『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々06

【06 俀国は倭国なのか&多利思北孤について】
【レジュメ】
・冨谷氏は『隋書』にある「俀国」を「倭国」と全て書き変えて紹介する。(123頁)
・『隋書』にある第一回の遣使は日本側の記録にはないが、『隋書』が記す内容から、倭王が誰であるかはさておき倭国が派遣した正式な使いであったとしておかしくない。(124頁)

・アメ・タリシホコ・を姓・字とするのは隋の的外れの解釈である。(125頁)
・天・足彦・大王という説に異論はない。(125頁)(つまり阿輩雞彌は個人の号でなく、大王という称号としている)
・『隋書』の倭国の記事は、倭国の事情を正確に記しているとは思えない。(125頁)
 冨谷氏はこのように『隋書』の記事について、自分の評価を述べているが、肝心の俀王の名「多利思北孤」を「多利思比孤」としていることについて何ら説明はない。『隋書』の記事についての冨谷氏の説明について、以下に疑問をいくつか述べる。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【本論】【06 俀国は倭国なのか&多利思北孤について】
  (注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。

 ◆俀国は倭国ではない

 俀〈たい〉の国名について冨谷先生は、『隋書』東夷伝国 の「」を「倭」に変更しています。この本では、いろいろと読者のために「漢字」にフリガナを付けて下さっているのですが、この「」にフリガナを付けるのではなく、中国の二十四史の一つ『隋書』にある「国」という国名を理由も上げず「倭」に変更しているのです。とても、中国字の専門家として信じられない行動をとられています。

 ここに至って、この本の中で、第一章から第六章まで、「大倭」という語について出現する記事を避け、「倭」の発音の中に「い」があることなどについての論議を、冨谷先生が避けて来たことの意味が分かりました。
「委」と「倭」の読みで論じたところですが、例えば、冨谷先生は、『後漢書』の記事をたくさん引用されていますが、「大倭王」とか「使大倭」などについては論議に入られていないのです。

 特に『魏志』での邪馬壹国は、『後漢書』では邪馬臺国とされて、「壹は臺の誤り」の証拠に使われる記事ですが、その原文には「其大倭王居邪馬臺国」(案令邪靡惟音之訛也)」のようにあります。しかし、そこに付けられている范曄の解説“「邪靡惟」が訛って邪馬臺になったのではないか”という冨谷先生に都合の悪い文章がくっついているので、遠ざけたものと思われます。

『魏志』の「国国有市 使大倭監之」の「使大倭」について述べないことについては、冨谷先生がその文意を理解できなかったからではないかな、と推定するしかないのですが。

 何故、『隋書』に「国」という見慣れない文字が使われているのか、については、日出ずる処の天子の国書に国名が「大倭」とあったのではないか。それを中華意識から、高句麗を下句麗に変えた故事に倣い、「」に変えた、とすればすんなりと理解できるのです。

 しかし、この説は“日本の古代は八世紀はじめまで多元的な支配構造が存在した”と主張する古田武彦氏が主張するものです。冨谷先生が、幼いころから古希を過ぎる現在までに刷り込まれた知識のなかにある、近畿天皇家中心歴史観で中国史書を読むと、このような歪んだ判断となり、そのことを恥じるところも無く公表なさることに唖然とさせられます。

 前述の”『隋書』の倭国の記事は倭国の事情を正確に記しているとは思えない”という冨谷先生の意見は、将にその通りではないでしょうか。『隋書』が描き出す「国」の状況は「大委国」の状況なのですから、冨谷先生が指摘されるように「ヤマトノクニ」の状況と合わなくて当然なのです。

古田武彦氏が半世紀前に『失われた九州王朝』で、この「国」と『隋書』に記されたことを検証しています。改めて掲載しておく必要があるようです。



◆俀国の由来(古田武彦『失われた九州王朝』第三章そのⅣ『隋書』俀国伝の示すもの より)

 ここで「俀」という、私たちにとって“耳馴れぬ”文字を国名とした由来について考えてみよう。『隋書』俀国伝の記述は、先にのべたように、多利思北孤の国書に直接もとづいている。だから、この国書の中に自国の国名を「俀俀(タイ)国」と名乗っていた。そう考えるほかない。

 この国がみずから「タイ国」という発音の国名を名乗っていた、という証跡は、同じ『隋書』国伝の中のつぎの表記だ。「邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂、邪馬臺なる者なり」。右で「魏志の所謂」と言っているが、これは『後漢書』によって「訂正」して書いているのだ。(この点、前著『「邪馬台国」はなかった』角川文庫90~92ページ参照)

  <三国志> 邪馬壹国(やま)()国(倭国の中心たる「山」の都)

  <後漢書> 邪馬臺国=
(やま)(たい)国〔大倭(だいゐ)国〕((たい)国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる山の都)

  <隋書> 邪靡堆=
(やま)(たい)(たい)大倭(たいゐ)]の中心たる「山」の都)  〔靡(マ)は麻に通ずる。靡は、亦、麻に作る。〈呂覧〉〕(以下略)

 このように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。

 なお、「倭」字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も「」字使用の背景に存しよう。(以上引用終わり)

   この項おわり トップに戻る