『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々10
【10 冨谷先生の天皇称号始まりの意見】
【レジュメ】
冨谷氏は、教科書には「天皇称号の始まりは天武期の頃か」とあるが、推古・天智・天武各朝の三説がある。日本国民の統合の象徴天皇号の由来がハッキリしないのは残念と言うより恥ずかしい(157頁)という。
天皇号を記している、「飛鳥池工房出土木簡」「法隆寺金堂薬師如来光背銘」「天寿国曼荼羅繡帳」「船王後〈ふねのおうご〉墓誌」「野中寺〈やちゅうじ〉金銅弥勒菩薩台座銘」を検討し、称号天皇の始源は天武期を遡れないという材料に使う。
結局、推古・天智朝に天皇号が既に登場していたとの史料は無いとし、天皇の名称の確定は飛鳥浄御原令に落ち着くのではないだろうか、と教科書の記述と変わりない結論となっている。大王から天皇へ、というのだが、金石文には、隅田八幡の鏡銘文に「日十大王」とあり、また、「法皇」という天皇に無関係と思われない法隆寺阿弥陀如来の光背銘は取り上げていない。しかも国内史料に残る朝鮮諸国史書の逸文について、検討する気配も見せていない態度は、歴史学者として不遜な態度と指摘されても仕方ないのではあるまいか。
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【本論】 (注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。
◆いつから天皇号が始まったのか
冨谷先生は日本国の天皇という称号が、『日本書紀』などに何時から公式に「天皇」を名乗るようになったのか書かれていない、教科書にも書かれていない、ということで、そのところを中国学の立場から、はっきりさせたい、ということでの以下の論述です。
この本には、【天武期になり、それまでの大王にかわって「天皇」という称号が用いられるのも、この頃のこととされる】という簡単な内容の、山川出版社と三省堂の「日本史B」の関係記述が掲載されています。
これに対して冨谷先生は、次の様に述べます。【現在「天皇」という称号が使われ始めたのは、推古・天智・天武の三説がある。しかし、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇号の由来がははっきりしないのは、残念と言うより恥ずかしいことと私には思える】(p157)と。
そのために7世紀の天武朝あたりの金石文に見える「天皇」に関する「証拠」を渉猟されます。その結果、次の五個の物的証拠を示され、説明されています。一応参考に、京都学派に対する東京学派ともいうべきでしょうか、東大の大津透教授の『天皇の歴史01』講談社刊2011年刊での、「天皇号の成立」についての意見を紹介しておきます。
【天皇号の成立に学問的検討を加えたのは津田左右吉で、推古朝の金石文「法隆寺の薬師如来光背銘」に天皇号がみえることから、推古朝の成立とした。その薬師如来の光背銘は天武朝の製作であることが高い、などということから、天武・持統朝に天皇号の成立、という説が呈示され、教科書にも記され、多くの研究者もそれを支持している。しかし、天武・持統朝の成立にも疑問の点があり、近年では推古朝に、やはり天皇号が成立したとする説が出され、筆者もそれでよいと考えている】と。(『天皇の歴史01』p252~256要約)
これらのように説がまだ固まっていないことについて冨谷先生が謎解きに挑むわけです。
◆天皇の称号の証拠物件
冨谷先生は、天皇という称号の証拠物件として五個取り上げられます。しかし取り上げてみたものの、天武期以前とは思われないとして退けられたのは次の四件です。(五個目の野中寺〈やちゅうじ〉台座銘文については後述)
①飛鳥池工房跡出土木簡
まず、冨谷先生が取り上げるのは、飛鳥池工房跡出土木簡です。この木簡は飛鳥池遺跡から出土し「加尓評」や「里」以前の区画表示「五十戸」の記載があります。これは持統天皇二年に「里」に統一される以前の「戸」表示があり、この木簡は670年代の天武朝と推定できる、旨述べます。(p158)
②法隆寺金堂薬師如来光背銘
ついで、天武以前の史料として「法隆寺金堂薬師如来光背銘」をあげて内容の検討をされます。そこには「天皇」の文字の記載があり、年次記事から用明天皇の頃の作成と見える。しかし、光背銘の刻字はメッキが内面に達していず、若草伽藍焼失の後に刻まれた、という奈良文化財研究所の調査結果から、後年の製作として、用明天皇説を退けています。
③天寿国曼荼羅繍帳
ついで「天寿国曼荼羅繍帳」を取り上げますが、「斯帰斯麻宮治天下天皇」(=欽明天皇)と銘文の文書記録には出ているけれど、実際の刺繍は断片きり残っていず、天皇号登場の実証史料として使うことは危うい、とされ退けています。
④船王後〈ふねのおうご〉墓誌
四番目に冨谷先生が取り上げるのが「船王後墓誌」です。【王後は舒明天皇の末年丑年(641)に没、天智天皇戊辰年(668)に夫人と合葬された。墓誌には「天皇」の号が刻まれており、天智朝に天皇号が成立していたことを示す資料となるともいえる。
しかし、文中には「官位」という語がつかわれており、これを飛鳥浄御原令以前の用語とみなすのは難しいことから、この墓誌は後年追葬時のものとするのが定説となっている】(p164)として退けています。
・しかし冨谷先生の「船王後墓誌」の史料批判は、不当であることについて次の諸点が挙げられます。
㋐ア)王後の没年齢の推定について。天智の没年に合わせたのではないかという疑念。
㋑イ)王後が仕えたのは三人の天皇ですが、その人物比定が述べられていないこと。
㋒ウ)その仕えた天皇の宮処の所在地の比定がなされていないこと。
㋓エ)「官位」という語が飛鳥浄御原令以前にはなかった、という断定。
この船王後墓誌についての疑問、㋐~㋒については、古田武彦氏が、この王後が仕えた天皇は近畿王朝の大王たちではない、と概略次の様に述べています。
【辛丑(641年)に王後が亡くなっていることから「時限」が特定できる。墓誌にあるオサダの宮・トユラの宮・アスカの宮の三天皇に仕えたとあるが、従来当てられてきた三天皇、敏達・推古・舒明とはピッタリ対応はしていない。しかも、三天皇の間には、用明・崇峻という二天皇がいるのだが、無視されている。
さらに、船氏王後は「大仁」という顕官であるのに『日本書紀』にはその名が一切見えない。このようにこの墓誌は、「同時代史料」ではあるが『日本書紀』・『続日本紀』とは一致しないことは明らかである。
これに反し、九州には「天皇」に対応する痕跡が多い。江戸時代の資料に「生葉郡正倉院崇道天皇御倉一宇」とあるが、近年その遺構が福岡県大刀洗町の下高橋官衙遺跡から出土している。墓誌にある「乎娑陀、等由羅、阿須迦」の宮処は、それぞれ「曰佐(博多)・豊浦(長門)・飛鳥(筑前)」にあたり、いずれも九州王朝の「神籠石」遺構配列の内部に位置している】と。詳しくは『年報日本思想史』第9号2009年の「近世出土の金石文と日本歴史の骨格」古田武彦 を参照ください。
㋓エ)の「官位」という言葉は、飛鳥浄御原令以前にはない、と冨谷先生は言われます。冨谷先生は、この本の中で『隋書』の記事については、七世紀の日本の事情を正しく述べていない、として取り上げていない記事がたくさんあります。そのうちの一つが「俀国」の官僚制度についての【内官に十二等があり、云々】とある記事です。
「官位」という言葉はありませんが、この「俀国」の内官制度で、位階を受けた人物が「官位」を受けた、という表現をしてもおかしくない、と思うのですが冨谷先生は無視されます。冨谷先生が「官位」という語は、浄御原令で初めて出て来る。それ以前に「官位」という語が存在することが不審、とするのは杓子定規の「個別言語」の解釈と言わざるを得ません。
◆野中寺〈やちゅうじ〉金銅弥勒菩薩台座銘
冨谷先生が天皇の称号が明確に出ている、として挙げられるのが、⑤野中寺金銅弥勒菩薩台座銘です。しかし、これもその台座銘文の銘文の検証から、「天武以前」という論証には至らない、とされます。
丙寅年四月という記述から、666年であり、そこに「中宮天皇云々」の刻字がある。666年は天智天皇の時代ではある。しかし、「・・・・記」というのはこの仏像を寄進した「とき」を示している。仏像の完成はその数年後であろう、とされます。(p166~172)
この「野中寺金銅弥勒菩薩台座銘」の「台座銘」の発見のいきさつは、大正七年(1918)に大阪の羽曳野市にある聖徳太子建立と伝えられる野中寺宝蔵のゴミの中から発見された、というのがこの弥勒菩薩像です。その台座に62字が刻字されていた、というものです。
その銘文には丙寅年四月に「中宮天皇」の病気祈願で栢寺の住職など118名が弥勒菩薩を寄進した、と言うように読める銘文なのです。
冨谷先生は、この冒頭の年紀は「記」とあることから、この銘文を記したのであって、像の作成の年月ではない。中宮天皇などという名称は史料には見えない。寄進当時の天皇がいた「中宮」に詣ったのである。したがって銘文の記す干支が合う天智朝の時代に「天皇」という称号があったということはできない、とされます。
このような冨谷先生の説明を聞いていますと、第一に「中宮天皇など」という名称は史料に見えないと言えるのか。第二にどのような経緯で岡山県の栢寺の仏像が大阪の羽曳野の野中寺に移ったのか、という疑問が浮かんできます。同時に、古田武彦氏の「法隆寺の釈迦三尊の光背銘」についての解釈がパッと頭に浮かんできました。
そして次に、ああだからこの釈迦三尊の光背銘にある「上宮法皇」を「法皇」という「天皇」に無関係とは思えない称号が刻まれている金石文を、冨谷先生は出さないのだなあ、中国学の立場から意見を述べたらよいではないか、それを「中宮天皇など」とひとくくりにして「そのような名称は史料に見えない」とまで言いきるのは、やはり古田武彦を意識しているのではないか、ということをいやでも気付かされます。
第二の問題は、法隆寺の再建にあたって太宰府の観世音寺を解体移築した、という研究が数多くなされています。法隆寺の釈迦三尊も太宰府から持ってきたもの、ということが語られています。この天智~天武~持統の時期に、このような大和から遠い地方の寺院の廃院と、大和地方での寺院の新築が行われた、その原因に思いをはせないと、その答えは得られないと思います。
「栢寺」で中宮天皇の病気回復祈願が盛大に行われたことが墓誌に書かれています。しかし、栢寺は伝承によれば白鳳年間に取り壊され、「栢寺廃寺」遺跡として記録に残っているだけです。
近年(2008年4月)栢寺廃寺の近傍で道路拡張工事が計画され、工事に取り掛かったら、大量の古瓦が出土し、大文字遺跡として保存し調査がなされています。出土した古瓦の中に、岡山地方での最古の文字記入の瓦がかなりの数発見され、その字は「人」・「大」・「奉」・「評」が線刻されていたそうです。
七世紀から八世紀にかけてのこのような寺社の変遷・移転について、今後もっと検討され研究が進むことが期待されます。
◆国内史書に見える「天皇」について
冨谷先生は、「天皇」という称号の起源について、「金石文」からその起源の時期を探され、「文献」からの探索はなさっていません。しかし、『日本書紀』などの日本の史書にも、「天皇」という称号の痕跡は沢山残っているのは周知のことです。
冨谷先生は、「遣隋使」などについてはいくつもの『日本書紀』から記事を引用されていますのに、なぜか、「天皇」とか「日本」とか重要なテーマなのに国内文献史料にはあまり目を向けられないのです。
継体天皇の死亡時年齢について『百済本記』を注の形で引用している『日本書紀』継体紀25年の死亡についての有名な次の記事があります。
【『百済本記』によってこの文章を造った。その文には、大歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至り乞乇〈こっとく〉城を築く。この月に高麗、その王、安を殺す。又聞く、日本の天皇および太子、皇子倶に崩薨りましぬと云えり】と。
このように「日本天皇」「皇子」という今検討している「天皇」という称号の起源に関係する「語」が出ているのです。この『百済本記』記事が正しくて、そのまま『日本書紀』に掲載されていたのであれば、「天皇」という称号は、継体天皇の時期に既に用いられていることになり、冨谷先生が検討しているように、天武期前天智天皇の頃からか、というより100年も遡ることになるのです。
そのような重要な資料なのに、それについて検討するそぶりすら見せない態度には呆れる以外ありません。その冨谷先生が「称号天皇」について取り上げる『日本書紀』の記事は、雄略紀の「天王」という語がみえる「雄略紀」の記事です。【(雄略五年、461)蓋鹵王、弟昆支君を遣わして大倭にもうでて、天王に侍らしむ、云々】です。
これについての冨谷先生の説明は、雄略紀の「天王」については、古本によっては前田本などは「天皇」としているし、雄略紀では「天皇」と「天王」が混在していることを述べ、次の様に締めくくられます。
【『日本書紀』にみえる「天王」は、「大王」とあったのを編集のとき、すべて「天皇」に直そうとして、「皇」と「王」が通用することから「天皇」と(ママ)「天王」としてしまった結果ではなかったかと私は考えている】(p180)と。
どうやら『日本書紀』の編集者のいい加減さに責任を押し付けているような文章のようです。しかし、何度読み返してもこの文章はおかしいのです。この文は“「天皇」と「天王」として”ではなく、”「天皇」とすべきところを「天王」として“のミスではないか、と思われます。
◆天皇の称号の淵源
しかし「天王」という称号は、中国の史書にあります。古田武彦氏の説くところでは、4~5世紀に存在した「北涼」で「天王」という称号が用いられていたこと。当時の倭国の支配層が「天王」を4,5世紀段階で使うことは何ら不思議ではないと説かれています。(古田武彦『失われた九州王朝』第四章隣国史料にみる九州王朝より)
「天皇」という日本での称号として使われたのは4~5世紀の「倭の五王」から「俀国王タリシホコ」の間で既に用いられていた、と理解するのが史料の示すところでしょう。冨谷先生が「天皇」の称号のはじまりが天武期か天智期かというものではなく、早ければ四世紀から存在していた可能性が高いのです。
今まで見てきましたように、冨谷先生が「ヤマタイコク」問題で【その音通からヤマタイコク=ヤマト=大和】という等式に寄りかかり、「邪馬壹国」の北部九州を中心として存在した所在地の探求をおろそかにし、“「ヤマイッコク」=大委国=倭の五王の国=タリシホコの国”が存在した、という認識ができていないと、今回のように「天皇の起源」でも論理的に説明ができない、という結果になります。
その本質的な問題から外れて「阿輩雞彌」=「オオキミ」=「大王」→「天皇」とし、「スメラミコト・「スメミマ」・「スメロギ」、「治天下大王」・「御宇天皇」などの論議に持ち込んでいます。
それよりも「王朝」に欠かせない物は「称号」「国号」とともに「年号」です。その「年号」についての研究がこの冨谷論考には抜けているのです。これは、次のテーマ「日本国号の起源」についての中で、論じたいと思います。
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