『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々04
【04 倭王武は雄略天皇なのか】
【レジュメ】
冨谷氏は倭の五王について、概略次のように述べる。「倭の五王が日本側でどの天皇にあたるのか、武=雄略、興=安康、済=允恭は異論が出されていない」と。(67~68頁)
異論は出ている、古田武彦説が。冨谷氏は『「邪馬台国」はなかった』を学生の頃に読んだそうである。『「邪馬台国」はなかった』に続いて出た『失われた九州王朝』で、古田武彦氏が、『宋書』に続く『南斉書』『梁書』でも武王への授号記事があり、『梁書』の場合はその授号は502年であり、雄略の没年は479年であると指摘し、中華帝国は倭王武の亡霊に授号していたことになる、倭王武は雄略に非らず、と論じているのである。
冨谷氏は本の冒頭に、「中国学」から古代の日本と中国の関係を見ていく、と広言している。中国学の立場から雄略天皇と倭王武は同一人物である、と論証してもらいたいものだ。
加えて、江田船山古墳、及び稲荷山古墳から出土した鉄剣銘から「ワカタケル」と読み取れる文があることから、雄略天皇としている。冨谷先生は銘文の解釈で「杖刀人」を「大王の親衛隊」とする。「個別言語の考証」を旨とする著者としては大きなミスであろう。
「杖刀」とは、養老令中の医疾令に、呪禁〈じゅこむ〉に杖刀を持ち、呪文を唱えて病災を防ぐ、との説明もあり、正倉院にも、その杖刀二口が現存しているのである。『正倉院の大刀外装』1989年小学館発行にその二口の仕様概略が記されているのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【本論】【04 倭王武は雄略天皇なのか】
(注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。
◆倭王武=雄略説は正しいのか
冨谷先生の「倭の五王」についての説明は次のように始まります。
【いわゆる「倭の五王」とは、讃・珎・済・興・武であるが、五人として挙げられるのは、『宋書』に422年に朝貢してきた倭讃に対する詔にはじまり、478年の倭王武の上表まで、この五人の倭王が登場することによる。この五人の倭王が、日本側でどの天皇に当たるのか、武=雄略、興=安康、済=允恭は異論は出されていないが、讃と珎にかんしては、応仁、仁徳、履中、反正のどの天皇に配当するのか、説が定まっていない】と。(p67~68)
このように「異論が出ていない」と勝手に決めつけて、検討をしなくても良いのでしょうか。中国学のオーソリティ冨谷先生にはそれでヨシとされているのは残念です。
異論は出ているではありませんか。古田武彦の異論は目に入らないのでしょうか。冨谷先生は古田武彦『「邪馬台国」はなかった』については学生時代に読んだことを別の論考で書いていますが、続いて朝日新聞社から出た『失われた九州王朝』について読んだかどうかはわかりません。
読んでいないとは思われませんが、読んでいなければ改めて読んでいただきたいものです。国内の歴史学者さんがよく使う、「権威ある学会の査読を得ていない」という逃げ口上を使われるのでしょうか、冨谷先生あなたも。冨谷先生には、中国学学者としての矜持はないのでしょうか。
古来、この五王が日本の同時代の天皇の系図にあてはめ諸説が出ています。倭王讃などについては省略して、冨谷先生が「異論が出ていない」として採用されている「倭王武=雄略天皇」について古田武彦氏が『失われた九州王朝』で、それらの説が不当である、としている点について紹介しておきます。
「武の亡霊」という項を建てて概略次の様に述べています。
・【『宋書』に次ぐ『南斉書』『梁書』にも、次の様に、この武の奉献・授号の記事が現われる。
・『南斉書』倭国伝 建元元年(479)「進めて新たに使持節都督、倭新羅任那加羅秦韓六国諸軍事安東大将軍倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す。」
・『梁書』武帝紀中、第二 天監元年(502)「鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ。」
・倭王武の在位は、『宋書』の四六二年の倭王興の死と倭王武の即位記事と、『梁書』の倭王武への五〇二年の授号記事から、少なくともこの期間は倭王武の治世期間であったと言える。
・ところが、雄略天皇は『日本書紀』では四五六-七九年の治世となっているから、『梁書』の記事は雄略の治世をはるかにオーバーしている。
・それに、『日本書紀』によればこの期間の日本の天皇は雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈と五代に亘っている。
・また、この期間の『日本書紀』の天皇方の行状と中国の史書が伝える倭王方の行状との不一致、系列の不一致があり、とても武と雄略を同一王朝の人物とみなすことは不可能】
と故古田武彦氏は断じています。
冨谷先生は、「中国学」から古代の日本と中国の関係を見ると、初めに広言されています。是非とも、雄略天皇は「中国学」の立場からから検討したら、倭王武と同一人物であるということを論理的に説明していただきたいものです、それができるのであれば是非。
冨谷先生は熊本県江田船山古墳出土の鉄剣名、および埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘について、通説通りの解釈を述べています。そして、結論的に次の様に述べています。
【刀剣の銘文は、確かに漢文ではあるが、固有名詞、官職名は和語の音を漢字で表記したもの、つまり字音仮名に属す。先に和音があり、それに漢字の音をあてはめたのであり、字音に対応する漢字は、普遍的でなく多様な漢字表記が存在することがそれを物語っている。
獲加多支鹵(ワカタケル:幼武、若建、稚武)、乎獲居臣(オワケオミ:小別臣)、足尼(スクネ:宿彌)、斯鬼宮(シキノミヤ:磯城宮)、一方で杖刀(タチハキ:授刀、帯刀)のように、漢字の意味を意識して和音を漢字で表記した和訓も一部に見られるが、杖刀の二語が後に普遍化しなかったことからみれば、漢字の意味を理解しての表記は、まだ根付いていなかったといってもよかろう】と。(p95)
この冨谷先生の主張は、のちに出て来る「倭王武の宋朝への堂々たる上奏文」とは著しく異なる鉄剣銘文に見られる字音漢字のオンパレードは、倭王武がそのような立派な文を書けたはずがない、という主張と密接に結び付いていると思われます。
◆冨谷先生の「杖刀」の理解は間違っている
冨谷先生は、江田船山古墳出土の鉄剣銘と、稲荷山鉄剣銘に刻まれた大王名が同じである、という前提で話を進めています。はたして同じと言えるか、という問題が存在します。
冨谷先生の稲荷山の鉄剣銘文の解釈を拝見しますと、とても漢字についての専門家とは思えないのです。
冨谷先生は「個別言語」の解釈を重要視される、と言われています。しかし、冨谷先生は”「杖刀」=「タチハキ(帯刀)」とか「授刀」”と主張しています。これが一般の古代史論者であるならばともかく、京都学派の中国学の代表を自認する冨谷先生の、あまりにもの浅薄な「杖刀」の解釈です。冨谷先生の「倭人の漢語使用についての知識の無さを示している」ことを公表されていることに他ならないのです。
「杖刀」を東京学派?の解釈と同様に、「杖刀の首」を「王の護衛隊の長」と解釈しているようですが。「杖刀」はそのようなものではないのです。例えば『正倉院の大刀外装』小学館(1977年発行)によれば、「漆塗鞘杖刀」および「呉竹鞘杖刀」という二振りの刀が「杖刀」として奈良正倉院に保存されていることが掲載されています。
前者については、刃長1尺9寸であることなど、詳しく次の様に述べてあります。「刃長壹尺九寸、鋒偏刃、鮫皮把、金銀線押縫、以柒塗鞘、以鉄裏鞘尾銀鏤其上献物帳云、長四尺六分、今検長四尺三寸二分、把押縫把約鞘口及尾約闕、今修補之」(正倉院御物目録)とあります。後者についても同様に、「長弐尺壱寸六分・・・略」とあるのです。
その「杖刀」がどのように使われていたかについては、養老律令の「医疾令」に詳しく述べられています。その「医疾令」の義解〈ぎげ;説明〉にある「呪禁〈じゅこむ〉生」という職名は、古代に於て杖刀と呪術を用いて病魔を退ける「医官」であり、世襲職である、とあるのです。このようなことも知らずに、日本列島の古代の漢語の定着を説くのは、反省してしかるべきでしょう。
後に出てきますが 国号「日本」の成立に入ったところで、「養老公式令〈くしきりょう〉」について述べられています。当然「医疾令」についても一度は目を通していらっしゃると思うのですが、その気配は感じられません。
京都人文研には多くの研究員を擁しているのですから、小生がちょっと調べてみて得ることのできる事柄ですから、これらのこともご存知の研究員は当然いらっしゃるに違いないと思います。それらの情報が上に届かないのは、京都人文研という組織が、冨谷先生が仰るような、理想的な研究組織であるのか、に疑いを抱かざるを得ないのです。
小生が思うに、このような不名誉なことを、小生のような一介の古代史好事家から言われる立場に陥ったのは、ひとえに、これら二つの鉄剣銘を雄略天皇に安易に結び付けたことに、その原因があるのです。(この「杖刀」については、平野雅曠『九州王朝の周辺』杖刀随想 熊本日日新聞情報文化センター1985年2月刊 に負うところが多いことを申し添えておきます)
◆二つの鉄剣銘文の解読について
稲荷山鉄剣銘にある大王名に関係すると思われる五文字の読解については、最初の字は、けもの扁の字で旁は隻であり、最後の字は歯の米部分が九と見える字、それで「獲加多支鹵」と読ませるのは、「可能性はある」、ということ位しか言えないと思われます。
同じく鉄剣銘文が出土した、熊本の江田船山古墳出土鉄剣銘にも似たような問題が存在します。「歯」に読めるような字が刻まれているのです。
日本の学者は「歯」とよんで反正天皇の諱の「瑞歯別」の「歯」に当てたのです。稲荷山古墳で「獲加多支鹵大王」という鉄剣銘文が見つかり、それまでケモノ偏に复を蝮に宛てていたものを獲と強引に読み直し、双方ともにワカタケル大王とこじつけました。それに冨谷先生は、乗っかっているだけなのです。
常識的に考えても、大王の名をワカタケなどと幼名で刻む、それも字音漢字は適当に当てて、などあり得ないでしょう。大泊瀬(おおはつせ:『日本書紀』)、大長谷(おおはせ:『古事記』)などの名を刻まなくてよかったのでしょうか?雄略天皇が知ったら、献上者は打ち首ものでしょう。
ところで、江田船山古墳出土の鉄剣銘の解読には海外からも異論が出ているのです。この銘文の頭書部分を、「治天下復百済蓋鹵大王世」と読む説です。
熊本大学学術リポジトリという報告書(2010年5月)で堤克彦氏が「江田船山古墳の被葬者について」報告しています。(堤克彦 熊本大学社会文化科学研究科研究紀要『江田船山古墳被葬者他』2010.5刊)
詳しくは次のURLで読むことができます。http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/15155/3/KumaTK-Tutumi201005r.pdf
この報告書では、江田船山古墳出土の鉄剣銘について、その解読や被葬者比定の歴史について、白石太一郎氏・東野治之氏その他の説を詳しく紹介しています。その中に銘文を朝鮮の吏読文字として解読した、金錫亨氏や李進煕両氏の説を紹介しています。それによると百済蓋鹵大王ということになるのです。
冨谷先生もこれらの説について、正しく批判し退けることができて初めて「京大人文研」の名を挙げることができるのではないでしょうか。
この項おわり トップに戻る