『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々09

【09 冨谷先生が伝えない隋書の記事】

【レジュメ】・俀国への使者裴世清の肩書が『日本書紀』と異なること。 ・俀国の管理組織 ・俀国からではない「倭国」からの朝貢記事 ・「此後遂絶」などについては言及なし。
 つまり『日本書紀』に記述のない『隋書』の記事は、ヤマタイコク以来、大和が一元的に支配していた、という信念の持ち主には、説明不能な『隋書』の内容なのではあるまいか。

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【本論】【09 冨谷先生が伝えない隋書の記事】  (注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。


裴世清の肩書について

 多利思北孤を多利思比孤と北史の記述に従って記したということだろうと思われますが、それ以外にもたくさんの冨谷先生が述べない『隋書』の記事があります。

 冨谷先生は中国の法制史が専門と書かれていますが、中国から派遣されて来た裴世清がどういう肩書であったか、について『日本書紀』では「鴻廬寺の掌客」、中国の『隋書』では「文林郎」と異なっていることについてはなぜか無言です。中国法制史の専門家であれば、冨谷先生になにか意見があってもおかしくないのでは、と思うのですが。
 
 裴世清は隋朝では文林郎であり、唐朝ではそれより格下の鴻廬寺の掌客であったそうです。俀国への使者としてきたときには文林郎であり、大和朝廷に来た時にはもう唐の世に代わっていて、身分も鴻廬寺の掌客になっていた、という解釈もできます。

 また、『日本書紀』が編纂されたときには既に唐の時代であり、まだ唐の時代ではなかった時の出来事であったが、あとの時代の身分で記載した、という解釈も可能なのです。古代中国の法制の専門家にも解決できない、判断ができない、と正直に意見をおっしゃるべきではないでしょうか。


「俀国」の組織などについて

 冨谷至先生は、中国法制史が専門ですので、この本でも倭の五王の時代の『宋書』の倭国伝にある、使持節や諸軍事など沢山の称号が出てきます。その称号には九段階の序列があり九品とよばれていた。倭王武はその最上級の一品官を目指していた、などくどいほど詳しく説明されています。

 しかし、『隋書』東夷伝国の条には、国の管理体制が次の様に記載されています。【国の官僚に十二の階級、大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信があり定員というものはない。軍尼という中国の牧宰の役目のものが百二十人いる。中国の里長のような役目の伊尼翼が八十戸に一人いて、十伊尼翼が一人の軍尼に属す】というように。

 『隋書』の管理組織について、『魏志』倭人伝と不思議な暗合があることに気付きました。「伊尼翼が八十戸に一人いて、十伊尼翼が一人の軍尼に属す」と「伊尼翼が120人いる」ということから計算すると、総戸数は9万6千戸です。「倭人伝」では、戸数が書かれているのは、「対海国千余戸、末蘆国四千戸、伊都国千余戸、奴国二万余戸、邪馬壹国七万余戸」とあります。水行20日という遠隔の地、投馬国と、「家」という単位で推計されている一大国、不彌国のは除外しますと、9万6千戸なのです。北部九州の女王の国の直轄領域と国の領域が同じだということを『隋書』が示している、というのは考えすぎでしょうか。

 この俀国の管理組織について冨谷先生は直接何も述べていませんが、【
ここに引用は控えたが『隋書』東夷伝がのべる倭国の風俗、政治も極めて原始的で七世紀の倭国の事情を正確に記しているとは思えない】(p125~6)と切り捨てています。

 古代の日本列島において、このような統治のための組織がおかれていた貴重な文献ですが、古代日本には『日本書紀』に描かれているような政治組織のみが存在していた、という固定観念の人にはとても理解できないのでしょう。この様な中国法制史専門家冨谷至氏にしても、同様なのだなあ、という慨嘆あるのみです。


『隋書』本紀の大業六年の「倭国」奉献記事について

 冨谷先生は『日本書紀』にある「遣唐使派遣」を「遣隋使派遣」と読み替えてのべています。しかも、『日本書紀』には記載されていない「多利思北孤」の遣使は『隋書』にあるから第一回の遣隋使とされます。しかし、『隋書』には「国」からの奉献記事とは別の「倭国」からの2回の奉献記事があるのです。「帝紀三 煬帝上」にある大業四年と六年(推古十八年610年)に倭国(国ではない)朝貢記事です。

 多利思北孤王の遣使は『日本書紀』には載っていませんがヤマトからの遣使とされていますのに、特に、この大業六年の遣使は東夷伝に載っていないので、読者は気付かないと思われたのか、大事な古代日中交流の記録を冨谷先生は無視されています。

 大業4年の方の遣使は、東夷伝の国からの遣使も同年にあるので、なんとかごまかせるのですが、この大業6年というのは「此後遂絶」という記事より後に生じている可能性が高い、という考証が古田武彦氏によってなされています。少し長い引用になりますが紹介しておきます。(『失われた九州王朝』第三章高句麗王碑と倭国の展開Ⅳ『隋書』俀国伝の示すもの 俀と倭の間 より)

【「」と「倭」は音の異なる別寺である上、【隋書】では、この「国伝」とは別に、「倭国」の記事が現われている。このことから芽をそむけてはならぬ。

 A (大業四年)(三月)壬戌、百済・倭・赤土・迦羅舎国並遣使貢方物。〈隋書帝紀三、煬帝上〉
 B (大業六年)(春正月)己丑、倭国遣使貢方物。〈隋書帝紀三、煬帝上〉

 右に現われた倭国が「国伝」の「国」と同一国だ、と見ることができるだろうか。
 それはつぎの理由によって不可能である。

 一 俀国伝では、大業四年は隋側が裴世清を国に国使として派遣した年である。
 これは、前年(大業三年)の国王、多利思北孤の遣使に答えたものである。この大業四年派遣の国使裴世清の帰国に際し、国はまた、使者を随行せしめ、貢献したという。「復た使者をして清に従い来って方物を貢せしむ」〈隋書、国伝〉。しかし、この記事をもって先のA(帝紀、大業四年)の記事に該当せしめることは不可能である。なぜなら、それは大業四年の三月であるから、わずか一~二月の間に裴世清が俀国におもむき、はやくも帰国した、ということとなり、それは到底、時間的に無理だからである(事実、推古紀によると、推古十六年―大業四年―の四月に裴世清は筑紫に来ている。この年の三月に還れるわけはない)。以上によって、この帝紀中の「倭国」は「国伝」中の「国」ではない、と見なすほかないのである。

 二 さらに一段の明白に「国」と「倭国」が別の存在であることを示しているのは、先のBの記事だ。
 これを「国伝」末尾の、次の記事と対照しよう。「(大業四年)此の後遂に絶つ」。これは、先に上げたように、大業四年、裴世清が俀国におもむき、帰途国の使者う使者をともないかえった、と記した直後の記事だ。この印象的な一句をもって「国伝」はむすばれているのである(この裴世清の帰国は、推古紀によると、大業四年(推古十六年)九月である)。

 だから、帝紀のように、大業六年(推古十八年)倭国が貢献してきたという記事は、右の国伝の断定的な結びと決定的に矛盾しているのである。これを『隋書』の著者がみずから帝紀中の記事を忘れ、あやまって「此の後遂に絶つ」と記した、というような、むちゃな”言いにがれ”は誰人にも許されないであろう。すなわち、この「倭国」は「国」ではない。――これが史料のしめす冷厳な事実である。】


『隋書』が「国」と「倭国」を書き分けていることになると、冨谷先生には説明ができないので無視することに決めたのでしょう、きっと。


「此後遂絶」について

 同じように冨谷先生には理解が及ばない、と思われても仕方がないのが『隋書』東夷伝国の条の最後のフレーズ「此後遂絶」でしょう。「隋ととがこれらの出来事の後に国交が途絶えた」としか読み取れない言葉です。

 冨谷先生はご自分の手に負えないと思われたのか、「此後遂絶」については触れられていません。「国」=「倭国」=大和朝廷とすると解けない謎なのです。もし、無理に進もうとすれば、「中国史書のいい加減さ」という方向きり残っていないのです。

『隋書』を素直に読めば、「国」と大和朝廷とは別の国であること、「国」が隋朝と関係を絶った時期に、別の倭人の国(大和朝廷)「倭国」が継続して通交を求めていたことが分かるのに、と思います。このようなことから考えると、『日本書紀』に記載のある推古二十二年(614年)の犬上御田鋤派遣記事が『隋書』東夷伝国 に出ていないのは「国」からではない国からの遣使ですから当然のこと、と理解できるのです。


◆『隋書』流求国伝について

 冨谷先生は、琉球国はれっきとした日本国の沖縄県であり、中国の史書『隋書』に「伝」がたてられているのに完全に無視しています。そこには、隋が流求国に侵攻し国人多数を連行したことなどが記されています。これを知った俀国が絶縁した、という仮説はかなり可能性のある推定と思われます。

 これは、高校教科書でも無視しているから、(大津透東大教授の『天皇の歴史01』でも同じ)同様の路線を歩かざるを得ないのでしょう。「正学」を目指す、というのが大言壮語という誹りを受けても仕方ないことでしょう。

『隋書』にあるこれら古代日本に関係する「情報」を無視することについて、京都大学の由緒ある人文学研究所の学者さんたちの誰もが、この問題に異見を述べられない雰囲気なのでしょうか? そうでしたら人文研究所の学問的な成果を将来に期待するのは難しいことでしょう。

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