笑う」の類ではないでしょうか?


『宋書』にある「倭の五王」に関係する湖南の発言を見てみますと、そこにも同じく『卑弥呼考』に次ぎの様に、「倭の五王は大和朝廷の王であり卑弥呼の後裔」、という発言が見られます。

【『隋書』及び『北史』には、「倭国は邪摩堆に都す。すなわち『魏志』の邪馬臺という所なり」とある。これは、隋の時には大和を以て邪馬臺とみなした証拠である。東晋より宋、斉、梁の代にわたって倭王讃、珍、済、興、武などが朝貢したという記事が『宋書』・『梁書』にみえるが、これを大和朝廷の正使ではない、辺境の将軍などの私使である、などという説もあるが、その上表文によれば、大和朝廷の名で通交しているのは明白だ。

であるから、梁の代において、大和朝廷の存在は明らかに中国人に知られていたことは勿論だが、『梁書』では当時の倭王を『魏志』がいう倭王の間違いない後裔としている。このように中国の記録から見た邪馬臺国を大和朝廷の所在地に比定する他、異見が出る余地はない。】


この湖南の立論の基本の邪馬臺=ヤマト、つまり臺=トという等式が成り立つのか、もし成り立たなければ、湖南説は根本から成り立たなくなるのですが。また、「倭王武の上表文から大和朝廷が通交していたのは明らか」とされますが、その「通交が明らか」についての説明は全くありません。つまり「自分の判断を信じろ」ということなのでしょうか?


内藤湖南は、『隋書』の「タリシヒコに関する記事について、「日出づる処の天子云々」の国書は聖徳太子が書いたものである、と信じていたとしても、その他の疑問、家族関係・し摘む態度など全く聖徳太子の伝承に似つかわしくないのですが、中国側が日本の使者の言葉を誤って採録した、ということで済ませていることは、それこそ不思議と思わなかったこと自体が謎と思わざるを得ません。



では、内藤湖南と対比されて東の白鳥庫吉の場合はどうなのでしょうか

②白鳥庫吉 

 略歴 白鳥庫吉は1865年(元治2年)生まれ。1942年(昭和17年)没。千葉県の出身で、一高から東京大学(後の東京帝国大学)に入学し、ドイツからの招聘歴史学者リースに師事する。津田左右吉は弟子。

学習院教授~東京帝大教授を歴任。1914年~1920年は裕仁皇太子の教育係も勤めた。
同時期の歴史学者内藤湖南と、「邪馬台国九州説の白鳥、近畿説の内藤」、「実証主義の内藤、文献主義の白鳥」、とも称せられたという。白鳥の論文には漢語の片仮名表記が多いのも特徴である。


白鳥庫吉は昭和天皇の皇太子時代の教育係でした。庫吉がそのために準備した「教科書」の原稿が、最近庫吉の孫、白鳥芳朗氏(上智大学名誉教授)の手に依ってまとめられ勉誠出版から2015年に出版されています。その『国史』には次のように、『宋書』の「倭の五王」及び『隋書』の「タリシヒコ」の記事について、次のように簡単に述べています。



雄略天皇の頃に任那日本府から宋に使いをしたようなことがあるが、隋との通交が本朝初めてである。厩戸王子が初めてである。国史には当時の書に「東天皇敬白西皇帝」と書かれ、中国の書には「日出処天子致書日没処天子」とあり、わが国は始より対等の礼を以て之と交った。(『国史』より)

以上のように、白鳥庫吉は、宋に雄略天皇が通交したとあるけれど、それは正式の通交でなく、正式に中国の王朝「隋」と通交始めたのは厩戸王子である、と聖徳太子とせず厩戸王子としています。それ以外は内藤湖南と同様の意見です。


古代史史観で内藤湖南と違っているのは、湖南が「卑弥呼は倭姫命」としているのに対し、シラトリは「卑弥呼は熊襲の女王」としているところです。

白鳥庫吉は、「卑弥呼は大和朝廷外の人物」としている関係でしょうか、昭和天皇の皇太子時代の教科書『国史』には全く「卑弥呼」や「邪馬台国」は出てきません。皇太子からのご質問があったかどうか、興味あるところですが。

白鳥庫吉の卑弥呼と大和朝廷との関係についての説明が『白鳥庫吉全集第二巻』日本上代史の諸問題「三韓征服」にありますので抜粋抄訳して紹介します。


白鳥庫吉は、『後漢書』にある、「倭奴国が朝貢し印綬を受けた、その後、卑弥呼という女王が立った」、という記事について次のように述べます。

九州地方は朝廷の祖先が支配していたところだけれど、この頃には朝廷の威光が薄らいだとみえ、九州地方に大騒乱が生じ熊襲が九州を統一し卑弥呼女王を立てた。
それをその後、崇神天皇が大いに奮励して統一された。

卑弥呼の熊襲は、反大和であるから、当然外国勢の力を借りようと努力した。その結果が『魏志』にある遣使記事である。
国史にいう、熊襲が大和朝廷に服さないのは背面に新羅がいるから、というが、実はその裏の帯方郡というところにあったのではないか。
その後、任那と新羅の紛争に朝廷軍が任那を助けて新羅を討ち、漢の二郡も衰弱していった。その影響で熊襲の勢いも弱まったのである。
国史に、仲哀天皇は海の向こうに新羅という国があることを知らなかった、とあるがこれは間違いである。】

つまり、卑弥呼は熊襲であり大和朝廷とは関係ない、大和朝廷は崇神天皇のころから全国を統治した、としています。

巷間、「文献の白鳥」と目されていたようですが、「実証主義の内藤湖南」同様、こちらも『隋書』記載の「多利思比孤」の記事と『国史』との齟齬について何ら意見を述べていません。ご自分が理解できない問題であり、競争相手の湖南も問題にしていないから、こちらから問題提起する必要もないかな、皇室と無関係と思われるし」というところあたりでしょうか。


参考:
白鳥庫吉『国史』の「推古朝の隋との通交」に見える記事(現代文に直しています〉

【従来我が国が中国の文物から学んだのは、主として百済の媒介によってであり、日本に渡来した漢人なども百済を経由してきた者たちである。
しかるに、推古天皇の時代になり厩戸皇子の考えによって、中国王朝に小野妹子を使節として書を持たせたことにより、両国間の国交がはじまった。この後は百済などを経由することなく、中国から直接その文化を輸入することができるようになった。 雄略天皇のころ、任那府の諸臣が中国に使いを出したことがあったが、わが国の皇室が中国に使節を派遣されたのはこの推古朝に始まった。

隋朝が久しく南北朝に分かれていた中国を統一した時であり、その名は朝鮮半島を通じ遠く我が国にも伝わってきた。その都は長安(今の西安)であった。我が国の使節は百済から海路山東半島に渡り、黄河の流域を西に進み、遠いその都長安に達したものであろう。

向こうからも答礼使が派遣され、妹子とともに来朝した。山は緑で水は澄み、風光明美な瀬戸内海を東に向かって、難波の浦から上陸した中国使節たちは、中国の限りない平原と濁った黄河を思い起こして驚嘆したことは間違いないことであろう。朝廷は飾り船30艘を河口に浮かべて一行を歓迎し、飛鳥の都に入る時には飾り馬75頭を出し、謁見の式では、皇族諸臣は色様々の冠をかぶり綾錦の衣服を着て居並び、彼らに東方にこのような典雅な文化国家があることを感じさせたことであろう。彼らが帰る時には、再び妹子を大使として中国へ行かせ、南淵請安・高向玄理などの留学生および留学僧数人を随行させた。

『日本書紀』には、「東天皇敬白西皇帝」とあり、中国の史書には「日出処天子致書日没処天子」とある。古来中国は東洋における唯一の文明国であり、自らを「華」と誇っていた。付近の諸民族を「夷狄」として賤しみ、周辺諸国も臣属の礼をもって中国の皇帝に対していたが、我が国は初めからその陋習に従わず対等の礼で接していた。

隋朝はこののち数年ならずして滅び、唐朝がそれに代わった。舒明天皇の代になり、使節として犬上御田耜を使節として派遣し、唐もまた答礼使を派遣して来て国交が続くことになった。】

 このように自著『国史』で白鳥庫吉は、隋との通交について述べています。しかし、内藤湖南と口裏を合わせるかのように、俀王多利思北孤に関する『隋書』の記事は、「日出づる処の天子云々」の国書以外については何も話題に取り上げていません。日本の文献に記載のない中国史書の記事は、誤った伝聞によるもの、とされたのでしょうか?


③木宮泰彦 

略歴
1887年(明治20年)生まれ、1969年(昭和44年)没。
静岡県浜松生まれ。東京帝国大学国史科(大正2年)卒。京都帝国大学大学院進学。
大正9年山形高校教授を皮切りに水戸高校・静岡高校教授から昭和22年同校校長(事務取扱)を最後に退官。
静岡女子高等学校(現常葉学園)を創立理事長学長を歴任。
「栄西禅師」「日華文化交流史」「日本印刷文化史」「日本民族と海洋思想」など著書多数。



『日華文化交流史』について

木宮が著した『日華文化交流史』という本は、内藤・白鳥の二人と異なり、中国の史書を、いい加減なわが国の外交使節の言葉を、いい加減な鴻臚寺の役人が聞き取って記録した、というのではなく、それなりの内容がある史書として検討されたものです。

特にこの本は、中国語に翻訳され上海で出版されたので、中国の歴史研究者にはかなり有名のようです。2006年に始まった日中歴史共同研究は2010年にその成果の報告書が外務省から、日中双方の論文の併記という形で発表されました。(2014年に勉誠出版から出版)その日中歴史共同研究でも日中双方の委員が取り上げていました。



肝腎のタリシヒコ関係の発言は次のようです。

最初の遣使に名前があるタリシヒコは本居宣長のいうように「西の辺なる者の仕業」であろう。韓土に派遣されていた鎮将などが大陸の情勢を探らせるために使節を派遣したのかもしれない。

姓阿毎、字多利思比孤というのは、天足彦〈アメノタリシヒコ〉であろう。足彦は孝安・景行・成務など歴代の諱に多くあり、ほとんど天皇の異名の如くである。阿輩雞彌とあるのは大君〈オホキミ〉の音を写したものであろう。松下見林の推古天皇の諱御食〈ミケ〉炊屋姫を訛伝したというのは当たらない。】
と、内藤湖南・白鳥庫吉と若干違って、熊襲もしくは朝鮮半島の鎮将派遣説です。ただ二人と違ってタリシヒコについての見解を述べて、天足彦であり歴代天皇の一般的な名称であろう、と具体的に述べている点です。


木宮泰彦は、「倭の五王」と「卑弥呼」については次のように述べます。

【『宋書』にある「倭の五王」は大和朝廷の天皇方である。「倭国」とは以前の北九州の倭ではなく、大和朝廷を指している。倭王讃は仁徳天皇で倭王武は雄略天皇であることは広く学者の認めているところである。宋朝から六国諸軍事安東大将軍などの爵号を受けたのは対高句麗政策であったのだろう。

この『宋書』に見えるわが使節の通交は、任那日本府の高官が好き勝手に朝廷の名を冒称してやったのか、朝廷からの命令でやったのか、という問題がある。

本居宣長は『馭戎慨言』で、全く朝廷の関知しないこととしているし、大日本史外国列伝も同様である。しかし新井白石は『殊號事略』で、『宋書』にこれほど詳しく書かれた我が国の記事はない。『日本書紀』などには記載されていないが、三韓の地に置かれた日本府の宰臣が、大和朝廷の命で行ったことがあったと思われる、とある。

これはどちらも理由のあることである。ある時は宰臣が、ある時は朝廷が直接遣使することもあったと解するのが事実に近いと思う。】


つまり、倭の五王達は中国に出先を通じて通交し、いろいろと綬爵した、と言っています。

肝腎のタリシヒコは推古女帝以外の天皇といっているだけで、例の「日出づる処の天子云々」の国書は誰が出したのか、についての考察は見えません。(聖徳太子ではない、と言っていませんから通説通り、ということなのでしょうか。


木宮泰彦は、卑弥呼は北九州の倭国であり大和朝廷とは別国としますが、「倭の五王」段階では、大和朝廷の天皇方とされます。つまり3世紀の卑弥呼の倭国は5世紀の「倭の五王」のときまでに大和に経略された、としその理由を『日華文化交流史』次のように述べています。

魏志に見える我が国との通交については古来歴史家の考証が多いが、この南朝との交渉については歴史家の考証はほとんど見られない。

これは、晋が新たに遼西に起こった鮮卑のために、倭国と中国との通交をふさぎ、また一方では、北九州の倭国が大和朝廷の治下に帰した結果であろう。

鮮卑が起こり中国王朝は朝鮮半島の支配権を失い、高句麗・新羅・百済の三国が支配することになった。

大和朝廷は神武から開化の九代までは畿内中心であり、北九州の倭国とは政治上全く没交渉であったと思われる。

崇神天皇時代のころから勢いは次第に西の方に伸びて、ついには倭国をも併合したものと思われる。それは旧唐書に「日本はもと小国、倭国の地を併合した」とある。ただ、その併合がいつ行われたのか定めにくいことではあるが。

国史(日本書紀)には、北九州の倭国を併合したという痕跡らしい物語をみとめることはできない。

しかし、日韓交通上の要衝の地であるからこの地を治めていなければ、朝鮮半島と直接に政治的関係を築くことができない筈である。大和朝廷は次第次第に倭国を経略したものと思われる。

応神記に良馬が贈られた記事がある百済は高句麗の圧力に抗するために、半島の一角に勢力を樹立した大和朝廷に好を通じておこうとしたものであろう。

神功皇后の新羅征伐は信用しがたいとしても、高句麗の広開土王陵碑の碑文からみても、わが軍が高句麗と交戦したのは間違いない。

我が国の新羅に対する政策は、常に任那におけるわが勢力を維持するためだったのである。

大和朝廷は、まず倭国を経略し、任那を保護するために新羅に圧力を加え、百済はわが方に朝貢するようになったのである。

この結果、百済を通じて我が国はさらに中国南朝とも通交するようになったのである。このことはなぜかわが国史には欠けているが宋書にいくつもの記事が残っている。

この宋書にある「倭国」とは以前の北九州の倭ではなく、大和朝廷を指していることは、中国史書を通読すればあきらかである。】


このように、大和朝廷がどのようにして「倭国」を経略したかは『日本書紀』などには見えないし、綬爵の記事もなぜか欠けている、とし、しかし中国史書を通読すれば、『宋書』のいう倭国は大和朝廷であることは明らか、と書いています。

それが分からないのは、中国の史書の読み方が不足しているのだ。『旧唐書』には、日本はもと小国、倭国を併せた、と書いてあるのだ、と読者の読み方の不十分さの責にしているような文章です。

 

 ④津田左右吉

以上の三人は東京帝大と京都帝大という官学に関係しているという点では共通点があります。私学の雄、早稲田大学の歴史学の中心に居たのが津田左右吉です。

官学の制約から離れて比較的自由な論考を発表しています。建国についての論評や聖徳太子実在の疑問などから不敬罪にあたると攻撃されたり、著書4冊の発禁処分を受けた。1942年に皇室の尊厳を冒とくしたとして起訴された。(のち時効により免訴)


津田左右吉は、『記・紀』の4世紀以前の記述は、6世紀の朝廷の官員の創作として歴史叙述とするのは間違い、として戦後の日本史をリードしました。

しかし、彼の古代史史観は、かれが師事した白鳥庫吉とほぼ同様の史観です。

津田左右吉は早稲田専門学校の卒業で早稲田亜ぢ鄂の教授をとぉ長く務めたのですが、自分は所謂早稲田色の人間ではない白鳥先生が多忙で書肆の著作の願望をかなえることが出来なかった折に自分が代筆した、とも語っています。

彼の古代史史観と白鳥庫吉との関係を紹介しておきます。

(イ)早稲田と自分、及び白鳥庫吉との関係について

『学究生活五十年』1951年(昭和26年)『思想』319号 より抜粋

【明治23年に早大の前身の東京専門学校に入り1年半ばかりいて卒業したが、特に何を勉強したということもなく、本を読んで、特に上の野図書館でいろいろと読んだ。のりながの『古訓古事記』や『日本書紀』も読んだが、読んだと言うだけで特に内容は記憶にない。白鳥先生とふとした縁で出会いお宅にお邪魔するようになった。先生はまだ大学を出て3,4年位であったが、お願いすると学習院の書物も借り出してくださった。白鳥先生がリース先生のこうぎの筆記をお借りして通読もさせて頂いた。先生が明日庶子の懇請を断り切れず教科書の編修を引き受けられ、ぼくに一つの仕事をさせようという心づかいか、先生の大体の高宗に従って草稿を作り先生のお宅に伺ってはその検討を乞い、分厚い者が出来上がった先生の名をはずかしめることになりはしないか、と心配したものである。先生のお世話に依り満鉄の中に「満韓史」の研究室を作られそこで仕事をし、大正元年ごろ満鉄の都合で打ち切られた。それから早稲田大学で講義をするようになった。
むかし東京専門学校に学生として籍はおいたが、その後は何ら「早稲田」とはそこの教授諸子とも何ら交渉もなく、学校や学問のことからいうとむしろ帝大の方につながりがあったといえよう。早稲田の講義は1940年(昭和15年)にやめた。】


(ロ)津田左右吉の古代史史観(『建国の事情と万世一系の思想』より)


日本民族の存在が明らかに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。(中略)

日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今のキュウシュウの西北部に当る地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、当時その地方にひろがって来ていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。(中略)シナの文物をうけ入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。キュウシュウ地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀に世紀をとおして変わることなく行われたが、その間の関係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識がますます多くなると共に、それを得ようとする欲求も強くなり、その欲求の為に船舶を派遣する君主の数も多くなった。鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。ところが三世紀になると、文化上の関係がさらにふかくなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは付近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主をいあつしようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬台、今の筑後の山門か)の女王として伝えられているヒミコがそれである。当時、このヤマトの君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。

(九州地方で得られた知識などは)瀬戸内海の航路によって、早くから近畿地方に伝えられ、一、二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、それにはその地域を領有する政治勢力の存在が友なっていたことが考えられる。そのヤマト(大和)が何時からの存在であり、どうしてうちたてられたのかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう経路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいったような勢力として存在したらしい。(中略)

三世紀にはその領土が次第にひろがって、瀬戸内・・・・(中略) 

しかし三世紀においては、イズモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、九州地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。

けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆され、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところhがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。

この勢いの一歩を進めたのが、四世紀後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによって我が国と我が国と半島とに新しい事態が生じた。そうして半島を通じてヤマトの朝廷にとりいれられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、従ってまた一つの国家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。ただキュウシュウの南半、即ちいわゆるクマソの地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が服属した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの国家の範囲に入っていたことが、推察される。それは即ちほぼ今のカントウからシナノを経てエチゴの中部地方に至るまでである。

以上の四人の論述をまとめますと、内藤湖南は、歴史は国内資料を中心に読む従来の研究方針は間違っている、外国の資料も研究の対象にしなくてはならない、と述べています。しかし、どういつ事件で国内資料と外国資料とが食い違う場合どうしても国内資料第一で見てしまっている感じがします。

白鳥庫吉も、久米安武の系列の国史論で、卑弥呼の評価が内藤湖南と違っているというところです。

木宮泰彦は古代の倭国は北九州の倭国としながらも「倭の五王」や「隋」と通交したのも倭朝廷であり特記には朝鮮半島の日本歩の長官が倭朝廷の意を戴して中国と通交したのだ、としています。

津田左右吉は、『記・紀』の神代部分や崇神天皇までの記述は6世紀の史官の創作として斥けます。5世紀ごろまでにヤマト(近畿)がヤマト(邪馬台)を吸収した。「倭の五王も大和朝廷の大王としています。


この論も「邪馬臺国」を「台」という略字で表し、「ヤマト」と読ませる、という音韻上の問題があるのですが、津田左右吉は知ってか知らずか、「䑓=ト」という仮定のもとに成り立っている論です。「䑓=ト」が成り立たなければ、つまり砂上の楼閣のようにもろい立論なのですが、どなたも(後年の古田武彦を除いて)指摘しなかった、というのは我が国の歴史学が如何に非科学的な基盤の上に成り立っているのかを教えてくれます。

以上、明治維新から太平洋戦争敗戦までの「タリシヒコの謎」を中心に歴史家の代表的な四人の学者の古代史史観を見て来ました。しかしながら、江戸時代の、国学・儒学・宗教家などの影響を受けながらも、九州に大和と別の倭国が存在したのではないか、という論は明治に入り影をひそめ、4,5世紀ごろからは九州地方もt大和朝廷の勢力範囲となり、『僧諸』にある「倭の五王」や「隋書」に見える「日出づる処の天子云々」の国書も大和朝廷が出されたという方向になって行きます。ただ、「古代史の謎」は「邪馬台国と卑弥呼女王」だけというとkろで野論争が花を咲かせたというのが戦前の日本古代史研究の概観であったようです。

やはり明治の天皇親政システムのもとではいろいろと精神的な制約があったようです。この点について、白鳥庫吉の弟子を自称されている津田左右吉の経歴と明治以降の国史研究の環境についての文章を紹介して戦後の古代史学会に入ることにします。




第三部 敗戦以後の国史研究の中でのタリシヒコの謎解き

そして、太平洋戦争の敗戦により、1946年元旦に昭和天皇の天皇は現人神ではないという趣旨の「人間宣言」がなされ、大日本帝国憲法が1947年5月3日に日本国憲法の発布により廃止されます。

日本は神国なり、の軛〈くびき〉から解き放され、歴史研究の花が開きます。津田左右吉ももう遠慮なく『記・紀』の神話は歴史ではない、6世紀ごろに史官が国の創立物語を創作したのだ、ということを遠慮なく主張できるようになります。

その先頭になったのが江上波夫の『騎馬民族征服王朝説』でしょう。高句麗から南下した騎馬民族が4世紀のころ日本に上陸して建てた王朝が大和王朝の始まり、というものでひと昔前なら大問題になったこと間違いなしの説です。ただ、江上波夫は、卑弥呼は南方の中国からの影響がある倭人で、その国を騎馬民族が征服し大和朝廷を建てた、とされます。

その後については井上光貞氏の史観にほぼ同調されていて、特に「タリシヒコの謎」に関係する事柄については言及されていません。強いて探せば、推古朝の厩戸王子が皇太子の時代、また、斉明天皇時代には中大兄皇子が実権を握っていたように、上代では皇太子が天皇に代わって政治を行うということが多かった、ということを述べている位です。

 

従って、今回「タリシヒコの謎」に取り上げる方々は、下記の11項目に分けて各々の「タリシヒコの謎」についての説明を観ていきます。

 

(1)『記・紀』の上代の記事は6世紀の史官の創作と説かれた津田左右吉、

(2)戦後の唯物史観による見方の代表とされる石母田正

(3)東大の正統歴史観と自負される井上光貞

(4)井上史観と違う非主流の立場での日本史、家永三郎

(5)郡評論争で弟子の井上氏に敗れたとされる坂本太郎

(6)岩波書店のオーソドックスな古代史書の解釈の石原道博

(7)邪馬台国と太宰府の係わりを論じた長沼賢海

(8)鶴峯戊申以来の倭国論を展開した古田武彦

(9)最近の古代通史を発表した熊谷公男・大津透

(10)聖徳太子は存在しなかったという大山誠一

(11)日中歴史共同研究の古代史担当委員

(12)皇族の一員として古代史論を展開する竹田恒泰

 

 

1)津田左右吉

 

戦前の歴史学者の泰斗の評の高い津田左右吉氏は、記紀に書かれている神話記述は大和朝廷の役人たちが天皇家の権威をたかめるために机上で創作したとして全体として信用できないという説を唱えた。これにより、日本神話を軽視する流れが生まれた。日本のマルクス主義歴史学はこの系譜から生み出されている。しかし、れんだいこの受け止め方は違う。津田史学の本意は、近代天皇制による当時の日本神話に対する皇国史観的歪曲理解を批判することに主眼があったのであり、日本神話の否定自体が目的であったのではないと理解すべきではなかろうか。実際の津田史学については知らないので舌鋒が鈍るが、津田史学はかく理解される時にのみ価値があり、日本神話否定論を唱えていたとしたら歴史の屑かごに入れられるべきであろう。

 

マルクス主義的歴史研究も提唱され石母田正が主導者とされる。

津田左右吉にしても石母田正にしても、いずれも歴史教育は戦前の教育を受けているわけであり、その中ではぐくみながらも神国のクビキで発表もままならなかったのが、一斉に花が開いたのである。

 

 第六章 戦後のタリシホコ論

『騎馬民族国家』

家永三郎『検定不合格日本史』三一書房 1963?

石母田正『古代国家の成立』日本歴史叢書 岩波書店 1971年1月

古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社 1973年

直木孝次郎『日本の歴史② 古代国家の成立』中公文庫 1973年

坂本太郎『人物叢書178 聖徳太子』吉川弘文館 1979年12月

石原道博『新訂魏志倭人伝他三篇』岩波文庫 1985年

安本美典『虚妄の九州王朝』1995年

上田正昭『上田正昭著作集7 歴史と人物』 1999年9月5日 角川書店

熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』 講談社 2001年1

井上光貞『飛鳥の朝廷』講談社学術文庫2004年7月

大山誠一『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫 2005年

吉田孝『日本の誕生』岩波新書 2006年

小島毅『父が子に語る日本史』トランスビュー社 2008年

小和田哲男『日本の歴史がわかる本』(古代~南北朝)篇2010年

大津透『天皇の歴史01』講談社 2011年

王 勇「日中歴史共同研究報告」中国側委員 2012年

川本芳昭「 同上 」日本国側委員 2012年

 

〈小説家やアマチュア史家〉

関裕二『聖徳太子は蘇我馬子である』 ワニ文庫1999年

小林惠子〈こばやし やすこ〉『古代興亡史』文芸春秋社 2004年

斉藤忠『倭国と日本古代史の謎』 学研M文庫 2006年

武蔵義弘『抹殺された倭の五王』2007?年

兼川晋『百済の王統と日本の古代』 不知火書房 2008年

竹田恒泰『旧皇族が語る天皇の日本史』PHP新書 2008年

加来耕三『日本史「常識」はウソだらけ』祥伝社黄金文庫2013年

 

 

(取捨選択の要あり)