『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々05
【05 冨谷先生の倭人の能力評価について】
【レジュメ】
・金印をもらったものの、その印章をどのように使うのかわかっていなかった。(29頁)
・邪馬台国において漢字が日本列島に定着していたかは、はなはだ疑問。(204頁)
・倭武の上奏文は、古典に通暁していなければ書けない。五世紀にはありえない。(91頁)
このような表現で、倭人の能力を非常に低く評価している。『魏志』うあ『後漢書』に見えるように倭国の使者は「大夫」と称していたし、近年北部九州中心に弥生時代の硯の主TS都度が続出していることも冨谷氏の見方を否定する。また、『魏志』倭人伝には、一大率の任務として、伝送の文書・賜遣の物をチェックすることがかかれているように、三世紀の頃には「文書の往復」があることを無視している。
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【本論】【05 冨谷先生の倭人の能力評価について】
(注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。
◆冨谷先生は自虐史観者?
この本を通じて読み取れるのは、倭人の能力の評価があまりにも低いと思われる表現が多く、自虐史観とでも思われる表現の数々です。いくつか例を挙げてみましょう。
① 第二章「漢倭奴国王」では、東夷は中国にとって「暗黒の未知の世界」であった、と言います。しかし、その「暗黒の未知の世界」から遣使されてきた者たちが「大夫」と称した、という記事の評価は述べられません。
② 漢朝から与えられた金印は陰刻であり、封緘に用いるものであるが、その印が封緘に用いられた可能性はゼロに近い(中略)そもそも、印がいったいどのように使用されるのかもわかっていなかったのだと私は思う。(p29)
金印が下賜された一世紀当時の倭国の漢字の使用状況については明らかにできる金石文の存在は知られていませんが、先の「大夫」という漢語由来の言葉を伝えていることである程度の漢字および漢語の知識を倭人は既に持っていた、とするのが理性的な判断でしょう。
③『魏志』本紀に俾彌呼の上表の記事があること、人偏付きの卑弥呼だったことを指摘したのは古田武彦氏です。本人が書いたのではないにしろ、漢文での文書が往復していることを「倭人伝」では次のように伝えています。「倭人伝」にある一大率の任務の説明の中に「伝送の文書・賜遣の物、女王に詣るに差錯するを得ざらしむ」と。
しかし、冨谷先生は、卑弥呼が上表した、とか、伊都国に一大率が帯方郡との文書について管理していた、とかの記事があること、それに、近年の弥生期の硯が北部九州地域に多数出土していることについては一切のべません。
④ この本の「終わりにあたって」のところで、【そもそもこの邪馬台国において漢字が日本列島に定着していたのかは、はなはだ疑問であり云々】(p204)という記述がみられるのです。むしろ、中国学のオーソリティであれば、『三国志』倭人伝にある言葉、「持衰」や「使大倭」は漢語か和語か蘊蓄をかたむけていただきたいものです。
⑤ 冨谷先生は『古事記』にある応神天皇の時代に「千字文〈せんじもん〉」が到来した、ということはあり得ない(p92)と書きます。
その『古事記』記事とは“百済に賢い人がいたらこちらに来させてくれませんか、と頼んだら、ワニキシという人物に論語十巻と千字文一巻を送ってくれた”という記事なのです。しかし、「千字文」は、6世紀に周興嗣〈しゅうおうし〉が編纂したものであり、魏の鐘繇〈しょうよう〉(AD151~230)の説もあるが確かな証拠がない、と退けています。しかし『論語』については何も異議をさしはさんでいないのです。
だとすれば、四世紀のわが国には『論語』の写本が入ってきて、それについての読解力も当然強まった、ととるのが常識的な論理の至るところではないでしょうか。
冨谷先生の論議は、「千字文」について『古事記』の記事に異議を挟みながら、『論語』についても一緒に「暗黒の未知の世界」に引き込もうとされているような筆致が気になります。
このように「暗黒の未知の世界」からそう簡単に這い上がることなどできるわけがない、もしできたように見えることがあるとすれば、どこかに何かの謎が存在している、という評価が顕著に表れているのが『宋書』に見える倭王武の上奏文についての発言です。
冨谷先生は、かの有名な倭王武の上奏文を要求した当時の、宋朝の状況を説明し、【倭は滅亡に瀕する宋につけこみ、火事場泥棒的に一品の最高官職を要求したのである】(p83)とされます。その表現の下品さも当方に負けない激しさがありますが、
【(この倭王武の上奏文に含まれる語句の出典を『礼記』から『詩経』まで28の史書を挙げ次の様に結語を述べます。)かかる正当漢文を果たして雄略天皇もしくは周辺の倭人が作文することができたのであろうか。この文章をものにするには、典拠となる古典に習熟しそれを暗記していること、さらに習熟するために各書籍が日本列島に伝来していること、少なくともこの二つの条件が満たされなければならない。いったい五世紀半ばにその条件が完備していたのか】と。
倭王武=雄略天皇と決めつけていることについては別に論じましたが、この冨谷先生の意見に対して、ではその条件が完備していなかったのか、と反論しても水かけ論になりましょう。
冨谷先生は、次の様に誰がこの情報文を書いたのかを推理されます。 倭王武たちが立派な上奏文を書けた理由として、【漢字漢文と同様、朝鮮半島から渡来してきた韓人から得た知識と情報だった】(p99)と断定的に述べられます。
なぜ、邪馬壹国の三十国の内に朝鮮半島に存在した「邪狗韓国」や、倭の五王が軍事権について授号を受けた朝鮮半島の国々に「任那国」が存在するし、『日本書紀』にも「任那日本府」が記されていることについては冨谷先生が口をつぐんで、見えないもの、存在しないもの、というような扱いをしていた理由がわかります。
すこし観点はずれますが、2012年に日中歴史共同研究の成果が外務省から発表され、のちに勉誠出版社から出版されています。そこに中国側委員から興味ある報告がなされています。「ブックロード」というタイトルの文章です。中国側の委員王勇氏が次のように、日中間はシルクロードならぬブックロードが存在した、と意見を述べています。
大まかに紹介しますと、一つには遣唐使たちが土産品として何よりも書物を購入し持ち帰ったこと。それらの内の中国には現存しない貴重な書物が奈良の正倉院に保管されていることなどを、「正倉院珍宝」「遣唐使の使命」「書籍東伝の道」「漢文典籍の還流」の項を立てて述べています。ここでは最後の「漢文典籍の還流」の結語的部分を紹介しましょう。
【中国は安史の乱と会昌の毀仏があったことによって、文物典籍の散逸は深刻であった。五代十国の時代(唐の滅亡から北宋の建国までの九〇七~九六〇年の時代)に、呉越国の天台僧義寂が宗門の復興を図ろうとし、また経蔵の無いことを嘆いた。ついに呉越王の銭弘俶が大金を出し、使者を海外に派遣して書を求めさせたところ、高麗の諦観と日本の日延が要求に応じて書を送ってきた。こうした散逸した書の回帰は清朝の末期から民国の初期にかけて幾度も高まりを見せ、大量の文化遺産がそっくりそのまま戻ってきた】と述べています。
おしまいの言葉として、【古代~近世の書籍の交流から見て、日中間はシルクロードでつながっているのではなくブックロードで繋がっていたといえる】と締めくくっています。
本好きは冨谷先生の専売でなく、古来日本人が持っている「好奇心」に基づくものではないでしょうか。小生もまだ古代史にのめりこむ前、中越戦争が終わった頃で、紅衛兵を称える軍歌が流行っていた中国に社用で長期滞在したことがありますが、帰国の時に上海辞書出版社刊の5kg越える重さの『辞海(上中下)』三分冊を自分の土産に買って帰ったことを思い出します。この辞書は40年後、戸川芳郎監修『全訳漢辞海』三省堂 として翻訳本が出版されています。
◆倭王武の上奏文の評価について
冨谷先生は、倭王武の上奏文を倭人が書けたはずがない、と次の様に書きます。
【五世紀、倭の五王の時代、日本列島に漢字は伝わってきて、漢字を用いた表記は行われていた。ただ、当時の日本語の音を漢字で表記する段階で、漢字の意味を習熟し、漢文の文章を倭人が自由に書けるはずのレベルには未だ達していなかった。ましてや文章の作成にあたり、倭王武の上奏文のような典拠を縦横に駆使した正当漢文を倭人がものにしたとは考えられないのである】(p96)
では、誰が作成したのか、については次の様に書きます。【漢字漢文と同様、朝鮮半島から渡来してきた韓人から得た知識と情報だった】(p99)と。どうしても、狗邪韓国や任那という語を出したくなかった、という冨谷先生のなんとも姑息な理由が理解できました。
武の上奏文の最初の出だしに、「自ら甲冑をまとい、山川を跋渉し」という『左氏伝』のフレーズを使ったことは、先方、宋の朝廷に、「ああ、こやつナカナカの男だ」と思わせたことでしょう。出だしで、全体の文章のトーンを見事にまとめあげている名文である、と、なぜ評価できないのでしょうか?
遠い倭国の地で、中国最古の詩篇『詩経』や『左氏伝』を読み、その教養が滲み出る名文だったから、『宋書』にも特筆掲出された、と思うのが自然でしょう。夷蛮の王が一千年以上前の書物を読んでいる、ということだけで驚いたのではないでしょうか?
冨谷先生は、ワカタケルという鉄剣銘の出土が埼玉と熊本という地域から出土したことで、雄略天皇が全国を支配していた、という前提で判断されています。その考えですと、和語を字音漢字で、それも「大王の名前の書き方も統一されていない」という雄略天皇時代の国内の漢字文化の浸透度はまだ低い段階と判定され、この大王が「宋朝への上奏文」みたいな立派な上奏文が書けるはずがない、という論理の帰結になるわけです。
あの二つの鉄剣銘の主人公は雄略天皇ではなかった、それぞれの地域の大王的人物というのがその答えなのですが、冨谷先生はとても納得されないことでしょう。
六世紀後半からの倭国の状況については、『隋書』に詳しく書かれています。しかし、そこでは冨谷先生のトーンはガラリと変わります。【ここには引用を控えたが『隋書』東夷伝がのべる倭国の風俗、政治も極めて原始的で七世紀の倭国の事情正確に記しているとは思えない】(p125~126)というように変わります。この時代あたりの『日本書紀』の記す状況と合わない、という冨谷先生の史観が良く表れているのです。
この『隋書』についての冨谷先生の意見に対する疑問の数々については、項を改めてまとめることにします。
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