多利思北孤考『タリシヒコの謎に挑んだ人たち』新しい歴史教科書(古代史)研究会
目次
はじめに
第一章 教科書にみるタリシヒコ
第二章 我が国古代の歴史書の記述について
第三章 中世までのタリシヒコ論
第四章 近世におけるタリシヒコ論
(以上第一部 今回発表分)
第五章 明治~大正期のタリシヒコ論
第六章 敗戦後のタリシホ(ヒ)コ論
おわりに
このタリシホコ論は、2014年8月にO氏が中心になられてドニエプル出版から『阿毎・多利思北孤』が出されました。その頃に故古田武彦さんに対して、「それに加えてタリシホコがなぜ日本の歴史上に見られない今のような姿になってしまったのか、を、まとめたらどうでしょう」と申し上げたら、「是非おやんなさい」と尻を叩かれたのを思い出します。 それからボツボツと書き継いで来てはいるのですが、このように早く先生と幽明境を異にしてしまうとは思いもよらず、先日の追悼式に出席しても先生にご報告出来ませんでした。
いちおう、江戸時代までの原稿はまとまっていましたので、遅ればせながら「第一部」として江戸時代末までを、ホームページ上で発表することにしました。
古代史に詳しい先学の方々を差し置いて、タリシホコ考などおこがましいと思われることでしょうが、蛮勇を振るってアップします。 (2016年1月19日 棟上寅七 記)
はじめに
日本の歴史には沢山の謎があります。
たとえば、高天原というところから神様が降りて来て日本の国土をつくった、とか、出雲のでは神様が綱を付けて国土を引きよせたなどの日本の神話が『日本書紀』や『古事記』という古代に編さんされた書物に書かれていますが、そのような話はみんな根も葉もないお話なのでしょうか。
文字の発達が早かった中国では、紀元前一〇世紀以上の昔から、その時代の書物が数多く残されています。そのうちの一つ三世紀のころの三国時代について描かれている『三国志』には、当時の日本列島から中国の洛陽と言う所に使者を送ったという話が出てきます。そうです、「卑弥呼」という女王が倭人の国を治めていた、というお話なのです。
ところが、日本の史書にはそのころ倭の女王が使いを送った、という話は残っていません。日本国内の伝承にある、その時代日本の国を治めていた神功皇后の話ではないか、と『日本書紀』に書かれています。
しかし、なぜ輝ける女王卑弥呼とその後継者壱与という女王たちの記録が伝承されていないのでしょうか。それ以前の大王達の活躍の伝承は『日本書紀』や『古事記』にはちゃんと残っているのに、不思議なのです。
その卑弥呼の時代から百年余の後に、中国の史書『宋書』には倭国の王達が中国の宋の皇帝に遣いを使わして、臣下の礼をとった、それも五代にわたって、と、その国書も併せて記録されています。宋の皇帝はその忠誠心を愛でて、例えば倭王武には、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という大層な役職称号を与えています。
ところが、これらも日本の史書には全く記録されていないのです、なぜでしょうか?これも大きな謎です。これらの卑弥呼や、倭の五王の謎は、記録された国内の史料がありません。
まだ日本には漢字で記録を残すことが少なかったから、ということもあるのかもしれません。
では、もう少し時代が下って、『古事記』や『日本書紀』が編さんされた時代にはもうそのような、食い違いはなくなっているのでしょうか。
中国の史書に我が国と中国との国交について描かれている七世紀初頭の隋国との交流の記録はどうでしょうか?
八世紀に書かれた『隋書』に、中国の隋帝国に日本列島から使者を派遣した「多利思北孤」王の話が記録されています。
『日本書紀』が編纂された頃には隋朝は滅び唐朝の時代となっています。既に遣唐使などの派遣も始まっている時代です。
この遣唐使派遣の初期のころの時代については『日本書紀』にこと細かく記録されています。中国の史書『隋書』にも「俀〈たい〉国伝」としてその時代の多利思北孤王の国のことがこと細かに記されています。
ところが、『日本書紀』には「俀国」という国のことも、「多利思北孤」という王の名も全く記録にないのです。
文字記録能力が不十分で記録にのこっていないのだろう、という推測はもはや通用しない時代の事です。中国と日本双方に記録があるのです。それなのに解けない謎が存在している事自体も不思議に思われることでしょう。
◆教科書の記述について
しかし次のように現在でも高校の日本史の先生方には、生徒にどのようにこの隋国と我が国の通交の記録について教えるのかとまどいがあるようなのです。
高校時代に日本史を学ばなかった方、学んでも昔のことで忘れた方も多いかと思いますので、当時の中国と国内の状況についておさらいをしておきましょう。
高校の日本史の教科には日本史Aと日本史Bの二通りの科目があります。前者は主に理系進学希望者に、後者は文系進学希望者に習得させるためのもので、前者の方が後者よりも深度が浅いといえるでしょう。
例えば日本史Aの教科書(第一学習社 外園豊基ほか)での、問題の推古天皇と同時代の中国の隋朝あたりとの関係の著述を見ておきましょう。
【六世紀末に、女帝の推古天皇が即位すると、厩戸王〈うまやどのおう〉(聖徳太子)は、蘇我馬子〈そがのうまこ〉と協力して天皇を中心とする中央主権国家の建設をめざした。また、遣隋使を派遣して、中国のすすんだ文化を取りいれようとした。この時代、都のおかれた大和の飛鳥〈あすか〉を中心に本格的な仏教文化が栄えた】
と、これだけです。
それに補助として年表が挿入されています。そこに挙げられているのは、「593年厩戸王摂政となる」と「607年小野妹子らを遣隋使として派遣」の二項目が書かれているのみです。多利思北孤王など全く登場していません。このことは、高校生の半分の人、約半数の国民にとっては「タリシヒコWHO?」となっていることを意味します。これは、我が国の歴史認識にとって重大な問題です。
もう少し詳しく書かれている日本史Bの方の教科書(山川教科書『詳説 日本史B』石井進ほか)では「タリシヒコ」がでてきて、次のような説明となっています。
【五八九年に中国で隋(五八一~六一八年)が南北朝を統一し、高句麗などの周辺地域に進出しはじめると、東アジアは激動の時代をむかえた。
国内では大臣蘇我馬子が五八七年に大連〈おおむらじ〉の物部守屋〈もののべのもりや〉を滅ぼし、五九二年には崇峻〈すしゅん〉天皇を暗殺して政治権力をにぎった。そして敏達〈びたつ〉天皇の后〈きさき〉推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王〈うまやどおう〉(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成につとめた。
六〇三年には冠位十二階、翌六〇四年には憲法十七条が定められた】
この本文に加えて、遣隋使について囲み記事で『隋書』と『日本書紀』の説明が紹介されています。
遣隋使の派遣
【開皇〈かいこう〉二〇年(六〇〇年)、倭王あり、姓は阿毎〈あめ〉、字〈あざな〉は多利思比孤〈たりしひこ〉、阿輩雞弥〈おおきみ〉と号す。使いを遣わして闕に詣〈いた〉る。上〈しょう〉(隋の文帝)、所司をしてその風俗を訪〈と〉わしむ。 (『隋書』倭国伝)
(推古天皇一五年(六〇七年)秋五月三日、大礼小野臣妹子を大唐〈もろこし〉に遣わす。鞍作〈くらつくり〉福利を以て通事〈おさ〉(通訳)とす。 (『日本書紀』)
大業三年(隋の年号、六〇七年)其の王多利思比孤〈たりしひこ〉(「たらしひこ(足彦)」は男性の天皇につけられるよび名であるが、何天皇をさすか不明)、使い(遣隋使小野妹子)を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞くならく、海西の菩薩天子(煬帝をさす)、重ねて仏法を興すと。故〈かれ〉、遣して朝拝せしめ、兼ねて沙門〈しゃもん〉(僧侶)数十人、来りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と。帝、之を覧〈み〉て悦〈よろこ〉ばず、鴻臚卿〈こうろけい〉(外国に関する事務、朝貢のことなどを取り扱う官)に謂〈い〉ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる有らば、復〈ま〉た以て聞〈ぶん〉する勿〈なか〉れ」と】 (『隋書』倭国伝 原漢文)
何も問題がないじゃないか、と思われる方もいらっしゃることでしょう。では、これらの教科書の記事にどこに謎があるのか、次の、この教科書を解説している予備校ではどのように受験生を指導されているのか、この隋朝との交流史のあたりを説明されているところから読みとることができます。
第一章 教科書に見るタリシヒコ
『石川 日本史B 講義の実況中継』石川晶康著 語学春秋社刊 という大学受験生に向けての日本史解説本があります。
石川先生は、予備校の歴史担当の先生の内で最も人気のある先生のようです。本の奥書やネット情報によりますと、
【石川 晶康〈いしかわ あきやす〉先生は、河合塾日本史科講師、同主任。関東圏で東大クラスや早慶大クラスを担当する。また、多数の参考書を出版している。サテライト講座などの映像を使った授業の先駆者でもある。
一九四六年東京都生まれ國學院大學大学院博士課程満期退学(専門は日本法制史・古文書学)】とあります。
石川先生は、教科書を受験生の頭の中に入れる作業を担当されているわけですから、教える内容がおかしいよ、といわれてもご自分の責任では決してありません。むしろ、理性では、理解できない歴史の定説なるものを、生徒に教えなければならない”とまどい”がその講義録から窺えます。
例えば、四世紀に現在の中国東北地方に建てられた高句麗の好太王碑文のなかの「倭」について次のように述べられています。
【考えてみれば変な話だね。日本国内では何が起こったかは文字史料ではわからないんだけれど、今の中国に碑が立っていて、大和政権の軍が攻めてきたことが記録されているわけですからね】
つまり、『日本書記』などの日本の史書にまったく記載されていないのはどうもおかしいのですが、という感じで石川先生は説明されているわけです。
続いて七世紀の隋朝との交流記録については次のように述べられます。
(『隋書』俀国伝に出てくる、俀王多利思北孤について)六〇〇年に「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号す云々・・」 倭王が使いを送ってきた。「阿毎」、「多利思比孤」は天皇(大王)と考えておくしかない。(中略)文帝は役人に日本の様子を尋ねさせた。 日本側には記録がないので、詳しくはわかりません。この時の倭王、倭の支配者は推古天皇ですけどね。使者の名もよくわからないし書いてあるのはただこれだけ。
つまり、日本の史書によれば、推古天皇は女性であり、『隋書』によれば、このタリシヒコ王は男王です。中国史書との矛盾がある教科書の解釈を生徒に押し付けることへの、石川先生の戸惑いも露わな忸怩たる思いが伝わって来ます。
石川先生も、アメのタリシヒコについての推古天皇王朝の誰に当てはめるか、ということの難しさを知っていらっしゃるのでしょう、「天皇と考えておくしかない」とか、「この時の支配者は推古天皇ですけどね」、とか苦しい表現をされています。
単に多利思北孤だけが謎ではないのです。関連して多利思北孤に関連する謎には、前掲の教科書の記述の中からだけでも次のようなものがあげられます。
教科書に紹介されている『隋書』の記事、と、『日本書紀』の同時代の記事だけからも簡単には解けない謎が見られるのです。
①『隋書』には王の名前が多利思北孤〈タリシホコ〉とあり、教科書の多利思比孤〈タリシヒコ〉ではないこと。(のちに編さんされた『北史』には多利思比孤とありますが)
② 多利思比孤〈タリシヒコ〉としても、それに該当する名前の天皇が見当たらないこと。
③ 多利思北孤王は男性ですが当時の天皇は推古天皇であり、女帝であること。
④『隋書』には、隋の煬帝を怒らせたという多利思北孤の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」とありますが、『日本書紀』には記載がないこと。
それに、教科書ではカットされていますが、『隋書』俀国伝によりますと(巻末に参考資料として掲載しておきます)まだまだたくさんの謎があります。
⑤『隋書』によると、先ず、史書『隋書』に紹介されている国の名前です。教科書では『隋書』「倭国伝」として紹介されています。ところが『隋書』の原文には「俀〈たい〉国」とあり「倭国」ではないということ。(ただし、後世の史書『北史』には倭国となっていますが。)
⑥ 多利思北孤王には妻、雞彌がいて、利歌彌多弗利という王子がいる、と『隋書』にはありますが、我が国の朝廷に該当する人物が見当たらないこと。
⑦ 多利思北孤王の執務状況を使者が隋の文帝に説明しています。俀王は夜が明ける前に結跏趺坐してマツリゴトを聴き、夜が明けると弟に任せる、というように兄弟執政をとっているとみられるような描写が記されています。しかし、我が国にはそのような記録はありません。
⑧ 隋の使者裵世清は、『隋書』によれば、俀国を訪問し俀国王に面談しています。しかし、『日本書紀』によれば、裵世清は推古天皇に国書を提出しましたが面会はしていません。
⑨『隋書』によれば、その後、隋国と俀国とは「遂に絶つ」と国交が途絶えたと記されていますが、『日本書紀』によれば、その後も遣使が続いています。
⑩その他、『隋書』が記す俀国の冠位や官職名などが日本側の記録に合わないことや、名が違うなど多くの問題があります。
このように、七世紀半ばに編纂された『隋書』と、八世紀初めに編纂された『日本書紀』ですが、両書とも、著述された直近の事柄も記録しているにもかかわらず、両国に係わる事件についてこれほど数々の辻褄の合わぬ「謎」があることについて、世の識者はどのように謎を解き、辻褄を合せたのか、ということを見て行きたいと思います。
しかし、以上のように数多くの謎を見て行くのも大変ですから、一番の謎、基本的な謎「多利思北孤は誰か」を中心に、古今の識者の意見を見ていきます。
そして、その謎を解いた方々が、あとの沢山の謎という多元方程式をうまく解けるのか、を検証していきたいと思います。
ところで、教科書を監修的立場からの基準としている文部省の「学習指導要綱」では、どのようにこの「タリシホコ」の謎について言及しているのか、していないのか、気になるところです。
指導要綱という無味乾燥の文章ですから、ここで全文を紹介しますと、読んでいただく読者の方の感興を削ぐことになることでしょうから、巻末に参考として掲げる事にします。隋朝との関わりについては、「原始・古代の社会・文化と東アジア」という項目で次のように書いてあるところだけを紹介します。
◆我が国における国家の形成と律令体制の確立の過程、隋・唐など東アジア世界との交流に着目して、古代国家の展開と古墳文化、天平文化などの文化の特色について理解させる。
◆古代国家の展開については、小国の形成から邪馬台国によるそれらの連合を経て大和朝廷の統一に至る国家の形成の過程と、その後の中央集権的な律令体制の確立の過程に注目して、大和朝廷の国内統一、律令体制の成立から奈良時代にいたる政治の動向、及び律令に基づく土地と人々に対する統治の体制が整備されてきたことを理解させる。
◆その際、東アジア世界と我が国との関係や、遣隋使、遣唐使などによってもたらされた文物・制度の影響にも着目して、多面的・多角的にとらえさせる。
つまり教科書はこのような記述に、という大枠がはめられているのです。一読すると、教科書の執筆者もかなり自由に真実に近いと思われる歴史叙述ができると思われますが、現実には石川先生が戸惑うような謎の多い教科書の叙述となっているのです。
なぜなのだろうか調べてみよう、というのがこの本の目的ともなります。
第二章 我が国古代の歴史書の記述は
では、日本の古代からの歴史書にこの隋朝との交流がどのように記述されているのでしょうか。
まず『古事記』ではどうでしょうか。
古事記はご存じの方も多いと思いますが、序文によると、太安麻呂が「飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇〈すめらみこと〉」(天武天皇)が「削偽定実」で歴史を正せという命令で作業にかかったが、天武天皇の逝去(六八六年)で中断した。元明天皇の時代になって再度の詔勅により和銅五年(七一二年)に完成された(古事記序文より)ということです。
しかし、古事記は「古事」とされる推古天皇(古事記によると六二六年没)の時代まで記述されているが、わずか四十七文字に過ぎません。
(原文)
【妹豊御食炊屋比売命坐小治田宮治天下参拾漆歳。戊子年三月十五日葵丑日崩。御陵在大野岡上後遷科長大陵也】
(口語訳)
【(崇峻天皇が亡くなり)妹の「とよみけかしぎやひめのみこと」が小治田宮〈おはりだにみや〉にてわが国を三十七年間治められた。戊子の年の三月十五日、葵丑の日に亡くなられた。その御陵は大野の岡の上にありましたが、後に科長〈しなが〉の大きな御陵に遷した】
このように、全く推古天皇時代の事跡については述べられていません。この時代の立役者聖徳太子については、推古天皇の二代前の用明天皇の項に
【庶妹間人穴太部王との間に上宮の厩戸豊聡耳命が生まれた】
という記事があるだけで「聖徳太子」という名前は出ていません。
つまり『古事記』はその選録された時点より約百年前の継体天皇(『古事記』によれば五二七年没)のころから先代旧辞といわれる事蹟記述部分が全くなくなり、帝皇日継という天皇の系列や墓地などのみの記載となっています。
その理由について現代の学者は、「古事記という題名からして、神代から古代まで、天武天皇の百年前の継体天皇までを取り扱い、その後の推古天皇までは、古事の範囲でないから系譜だけの採録となったのであろう」と解釈しているようですが、ちょっとしっくりしません。なぜ編集を命じた天武天皇のところまで記載しなかったのか、という疑問も出てきます。
では次に、『日本書紀』には隋朝との交流について、どのような記録が残されているのでしょうか。
この『日本書紀』は元正天皇の時代七二〇年に舎人親王によって編纂されたといわれています。ここには数多くの中国との交流がかかれています。しかし不思議なことに、『日本書紀』に「隋国」とか「隋朝」という語は全く見えません。すべて「大唐」と記されています。
(詳しくは巻末に参考資料として「『日本書紀』に見る中国との通行記事」関係記事を記載する予定です)
『隋書』に記載のある、中国側からの使者裵世清について、それらに関する記事は『日本書紀』には書かれています。従って、この推古朝あたりの時期の日中両国の交流は、中国の史書と日本の史書双方に記載がありますので、この時代に日中交流があったことは確かです。
この双方の史書、『隋書』と『日本書紀』との記述を比較してみます。
表1 隋と我が国との交流記事比較表
六〇〇年(推古八) 俀〈たい〉国タリシホコ王隋朝に遣使
『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし
六〇七年(大業三) タリシホコ「日出づる処の天子」の国書持参の遣使
『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし
六〇七年(推古一五)小野妹子を中国に派遣
『日本書紀』にあるが『隋書』には記事なし
六〇八年(大業四) 中国が使者裴世清を派遣
『隋書』によると、裴世清はタリシホコと面談している。
『日本書紀』によると、裴世清が「皇帝倭皇に問う」の国書を届ける。推古天皇は面会していない。
六〇八年の のち 『隋書』に「遂に絶つ」の記事が出ている。
が、『日本書紀』には関係する記事なし。
六一〇年(大業六)『隋書』に倭国朝貢(俀国ではない)
『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし。
六一四年(推古二二) 推古天皇犬上御田鋤を大唐に派遣
『日本書紀』に記事はあるが『隋書』に記事なし。
六一八年 隋の滅亡(唐の建国)『日本書紀』に記載なし
この表を見れば、何が一番問題なのか、タリシホコとは誰なのか、ということが基本的問題ということがおわかりになるかと思います。また、『日本書紀』には「遣隋使」という言葉も、「隋国」という中国の王朝名も出てこない(新羅と中国との関係での記事には「隋の煬帝」が一度だけ出てきますが)ことも不思議です。
しかし、『日本書紀』をいくら読み返してもこれらの謎は解けないようです。次の中世の諸賢人はどのようにこの謎に対応したのか、を見ていきましょう。
第三章 中世までのタリシヒコ論
1・ブックロード
まず、古代からの日中間の書物を通じての交流について述べておきたいと思います。七~九世紀の日中間の交流は遣隋使・遣唐使による交流が最も大きい機会であったことは間違いありません。
この十数回にわたる遣唐使たちが何を手土産に持ち帰ったかについては、『旧唐書』に興味ある記事があります。
【唐の玄宗の開元の初めのころ、日本は使者を送ってきた(注 この時の使者は日本の養老年の遣唐使で主使は多治比縣守)。かれは儒者に経を習い、入門料として日本から持参した白布を贈った。その白布には「調布」とあったが、日本に「調」の制度があるのかと疑った。この使者は、中国の皇帝からもらった賜物の全てをなげうって書籍を購入し帰国した】
とあります。
ついでにいいますと、この時の遣唐使のなかに阿倍仲麻呂がいて、帰国せず中国の官途につき、書物を愛し故国に帰らせようとしても帰らず中国に留まった、とも『旧唐書』に記録されています。
二十一世紀に入って日中歴史共同研究が日中双方から委員を出して行われました。その成果として日中双方の報告がまとめられ二〇一二年に発表されています。(外務省のホームページで読むことができます。また、槍玉その52でその批評を読むことができます。)
そのなかで中国側の委員王勇氏が次のように、日中間はシルクロードならぬブックロードが存在した、というような発表をされています。
大まかに紹介しますと、一つには遣唐使たちが土産品として何よりも書物を購入し持ち帰ったこと。それらの内の中国には現存しない貴重な書物が奈良の正倉院に保管されていることなどを、「正倉院珍宝」「遣唐使の使命」「書籍東伝の道」「漢文典籍の還流」の項を立てて述べています。ここでは最後の「漢文典籍の還流」の結語的部分を紹介しましょう。
【上にあげたいくつかの実例は、ブックロードを通じて大量の中国典籍が日本に東伝したのみならず、少ないながらも日本の典籍が中国に逆流した、ということを説明するのに用いたのである。これはすなわち、このブックロードが双方向に通じていたことをしめしている。
実際、中国は安史の乱と会昌の毀仏があったことによって、文物典籍の散逸は深刻であった。五代十国の時代(唐の滅亡から北宋の建国までの九〇七~九六〇年の時代)に、呉越国の天台僧義寂が宗門の復興を図ろうとし、また経蔵の無いことを嘆いた。ついに呉越王の銭弘俶が大金を出し、使者を海外に派遣して書を求めさせたところ、高麗の諦観と日本の日延が要求に応じて書を送ってきた。こうした散逸した書の回帰は清朝の末期から民国の初期にかけて幾度も高まりを見せ、大量の文化遺産がそっくりそのまま戻ってきた】
古代~近世の書籍の交流から見て、日中間はシルクロードでつながっているのではなくブックロードで繋がっていたといえる、と述べています。(槍玉その52「日中歴史共同研究」を参照ください)
2・日本の史書編纂に与えた影響
このように中国側の史書が多数日本の知識階層にもたらされ、『日本書紀』などの編さんにさいして、彼我の古代からの歴史のすり合わせが行われたことは間違いないことでしょう。
数多い中国史書のうち、我が国の状況を記している三世紀以降の記述がある史書を、時系列的に整理しておきますと次のようになります。
・『三国志』の編さん
西晋代の陳寿の撰によって、魏・蜀・呉の三国時代について書かれています。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代です。成立時期は西晋による三国統一後の二八〇年以降とされます。ちなみに撰者の陳寿の没年は二九七年です。
・『後漢書』の編さん
後漢滅亡から二百年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著しています。『東観漢記』、東晋の袁宏の『後漢紀』など、他にも数多く、これを八家後漢書などともいわれています。
現在正史とされているのは、それら八家後漢書を総合したといわれる南朝宋の范曄の作の『後漢書』です。
成立は南朝宋の時代で、編述は范曄の没年四四五年より数年以前の四四〇年ごろかと思われます。
・『宋書』の編さん
南朝宋の歴史を記したもの。南朝梁の沈約らが斉の武帝の勅によって撰し四八八年に完成しています。
・『梁書』の編さん
中国,南朝梁の正史。唐の姚思廉の撰によるもので、六三六年頃成立といわれています。
・『翰苑』の編さん
唐の張楚金によって六六〇年ごろ書かれたとされますが、現在は蕃夷部のみが大宰府天満宮に残っています。隋の時代に関する情報は若干残っています。
・『隋書』の編さん
我が国の情報が記載されている東夷伝は『隋書』の列伝第四十六巻にあります。唐の太宗の勅命により魏徴らが六三六年に完成させました。「志」という通史の分を含む全巻の完成は二〇年後、高宗の時です。
・『北史』の編さん
南北朝の北朝に関する歴史書。『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』を総合している書とされますが、それらの史書に無い記事も多く含まれています。唐の李延寿によって六五九年に完成しています。
・『旧唐書』の編さん
唐は六一八年に建国し九〇七年に滅んでいます。その一国史として唐書(旧唐書)が完成したのは九四五年です。
以上は中国の記録です。これらの史書が編纂され出版されて、やがて、我が国の知識階級に届いたことでしょう。
ところで我が国の史書編さんの時期は次のとおりです。
・『古事記』の編さん
太安万侶により七一二年に完成し元命天皇に献上されました。しかし、古事記序文によると、太安万侶は天武天皇の勅命により編纂に着手した旨述べています。天武天皇の在位は六七三~六八六年ですから、『古事記』編纂の着手は」六八〇年代あたりと思われます。
・『日本書紀』の編さん
舎人親王の撰により神代から持統天皇までを記録しています。七二〇年に完成しています。
・『続日本紀』の編さん
七九七年に菅野直道によって完成されました。文武天皇元年(六三七年)から桓武天皇が没した七九一年の時代までを記述しています。
『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』が編纂された七世紀から八世紀に派遣された遣唐使の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に記載されています。
607年 小野妹子
614年 犬上御田鋤
630年 犬上御田鋤
653年 吉士長丹
654年 高向玄理
703年 粟田真人
716年 多治比真人縣守
以上の事から判断されることは、『古事記』や『日本書紀』を編さんした人たちの手元には、充分に中国の当時の漢籍を遣唐使や新羅使などから手に入れていたことでしょう。
今問題にしているタリシホコ関係の「隋朝」関係の漢籍類、『隋書』や『北史』はもちろんのこと、『翰苑』にも何らかの記事があったかもしれません。
しかし、問題の「隋朝に使者を送ったタリシホコ」について言及している記事は、『古事記』にはもちろん『日本書紀』やその後の正史『続日本紀』にも全く見当たりません。
『古事記』の編さんは六八〇年代に着手としますと、正に唐との和平が成立した直後となります。「推古天皇」までを『古事記』は扱っていますのに、この時代に活躍した(と思われる)タリシホコが全く姿を見せていません。
『日本書紀』には我が国から出した国書について、その内容が記録されていますが、中国の史書に記載されているタリシホコの国書「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙なきや」は全く姿を見せていないのです。
つまり、日本の史書の編纂者は、タリシホコなる人物が中国の史書に書かれていることを知っていながら、日本の史書に載せていないのです。
推定しますに、ひとつには、タリシホコなる人物を自国の人物ととらえていなかった、のではなかったか。簡単な話、自分たちの王朝、自分たちの国の人間ではなかったので記載しなかったのではないでしょうか。
もうひとつは、タリシホコを自国の歴史に組み込むわけにはいかなかったのではないのか、ということも想像できますし、その双方の理由から、ということも考えられます。
それは、『古事記』などの編さん作業開始直前といってもよい、六六三年には白村江で唐と新羅の連合軍に我が国と旧百済残党の連合軍が戦って敗れた、という大事件が起きているのです。
『日本書紀』の記述によれば、唐軍の代表として郭務悰は六七二年まで筑紫に駐留しているのです。
唐軍に逆らった一統にタリシホコ一族が関わっていた、それらが自分たちと同盟していた歴史の叙述は不可能だった、自己規制が働いた、ということではなかったのかという推測も、あながち不当とは言えないでしょう。
最終的に日本の国史として編纂された『日本書紀』の講読が官僚に対して行われた、という記事が『続日本紀』にあります。その後の官僚ふくめ国民全体が『日本書紀』が示す歴史判断には従わねばならなくなったのは間違いないことでしょう。
養老五年(七二一年)に官僚に対して最初の講読会が開かれ、その後、記録が残っているものだけでも、厚保二年(九六五年)まで計七回が記録されています。
このように、タリシホコを『日本書紀』が載せなかったことによって、我が国の歴史上の最大の謎、「タリシホコの謎」としてが残されてしまったのです。
3・中世におけるタリシヒコ論
中世に至ってもタリシホコの謎についての状況は変わりません。むしろ、『日本書紀』の記述に精神的にもタガがはめられてしまっているようです。長年にわたって行われた『日本書紀』の講読会の効果でしょうか、日本は世界に冠たる神の国だ、ということに統一されていったようです。
現在までに残されている中世に著わされた、少ない歴史書のひとつに、北畠親房の『神皇正統記』があります。
北畠親房は鎌倉幕府が滅び南北朝となった時代に活躍した公卿です。一二九三年生まれ、一三五四年に没しています。つまり十四世紀中頃にこの本は書かれています。
神皇正統記と題されたこの書物は、まず大日本は神の国である、「大日本者神国也」というフレーズで始まる歴史書です。
この書物は、南朝の後村上天皇の教育係りでもあった親房が、南朝が正統の王朝であることの所以〈ゆえん〉を説いた書物と言われています。
初めの文章は次のように続きます。
【皇祖が初めてこの国の基礎をさだめ、その日神がながらくその系統を続けている。これはこの国のみにみられることで、外国にはそのような例はない。だから我が国を神国というのだ】
というように『日本書紀』の第一巻~第二巻の「神代紀」の記述をそのまま歴史的事実として、後村上天皇の時代までを書き述べています。
そして、隋国の時代にあたると思われる推古朝に中国と日本との交流記事が述べられています。
【唐書によると、高宗の時に倭国の使いがきて初めて「日本」と国の名前を告げた。それによると、その日本という国は東にあって、日の出るところに近い」と言ったと書いてある。
しかし、この倭国の使いのことは我が国の記録では確かめられない。
推古天皇の時に、中国の隋朝より使いがあり、その使者がもたらした国書には「倭皇」と書いてあった。聖徳太子が自ら筆を取って、「東の天皇が西の皇帝に申す」と返書を書かれた。
向こうからは「倭皇」と書いてあったが、返書には「日本」とも「倭」とも書かれなかった。推古朝より以前には国書の類が来たという記録はない。
唐の高宗の時代は天智天皇の代にあたる。実際には、このころより「日本」と国の名を書いて国書を送られていたのであろう】
親房はこのあたりの中国の政情についても次のように解説しています。
この推古朝のころというのは、中国では隋の世であった。中国はこれまで南北朝に分かれていた。南朝は正統の王朝を受け継いでいて、北朝は北方の蛮族より興ったのであるが、中国を治めたのは北朝であった。
北朝の後周を隋が禅譲を受け、南朝の陳を滅ぼして隋の世となった。推古天皇の元年は隋の文帝の四年にあたる。また、推古十三年は隋の煬帝の即位元年にあたる。この年に隋国より初めて我が国に使いをよこし友好通交がはじまった。
隋帝の国書に、「皇帝は倭皇おうかがいする」とあった。これを推古朝の群臣は、「これは中国の天子が諸国の王侯に出す書式ではないか」と疑問視したが、聖徳太子は、「皇という語はそうたやすく用いる語ではない」と斥け、返書を書き様々のもてなしを使者に与えて国に帰した。
これ以降、我が国からも定常的に使いを派遣するようになった。その使いを遣隋大使と名付けられたが、推古二七年に隋が滅んで唐の世になった。(参考資料として巻末に原文を掲載する予定です。)
以上のように親房は隋と我が国との通交について概観しています。しかし、肝腎の「タリシホコ」のことも、「日出づる処の天子云々」の国書のことも全く触れられていません。
想像ですが、『日本書紀』の記述は正しいと信じる親房にとって、『日本書紀』に記載の全くないこれらの中国の史書の記述には、眉に唾を付けて読んだものと思われます。しかし、親房のこの著述態度はそれなりに一貫しています。
『日本書紀』に記述のある我が国からの返書には、『日本書紀』に記載のある「西の皇帝に東の天皇が云々」の国書については述べても「日出づる処の天子、日没するところの天子に申す、恙無きや」という日中対等の立場を現したとされ、『日本書紀』に記録がなくても捨てるのが惜しいのでしょう、聖徳太子が出したのだ、とする現代の論者と違ってこの名文句を黙殺しています。
第四章 近世におけるタリシヒコ論
近世、特に徳川幕府の泰平の世の三百年間、江戸文化といわれる各種の文芸が発展します。
歴史探究の書もたくさんの民間人や水戸光圀のような殿さまも史書『大日本史』を編纂される時代となりました。中国も唐から後梁~宋~元~明と代わり、多くの歴史書も著され、それらの漢籍も参照しながら多くの歴史についての書物が著されました。
その中の代表的なものとして、本居宣長の『馭戎慨言』、松下見林『異称日本伝』を取り上げたいと思います。
水戸光圀の『大日本史』は天皇の正統を中心に論じたものです。『続日本紀』につづく、六国史の最後『三代実録』が取り扱ったあとの時代からの事を論じています。
北畠親房の『神皇正統記』に類似点の多い歴史書で、天皇の系統を論じていて南朝を正統とし、後世にも大きな影響を与えたとされます。
また中国では『隋書』のあと、新旧の『唐書』が編纂されました。特に『新唐書』の記述には『日本書紀』の記述内容と似通っているところが多く、日本側の歴史認識内容が中国側に伝わったと思われます。タリシホコの問題も『隋書』をベースとした『旧唐書』の記述から変わっています。
『新唐書』のタリシホコ関係の記事の概略を紹介しておきます。
◆『新唐書』の内容
(原文は巻末に参考資料として掲載する予定です)
『新唐書』のタリシホコに関係する部分の抄訳は次のようなものです。
『新唐書』巻二二〇 東夷伝日本 より
【日本はいにしえの倭奴国である。都を去ること一万四千里。新羅の東南にあって海中の島々に住んでいる。(中略)その王の姓は阿毎氏である。(神代の系譜、神武天皇から累代の天皇の系譜を述べている 中略)敏達の次用明。用明はまた、目多利思比孤といい、隋の開皇年代の末に中国と初めて通じた。次欽明、次崇峻。崇峻の死後、孫娘推古が立つ。次舒明、次皇極・・(以下略)】
ここで注目されるのが、推古天皇より三代前の用明天皇を「目多利思比孤」と書いてあることです。しかし、以下に紹介する松下見林や本居宣長には、中国史書の誤りとみたのか、目多利思比孤についての論評はみえません。
本居宣長は、間違いの多い中国史書の記述の例として、『新唐書』には用明天皇を多利思比孤とあることを挙げています。しかし、『新唐書』には「目多利思比孤」と「目」が付いているのですが、宣長は無視しています。この「目」の問題については、後で検討することにし、まず『異称日本伝』を見てみます。
◆『異称日本伝』松下見林著に見えるタリシヒコ
松下見林という人は江戸時代中期の十七世紀後半の人で一七〇三年に亡くなっています。
当時は五代将軍徳川綱吉の時代です。綱吉は「生類憐れみの令」で「犬公方」などと悪名が高いようです。しかしこの頃は、徳川幕府開府のころの戦国時代の気風が抜けて、儒学を基にした政治の世になり、綱吉将軍も学問好きとして知られています。このよう太平の世の中を騒がせたのが、元禄十五年(一七〇二年)の赤穂浪士の吉良邸討ち入りでした。
そのような時代に大阪に生まれ(一六三七年)京都で学び、学者であり医者でもあった(儒医というそうですが)松下見林が著したのが『異称日本伝』です。
『異称日本伝』は中国および朝鮮半島の歴史書から我が国についての記事を取り上げて、著者の観点から意見を述べたもので、元禄元年(一六八八年)に完成されたものです。具体的にいいますと、松下見林は、中国および朝鮮の史書の我が国に関する記事を紹介し、それに対して自分の解釈を述べています。
その中の「タリシホコ」に関係する見林の記述を抄訳的に紹介します。
松下見林は、タリシヒコについては、『隋書』ではなく『北史』列伝第八十二の中の末尾にある「倭国」条を紹介し、その後に続いて、「今按ずるに・・・」と自分の意見を述べています。 『北史』のタリシホコに関係する記事は、前にも述べましたが、「多利思北孤」ではなく「多利思比孤」となっています。松下見林は『北史』の「多利思比孤」を取り上げて、それが我が国の誰にあたるかを論じています。
この『隋書』の「多利思北孤」をとるか、『北史』の「多利思比孤」をとるか、という問題が江戸時代から存在していたことが分かります。 なぜ見林が「多利思北孤」ではなく「多利思比孤」を選んだのか、それには二つの理由が考えられます。 一つには、『北史』の方が三〇年ほど後の編さんであり、『北史』の編さん者が検討した結果、『隋書』の「北」は「比」のの誤りとして正したのであろうからそれに従う。
次に、「多利思北孤」では「タリシホコ」であり我が国の古代人名に当てはめにくいが、「多利思比孤」だと「タリシヒコ」であり「帯彦」「足彦」など類似名称があること。 ということから、タリシヒコを採用したものと思われます。
尚、近年の「日中歴史共同研究」において、中国側の論文では、「多利思北孤」でも「多利思比孤」でも、「北」と「比」は似ているからどちらかが間違っているだろうが、さしたる問題ではない、としています。 また、基本的に後世に出された記述の方が、後世の賢人学者の考えが入っているのでその方が正しいのではないか、とも述べています。(槍玉その52、『日中歴史共同研究報告書』批評を参照ください。)
さて松下見林が「多利思比孤」の謎に対してどのように意見を述べているかということを紹介します。
結論からいいますと、
「多利思比孤」は舒明天皇である。その號「阿輩雞彌」というのは推古天皇のことである。と、ちょっとわかりにくい説明をしています。
その理由を次のように述べています。
【多利思比孤〈たりしひこ〉は舒明天皇である。その諱〈いみな〉息長足日廣額〈おきなかたらしひひろぬか〉が誤って伝えられ、多利思比孤〈たりしひこ〉と書き遺されている。
隋の開皇二十年は我国の推古天皇八年に当たる。舒明天皇は推古天皇の後の王である。これが混乱されて、號が阿輩雞彌とつたえられた。ちなみに推古天皇の諱〈いみな〉は豊御食〈みけ〉炊屋姫である。これが誤って伝わったのだ】 (原文は参考資料として巻末に掲載予定)
これはちょっと強引なこじつけと思われます。タリシヒコが男王であることは間違いないようなので、推古天皇とすることはできないし、近くの天皇として舒明天皇としたのでしょう。幸い、諱に「タラシ」という言葉がはいっているというので、無理にこじつけたのでしょう。
妻の雞彌が推古ならまだ少しは筋がとおりますが、「みけ」を「阿輩雞彌〈あはきみ?〉」と混同した、というのはずいぶんの無理筋です。タリシヒコの號をせめて推古天皇にもこじつけておきたいという気持ちの表れでしょう。つまり、推古天皇およびその周りの天皇方であるはず、という考えがあって、その方針で理屈付けした結果が、「タリシヒコ=舒明+推古」という結論になった。その理屈に合わないところは、「誤伝」という言葉でカバーしている、ということでしょう。
まあ、『日本書紀』に答えを探さざるをえないので、それに合う答えが見つからない場合は、中国の史書の方が誤っている、という方向になったのでしょう。
この見林の「人物比定」の手法については約百年後、本居宣長によって批判されることになります。 また、本論からは外れますが、松下見林はこの書で、三世紀の『魏志』に見られる「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤りで、これは「大和国」の事だとしています。
続いて本居宣長のタリシホコ論に移ります。
◆『馭戎慨言』〈ぎょじゅうがいげん〉にみるタリシヒコ論
本居宣長(一七三〇~一八〇二年)は伊勢の松阪の人で医者であり学者でした。『古事記』の解説書『古事記伝』の著作でも有名です。
今回の『馭戎慨言』は一七七八年に完成し、一七九六年に刊行されています。本の名は「からおさめのうれたみごと」と訓じるそうですが、その意味は、「戎〈えびす〉」つまり西方の異民族である中国や朝鮮を、我が国が馭す、つまり統率すべきなのに、と慨嘆しつつ論じる、ということです。
この『馭戎慨言』が取り上げている時期は、古代から豊臣秀吉時代までです。内容には、卑弥呼や倭の五王問題も取り上げられていますが、今回は、タリシホコ問題を中心に以下に抄訳して紹介します。
【・隋との国交のはじまりは、『隋書』にある、開皇二十年に、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号して阿輩雞弥と称する者が、使いを遣わして天帝の宮殿に参上し・・・・・この後遂に途絶えた」と中国の史書にあるのは間違い。『日本書紀』にあるように推古八年の遣使が隋との国交の始まりである。
・総じて中国の史書にはでたらめが多い。これらの記述を詳細に検討することなく真実と思い込んでいるのは嘆かわしい。ただ『新唐書』はそれまでの史書と異なり、タリシヒコを用明天皇とし、開皇の末に中国と通じた、としている。
「開皇」は間違っているが、隋より国交が始まると言っているのは真実だ。唐になって遣唐使が話したのを聞いたのだろう。我が国の古代の伝承も『日本書紀』にあるように推古朝の遣使を唐〈カラ〉国との通行の始めとしているのである。
・大業三年は推古十五年である。この年の使いは小野妹子で、わが国の遣使の最初である。
・中国は隋の代なのに、『書紀』に、「大唐に遣わす」と書かれているのは、この後すぐ隋は滅び、『書紀』が編さんされた頃は唐の代だったので、その時の名を前にも通用させているのである。
・「多利思比孤〈タリシヒコ〉」とは、「足彦〈タラシヒコ〉」と思われる。これを『唐書』に、用明天皇としているのは、時代も違い、用明天皇がそのように名乗ったという記録もない。
推古天皇は女性で、このような名をお持ちになるはずもない。「開皇」の時代に遣使したことも『書紀』には見えない。
・よく考えてみると、開皇二十年に遣使したのは、神功皇后の頃にもあったように、西の辺境にいる者の仕業であろう。
・「姓は阿毎、字は多利思比孤」とは、偽って「天足彦〈あめたらしひこ〉」と名乗ったのであろう。各代の天皇の名に多くタラシヒコの例がる。その上に「アメ」とまで言って、天皇の使いを偽装したのだろう。
・「号して阿輩雞弥〈あはけみ〉という」、とは、『唐類函』では、「その国は阿輩雞弥と号した。中国語の天皇である」と言っている。これらも皆偽って言っている。
ところが隋では、これを本当のわが国の大君だと思い込んでいたために、その後七年を経て大業三年に本当の遣隋使が訪れたときにも、依然として以前と同じ大君の世に違いないと思って、文書を扱う役人が当て推量で以前の名「タリシヒコ」と記録したのであろう。
・「日出づる処の天子」と書かれた国書は『書紀』には載っていないが、まさしくその通りであったろう。中国では、後世のいくつかの書物にも引用されていて名高い。」
第一にわが国は、天照大御神の国であり、この世にほかに匹敵する国はない。だから、中国の王などに詔書をお与えになるのであれば、「天皇が隋国王に勅す」などとなっているべきなのだ。
それなのに、この時先方までをも「天子」と、礼をお尽くしになることは過ぎたことなのだ。しかし、聖徳太子が深く望んだこと(仏教を興隆させるという)があっての遣使なのだから、あまり先方の心を傷つけるべきではない。
だから面白くはないことだが、「天子」と敬った形の国書をお与えになるというようなことは、有り得たと思う。
・天皇が裵世清にいった言葉として『隋書』に、「私は夷人で、海の片隅で田舎住まいをしていて」などとあるのは捏造である。
「日出づる処の天子」といった天皇が、こんなことをいう筈がない。あの国書と適合しないことから推測できるのは、使者の報告がウソであったことである。「私は夷人云々」の言葉も、「清は答えて言った」以下の言葉も皆、自国に帰って中国の王が喜ぶように創作してウソをついたのをそのまま記録したものだ。
・二度目の詔書で、「日出づる処の天子」を「東の天皇」に、「日没する処の天子」を「西の皇帝」に改めたのは、始めの書で、かの王が不機嫌になったことが聞こえてきたために、少しだけ変えて改めて礼を尽くしたのだ】
以上『馭戎慨言』に見える本居宣長の主張の概略を紹介しました。(巻末に参考資料として関係個所の全文を記載する予定です)
宣長の主張について
以上のように宣長は、推古天皇は女性であり、全くタリシヒコには該当しない。タリシヒコは三世紀に卑弥呼と称して中国と通交したとされる、西方の辺境の者の仕業としています。これについては、中国史書と国内史書との齟齬が消え、問題は解消します。
次に、
【「姓は阿毎、字は多利思比孤」とは、その者が「天足彦〈あめのたらしひこ〉」と偽っていったのだろう。「足彦」というのは、各代の天皇の名に多くの例があって、普通の人がむやみに名付ける筈がないのに、その上「天〈あめ〉」とまで言っているのは、天皇の使いを偽装するためだったのであろう】
という主張は、上記の「西方の辺境の者の仕業」という仮説に立てば、そのような推測になるのもうなずける、といえましょう。
ただ、『日本書紀』など日本の史書と合わないところは中国史書のあやまりとしています。
現在の私たちの眼からすると、宣長の判断基準、「内尊外卑」とでも言えるようなところは異常な感じがしますが、当時としてはそれが当たり前のことだったのでしょう。
中国の史書には『新唐書』になってはじめて日本の歴代の天皇の系譜が掲載され、国の名も「倭」から「日本」として掲載されています。それ以前の史書の我が国の状況の記述には誤りが多い、という見方を宣長はしているようです。
タリシヒコは大和朝廷の者ではない、としながらも、「日出づる処の天子日没する処の天子に書を致す、恙無きや」という名文句で始まる国書は、『日本書紀』になくても、聖徳太子が書いた(筈の)ものだ、としています。
宣長も、この名文句までもが「西の辺境の者の仕業」として捨て去るには忍びなく、中国の多くの史書に掲載されているから、と理屈に合わない屁理屈をつけて、聖徳太子が出したということにしたのでしょうが、首尾一貫していない宣長の態度だと批判されるべきでしょう。
最後のフレーズ「遂に絶つ」というように、国交が絶えたと思わせるような語句については、「遣隋使が終わった」、という意味にとっているようです。『隋書』の記述の文意からは、国交が終わった、ととれるのに宣長が特に気に留めていないのはすっきりしない感じです。
ところで、本居宣長は、この『馭戎慨言』で、松下見林の見方を批判しているところがあります。
それは、五世紀の中国と我が国との通交があったことを記している『宋書』の記事についてのところです。
タリシホコ論とはちょっと外れますが、この問題も、中国の史書に記載があって『日本書紀』に記載のない謎、「倭の五王」の謎です。
『宋書』や『南書』では、四二一年に倭王讃が上表文を送ってきた、とか、讃の次に弟の珍が継ぎ、「安東大将軍倭国王」に叙した。四四三年には済が朝貢してきた。四五一年に「使持節都督、倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」の称号を倭国王に加えた、等あります。
済の後継ぎに興が立ち、興の死後弟の武が立ち上表文を送ってきた。この倭王武に対しても時の順帝は、武を「使持節都督、倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍」に任じた、と大層きらびやかな叙勲記事が並んでいます。
それについて、松下見林は、時代が合うからと、讃を履中天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇に比定しています。しかし、それぞれの代に中国に使者を派遣したことやましてそのような称号を受けたなどある筈もない。これは朝鮮の日本府の長官などが策略をめぐらして行ったものであろう、など、朝鮮半島の各国と我が国の歴代の王朝の間でいろいろ貢物の不行き届きなどでのトラブルがあったことなどの記録を示してその根拠とし、松下見林の見方を否定しています。
本居宣長は、三世紀の卑弥呼の遣使は「西の辺境の者の仕業」、五世紀の倭の五王たちは「朝鮮にあった日本府の長官の仕業」、七世紀のタリシヒコは「西の辺境の者の仕業」と一貫していません。
もし、これが一貫して「西の辺境の者の仕業」ということにすれば、我が国が古来一元的に天皇によって支配されていたことを否定する結果になることに思い至って、倭の五王を「西の辺境の者の仕業」としなかったのではないか、という推測も成り立ちます。
◆鶴峯戊申の『襲国偽僭考』について
タリシヒコに直接触れているのではありませんが、卑弥呼以来九州に小王朝があったとする流れにも触れておきます。
宣長の約50年後の学者、鶴峯戊申(1788~1859)は、宣長の「熊襲の女酋が神功皇后の名を騙って中国と通交した」という説をもう一歩進め『襲国偽僭考』を著します。
鶴峯戊申は大分臼杵の神官の家に生まれ、多くの著作を残しています。なかでも19歳の時に著した『襲国偽僭考』は後世の歴史家に多くの影響を与えたとされます。
倭国は熊襲の国であり、その『襲国偽僭考』で、古代九州に「襲国」「襲人」と称する政治勢力が存在したことを主張しました。鶴峯によると、彼らは養老五年に滅亡するまで、漢字を用い、中国王朝に朝貢し、自ら年号を立てた。ここでは、近畿天皇家をさしおいて自ら「王」と名乗るような行為が「偽僭」であるとされています。
また、鶴峯は古写本『九州年号』による、その国の年号を示し、その痕跡が『如是院年代記』、『麗気記私抄』、『海東諸国記』などに年号の異説を紹介しています。
後年古田武彦氏は『失われた九州王朝』(1973年)のなかで鶴峯戊申を次のように紹介しています。
【鶴峯戊申は、宣長の偽僭論を発展させて九州に存在したはずの小王朝の実在を明かすことに、情熱を注いだ。そして鶴峯は自著『襲国偽僭考』のなかで「九州年号」の概念を提出した。
継体天皇十六年。武王、年号を立て善記とした。これが九州年号のはじめである。 九州年号は善記より大長にいたるまで、約177年間続いている。ただ、いくつかの史書に記載されているが若干の異同がある。
そして、終末の大長について、次のように結ばれている。 文武天皇二年を大長元年とす。九州年号はここにて終わる。今引用している事柄は「九州年号」と題した古写本によるものである。】(『失われた九州王朝』九州年号の発掘より要約)
この鶴峯戊申は明治の学界にも大きな影響を与えています。
明治の代表的な歴史学者内藤湖南は、鶴峯戊申の影響が大きかったことについて、その著『卑弥呼考』のなかで次のように述べています。 『卑弥呼考』(1929年)より抜粋して紹介)
内藤湖南は『卑弥呼考』で旧来の論を整理しているのですが、 その中で、
【本居宣長の『馭戎慨言』を基にするような歴史家が多い。本居宣長の説を一歩進めた、鶴峯戊申の『襲国偽僭考』は、襲国とは呉の太伯の裔の姫姓の国である。
年号も持ち8世紀初めまで続いた、とした。この説はかなりの有力な説とし影響が大きい。 明治以降も大体その鶴峯説の影響下にあり、菅政友『漢籍倭人考』・吉田東伍『日韓古史斷』・那珂通世『日本上古年代考』・久米邦武『日本上古史』など、全て「九州の女酋説」である。久米氏に至っては、もう邪馬臺の考証時代は過ぎた、とまで言うに至った。
しかし自分が検討した結果は、魏志倭人伝の邪馬臺とは大和朝廷であり卑弥呼は倭姫命である】
このように述べて、鶴峯以下の九州女酋説を退けています。
◆近藤芳樹のタリシヒコ論
本居宣長~鶴峯戊申という流れを汲む江戸末期の学者に山口周防の近藤芳樹(1801生~1880没)がいます。
明治の著名な歴史学者久米邦武は「邪馬台国の国王の居住地は筑紫の内に求めるべきである。近藤芳樹氏の『征韓起源』は、邪馬台は、肥後国菊池郡山門郷であるとのべられているが、その見識は透徹したものというべきである。(中略)邪馬台国について考証を行う時代はすでに通過したその地を探検すべき時期に移っている。」とまで評価している。
その近藤芳樹が、鶴峯戊申が言及することのなかったタリシヒコについて『征韓起源』で次のように述べています。
『隋書』について考える。
開皇二十年、倭皇の姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞彌と号しているものが、隋の都に使いをつかわしてきた。
とある。これも『日本書紀』その他の文献に全く所見がない。やはり熊襲が遣わした使者なのであろう。
また、「姓は阿毎、字は多利思比孤」といっているのは、天皇の名前が天足彦〈あまたらしひこ〉をとって自らの名であると偽ったのであろう。
此の時のことを本居宣長は『馭戎慨言』でくわしくその理由を述べている。(中略)
『隋書』に、倭国の書に「太陽が昇る当方の国の天子が、太陽の沈む邦の天子に書信をさしあげる。無事でお変わりないか。云々」と。
煬帝は、この国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿に言った。「蛮夷の書に、無礼なところがある。二度と奏上することのないように」。
この国書は日本の記録には漏れている。
当時は厩戸皇子〈うまやどのみこ〉が摂政をし、中国の文物が華やかであるのを輸入して、わが国の朝儀を飾ろうと考えられていたころのことである。
特に皇子は仏法を深く信心しておられ、その書をわが国にもたらそうという考えが切であったので、隋王の憤怒をひきおこさないように中国をそれほどまでにはさげすんだりはなさらなかった。
つまり、タリシヒコという名で使いを遣ったのは熊襲の王である。
「日出づる処の天子云々の書を見て喜ばなかった」というのは、中国はこれまで熊襲の王である「倭の五王」たちが臣従していたのに慣れて、大八州を治める天皇を知らなかったので驚いたのであろう。
この書を悦ばなかったのももっともなことであったろう。しかし、それは隋王が内々に鴻臚卿に述べた言葉で、当方の使者に対して無礼であることを直接咎めたのではない。
と苦しい解釈をしています。
◆『新唐書』の「目多利思比孤」について
また、『新唐書』に見える「目多利思比孤」の「目」について宣長は無視しています。しかし、「目」という漢字の意味を考えると、とても無視してよいとは思えません。
「目」には頭目とか名目などに「目」が用いられます。古代の我が国では国司の下に「目」〈さかん〉という地位もあります。名目などの意味では名代に通じるのです。
〈さかん〉および〈さっか〉という和訓を持つ漢字には「目」以外に「属」もあります。目多利思比孤とは多利思比孤一族という意味もある可能性があります。『新唐書』の編者は、我が国から用明天皇が多利思比孤王の名代の意味で「目」を付けた可能性は否定できないと思われます。
最初の遣使六〇〇年には、俀王多利思北孤が四十代の壮年であったとすれば、『日本書紀』の記述が正しいとしますと、用明天皇の没年五八七年のころは三十才前の青年王者であった可能性があります。
用明天皇は、在位二年余の短期間でしたから、没年は、『神皇正統記』によると四一歳とあるので、十歳前後用明の方が年上だったということになります。しかし、両者の力関係からでしょうか、用明が多利思比孤の名代的な地位にあったともとれる『新唐書』の記述です。
近藤芳樹は若干違う解釈をしています。【『新唐書』の目多利思比孤は、阿目多利思比孤の「阿」が脱落したのであろう。あも・たりしひこ=天足彦のことである】と。
◆江戸時代のタリシヒコ論のまとめ
ところで、江戸時代のもう一つ外国との関わりを書いた書物に『日本外史』という頼山陽の本があります。
この本が江戸末期の尊王攘夷の風潮に大きな影響を与えたとされますが、この本が取り扱っているのは平安時代末期の源氏と平家の争い以降の歴史であり、残念ながら、奈良時代については述べられていません。
一応これまで見てきた明治時代以前のタリシホコ論のおさらいをしておきます。
・『隋書』の多利思北孤は間違いで、『北史』など後世の史書にある多利思比孤が正しい
・どちらにしても日本の記録には無い
・タリシヒコは足彦や帯彦という古代天皇によく用いられた名前
・タリシヒコは舒明天皇説・推古天皇説・用明天皇説・西の辺境の者(熊襲)説
・「日出づる処云々・・」の国書を出したのは、推古天皇説・聖徳太子説
しかし、どれも問題をすべてクリヤーとはいきません。辛うじて本居宣長が「タリシヒコは大和王朝の人物ではない」という主張が、『隋書』の記事と『日本書紀』の記事との矛盾を解消出来るようにも思えます。しかし、「日出づる処の天子云々」のタリシホコがもたらした、という国書は聖徳太子のものだろう、ということにしていて論理にほころびがあるようです。
その宣長の説を展開した鶴峯戊申が、九州にも王朝があった、という説が宣長の弱点を補うものと思われるのですが、明治に入って鶴峯説は否定されていくのです。
ということで、引き続いて明治・大正期の議論を見て行きます。
(第一部 終わり 第五章以降は次回に )
第五章 明治維新から太平洋戦争終戦後までのタリシヒコ論について
(予定項目)
明治になりますと明治天皇が国史編纂の勅命を出されます。(完成できず)
また、憲法制定に伴って法律の整備も進み、「不敬罪」も制定され(明治十三年1880制定)、皇統の研究発表には注意が払われねばならなくなります。( 有名なのは東京帝大美濃部達吉の「天皇機関説」にたいする不敬罪告発です。)
天皇制を支える官僚組織を充実させるためにその教育機関として大学も整備されていきます。
そのような時代背景もあり、民間の学者が自由に研究出来た江戸時代と違った歴史研究環境となってきます。それをよくあらわしているものが「朕惟フニワガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・」ではじまる教育勅語でしょう(明治二十三年1890発布)
内藤湖南の意見 『卑弥呼考』雑誌芸文 1910年
白鳥庫吉の意見『国史 昭和天皇の教科書』 2015年
木宮泰彦の意見 『日中交通史』1926年
第六章 戦後のタリシホ(ヒ)コ論
検討する予定の史家など
家永三郎『検定不合格日本史』三一書房 1963年
石母田正『古代国家の成立』日本歴史叢書 岩波書店 1971年1月
古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社 1973年
直木孝次郎『日本の歴史② 古代国家の成立』中公文庫 1973年
坂本太郎『人物叢書178 聖徳太子』吉川弘文館 1979年12月
石原道博『新訂魏志倭人伝他三篇』岩波文庫 1985年
安本美典『虚妄の九州王朝』1995年
上田正昭『上田正昭著作集7 歴史と人物』 1999年9月5日 角川書店
熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』 講談社 2001年1月
井上光貞『飛鳥の朝廷』講談社学術文庫2004年7月
大山誠一『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫 2005年
吉田孝『日本の誕生』岩波新書 2006年
小島毅『父が子に語る日本史』トランスビュー社 2008年
小和田哲男『日本の歴史がわかる本』(古代~南北朝)篇2010年
大津透『天皇の歴史01』講談社 2011年
王 勇「日中歴史共同研究報告」中国側委員 2012年
川本芳昭「 同上 」日本国側委員 2012年
〈小説家やアマチュア史家〉
関裕二『聖徳太子は蘇我馬子である』 ワニ文庫1999年
小林惠子〈こばやし やすこ〉『古代興亡史』文芸春秋社 2004年
斉藤忠『倭国と日本古代史の謎』 学研M文庫 2006年
武蔵義弘『抹殺された倭の五王』2007?年
兼川晋『百済の王統と日本の古代』 不知火書房 2008年
竹田恒泰『旧皇族が語る天皇の日本史』PHP新書 2008年
加来耕三『日本史「常識」はウソだらけ』祥伝社黄金文庫2013年
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