槍玉その51 『古代国家はいつ成立したか』 都出比呂志著  岩波新書 2010年刊   文責 棟上寅七


この本について

この本は、右下の表紙の帯に書かれているように「古代歴史文化賞 大賞受賞」作品です。

この受賞について朝日新聞が紹介していましたので、それをお読み頂くと、「賞」のこと及び「著者」についてもお分かりになれるかと思います。

朝日新聞2013年10月16日付の「ひと」欄に、都出比呂志さん(71) 古代歴史文化賞の大賞を受けた大阪大学名誉教授 と次のように紹介されていました。

神話や古代史の主要な舞台である島根、三重、奈良、宮崎の4県が設けた古代歴史文化賞の第1回大賞に、著者の「古代国家はいつ成立したか」(岩波新書)が選ばれた。古代史、古代文化について一般向けに書かれた本に贈られる賞だ。「近所の人からも、『本、読みました』と、言われました」

3歳で大阪大空襲を体験。京都大では文学部自治会委員長で、日米安保反対を叫んだ。遺跡発掘や遺物の観察から歴史を地道に読み解く考古学者でありながら、国家という壮大なテーマに取り組んだのは、この若き日の体験からだ。

授賞作では、7~8世紀の「律令国家」の誕生をもって国家の成立とする定説に対し、最新の考古学での成果を踏まえながら、3~4世紀には前方後円墳をイデオロギーの象徴とする「初期国家」が生まれていたと主張している。

1999年7月、くも膜下出血で倒れた。一命は取り留めたが、後遺症で語るのが難しくなった。ひらがなの書き取り、簡単な足し算からリハビリをはじめて、翌年には大阪大の教壇に復帰。05年の定年退職まで勤め上げた。

受賞作は発病前にテレビの教養番組で語った内容を基に、こつこつとワープロをたたいた。妻の祀子〈よしこ〉さん執筆に寄り添った。
脚力は古墳を上り下りできるほどに回復。発掘現場を訪ね、国のはじまりに思いをはせている
】(文 今井邦彦)

都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』はたして、この朝日新聞の紹介文のいうような本なのか検討させていただきます。


この本を槍玉に上げる理由

古代歴史文化賞大賞受賞という帯の文句につられて、この『古代国家はいつ成立したか』という本を読んでみました。 前回槍玉に上げた松木武彦氏と同じ大阪大学の史学研究科勤務をされ、論旨も殆ど同じです。

ただ、「認知考古学」という手法を前面にだす松木氏と異なり、都出氏の語り口はソフトです。そこが、大賞受賞となったのでしょう。

この本の目的は、「国家がいつ成立したのか」を考古学の成果で解き明かし、それを平易な言葉で説く、ということのようです。

しかし、本を手に取って読んでみますと、考古学の成果によって古代史を解き明かす、というより、近畿一元王朝史観による古代史通説に、考古学の成果を一生懸命合わせようとする著者の立場が見え過ぎていました。

その古代史通史的に都出名誉教授が説かれる内容は、仮説を、そのような説が大勢のようです、として、いくつかの学者の名前をあげ、その後は、その仮説があたかも、確固とした説になりおおせて、都出古代通史となっているのです。

卑弥呼は纏向にいた女王しかり、大和が西日本を制圧したもしかり、倭王武は雄略天皇であるもしかりです。

また、日本古代史の謎、卑弥呼が日本の正史に現れていないこと、外国文献に頻出する「倭国」とはなにか、ワカタケルの鉄剣銘は果たして雄略天皇のことなのか、倭王武は雄略天皇なのか、日出る処の天子多利思北孤王は誰のことなのかなどの疑問に、「考古学者」としての見解が全くといってよいほど見られないこと、それがなぜ古代本大賞となるのか、おかしいじゃないか、ということで「槍玉」に上がってもらうことにしました。


著者について

先に、朝日の「ひと」欄で紹介しましたが、都出比呂志(大阪大学名誉教授)について、本の奥書やWikiなどによりますと次のような経歴の方です。

1942年生まれ。京都大学文学部卒。同大大学院考古学専攻博士課程中退。同大文学部助手を皮きりに滋賀大学~大阪大学で教鞭をとり、1988年大阪大学文学部教授。2003年大阪大学名誉教授、文学博士。

専門は考古学・比較考古学。初期国家論をもとに前方後円墳体制論を提唱したことで有名。第2回浜田青陵賞、第6回雄山閣考古学特別賞。 著書に『日本農耕社会の成立過程』(岩波書店)、『王陵の考古学』(岩波書店)、『前方後円墳と社会』(塙書房)など多数。

この『古代国家はいつ成立したか』を読みますと、直木孝次郎及び白石太一郎の両氏の論調に合っているように思われます。本研究会で「槍玉その47 大津透 天皇の歴史01 神話から歴史へ」を取り上げ、批判した内容と殆んどかぶる問題点だらけです。

内容的には、・縄文~弥生の戦い ・鉄資産の獲得と邪馬台国 ・前方後円墳の発展 などについて力を入れて書かれています。そのあたりを中心に都出古代通史の当否を検討して行くことにします。


この本の構成

一応この『古代国家はいつ成立したか』の内容を紹介するには大変ですから、その目次・項目を紹介します。

第一章 弥生時代をどうみるか
1、環濠集落の時代 纏向遺跡の大型建物・「魏志倭人伝」と邪馬台国・吉野ヶ里遺跡と池上曾根遺跡・環濠集落の盛行する時代・巨大環濠集落は「国邑」・環濠集落の内部・都市的要素の萌芽・環濠集落誕生の背景・中国の城郭都市の影響は?・世界各地の城塞集落・リーダーの居館と墓・
2、倭国の乱 卑弥呼の登場前夜の乱・弥生時代の初期からあった争い・高地性集落の出現・弥生中期の争いの性格・青銅祭器の分布圏・二世紀末の地域割拠と広域動乱・鉄の供給ルートをめぐる覇権争い・卑弥呼共立以後の争い・
3、前方後円墳の源流 前方後円墳とは・北部九州の墳丘墓・畿内の墳丘墓・日本海沿岸の墳丘墓・瀬戸内海沿岸の墳丘墓・前方後円墳と前方後方墳の原形の登場・円丘墓系と方丘墓系のせめぎあい・
第二章 卑弥呼とその時代
1、邪馬台国の登場 大人、下戸、生口・租税と役人・女王と摂政と外交官・邪馬台国九州説・邪馬台国大和説・
2、前方後円墳体制の成立 卑弥呼の墓・前方後円墳と前方後方墳・墳丘と規模に拠る身分表示・
3、三角縁神獣鏡の謎 鏡と古墳築造年・より古い古墳の発見・製作地論争・朝鮮半島情勢からの推論・解明される三角縁神獣鏡・鏡の編年と分布から・
第三章 巨大古墳の時代へ
1、東アジアの大変動 倭王武の上表文・鉄資源と先進文物の確保・四世紀末の大きな前方後円墳・巨大前方後円墳が河内と和泉に・
2、首長系譜の断絶と政変 中央権力の移動と地方首長系譜の変動・一回目の変動・二回目の変動・三回目の変動・倭政権の軍事的性格・吉備と大和・雄略大王、継体大王の性格・
第四章 権力の高まりと古墳の終焉
1、豪族の居館と民衆の村 三ツ寺遺跡の居館・政治と祭祀の空間・開発を指揮した首長・墓の階層化・首長居館と民衆・首長居館の構成・日本のポンペイ、黒井峯遺跡・村落内にも階層分化・租税と大型倉庫・首長の倉庫と農民の倉庫・賦役労働の萌芽・
2、支配組織の整備 稲荷山古墳の鉄剣・軍制と官人制の整備・急進的な中央集権政策・覇権拡大と流通網整備・韓国の前方後円墳・継体大王と磐井の乱・
3、前方後円墳の終焉 横穴式石室と群集墳の急増・家族墓が集合した同族墓・親族関係を探る方法・有力氏族による同族編成・前方後円墳の変質・巨大方墳の登場・
第五章 律令国家の完成へ
1、律令国家と都市 徐々に整えられた律令制・飛鳥京は都市か・藤原京の成立・都市の機能・条坊制は都市の必要条件か・
2、都市の発達 宮殿と首長居館・須恵器、埴輪の生産の場・鉄器加工の開始・交易の市・都市的要素の分散・
第六章 日本列島に国家はいつ成立したか
1、国家を巡る議論 国家成立時期についての様々な考え・エンゲルスとウエーバーの国家論・文化人類学の国家論・国家形成の契機・国家はいつからか・五世紀を画期とする見方・磐井の乱をどう見るか・初期国家は三世紀から・四世紀後半を画期とする説・初期国家と成熟国家との違い・
2、民族形成と国家 共通の仲間意識の形成・必需物資と威信財の流通・民衆レベルの生活様式に共通性・北海道と琉球諸島・古墳時代の六地帯区分・日本人の形成・終りに
あとがきに代えて
わたしの原体験・戦前戦中の考古学会・小林行雄先生・クラッセンとの出会い・考古学と黒田史学・国家の未来・人に支えられて


項目だけの羅列ですから、おわかり難いと思います。蛮勇をふるってまとめてみますと以下の様になろうかと思われます。

全体として、都出氏の史観に流れているのは、「学会定説」に従うところにあります。

◆・年代論としては、日本列島がほぼ同一の時間軸に沿って発展してきている。

◆・卑弥呼は纏向にいて、箸墓は卑弥呼の墓である。

◆・卑弥呼の邪馬台国が西日本を統一した。(東日本は狗奴国)

◆・古墳から出土する三角縁神獣鏡は魏朝から卑弥呼への下賜品である。

◆・考古学者でありながら、倭人伝に出てくる「物」について全くといってよいほど述べない。(矛・大刀・絹及び錦・骨鏃・金など)

◆・その後、五世紀になり、倭の五王の武(雄略天皇)が、中国から独立した。

◆・しかし、武=雄略は稲荷山鉄剣銘の解読の結果とするが、鉄剣の出土状況の疑問点については、疑問の存在すら述べない。

◆・また、武と雄略の歿年が中国史書と日本のそれとが大きく違っていることについても述べない。

◆・そして、三世紀の卑弥呼の初期国家体制は、この雄略の時代に完成すると結論する。


この本の問題点は

以下、都出氏の特異点と思われる所を項目を分けて検討します。

①考古学と文献学についての理解  ②年代論  ③弥生の戦から卑弥呼の都がわかる  ④弥生期の鉄について  ⑤倭人伝の解釈について  ⑥宋書と雄略天皇  ⑦都出氏の古墳論  ⑧都出氏の鏡論について


①考古学と文献学についての理解

◆都出氏は、考古学から出発して、日本列島の国家成立を論じられるまでになられたわけです。しかし、『古代国家はいつ成立したか』を読みますと、文献の理解は学会の定説に全面的によりかかっていて、それに合う考古学の成果のみを援用しているに過ぎないと思えます。 考古学者は、もっと「物」から歴史を語ってもらいたいもの、というのが最初の読後感想でした。

例えば、このような記述がありますが、その説明がどのような論理によってなされているのか、理性的には理解出来ないのです。

【倭人伝の行路記事を伊都国以降を、南を東へ読みかえると、邪馬台国は畿内になる。倭人伝には、卑弥呼と争った大勢力狗奴国があったとするが、これも南を東に読みかえると東海の勢力となる。 中国人の地理認識は、15世紀の混一疆理歴代国都之図にみられるように、日本列島は九州を最北端として南へ連なる列島と認識していた。これは、会稽東冶の東に邪馬台国があったとする記事にも合う。 読み変えた結果が、そのように狗奴国の位置、会稽東冶の記事に合う、ということは、倭人伝の記事を、南を東に読みかえる、という仮説が正しいということである】

そして、【「魏志倭人伝」や「記・紀」等の文献史料のみでは邪馬台国の研究には限界があります】と結びます。

南を東に読みかえる、などいじくりまわす文献研究では確かに邪馬壹国を探し当てるのには限界があるでしょう。 だからといって、考古学者都出比呂志博士が、倭人伝を考古学者としての目で読んでいるのか疑問です。

纏向遺跡を卑弥呼の都とされていますが、その考古学的遺物について、桃の種2700個が出土したことで、卑弥呼の呪術との関係があるのでは、と考えているようでが、その他の遺物としては、弓が出土したことを上げるだけです。

倭人伝に記されている、沢山の当時の「物」、矛や大刀、金八両や絹・織物、それらのかけらも纏向遺跡周辺では見られないことに対して、北部九州の各地では、その「倭人伝」に記されている「物」が遺物として多数出土していることについては一言も述べないのです。依怙贔屓にも度が過ぎているのではないでしょうか?


②年代論

歴史認識の基礎的な問題、「年代論」についての都出氏の認識をまず、見ておこうと思います。

都出さんの本は分りやすいようで実は分り難いのです。例えば、時代判定とC14法についてどう考えているのか、と見てみますと、
【数年前まで、弥生時代は紀元前500年から始まるとされてきました。しかし、生命活動を終えた動植物では、その中に含まれる炭素14が時の経過と共に減るので、有機物の炭素14の残有料を測って、木なら木が伐採された実年代を決定するという、自然科学による測定法が進歩し(AMS法とよばれています)。弥生時代は紀元前1000年に始まるという測定結果が出たことから、この考えを採用する研究者が増えています。本書ではAMS法を支持する森岡秀人氏の説を使用しています】(p8~9)

と書いて、次のような森岡秀人氏による時代区分を掲示しています。

弥生早期   BC1000年~BC 800年
弥生前期   BC 800年~BC 400年
弥生中期   BC 400年~BC  50年
弥生後期   BC  50年~AD 180年
弥生終末期 AD  180年~AD 240年

この文章から、何となくAMS法を全面的に支持されているのか、と思ってしまうのですが、ネットや手持ちの資料では、森岡秀人氏は、AMS法の出す数値について、年代較正を考慮し土器編年とも融合できる時代決定をすべき、という考えをお持ちの方のようです。

『古墳の始まりを考える』(2005年5月 学生社)金関恕・森岡秀人・森下章司・山尾幸久・吉井日出夫共著 では、「新しい年代論と新たなパラダイム」という章をもうけ、森岡先生がその章を担当しています。

この本に次のような各研究者の年代表が掲載されていて興味深く思いました。

この各説について森岡先生が解説されていくのですが、特に、九州の研究者が「弥生早期」を主張する、ということについての発言が、森岡先生の本質かな、と思われますので、その部分を紹介します。

なお、図表左に学者名が入っていますが、本の原図は記号のみです。本の文章の説明から、それぞれの説に名前を寅七が記入したものです。


九州の平均的な年代観は i (九州の研究者)になります。これは九州の弥生時代研究者たちが、大体平均的にとらえている年代表です。特徴的には、弥生の早期を設定しています。AMSの年代が発表されたときも、じつは早期の扱いがちょっと不十分であったな、と思っています。

なぜかといいますと、早期から弥生の始まりと考えて日本列島のエリアを規制すると、近畿というのはなかなか早期をきちっとおさえることがまだ、できていませんので、未解決の部分、汎日本列島としてはまだ容認できない段階を弥生の始まりにもち込んだというふうに思います

古代の年代論が「汎日本列島」で納まらなければいけない、という原則が森岡先生にはあるようです。

ですから、弥生時代の始まりも古墳時代の始まりも、地方によって異なるなど考えられないのでしょう。まして、弥生時代の発達が常に近畿より北部九州の方が先んじていた、それも半世紀以上というタイムスケールで、など到底うけつけられないのでしょう。

近畿が率先して「早期」を示すものが出てくれば、それは結構であり当然という立場のように受け取れるのは、九州人のヒガミでしょうか。

この表では都出比呂志説も掲載されていますが、今回の『古代国家はいつ成立したか』では、自説を出すのは遠慮して、森岡説を採用とされたようです。



◆なお昨年、歴史民族博物館を訪れた時に貰ったパンフレットに下表「炭素14年代測定法にもとづく縄文・弥生文化の年代」が載っていました。

その年代表は明らかに、日本列島内で、九州北部と関東南部の発展段階が異なっていたことを示しています。

この表は、近畿地方との比較をなぜか行っていません。これも興味あるところです。ちなみに、邪馬台国近畿説(つまり西日本全体同時発展説)の元歴史民族博物館教授~副館長であった白石太一郎氏への遠慮があるのではないか、と思うのは邪推でしょうか。


◆なお、九州北部と近畿地方の年代の違いを、九州の研究者と近畿のそれとについて『太宰府は日本の首都だった』で内倉武久氏が表で示しています。
弥生時代年代比較表
古い! 九州の弥生、古墳時代 という項目で次のような説明と共に右の表を掲げています。

【ちょっと注意してほしいのだが、同じ弥生時代といっても、近畿と九州では実年代の考え方が違う。おおむね九州の研究者は「九州は近畿より100年以上古い」とみている。近畿の研究者は「弥生時代後期」というと、だいたい「紀元100年から300年ごろ」と考えるが、九州の研究者は、「紀元0年ごろから200年まで」と考えている】(同書p8~9)

しかし、近畿中心論に固まっていると思われる都出氏には蛙の面に水かも知れません。都出氏は、考古学的出土品が伝える歴史を後世に伝える、ということについて、使命観を持って学の道に志したのではないのですか?


◆年代論に関して言いますと、年代論と鏡の編年とは密接に繋がっているようです。

都出氏は実年代の推定について次のように書きます。

【今では白石(太一郎)氏を始め多くの研究者が、形態や規模等から箸墓を最古の古墳と推定していますが、箸墓は陵墓に指定されており、発掘が許可されないので、副葬された鏡の年代は不明で、前方後円墳の成立時期については決定的な解決はついていません。

鏡は伝世されることがあるので、記銘された鏡の製造年をもって古墳築造の年とすることができません。しかし、古墳築造年の上限の決定には使えます】(同書p72)と至極まっとうなことを述べています。

そして、【京都府椿井大塚山古墳は、古い形式の前方後円墳には分類されますが、出土した32面の三角縁神獣鏡には、一、二、三、四段階の鏡が含まれています。

つまり卑弥呼の死者が三世紀中頃までに持ち帰った古い型式の三角縁神獣鏡の他に、それより30年ほど新しい三、四段階の三角縁神獣鏡も含まれているということです。(四段階の分類は白石太一郎氏による)

当時古墳の築造順を、副葬された鏡の製造年代で探ろうとしていた私は、鏡の製造年代に注目していました。そして椿井大塚山古墳は最古の古墳には該当しないと結論したのです】(同書p73)

このように、ご自分が椿井大塚山古墳の築造年代を副葬された鏡から従来説より”新しい”とされることを言われるのです。

しかし、同じような視線をなぜ、北部九州の墳墓に副葬された鏡による年代設定には応用されないのでしょうか。考古学者として遺物の出土場所に対して先入観からの偏見でもって対象物の年代を判定する、という公平さに欠けた態度を取られていると思えます。

その点において、鏡研究の大御所とも言われる故梅原末治先生が、同じように、福岡県春日市須玖岡本遺跡D地点からの出土した漢鏡について述べていることは都出氏も知っている筈(知らなければ考古学者とはいえない)です。

◆この須玖岡本の虁鳳鏡問題については、「槍玉その48」で『古代九州と東アジア』小田富士雄著の書評で述べていますので今回は割愛しようと思いましたが、骨子だけを再録しておきます。

・須玖岡本遺跡D地点から前漢式鏡が30面前後出土し、一個は虁鳳鏡であること。

・虁鳳鏡は、内外に存在し、この鏡の鋳造の実年代は2世紀後半以降であること。

・従って須玖岡本遺跡の築造実年代は3世紀前半以降であること。

・同様に三雲遺跡の築造年代も見直さなければならない。

この梅原末治氏論文「筑前須玖遺跡出土の虁(キ)鳳鏡について『古代学』8巻」の重要性には見て見ない振りをされ、自分が発見したとされる椿井大塚山の新しさのみ強調されます。これもひとえに、「箸墓=卑弥呼の墓」説を固守せんがためでしょう。あわれというも なかなか おろかなり という蓮如上人の言葉が連想されたと申し上げたら失礼になるでしょうか。

尚、古田武彦氏は須玖岡本の遺物についての梅原末治氏の見解について、検討された結果を述べています。(『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 第二章 邪馬一国から九州王朝へ III 理論考古学の立場から) 
ネットでも読むことができます。URLは次です。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku15/kihouk23.html  


③弥生の戦から卑弥呼の都がわかる


都出比呂志先生は前回槍玉に上げさせていただいた松木武彦氏と同様に、弥生時代の戦いについて考古学上の興味を特に持たれているようです。

【「その国、もと男子をもって王となし、住〈とど〉まること七、八十年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年。そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である」。これは『魏志倭人伝』が語る有名な文章です。(中略) また、「魏志倭人伝」よりのちに編集された『後漢書』は、「桓・霊の間、倭は大いに乱れ」と書きます。桓・霊の間とは後漢の桓帝と霊帝の治世の間の意味で、147年から189年をさします。この記述によると、乱は二世紀後半のこととなります。

この動乱がどの範囲に広がり、誰と誰とが戦ったのかは、当時の日本列島の政治状況の見方を左右します。またそれがわかれば邪馬台国の位置も自ずと判明します】(p25)

と、このように都出史観に拠って邪馬台国の在処もわかる、と、いわんばかりに見得を切っています。


◆都出氏は、弥生時代の戦いの特徴を次のように説明されます。

イ) 弥生時代中期に石鏃・銅鏃・鉄鏃が大型化していること。(石鏃の大型化についての説明はあるが、銅鏃、鉄鏃の大型化もあったかの様にとれるのですが、それについての考古学的出土品の説明はなく、いきなり総括しているのは不審)

ロ) 戦いは一般的には北部九州が早くおこなわれていた、と次のように述べます。

【戦いは一般的には弥生時代中期に始まり激しさを増しますが、北部九州では、戦いは弥生時代の始めにまでさかのぼります。福岡県新町遺跡の墓では、足の付け根の骨に石鏃の刺さった人骨が埋葬されていますが、これは前期より古い弥生時代早期です】(同書p27)
(つまり北部九州では近畿よりも数百年早く弥生時代に入っていたということを無意識のうちに都出氏は認めている)

ハ) 水や土地を求めて高地性集落が出現する。これは緊急時の山城である。

ニ) 弥生中期には「クニ」が出現するが、その規模は現在の「市」の程度の大きさ。
(そうなると、百余国にわかれていたとされる倭人国はせいぜい北部九州ブロック内ということになるのではないでしょうか。)

ホ) 国と国との争いとなる。瀬戸内や畿内でも北部九州よりは遅れて戦いが開始する。青銅製武器が不足していたのか、石鏃や石剣が使用されている。
(単純に考えれば、それらの地域は、北部九州よりも新石器時代への移行が遅かった、ということではないのか?)

ヘ) 石鏃の産出地の研究から、北九州・瀬戸内・出雲・畿内・東海・関東という各ブロック内の戦いに使用されていたことがわかる。ブロック対ブロックの広域戦争には使われていない。つまり【この弥生時代中期における戦いは、小さな国どうしが戦って、たとえば北部九州ブロックにまとまるというように、ブロック内の戦いでした】(p33)と述べる。
(近畿ブロックや瀬戸内ブロックと北部九州ブロックとが戦った形跡がない、ということを言っていることになるのだが、それでどうして近畿の邪馬台国が西日本を統一できたのか?)

ト) 武器同様に祭器もブロックによって異なる。北部九州の矛・戈。瀬戸内と東部沿岸では平形銅剣。畿内と東海では銅鐸である。
【この祭器によるブロック区分は、先に述べたブロック区分とも矛盾しないのです。戦闘器の分布、祭器の分布、後に述べる埋葬様式の分布から見て、弥生時代中期には北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東に政治的まとまりであるブロックが生まれていたこと、そして各ブロックは政治的にそれぞれ独立していたことが分かります】(p35) 

チ) 弥生後期に再び高地性集落が激増する。【後期の戦いはブロックどうしの戦いでした。各ブロックの他ブロックへの働きかけは激しさを増し、その地域の祭祀形式を広い範囲で変更させるほどの力になっているのです】(p38)
(このように総括しますが、その根拠となる考古学的遺物との関係についての説明はありません)。

リ) ツクシ政権がヤマト政権に鉄の供給ルートを押さえられた。(山尾説)【畿内は鉄を運ぶルートを掌握して急速に力を伸ばし、畿内の祭器が和歌山、四国東部にまで拡大し、邪馬台国はついに西日本を掌握しました。掌握後、畿内の庄内式土器、木簡や直葬による埋葬など畿内文化が、邪馬台国と強いつながりをもつルートを取って北部九州にまで流れ込んだのでしょう】(p40)
(このような、考古学的にも文献的にも何ら根拠を示さないまま、「山尾先生の言」という言葉のマジックで、古代史の根幹を揺るがす問題について、「物語」を語られます。)

ヌ) まとめ
【以上をまとめると、弥生時代における争いや戦争は、大きく四段階に分けることが出来ます。

第一段階は弥生時代早期から前期にあたるもので、これは山や川など地理的な条件で区切られた小地域内で、水や土地の分配をめぐる争いでしょう。

第二段階は弥生時代中期のもので、小さな国を築く過程の争いです。続いて、この小さな「国」をさらに大きなブロックに統合する動乱、第三段階は弥生時代後期のもので、西日本全体を巻き込んで戦いが続き決着がつかなかった「魏志倭人伝」にいう「倭国乱」で、卑弥呼を共立して戦いを収めた動乱です。

第四段階は三世紀代中頃のもので、卑弥呼の跡を継いだ壱与〈いよ〉の時代で、狗奴国を巻き込んで東日本にまで波及した動乱ということが出来ます】(p41)

【狗奴国は東海地方にあった国なのです。倭人伝が記す「邪馬壹国の構成国旁国の奴国の南にある」とされている狗奴国は、中国人の誤った地理認識により、東方を南方と間違えて書かれているのです。実は東にあったのです。纏向にいた卑弥呼と跡を継いだ壹與〈いちよ〉は、なぜか、二人合わせて神功皇后という人物に合成されて日本書紀に残っているのです』と都出さんは言いたいのでしょうか。

こんないい加減な古代史に「古代歴史文化賞」などという大層な賞を送った方がたの見識自体も問題でしょう。


④弥生期の鉄について

◆上記の リ)、で都出氏が述べる「鉄」の問題は重要です。この「鉄」についてもう少し詳しく都出氏の説明を見てみます。
都出比呂志氏は、近畿の邪馬台国が北部九州を傘下に収めたということは、「鉄」という威信財の出土の変化から見てとれる、と概略次のように云われます。

【1世紀ごろには北部九州が圧倒的に先進していたのであるが、それは鉄の供給源を抑えていたからだ。ところが5世紀になると、鉄挺の出土は近畿が圧倒的で北部九州には殆ど見られない。2世紀末から3世紀前半に近畿(邪馬台国)が北部九州を傘下に抑えたことを示す】

これは、強引な判断でしょう。仮に5世紀に鉄を近畿地方が抑えた、という仮定が正しかっても、だからといって、卑弥呼が王に推戴される、3世紀前半以前にその変動が生じた、という論理には無理があるでしょう。

卑弥呼=纏向の女王という前提がこのような論断を生んでいると思われます。 考古学者なのに、そのような3世紀ごろの鉄についての考古学的出土品の存在の有無については何も示さず(何もないから何も示されないのは当然ですが)、3世紀以前に近畿が北部九州を傘下に収めた、と断定されるのです。

鉄の出土状況の資料を直視し、それからの推論でしたら理解できるのですが。 くしくも先日の朝日新聞に「壱岐のカラカミ遺跡で弥生後期の製鉄趾発見」という記事が出ていました。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20131214-OYS8T00491.htm

◆ 「鉄」について考古学者としての都出氏の見解が無いところがあります。日本列島でいつ鉄の精錬ができるようになったのか、ということについての見解が全く示されていません。

鉄原料は、3世紀の魏志東夷伝の辰韓のところに、【この国は鉄を産出する。韓・濊・倭はみな勝手に鉄を採り、中国で銭を用いるように鉄で支払いをする】、というように書かれています。
この記事から、都出氏は、【「鉄挺」という形で輸入されていた、5世紀あたりになると畿内での鉄挺の出土が多くなる、つまり畿内が「鉄」にたいしての主導権を握った】、とされるのです。

日本国内には沢山の鉄鉱精錬趾と思われる遺跡が発見されています。残念ながら、その遺跡には「土器」が共伴して出土するという状況がないので、従来の考古学では編年が不可能なのです。

そこで、弥生時代の製鉄について調べてみました。


(a) 最近の多元的古代研究会の会報『多元 120号』(2014.3)に古代製鉄について

若林靖男氏と大下隆司氏の二つの論文が出ていました。

前者の「我国における古代鉄生産の謎を探る」は、弥生時代の熔鉱炉遺跡の存在・原料は褐鉄鉱からということを論証し、円筒型埴輪は熔鉱炉を模したものではないか、と論じています。

後者の「鉄の来た道」(七輪で出来る鉄)は、低温でも鉄は出来る、という七輪によってでもベンガラ(褐鉄鉱の一種)から製鉄可能という山内裕子氏の論文を紹介するとともに、鉄生産技術はBC15世紀のヒッタイト王国から南はインド経由、北へはスキタイ経由で東方にもたらされた可能性を論じています。
一つの傍証として、福岡県曲田遺跡出土の鉄製品は鍛造品であり中国の製鉄技術鋳造法とは異なる、ことなどを上げています。

(b) 古代史研究家奥野正男氏は『邪馬台国はここだ』(徳間文庫)で、褐鉄鉱以外にも、チタン分の少ない砂鉄からも、青銅器製造に必要な温度での鉄の鍛造が可能である、という近藤義郎氏の説(「弥生文化論」『岩波講座・日本歴史』I 1962年)を紹介しています。

そして、チタン分の少ない砂鉄は、福岡県糸島海岸と島根県斐伊川流域が飛び抜けてチタン分の少ない砂鉄産地であることを紹介しています。また、今宿焼山遺跡の製鉄址は九州大学理学部のC14法調査で-1660±60(AD249~369)であったことも紹介しています。

(c) C14による鉄滓の年代測定については、古田武彦氏も『ここに古代王朝ありき』で九州大学冶金学科の坂田武彦氏の太宰府近郊の鉄滓などの測定結果を紹介されています。
太宰府町池田鬼面 古代製鉄登釜の木炭 AD380±30年
太宰府町都府楼 ちいさこべ幼稚園裏出土品 銅滓・鉄滓・土器・木炭 BC190±50年
これらは燃料として用いられた樹木の伐採時の樹齢を考慮しなければならないが、弥生期に製鉄が行われていたことを示す、と言ってよいでしょう。

尚、坂田武彦氏の発表論文を検索してみたら、「筑紫の原始製鉄ー1- 四世紀の台風による怡土焼山と御笠鬼面の埋没溶鉱炉跡」という論文が『九州大学工学集報』1970・7に収録されていることが分かりました。先の奥野正男氏の焼山遺跡云々はこの坂田氏の論文からの引用ではないかと思われますが確かではありません。

(d)日立金属のホームページで古代のたたら製鉄について次のように紹介しています。

◆日立金属㈱HP ”たたらの歴史”

日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか

弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期2〜3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。

最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。


◆以上のように弥生時代の製鉄がおこなわれていた可能性が高い、ということを踏まえて、都出比呂志氏の『古代国家はいつ成立したのか』を改めて読み直しました。

肝心の「日本列島に国家はいつ成立したか」ということについてどのようにまとめているのか、について次のように言っているのが気になりました。弥生中期鉄製武器出土数

【弥生時代後期、倭人社会の有力首長たちは遠く離れた地域間で互いに同盟関係を結んで王を立てました。この王は中国の権力にも認められます。王は鉄を産出する朝鮮半島の弁辰、そして弁辰を支配下においた後漢ともおりあって鉄を獲得したのでしょう。

相争っていた地方の有力首長は、連携して王を擁立することで、鉄を確保出来たのです。必需物資である鉄の欠乏が、この広範囲の連携を促進し、中央政権を誕生させたのです。その意味で、倭の中央政権は、初めから地方有力首長に支えられていました】(同書p177)

それが何時のころなのかというと、
【畿内は鉄を運ぶルートを掌握して急速に力を伸ばし、畿内の祭器が和歌山、四国東部にまで拡大し、邪馬台国はついに西日本を掌握しました。掌握後、畿内の庄内式土器、木棺や直葬による埋葬など畿内文化が、邪馬台国と強いつながりをもつルートを通って北部九州にまで流れ込んだのでしょう】(同書p40)と言います。

ところが、弥生中期の初めごろの状況の説明では、次のように不思議な論理を展開されます。

【弥生時代の北部九州と畿内とでは、稲作の開始時期や墓の型式など、多くの違いが指摘されています。寺前直人氏は、北部九州と畿内のもつ二つの社会の特質について、今までと異なった視点から言及しました。

寺前氏によると、北部九州を中心に日本海沿岸地域では、弥生時代中期から後期に、階層の高い墓にだけ金属製武器が必ず副葬されるようになる。一方畿内では、弥生時代中期に石製短剣が非常に多く生産され、その石製短剣は九州と違って一般農民の墓に副葬される傾向を示し、その後弥生時代後期に激減するが、それに代わる金属製短剣の副葬は増えず、武器は終末期まで殆ど副葬されなかった。

これらの状況から、寺前氏は、北部九州では武器の所有が階層の高さを示すが、畿内では武器の所有は高い階層を示さず、武器である石棒を用いた儀礼をおこなうことで農耕社会に生じた利害の調整を行ったとし、階層化を推し進めた武器体系と、階層化を押しとどめた武器体系をもつ二つの体系を指摘しています】(同書p28)

つまり、武器における金属器化が遅れていた畿内を、文明度の遅れではなく、階層の区別と金属器の所有に対する社会体系の違い、という解釈で逃れる、というテクニックを使われています。この弥生期の、文明度の進んだ北部九州が遅れていた畿内にその指導権力をゆずった理由について、次のように説明されています。
弥生後期鉄器出土数
【鉄の普及は、一世紀代まで「ツクシ政権」と言われるほど力をもつ北部九州が最も進んでいました。二世紀の倭国の乱の契機について、山尾幸久氏は次のような興味深い解釈を示しています。

「ツクシ政権」が鉄の獲得において優位だったのは、「ツクシ政権」が後漢王朝の庇護を受けており、鉄を産出する朝鮮半島の楽浪郡が後漢王朝の支配下にあったからであるが、二世紀末に後漢王朝が弱体化し、この後期に「ヤマト政権」が「ツクシ政権」を制圧し鉄の供給ルートを掌握したのだというのです。

二世紀末は、畿内を含めた日本列島主要部において石器が急速に消滅し、鉄器が本格的に普及しましたが、このころ畿内は力を増し、北部九州を含め西日本全体に大きな影響力をもつようになっていたので、全国に鉄が急速に普及したのは、鉄が畿内を通して日本に多量に流入したからと推定できるのです。山尾説は、日本列島全土において鉄が急速に普及した背景を明快に説明するので、わたしを含め支持する人は多いのです】

つまり、邪馬台国(近畿)が奴国(北部九州)を滅ぼし、支配下に置くことが出来たから、という説明なのです。しかし、卑弥呼は”共立”された、という魏志の記述については無視されています。

ともあれ、もし邪馬台国近畿説が幻となれば、この都出説は雲霧消散する運命にあります。ですから、必死になって、纏向遺跡に卑弥呼の姿を追い求める都出考古学となるわけなのでしょう。

都出氏は弥生期の鉄器の出土については殆んど触れません。なぜなら、弥生期の鉄器・鉄製武器の出土は 、北部九州などには多数出土するのに、近畿地方には殆んど見られないのです。ですから邪馬台国近畿説の都出氏には書きようがないのでしょう。

『ヤマタイ国はここだ』で奥野正男氏が掲示している弥生中期及び後期の鉄製武器の出土数を紹介します。

倭人伝には卑弥呼の宮殿を兵器を持って守衛している、と書いてあります。倭人は兵器として、矛・楯・木弓を用いるとも書いてあるのです。
「木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり」とあります。都出さんによると、畿内は石鏃が大型化していた、と説きます。

都出さんが触れない鉄鏃の出土分布については、古田武彦氏は、近畿に22件、九州51件と九州の方が2、5倍出土しています。矛・刀などの鉄製武器になると、近畿2、九州83と九州が圧倒的、と報告しています。しかも、奈良県には一件の鉄器の出土例しか報告されていません。(『ここに古代王朝ありき』(1979年 朝日新聞社 p36)

それなのに、卑弥呼は畿内に居たという結論になるのでしょうか。考古学者都出氏の頭の中では、このことがどのように納まっているのか、不思議です。都出氏が特筆する、箸墓付近から出土したの種数千個からみても、卑弥呼よりも「やまとととひももそひめ」の墓という伝承の方が当たっているのではないでしょうか?

混一図イラスト
⑤倭人伝の解釈について

都出比呂志さんの考古学と文献学の摺り合わせ方法は学問の域に達していないのではないかというのは言い過ぎでしょうか。今まで沢山の邪馬台国論者の意見を槍玉に上げてきました。

都出比呂志氏の邪馬台国論は、例えば大津透氏のそれと本質的には同じです。従って改めて論じることもないのですが、都出氏が”定説”ということであたかもそれが”真の歴史”としてためらいも無く主張されるところが、大津氏などに比して特に突出しています。

そのあたりの問題点の一つ「南は東に読み変える」を取り上げてみます。

都出氏は、【中国の地理観が正確でないとすれば、・・・・】(p61)として論を展開しているのですが、結論的には「中国の地理観は不正確であった」、ということで話を進めているのです。こんなことで、例えば中国の歴史学者と討論したらどのような結果になるか、都出氏は想像できないのでしょうか?

倭人伝の卑弥呼と狗奴国の「素より和せず」の関係について、次のように都出氏はいいます。

【中国の地理観が正確でないとすれば、伊都国から南でなく、方角を反時計まわりに九〇度回転させて東に向かい、「水行二十日」で投馬国へ、さらに「水行十日、陸行一月」行けば、邪馬台国の位置はやまとになるというのが大和説の解釈です。
私はこの読み方に賛成で、この読み方を基礎にする限り、大和説に分があると考えています。(投馬国について、中略) また、邪馬台国と戦ったという狗奴国は、その東の東海地域の勢力になるわけですから、実際の地理にうまく当てはまります】(62~63頁)

その根拠にされるのが「混一疆理歴大国都之図」です。この混一図の日本列島に関係する部分の概略は、右の図のようなものです。

15世紀初頭に韓国の人が作製した地図ですが、単に日本列島が南北さかさまになっていること以外に、朝鮮半島が異様に大きいことや、日本列島がかなり小さく書かれていて、作成者の気持ちが分るような地図で、ほほえましくさえ思えるものです。

都出さんの論理は、邪馬台国を大和とすれば、それに対抗できる勢力は、近畿の前方後円墳と異なる、前方後方墳文化の東海地方である。不弥国以降の倭人伝の記事を、南を東へ読みかえると、狗奴国は東海地方になる、と云われるのです。なぜ、不弥国以前は南は南であり、不弥国以降から南は東に変わるのかなあ、と誰しもが思う疑問には答えず、「うまく当てはまる」と満足されているのです。

都出考古学は「邪馬台国大和説のための考古学」という姿があまりにも歴然としていて、自分の説に合うものであれば、その史料の検討もなされずに何でも取り入れるのには呆れるのみです。

頭書の都出さんの文章は、「中国人の地理観が正確でないとすれば」、という前提で始まっています。これでは、近代史における歴史認識問題以上に、古代から天文・数学などについての書物も多い、誇り高き中国人には侮蔑的な表現と取られることは間違いないでしょう。

⑥ 宋書と雄略天皇

◆都出比呂志氏の『古代国家はいつ成立したか』の著述方法は、他人の説を紹介し自説は述べず、巧妙に問題点を隠蔽するレトリックを使われているようです。

例えば、【(古代国家はいつからか)和田晴吾氏と岩永省三氏は初期国家を五世紀後半以降と考えている。

「宋書倭国伝」によると倭の五王のうち2番目の珍は、自らを安東大将軍・倭国王に任命するだけでなく、倭隋ら13人をも将軍に任命するよう宋に要求している。三番目の済も同様に23人を軍郡にすることを要求している。これは、倭国王が地方の有力首長と連合しつつ倭国を支配していたことを示す。

これに対し、五番目の倭王武は安東大将軍・倭国王を要求し認められたが、他の者の将軍任命要求は出していない。この事実は、倭王武が、五世紀前半段階の倭王と比べ、他の有力首長を超越した権力を獲得したことを示唆している。稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の大刀の銘文にある「ワカタケル大王」が雄略天皇であり、中国の書にある倭王武と考えてよければ、権力の集中を一歩すすめた大王制は、五世紀後半の段階で確立したと考えて良い】 というように。

また、【中国の史書に記されたこの武は雄略天皇のことと推定されていますが・・・】(p84)とありますが、後は全て武=雄略天皇が確定のものとして話を進めるテクニックには感心します。それに、【五王は、履中、反正、允恭、安康、雄略にあたると考えてよいでしょう】(p86)と、このように柔らかく断定する話法を駆使されます。

槍玉47で取り上げた大津透氏でも同様でしたが、大津氏よりも無責任な雄略=倭王武という断定です。倭王武=雄略説の誤りについては槍玉その47を参照して頂くということで省略しますが、都出氏が”定説”に無条件に従っているのは、考古学者として全く”定説”に疑問を抱かずに有名国立大学の名誉教授にまで昇りつめられたためなのでしょうか?

稲荷山鉄剣には、考古学上の問題点、主墓の位置からの出土でなく、副墓からの出土であることが指摘されていて、主墓が主人公の墓であり、副主人公が鉄剣を抱いて眠っていた古墳ということになります。そうするとこの古墳は雄略天皇が主人公となり、雄略天皇は東国で没したとなる理屈なのですが、都出氏はそのような論理の道筋はたどられないようです。

銘文にはシキの宮に大王がいた、とありますが、雄略にはそのような名の宮にいた記録はないし、稲荷山古墳の近くにシキ宮があることも無視です。 関東出土の鉄剣銘を「ワカタケル」と読み、九州の大刀銘文もそれまでの「タジヒ」を無理に「ワ」に読みを変更してワカタケルと読み、雄略天皇があたかも全国を統一した、という形にしているのです。

しかも、都出さんは、それらの問題を一挙に「他人の説」を紹介する形で、説明責任から逃れているのです。それによって、問題点があること自体を隠蔽するという効果を上げている、ともいえます。なかなかの策士だと感心しているところです。

それは、『宋書』に、倭王武は、開府儀同三司という権力を勝手に使っています、と述べていることで俀国は宋朝に似せて官僚組織を整備に努めていたこと明らかです。
しかし都出さんは考古学者です。文献には倭王武は都督とあり、都督府が当然あったこと、都督の下部組織の官職、評督の存在を示す金石文も存在することなどについて述べず、自説に都合のよいところの文献解釈だけでの意見を述べているのは、考古学者として如何なものでしょうか?

仮説、ワカタケルが雄略天皇であるとすればという仮説、に疑いがもたれているのです。これが崩れたら、都出考古学はゴミ箱行きになるのですが、その危険性を知っているが故の隠蔽なのでしょう、きっと。

このように、都出さんの説を批判しようとすると、他人の学説を批判しなければならないのです。つまり、古代史学会の多数意見に乗っかっている、ということを自ら仰っているということだなあ、ということがよく理解出来ます。

⑦ 都出氏の古墳論

都出比呂志氏の本を批評しようとすると、古墳問題について、その当否を論じなければならないでしょう。

当研究会は、いわゆる「文献解釈」から「論理・理性」面からの批評という面が主にやってきました。しかし、考古学といっても、人間が物を見て判断している学問でしょうから、と蛮勇をふるって「論理と理性的判断」で、都出古墳考古学に挑んでみます。

以下、『古代国家はいつ成立したのか』で辻さんが述べる古墳について都出氏の発言の中での、いくつかのおかしいなあ、と思ったところを記してみます。

(a) 都出氏の『古代国家はいつ成立したか』で前方後円墳の起源について概略次のように述べています。

【三世紀初め、土器様式でいうと庄内式にあたる弥生時代終末期になると、円丘に一つだけ突起のある形式の墓が現れれる。岡山の宮山墓、徳島の萩原墓、京都の黒田墓、千葉の神門墓がそれで、形が前方後円墳に限りなく近づく。これらの内その突起が長いものと短いものがあるが、短い形式のものを「纏向型前方後円墳」と呼ばれ(寺沢薫)、これらの原型が現れる弥生時代終末期は、大和の勢力が格段に大きくなり、大きな影響力を持つことから、西日本から東日本まで広く分布するこの原型の発祥の地は、大和であった可能性は高いでしょう】(p52)と。

つまるところ、大和が政治的にも優越していた、大和の箸墓がその祖型だ、という論理のようです。大和が日本列島で優越していた、という「仮説」の上での立論といってよいでしょう。

都出さんがあまりにも断定的に箸墓を卑弥呼の墓とされるのは、考古学者としてあまりにも割り切りすぎではないでしょうか?

【邪馬台国の王、卑弥呼が没した時、残された権力集団は巨大な墓、前方後円墳を築きました。「魏志倭人伝」は卑弥呼の墓を、「径百余歩」と記しています。この大和の地には、弥生時代から続く伝統的な墓形、前方後円墳がありましたから、卑弥呼の墓が前方後円墳になるのは当然の成り行きでした】(p65)

つまり、卑弥呼は大和の女王である。大和には前方後円墳という古墳の伝統がある。当然卑弥呼の墓は前方後円墳である。という理屈のようです。卑弥呼が大和の女王である、という危うい仮説に成り立っている都出説だということを、ご本人は認識されているのでしょうか?

倭人伝の「径百余歩」という形容では、墓の形は円墳乃至方墳であるでしょうし、箸墓の形とは合致しません。また、百余歩という大きさが箸墓の大きさに合致するのでしょうか、前方後円墳のどこの寸法が百余歩と合うのでしょうか。これらについても全く説明なく、おまけに、倭人伝には「大いに冢を造る」とあり、「大いに墳を造る」とは書いてないことについては全く頬被りで済ませています。
考古学というのはこんなに雑な学問なのでしょうか。

(b) 古墳全体の墳丘墓の歴史としては、【弥生時代中期末からリーダーの墓が共同墓地から独立し始める。しかし、北部九州ではもっと早く弥生時代前期に、リーダー一族が共同墓地から独立して葬られている】(p43~45要約)というようなことも述べています。

都出氏は、畿内の発展史がまず頭にあり、地方の発展史は部分的・付随的・特殊なものととらえているようです。

この、墓制の変化について都出氏は認めているのですから、リーダー一族が特別扱いにされる社会体制の発生が、北部九州と畿内では200年以上、畿内が遅れていた、ということになるのではないでしょうか。
それを弥生後期に逆転して大和優位になる、という説明は、先に「鉄」について検討したように、都出説では「鉄原料を弥生後期には大和が抑えた」ということにある、とされるところにあるようです。

③【古墳の発展の過程で、周溝を渡る部分が、円墳に突起を設ける契機になり、前方後円墳に発展した】、(p42~前方後円墳の源流を要約)というように説明されます。

しかし、前方後円墳の最大級である箸墓が大和王権の象徴的なもの、とされながら、同じ大規模前方後円墳の椿井大塚山古墳は、周濠の存在が確認されていません。その築造時期は箸墓より新しいと都出氏も書いています。周溝の存在は前方後円墳の必要条件とは言えない、と思うのですが、その矛盾の説明はありません。

前方後円墳は、平野部に近い地形の場合周濠の存在が普通ですが、丘陵部に設けられた場合、周濠は認められていないようです。その意味で、都出さんの「周濠を渡るための掘り残し部分が発展して前方後円墳の原型になった」説は、前方後円墳一般に適用出来るものではないのです。

前方後円墳は周濠を必ずしも必要条件としていないのです。蒲生君平が定義した前方後円墳の定義に都出氏も束縛されているようです。

小規模な墳であれば、周囲の土を掘り取って丘を造れば済んだことでしょう。大規模な墓造りの動機は合理的に説明することは難しいと思いますが、全国の古墳の築造年代を、科学的に推定出来れば、その変化の歩みを追うことによって可能になるのではないでしょうか。大規模な前方後円墳の調査も結構ですが、小規模の前方後円墳の築造年代の科学的解明がより大事なように思われます。

ところで、大仙陵などの大規模な墳丘を、周濠から得ることは不可能に近いでしょう。地下水位の以下の土砂を掘ることの困難さは、通常の土砂掘削の数倍いや十数倍の人力を擁することでしょう。古代の水替工法の解明はされていないようですが、足踏みによる水車汲み上げ方式を採用したとしても、昼夜連続の水替作業の奴隷的作業になったことでしょう。

大仙陵の水濠の深さの資料は見当たりませんが、それほど深くないことと思います。(同じく周濠を持つ誉田御廟山古墳の場合、175センチ程だそうです。) 大仙陵の墳丘部の盛り土の多くは近くの丘陵部から掘り取られ搬送されてきたものと推察して間違いないことでしょう。

前方後円墳の周濠は、盛り土の材料確保のためと、美的乃至は、墓を盗掘などから防護するために、付帯的に設けられたものと思われます。

④【後方墳が優勢な千葉県に、後円墳も同時期に存在している。後方墳が優勢な千葉県に、西日本と友好関係を結ぼうとする勢力がいたことを示す。東海地方は後方墳が盛行していることは、東海地域が狗奴国の勢力圏であったといえる。後方墳の源流は畿内にもあるので、狗奴国のみのシンボルとは言えないが、他の状況も合わせて考えると、狗奴国の首長たちが後方墳原型を採用して結束を固めたことは確かでしょう】と都出氏は云われます。

上記のように、東日本=狗奴国 という偏った史観で述べられる、次のような話は、小説の分野での話で、考古学から語られるのは如何なものでしょうか?

”他の状況も合わせて考えると” というあいまいな文章を付け加えて、自説を通しています。その「他の状況」についての説明はないのですから、読者は何とも云えず、ただ都出氏に従うきりないのです。

最終的に、【卑弥呼の墓とされる箸墓古墳は、後円墳から発展した前方後円墳である。畿内に前方後方墳もあるが、規模的には後円墳より小さい。倭人伝には卑弥呼の死後について書いていないが、邪馬台国と狗奴国の争いは、両者の和解か邪馬台国優位のもとに収束したと考えられる。地方有力首長の前方後方墳を包括する体制をとり、地方有力首長の支えのもとに中央政権が誕生したことを物語っている】(p67~68要約)

とまとめています。

箸墓古墳が大和政権発祥の卑弥呼の墓、と無理矢理に積み上げた砂上の楼閣的古代史観による叙述には、ほころびを縫い合わせることもむつかしく、「他の状況も考え合わせると」などと、ボカシボカシながらの叙述で成り立っている都出史観本といえましょう。


◆都出比呂志氏の史観によれば、日本列島に国家が出来たと云えるのは前方後円墳が全国に展開した倭王武の時代だそうです。

【武すなわち雄略天皇は中国の南宋に使いを派遣し、王一人だけの将軍の称号を受け取りました。そして官僚制度を取り入れ、中央倭政権が指揮する軍事制をめざし、各地の有力首長連合体制を解体させて中央権力を強化し、国家形成を大きく進めました。

そのため、雄略の時代に前方後円墳の分布は最大になり、岩手県の角塚古墳から鹿児島県大隅半島の塚崎古墳群まで広がりました。(図 前方後円墳の分布域 を添付)】(同書p103)


この分布図には、なぜか朝鮮半島に存在する前方後円墳は除外されています。これも、「雄略天皇」という心理的なシバリにあっている都出名誉教授の心象を顕している結果の作図と言えるでしょう。

それはともかくこの図は、雄略天皇=倭王武という前提で作図されているのです。しかしながら、前述のように倭王武=雄略天皇という等式には数々の疑問が出ているのです。もし、この等式が成り立たなければどうなるのか、このような展開を都出氏は想像すら出来ないのでしょう。

正に脳天気な裸の王です。つまり、近畿政権につながらない倭王武が全国をまとめた、ということになることを、都出氏は述べているのですが。

⑧ 都出氏の鏡論について

都出氏は、鏡の編年と分布から、日本列島西部が二世紀末に統一され邪馬台国が誕生したことが鏡の編年と分布の研究からわかる、とされます。

特に岡村秀典氏が漢代400年間の鏡を7期に分類した、その鏡の分布をみると、二世紀前半までの漢鏡が九州に圧倒的に多いのに、そのあと二世紀後半から三世紀は、九州で衰退し九州以東で出土数が急速に拡大することから、近畿地方での邪馬台国の樹立の根拠となる、という説を紹介しています。(同書p79 要約)

前述したように、この説における、九州の遺跡の年代論には大きな問題が有ることについては全く触れられていません。

三角縁神獣鏡が出土するのは四世紀以降の古墳からのみで、卑弥呼の時代である三世紀の墳墓からは一面も出土しておらず、年代が合わないのです。箸墓の築造年代が三世紀に繰り上がっても、その箸墓から一面も鏡の出土はありません。

この都出氏が卑弥呼の墓と比定する箸墓に一面の鏡でも出土すればそれこそ鬼の首を取ったどころではない騒ぎになることでしょう。都出氏にとって幸いなことは、箸墓は宮内庁の陵墓指定で発掘が認められていないということでしょう。

古墳期前期の黒塚古墳に副葬された鏡は、棺内被葬者頭部に画文帯神獣鏡(漢鏡)が置かれ、三角縁神獣鏡は棺の外に三十二面も配置されています。この例からも明らかに三角縁神獣鏡は「卑弥呼からの下賜品」らしくない扱われ様なのですが、都出氏はこの考古学会に有名な事象について無言です。

都出氏は鏡について雄弁ですが、銅鐸については冷たくあしらい殆んどといってよいほど言及されません。卑弥呼の時代に最盛期を迎えたとされる近畿地方の祖先の宝器なのに、何故?


まとめ

『古代国家はいつ成立したか』という都出比呂志氏の本は、近畿に発生した王権が卑弥呼のもとで西日本を掌握し、その後東日本をも一元的に支配した、という”定説”に従う形で考古学的成果を使って説明する、という本でした。

①~⑧の各項目で述べましたように、大阪大学で考古学専門の教授として(現在名誉教授)、長年研究してきた成果がこのような、子供だましの研究だったのか、この国の考古学者が若し皆このような方がたであったならば、「暗澹とする」以外の表現を思いつきません。

都出比呂志氏は、最後に次のように述べています。
【考古学は文字の無い世界を相手にした、ものを扱う学問です。ですから自然科学の助けを借りて、弥生時代の始まりが紀元前500年から紀元前1000年に一挙に500年も遡るといった事態も生じます。ですから資料は同じでも他の学問の進歩によって、今後同じ資料からまったく異なった事実が明らかになるかもしれません。考古学が今後どんな新しい世界を展開するか楽しみにしています】

しかしながら、最初の方で、都出氏の年代観を検討しましたように、AMS法による考古学資料から得られるデータから見られるのは、日本列島の文化度は均一に進化してきたのではない、ということです。

しかしながら近畿中心の一元的発展説にこり固まっていると思われるような非科学的な思考回路の方に、いくら他の分野からの科学的援助を与えても、新しい世界が展開することは難しいのではないか、というのがこの本を読んでの感想でした。

都出比呂志氏はもう大学は定年退職となられたようですが、同じように型にはめられた「考古学者」が陸続と育ってくるのかと思うと慄然とします。

都出比呂志氏の『古代国家の成立』について、考古学での出土物について、何故このような認識になるのか、というようなことについてブログでぼやいていましたら、読者のH.Kさんから、都出氏の「国家」に対する認識と実証について、根本的な問題ある、という長文のコメントを頂きました。

この都出氏の本は、古代国家の成立時期を論じる、というのがテーマですが、都出考古学のような事実誤認の史観で国家論を述べること自体茶番です。この面について幸い読者の方から適切な意見を頂戴しましたのでご紹介します。寅七と違った視点、「国家論」からの都出史観批判論です。


『古代国家はいつ成立したか』 都出 比呂志 (岩波新書)について(H.K生

【国家形成論とは、「いずれも社会の進化や発展の段階をどう区分するかの理論モデル」(p169)というのは、たんなる機能論であり国家本質とは何かを明らかにしていません。吉本隆明は『共同幻想論』の「起源論」で<国家>とは何かの把握を次のように記しています。

 はじめに共同体はどんな段階にたっしたとき<国家>とよばれるかを、起源にそくしてはっきりさせておかねばならない。はじめに<国家>とよびうるプリミティブな形態は、村落社会の<共同幻想>がどんな意味でも、血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている。この条件がみたされたら村落社会の<共同幻想>ははじめて、家族あるいは親族体系の共同性から分離してあらわれる。そのとき<共同幻想>は家族形態と親族体系の地平を離脱して、それ自体で独自な水準を確定するようになる。

 この最初の<国家>が出現するのは、どんな種族や民族をとってきても、考えられるかぎり遠い史前にさかのぼっている。この時期を確定できる資料はどんな場合も残されていない。考古資料や、古墳や、金石文が保存されているのは、たかだか二、三千年をでることはない。しかも時代がさかのぼるほど、おもに生活資料を中心にしか残されていない。<国家>のプリミティブな形態については直接の証拠はあまり存在しない。

 だが生活資料たとえば、土器や装飾品や武器や狩猟、漁撈具などしかのこされなくても、その時代に<国家>が存在しなかった根拠にはならない。なぜなら<国家>の本質は<共同幻想>であり、どんな物的な構成体でもないからである。論理的に考えられるかぎりでは、同母の<兄弟>と<姉妹>のあいだの婚姻が、最初に禁制になった村落社会では<国家>は存在する可能性をもったということができる。もちろんそういう禁制が存在しなくてもプリミティブな<国家>が存在するのを地域的に想定してもさしつかえないが、このばあい論理が語れるのはただ一般性についてだけである。(角川ソフィア文庫版 239240P

 古田武彦氏はアウグスト・ベークの「認識されたものの認識」という「フィロロギー(解釈学)」の歴史認識を根底に据え、浅薄な実証主義を超えて多元的古代という根源的な古代史像を提起しています。そこから、縄文国家、弥生国家という概念を導き戦後史学のプレ大和政権などという何の理論的、実証的根拠のない国家論を退けています。

 都出氏の『古代国家はいつ成立したか』は結局、国家本質論を有しない戦後古代史学の機能的な皇国史観を古墳、土器、石器、金属器という物の論理で正当化しようとする考古学的唯物論でしかないのではないでしょうか


(槍玉その51 終り)

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参考にした図書

『魏志倭人伝 他三篇』  岩波文庫  石原道博編訳
『古墳の始まりを考える』 森岡秀人他  学生社
『ここに古代王朝ありき』 古田武彦 朝日新聞社
『太宰府は日本の首都だった』 内倉武久 ミネルヴァ書房
『邪馬台国はここだ』 徳間文庫 奥野正男