京都学派について 参考資料(1)及び(2)

参考資料(1)

 京大人文研東方学叢書 刊行にあたって    第一期世話人 冨谷 至

 京都大学人文科学研究所、通称「人文研」は、現在東方学研究部と人文学研究部の二部から成り立っている。前者の東方学研究部は、1929年、外務省のもとで中国文化研究の機関として発足した東方文化学院として始まり、当方文化研究所と改名した後、1949年に京都大学の附属研究所としての人文科学研究所東方部になり現在に至っている。

 第二次世界大戦をはさんでの90年間、北白川のスパニッシュロマネスクの建物を拠点として東方部は、たゆまず着実に東方学の研究をすすめてきた。いうところの東方学とは、中国学(シノロジー)、つまり前近代中国の思想、文学、歴史、芸術、考古などであり、人文研を中心としたこの学問は、「京都の中国学」、「京都学派」と呼ばれてきたのである。今日では、中国のみならず、西アジア、朝鮮、インドなども研究対象として、総勢30人の研究者を擁し、東方学の共同利用・共同研究拠点としての役割を果たしている。

 東方学研究部には、国の内外から多くの研究者が集まり共同研究と個人研究をすすめ、これまで数多くの研究成果を発表してきた。ZINBUNの名は、世界のシノロジストの知るところであり、本場中国・台湾の研究者が東方部にきて研究をおこなうということは、まさに人文研東方部が世界のトップクラスに位置することを物語っているのだ、と我々は自負している。

 夜郎自大という四字熟語がある。弱小の者が自己の客観的立場を知らず、尊大に威張っている意味だが、以上のべたことは、夜郎自大そのものではないかとの誹りを受けるかもしれない。そうではないことを証明するには、我々がどういった研究をおこない、その研究レベルがいかほどのものかをひろく、一般の方に知っていただき、納得してもらう必要がある。

 別に曲学阿世という熟語もある。この語の真の意味は、いい加減な小手先の学問で、世に迎合することで、その逆は、きちんとした学問を身につけて自己の考えを述べることであるが、人文研の所員は毫も曲学阿世の徒にあらずして、正学をもって対処してきたこと、正学がいかに説得力をもっているのかも、われわれは世にうったえて行かねばならない。

 かかる使命を果たすために、ここに「京大人文研東方学叢書」を刊行し、今日の京都学派の」成果を一般に向けて公開することにしたい。     (平成二十八年十一月)


参考資料(2)


 京都学派の古代史史観? について

 冨谷先生が京都学派世話人と著書にあったので、「京都学派」に興味を持ちました。 たまたま鷲田清一氏が朝日新聞の折々の言葉というコラムで「京都学派」について『京都学派酔故伝』という本の名前をあげて、その中の京都学派の心意気みたいなところを紹介していましたので、さっそく図書館にいって読んでみました。

 京都学派には「西田哲学」「内藤東洋史」「今西自然学」の三つの流れがあることを知りました。そして、内藤湖南の「実事求是」というモットーが共通に流れていることと、もう一つの特徴、お酒好きというか、酒乱的な方々も多くそれらのエピソード、など読みやすい内容でした。
京都学派酔故伝
 考古学関係についても、樋口隆康氏が「考古学は實事求是でなくてはならない」と口癖のように言ったし、『樋口隆康 実事求是 この道』は樋口の伝記の表題であった、と『京都学派酔故伝』の著者、桜井正一郎は書いています。この本は、奈良県橿原考古学研究所長時代の発言を岩尾清治氏が「聞書」としてまとめられた本です。

 しかし、他の京大関係の考古学研究者、例えば濱田耕作、梅原末治、小林行雄の先生方の名は見えません。このことについては、ネットで探して、考古学研究室のホームページの研究室の歴史のところに、次の様な説明を見つけました。


【「京都大学考古学研究室の歴史」  考古学講座は大正五年濱田耕作が設立した。我が国最初の考古学講座である。その後、梅原末治、有光教一、小林行雄、樋口隆康、小野山節、山中一郎が教授を務め、徹底した資料の観察と客観的記述にもとづく学風が築かれた。

 巷間では「考古学京都学派」の用語も流布しているが、歴代教授は各々きわめて個性的で、関心事や研究方法も異なる。徹底した資料監察という「学風」が共通し、一連の研究テーマを継承・深化した「学流」はあっても、「学派」「学閥」は作らなかったと言える。】

 ただもう一つの特徴、お酒好きのグループ、の方のさまざまなエピソードを読みますと、このような環境では、女性研究者は敬遠するだろうと思われました。案ずるにたがわず、この酔故伝に名前が挙がっている300名ほどの方々には、家族や外国の研究者を除いて女性の研究者名は一人もいませんでした。

 ところで、湖南が唱えた「実事求是」とは、中国古典文学研究者、故吉川幸次郎に依れば“「実事」を通じて「是」を求めよ、意味を求めよ、それが正しい学問である。その反対、すなわち意味が先にあるのは正しい学問ではない。”(『儒者の言葉』より)と言うことだそうです。冨谷先生は、これを「正学」と表現されているようです。ただ気になるのは「正学」の説明での次の言葉です。

 われわれは、小手先の学問で世を惑わす曲学阿世の徒ではなく、その逆、「きちんとした学問」を身につけて自己の考えを述べることである」との表現です。在野の研究者は「正学」の範疇に入らない、というように取るのは、きちんとした歴史学を学んだ、子のがない私の僻みかもしれませんが。

 京都学派の東洋学の創立者ともいわれる内藤湖南の古代史史観をチェックしてみました。内藤湖南氏は、東の白鳥(九州説)西の内藤(近畿説)として著名です。

 湖南の古代史の叙述の基本は、倭人伝の行路記事の解釈について、“支那の古書が方向をいうとき、東と南と相兼ね、西と北と相兼ねるのは、その常例ともいうべき」『卑弥呼考』と述べています。

 戦前に京都大学文学部を卒業した著名な歴史学者三品彰英氏はその著『邪馬台国総覧』で、「湖南は原文を改定したのではなく、南を東に解し得る可能性を注意しているのである」と弁護的解説をしています。

 湖南の邪馬台国近畿説はこのように、「南は東を兼ねる」ということで成り立っているのです。また、『隋書』の日出る処の天子云々の国書は、『日本書紀』にはないのに、「その語気から察するに聖徳太子が出したものであろう」と言うように、とても「実事求是」というモットーにほど遠いものです。

 今回の冨谷先生の『漢倭奴国王から日本国天皇へ』という本も、きっちりこの湖南先生のはめられたタガ内に収まっています。

「師の説に、な、なずみそ」と説く古田武彦と正反対の「師の説にすっぽりと、なずんでいる」冨谷先生の論述です。むしろ「実事求是」を実行していたのは古田武彦の方でした。

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