参考資料(3)セミナー会場で配布された【レジュメ】
◆はじめに この一文は、表題にあるように冨谷氏の著作に対して、「疑問の数々」について私見を述べたものである。いわゆる、「批評文」ではなく、対象の書についての内容などの紹介は、発表者の疑問に関するところのみであることをお断りしておく。
◆著者の略歴など
冨谷至〈とみや・いたる〉氏は、1952年生。京都大学東洋史学専攻、文学博士。京都大学名誉教授。中国法制史、簡牘学専門、と奥書にある。この本は京大人文研東方学叢書の第四弾として刊行されたもの。
◆この本の内容の特徴
中国学専門学者の著述、ということで期待されるかもしれない。朝鮮半島や日本に存在した木簡の論語の標識の話や、古代中国の役職についての詳しい話、また職貢図にまつわる話などは、通常の古代史本ではあまり語られることのないものである。
特徴的なこととして冨谷氏は「書かれた文章の内容の分析とは異なり、どのような用語を使用し、どのように書かれているのかに比重をおく方法が、歴史・思想の研究に極めて有効であると考え“個別用語の考証”が七世紀以後多くなる」という旨の断り書きが入っている。(123頁)つまり『隋書』などの記事が七世紀当時の国内史料の伝えるものとあまりにも異なり、理解不能・説明不能を前もって弁解しているようである。
◆疑問点について
01)金印の読みについて
冨谷氏は冒頭に教科書の読み方を紹介する。そこには「漢の委〈わ〉の奴〈な〉の国王」と三段読みにし、委に〈わ〉、奴に〈な〉とルビが振ってある。その三段読みには問題があるとし、問題点を指摘している。しかし、この三段読みについて批判した先人、稲葉君山氏や市村瓉次郎氏の業績を紹介しつつ、三段読みについての自説を述べた古田武彦氏を全く無視し、まるで自分が発見者のような書きようである。
冨谷氏は、「奴」の読みについて検討し、「な」ではなく、「ど」であるとする、と共に「委」という漢字の「読み」について細心の注意を払っているようだ。
「委」と「倭」は意味が通じると縷々説明し、教科書に「委〈わ〉」とあることについては不問であり、「委」が「わ」という読みがあったことを容認しているようである。それに加え、「委」から「倭」が生じ、意味としては共通している、ということは述べるが、「倭」の読みにも「委」と同様に「い・ゐ」という発音があったことなどこの本には全くと言ってよいほど顔をみせない。
「奴」が「ど/と」ではありえない、「ぬ」である、ということについて私見を述べる。
「ど/と」の和音が入る国名に漢字を充てる場合陳寿がどうするか、を考えてみた。「ど/と」の発音を持つ漢字は、土・度・奴・戸・都・斗・・・など多数ある。しかし和語の「ど/と」に字音漢字として「奴」を選ぶと、「ぬ」に当てられる漢字には、怒・駑・孥 のように「奴」由来の字きり残らないのである。陳寿が「奴」を選ぶ筈はない。
後金王朝創始者ヌルハチの中国史書での表記は「奴児哈斉」とあるし、冨谷氏は「匈奴」に「キョウド」とルビを付けているが、中国語での発音は「ションヌ」なのである。
最後に金印の読みとして『後漢書』という後世の史料に従い、「漢の倭奴国・王」と読む(38頁)とし、金印の印文にある「委奴」を強引に「倭奴」と読むべきと主張している。
02)景初2年か3年か
『魏志』に卑弥呼の遣使は景初二年とあるが、冨谷氏は、これは三年の間違いとされている。その原因は「伝写の誤り」とされている。それは、当時、史書を写本するのに草書体が正字とされていたため、書写されるときに間違いが生じやすかった、とされている。
しかし、「二」と「三」が草書体で似通っているから間違えやすい、ということと、その間違い易い「草書体」が公文書の「正字」になったということには、論理的に矛盾している。
冨谷氏も無理押しと思ったのか、内藤湖南他の主張する、遼東の戦火が収まった後、という説に収めている。冨谷氏は別の論考“京大人文研漢籍セミナーシリーズ『漢籍は面白い』「錯誤と漢籍」冨谷至”では「臺」と「壹」についても同様な講釈をされている。
03)邪馬臺国はヤマト国なのか
この本には、いわゆる「邪馬台国」がどこにあったのか、という問題には無言である。
『三国志』や『隋書』にも、その首都と思われる地域への行路についての記事があるのだが、それらについての言及は全くない。
これに関係すると思われる発言は、「倭国が九州にあろうとヤマト盆地にあろうと、中国にあまり重要なことではなかった」(35頁)とか、卑弥呼が親魏倭王の称号と金印、それに銅鏡百枚を受けたことについて述べ、「銅鏡のこと、さらには邪馬台国の位置については、本書の目指すところではないのでここでは論じない」(54頁)と書く。
この本のテーマ「日本の国号や天皇の起源」を論じるのに、その国がどこにあったのか、を論証せずに進めてよいのか甚だ疑問である。
冨谷氏は、倭人伝の記事を紹介するのに「邪馬壹(台)国」と原文に(台)を加えて紹介するが、そこにある「壹」に、このように「たい」とルビを振っている。(32頁)
また「卑弥呼の死後、台与という血縁の少女を王に擁立し」と原典の「壹」を何の断りもなく「台」と書き変え「台与」とルビを振っている。(61頁)
つまり、『魏志』のいう邪馬壹〈いち〉国は邪馬台〈たい〉国であり、「ヤマトコク」に通じると宣言している、と取れる。これに憤慨しない古田武彦の弟子はいないと思う。
冨谷氏はまた、『日本書紀』に何故「卑弥呼」「邪馬台国」が書かれていないのか、それは「ヒメ」「ヤマト」という普通名詞であり、中国側が付けた名称を記す必要がなかったのでは、と思う。今は不思議と言っておくしかない、と述べる。(58頁)
邪馬臺国は「ヤマト国」に通じるという冨谷氏の主張のためには、「臺」が「と」と読めるか、という音韻上の問題があることは古田武彦氏が指摘しているところである。この問題をクリアーできずに、邪馬壹国を奈良ヤマトへもっていくことは、中国学学者として失格であろう。
04)倭王武は雄略天皇なのか
冨谷氏は倭の五王について、概略次のように述べる。「倭の五王が日本側でどの天皇にあたるのか、武=雄略、興=安康、済=允恭は異論が出されていない」と。(67~68頁)
異論は出ている、古田武彦説が。冨谷氏は『「邪馬台国」はなかった』を学生の頃に読んだそうである。『「邪馬台国」はなかった』に続いて出た『失われた九州王朝』で、古田武彦氏が、『宋書』に続く『南斉書』『梁書』でも武王への授号記事があり、『梁書』の場合はその授号は502年であり、雄略の没年は479年であると指摘し、中華帝国は倭王武の亡霊に授号していたことになる、倭王武は雄略に非らず、と論じているのである。
冨谷氏は本の冒頭に、「中国学」から古代の日本と中国の関係を見ていく、と広言している。中国学の立場から雄略天皇と倭王武は同一人物である、と論証してもらいたいものだ。
加えて、江田船山古墳、及び稲荷山古墳から出土した鉄剣銘から「ワカタケル」と読み取れる文があることから、雄略天皇としている。冨谷先生は銘文の解釈で「杖刀人」を「大王の親衛隊」とする。「個別言語の考証」を旨とする著者としては大きなミスであろう。
「杖刀」とは、養老令中の医疾令に、呪禁に杖刀を持ち、呪文を唱えて病災を防ぐ、との説明もあり、正倉院にも、その杖刀二口が現存しているのである。『正倉院の大刀外装』1989年小学館発行にその二口の仕様概略が記されているのである。
05)冨谷氏の倭人の能力評価について
・金印をもらったものの、その印章をどのように使うのかわかっていなかった。(29頁)
・邪馬台国において漢字が日本列島に定着していたかは、はなはだ疑問。(204頁)
・倭武の上奏文は、古典に通暁していなければ書けない。五世紀にはありえない。(91頁)
このような表現で、倭人の能力を非常に低く評価している。『魏志』や『後漢書』に見えるように倭国の使者は「大夫」と称していたし、近年北部九州中心に弥生時代の硯の出土が続出していることも冨谷氏の見方を否定する。また、『魏志』倭人伝には、一大率の任務として、伝送の文書・賜遺の物をチェックすることが書かれているように、三世紀の頃には「文書の往復」があることを無視している。
06)俀国は倭国なのか、及び 多利思北孤について
・冨谷氏は『隋書』にある「俀国」を「倭国」と全て書き変えて紹介する。(123頁)
・隋書にある第一回の遣使は日本側の記録にはないが、『隋書』が記す内容から、倭王が誰であるかはさておき倭国が派遣した正式な使いであったとしておかしくない。(124頁)
・アメ・タリシホコ・を姓・字とするのは隋の的外れの解釈である。(125頁)
・天・足彦・大王という説に異論はない。(125頁)(つまり阿輩雞彌は個人の号でなく、大王という称号としている)
・『隋書』の倭国の記事は、倭国の事情を正確に記しているとは思えない。(125頁)
冨谷氏はこのように、『隋書』の記事について自分の評価を述べているが、肝心の俀王の名「多利思北孤」を「多利思比孤」としていることについて何ら説明はない。『隋書』の記事についての冨谷氏の説明について、以下に疑問をいくつか述べる。
07)利歌彌多弗利を和哥弥多利と記すのはなぜ
冨谷氏は、倭王の太子「利歌弥多弗利」について、『翰苑』注で「和哥弥多利」とあるとし、「和哥弥多利」にしろ「利歌弥多弗利」にしろ、一般的な称号であり、特定人物をさす固有名詞ではない。(144~145頁)という。
この冨谷氏の主張には二つの問題がある。『翰苑』に「和哥弥多利」とあるのは本当か。二箇所に出ているので誤植とは思えない。もう一つは、ワカミタフリは「一般的な称号」という解釈である。 太宰府天満宮に伝わる『翰苑』写本を古田武彦氏がその実物を見て、「和」の書入れは後世のものと考証している。古田武彦『九州王朝の論理』にその「和」という朱字の書入れの部分、全体の文章の写真が掲載されている。『翰苑』原典の記事は、「太子号〈なづ〉けて哥弥多弗利」であり古田武彦の「太子の名はカミタフのリ」説を支持するものである。
08)隋書の文字なしの解釈
冨谷氏は「文字なし」を漢字なしととらえている。(96頁)しかし、この『隋書』がいう「文字」は漢民族にとっての文字「漢字」と同じく、各民族それぞれの固有文字と取るべきではあるまいか。
『隋書』には「仏教を百済から求得して文字有り」とある。仏教伝来は九州王朝に公伝され、その時期は418年の戊午年である蓋然性が高い、と指摘する中小路駿逸氏の説がある。(『古事記通信 77号』多元的古代研究会2001年9月 による)
また「文字有り」とは、「漢字有り」ではないことは自明のことではあるまいか。サンスクリット語系の文字から意訳で漢字に変換できない固有名称などは、漢字を「借音漢字」として使って仏典の漢語訳を完成させている。このように漢字を「借音文字」として使っていることを、百済から仏典を求得した倭人が、中国人のやり方を見習って、和語和文を漢字表記する道具として、いわゆる「万葉仮名」が出来し、その後、平仮名・片仮名へと発展する。その事を『隋書』は「始めて文字有り」といっているのではあるまいか。
09)冨谷氏が伝えない隋書の記事
・俀国への使者裴世清の肩書が『日本書紀』と異なること。 ・俀国の管理組織 ・俀国からではない「倭国」からの朝貢記事 ・「此後遂絶」などについては言及なし。
つまり、『日本書紀』に記述のない『隋書』の記事は、ヤマタイコク以来大和が一元的に支配していた、という信念の持ち主には、説明不能な『隋書』の内容なのではあるまいか。
10)冨谷氏の天皇称号始まりの意見
冨谷氏は、教科書には「天皇称号の始まりは天武期の頃か」とあるが、推古・天智・天武各朝の三説がある。日本国民の統合の象徴天皇号の由来がハッキリしないのは残念と言うより恥ずかしい(157頁)という。
天皇号を記している、「飛鳥池工房出土木簡」「法隆寺金堂薬師如来光背銘」「天寿国曼荼羅繡帳」「船王後墓誌」「野中寺金銅弥勒菩薩台座銘」を検討し、称号天皇の始源は天武期を遡れないという材料に使う。結局、推古・天智朝に天皇号が既に登場していたとの史料は無いとし、天皇の名称の確定は飛鳥浄御原令に落ち着くのではないだろうか、と教科書の記述と変わりない結論となっている。
大王から天皇へ、というのだが、金石文には、隅田八幡の鏡銘文に「日十大王」とあり、また、「法皇」という天皇に無関係と思われない法隆寺阿弥陀如来の光背銘は取り上げていない。しかも国内史料に残る朝鮮諸国史書の逸文について、検討する気配も見せていない態度は、歴史学者として不遜な態度と指摘されても仕方ないのではあるまいか。
11)冨谷氏の国号日本の起源の意見
冨谷氏は、国号が日本となっても和音呼称はヤマトであったとする。ヤマトの漢字表記は倭、大倭、日本とも表記された。701年大宝律令で国号日本が定めら、702年に遣唐使粟田真人が唐に説明したが、国内的にはいつからそうなったのか不明とする。
百済彌軍墓碑銘に「日本」が出ている。冨谷氏は、この銘文を検討してみたが、この墓誌の「日本」は、倭の国号はもとより、倭に代わる名称とみなすことはできない。冨谷氏の強引な百済禰軍墓誌解読、特に扶桑の考証のずさんさにも驚く。この墓誌は、670年代には日本と言う国号が未成立という資料である。
御宇日本国天皇の名称は689年の飛鳥浄御原令できまった、と述べる。しかし、天皇の称号の検討と同様国内史料に現われる朝鮮諸国の史料からの引用にある「日本」の記事については無視している。
特に『三国史記』新羅本記にある「文武十年(670)倭国が国号を日本と改めた」の記事を無視してよいのか。670年というと郭務悰等が筑紫に来ていた時代である。(669年と671年に郭務悰ら二千人の到来)この時期に天智が国号変更していれば『日本書紀』に特筆大書されていてもおかしくない。九州を本拠とする「大委国」の存在を無視しては解けない「日本国号の起源」の謎なのであるまいか。
◆おわりに
今回のテーマ「天皇の称号と国号日本の起源」について、冨谷氏の大和王朝一元史観では真実にたどり着くことができないことがよく分かる本ではある。
今回の冨谷氏の論述には「古田武彦」は全く顔を見せないし、「邪馬壹国」は変なお面をかぶせられて描かれている。
このような論述が世の中に「京都学派」としての古代史叙述として、教科書の正しからざるところをただす、という形で出てきている。しかし、今回このセミナーで、小生がいくらわめきたてても冨谷氏は何の痛痒も感じないであろう。
我々も、古田武彦氏が世の中に衝撃を与えた「臺でなく壹なのだ」が忘れ去られないように、例えば「邪馬壹国の歴史学の会」とでもいう中身で集まる組織が必要な時期であろう。全国で志を同じくする人々が集結し、このような歪な歴史叙述に対して我々の意見を出版物やネットで広報する手段が必要になっている、と思う。 (以上)
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