『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々03

03 邪馬臺国はヤマト国なのか】
【レジュメ】
 この本には、いわゆる「邪馬台国」がどこにあったのか、という問題には無言である。
『三国志』や『隋書』にも、その首都と思われる地域への行路についての記事があるのだが、それらについての言及は全くない。
 これに関係すると思われる発言は、「倭国が九州にあろうとヤマト盆地にあろうと、中国にあまり重要なことではなかった」(35頁)とか、卑弥呼が親魏倭王の称号と金印、それに銅鏡百枚を受けたことについて述べ、「銅鏡のこと、さらには邪馬台国の位置については、本書の目指すところではないのでここでは論じない」(54頁)と書く。
 この本のテーマ「日本の国号や天皇の起源」を論じるのに、その国がどこにあったのか、を論証せずに進めてよいのか甚だ疑問である。
 冨谷氏は、倭人伝の記事を紹介するのに「邪馬壹(台)国」と原文に(台)を加えて紹介するが、そこにある「壹」「たい」とルビを振っている。(32頁)
 また「卑弥呼の死後、台与という血縁の少女を王に擁立し」と原典の「壹」を何の断りもなく「台」と書き変え「()()とルビを振っている。(61つまり、『魏志』のいう邪馬壹〈いち〉国は邪馬台〈たい〉国であり、「ヤマトコク」に通じると宣言している、と取れる。これに憤慨しない古田武彦の弟子はいないと思う。
 冨谷氏はまた、『日本書紀』に何故「卑弥呼」「邪馬台国」が書かれていないのか、それは「ヒメ」「ヤマト」という普通名詞であり、中国側が付けた名称を記す必要がなかったのでは、と思う。今は不思議と言っておくしかない、と述べる。(58頁)
 邪馬臺国は「ヤマト国」に通じるという冨谷氏の主張のためには、「臺」が「と」と読めるか、という音韻上の問題があることは古田武彦氏が指摘しているところである。この問題をクリアーできずに、邪馬壹国を奈良ヤマトへもっていくことは、中国学学者として失格であろう。

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【本論】03 邪馬臺国はヤマト国なのか
  (注)文章の
朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。


◆冨谷先生の邪馬台国=ヤマト説

 この冨谷先生の『漢倭奴国王から日本国天皇へ』という本には、いわゆる「邪馬台国」についていろいろ述べられていますが、その在処についてははっきりおっしゃらないのです。

 どうやら冨谷先生は、古来大和盆地に倭奴国や邪馬壹(台)があった、と思われているように思えるのですが、はっきりしません。

 何度読み返しましても、倭奴国は何処にあったのか・邪馬壹国は何処にあったのか・倭の五王の都督の根拠地は何処だったのか・俀国の都の所在地は何処にあったのか、については何も述べられていないのです。

 沢山の中国の史書には、それぞれの時代に中国からの使者も行っていますし、その行路などについてもたくさん書かれているのですが、冨谷先生の本には、中国の諸史書のそれらの記事から、倭人国や俀国の国都の在処についての叙述は、全く顔を見せていないのです。

 このことについて、参考になると思われる冨谷先生の発言は、第二章「漢倭奴国王」で次のような文章が見られます。

㋐【
倭国が九州にあろうとヤマト盆地にあろうと、中国にあまり重要なことではなかった。重要なのは、海の向こう、南の果てからの中華への帰属であり、それ故、印綬を授けたのである】(p35)

㋑【
倭奴国がどこにあるのか、またその実態がどうなのか、光武帝、後漢王朝がどこまで詳細を掌握していたのか、それもはっきりしない。しかしここで重要なのは、倭奴国は極東絶域の地であるという認識のもとの対応であった】(p43~44)

㋒【
『日本書紀』の選者が『三国志・魏書』東夷伝を目にしていることは確かである。しかし、「邪馬台国」「卑弥呼」の国名と人名が見えない。それは、①卑弥呼、ヤマタイコクはヒメ・ヤマトという普通名詞であり、中国での呼称を記す必要がなかった。②神功皇后と倭女王との関係を調整することの困難さが記述の省略を招く。そういった理由があるのかも知れないが、いまのところ不思議と言っておくしかない】(p58)

 以上のような叙述からでは、冨谷先生が、邪馬台国の所在について、上述の㋒でヤマタイコク=ヤマトとされているかと思われるのですが、憶測かもしれません。憶測で冨谷大先生の著作を批評したら失礼ですから、先生の他でのこの件に関する発言を調べてみました。



冨谷先生の古田武彦説批判

 冨谷至先生は、前述のように、この本を出す前に関係学会のセミナーで「漢籍と錯誤」という論文を発表されています。そこには、前に述べましたが、『魏志』の記述で「臺が壹に」、「三が二に」、という間違いが生じている。これは、伝写の際の間違いによるもので、主な原因は、原典が草書体で書かれていたためである、というのが中心テーマなのです。

 その論述の中に、古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』を批判して、邪馬台国はヤマトである、と述べているところがありますので紹介しておきます。
(“
邪馬壹国が邪馬台国の間違い、と大方が考えそれに落ち着いているのは、『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』などなどが全て「臺」に作っていることに他ならない”ということを述べられて)冨谷先生は次の様に継がれます。

既に四半世紀前のことになるが、この学会の「常識」にたいして敢然と異論を呈示した研究が発表された。古田武彦『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社1971 でありその衝撃的なタイトルからベストセラーになり、当時大学生であった私も購入して拝読したことよく覚えている。

 古田氏は『三国志』全文の「臺」と「壹」を徹底的に調査し、そこから「臺」と「壹」は、三世紀から十二世紀にかけての字体の歴史の上から混同される可能性はなく、『三国志』においては「臺」と書くべきところを「壹」と誤記していている例は検出されない、つまり、「誤謬率ゼロ」という結論に達したのである。
】(中略・誰もが知っている邪馬台国論争、大和奈良か九州か)、と述べられ引き続き、

いずれにしても日本の国家形成を考えるうえで、邪馬台国の位置の解明は不可避の事柄といえる。その位置の特定の重要な要素は、ヤマトとyamataiとの音通であった。いま、yamaichi、yamai、ということになれば、奈良大和、大和朝廷は根本から考えなおさなければならないのではないか】(太字化by棟上寅七)

 以上のように冨谷先生の話は進み、結局は『後漢書』の記事「邪馬臺」が正しいとされています。(詳しくは「新しい歴史教科書(古代史)研究会のホームページで「『漢籍と錯誤』冨谷至 批評」をご覧ください」)

 つまり、冨谷先生ご本人も、ヤマイチ、ヤマイであれば、邪馬台国ヤマト説は間違っていたことになるという危機感を持っていることを表明しています。しかし、この冨谷先生の「ヤマタイなら大和に音通からそうなる」と言えるのか、という大きな問題が存在しています。「臺」が「ト」と読めるのであればかなりの説得力を持つことでしょうが、果たしてどうでしょうか。

 そこが崩れると、根本のところで間違っていると、その後の我が国の発展段階で生じた天皇という称号や日本という国号の起源など、当然、間違った結論になっているということになる、ということが論理の赴く処の必然ではないでしょうか。

 なぜ冨谷先生のこの本には、ヤマタイコクなどの都は何処かということが述べられていないのか、というところに話を戻しましょう。

 このように倭奴国も、邪馬台国も、倭の五王の国も、国も、全て大和であるという前提での冨谷先生の今回の論述ですから、『魏志』や『隋書』にあるそれぞれの都への行路記事など目に入らないのでしょう。


臺は「ト」と読めるのか

 ともかく、その冨谷先生の主張するように「邪馬壹国」は間違いで、「邪馬臺国」だとしても、では、邪馬臺がヤマトという音通があるのか、という問題があるのです。

 藤堂明保編集学研社の『大漢和辞典』には、上古音に「ト」と読めるかのような発音記号が付されています。「臺」の上古音は「 d ə ɡ」とあります。「 ə 」はアとオ、エとオの間の音とされます。
トの音表
 つまりダ、デ、ドのいずれともとれる発音の字ということなのです。ですから、それを根拠に、「臺」はド・トと読める字とされる古代史研究者も多いようです。

 故古田武彦氏が生前、「臺がなぜトと読めるのですか」と、学研社の漢和大辞典を編纂された藤堂明保氏に聞かれたそうです。その経緯について、概略次のように『邪馬壹国への道標』で述べています。

【奈良時代以前に「臺」を「ト」と表音文字として使われた例はないのに、どこから、この読みを、との問いに、藤堂先生は次のように答えました。日本の歴史学者の皆さんが、「邪馬臺」は「ヤマト」と読まれるので、と】

 これでは、「臺」の読みが「ト」である証明にならないのは、中学生でもわかる話です。邪馬臺(台)国はヤマダ(タ)イ国です。冨谷先生が主張する“「音通」で邪馬臺(台)国は当然ヤマト”という根拠は薄れ、むしろ、邪馬壹(やまいち)や大倭〈たいゐ〉に音通が繋がることになるのです。

 また、冨谷先生は、
卑弥呼の宗女の名を『魏志』の「壹與」に代えて「台与」とされて「トヨ」と振り仮名しています。(p61)これも無理筋です。何故「壹」を「台」に理由もおっしゃらずに変えるのでしょうか。中国学学者とは思えない措置です。

『魏志』の著者陳寿は西晋の史家で、生前に倭国女王壹与が遣使していたのを目にしていた可能性もあるのです。倭人伝には卑弥呼が死んで男王が立ち、それでは国が収まらずに、壹与を立てて収まった、とあります。名前を間違えて書くとは思われません。
 
 なぜ「壹与」を勝手に「台与」と変えてよいのでしょうか?ひょっとして、「壹」を「臺」に変えて、「臺与」としても、「臺」は「ト」と読めない、という古田説を気にして、「臺」ではなく「台」であれば「ト」と読めるので、「台与」とされたのではないか、とも思われるのです。

 いずれにせよ、三世紀段階の中国で、「臺」が「ト」と発音されていたことを、京都学派京大人文研の世話人冨谷至氏は、証明する必要があります。冨谷先生が証明出来て初めて、冨谷先生は前に進めることができましょうが、それができなければ、それができるまで、この『漢倭奴国王から日本国天皇へ』の販売は自主的に差し止めることを「京都学派」の名誉のためにお奨めしたいのです。


◆『日本書紀』に邪馬台国が見えないのは

 冨谷先生は、なぜ邪馬台国や卑弥呼・壹与が『日本書紀』に示されていないか、以下ご紹介するように説明されていますが、まったく当を得ていません。

『日本書紀』の選者が『三国志』魏書・東夷伝を目にしていることは確かである。しかし、「邪馬台国」「卑弥呼」の国名と人名が見えない。

① 卑弥呼、ヤマタイコクはヒメ・ヤマトという普通名詞であり、中国での呼称を記す必要がなかった。

② 卑弥呼、邪馬台国を『日本書紀』にどう位置づけるのか、神功皇后と倭女王との関係を調整することの困難さが記述の省略を招く。そういった理由があるのかも知れないが、いまのところ不可思議と言っておくしかない。むしろ次の事柄の方が、私は気になる。

③ 魏から「親魏倭王」の称号と印綬を賜与されたこと、『日本書紀』はなぜ明記しないのか。「親魏倭王」は倭国がわざわざ洛陽まで使者を派遣し朝貢を申し出たその見返りに与えられた称号であり、先に述べたように、倭、卑弥呼にとっては魏から承認された正当性の象徴である。誇示してしかるべき、それを『日本書紀』が明記していないこと、私はそれが最も不可解なのである
】(p58)

 これが冨谷先生の本音であり、また冨谷先生の疑問が解けないこともこれまでの「漢倭奴国王」の読みによって、間違った認識、それはヤマト朝廷の出来事であった、という前提が間違っていたのです。それを全く気付いていない、冨谷先生の史観から来ているのです。

 冨谷先生は、なぜ『日本書紀』に取り上げられなかったについて、次の様に付け加えられています。

『日本書紀』は「親魏倭王」をわかっていながら、故意に書かなかった。つまり、三世紀倭女王の時代では、誇示すべき「親魏倭王」が『日本書紀』が編集された八世紀養老四年(七二〇)段階では、隠蔽いしておきたいことがらになっていたのだ。ではその間の五〇〇年間にどのような変化があり、表と裏が置き換わったのか、その解答を求めて、四世紀から時代を降っていこう】(p58)と第四章「倭の五王の時代」へと章を改めています。

 三世紀の時代にヤマト政権が全国を支配していた、とすること自体が間違っていますし、『日本書紀』のなかにも『日本旧記』によれば、という文面もあり、『日本書紀』の編集者たちは当然、「邪馬壹国」を知っていたのは間違いないことです。

『三国志』の記事によれば、卑弥呼には弟がいて、子供は無く、男王が跡を継いだが争いが収まらず、十三歳の縁戚の娘に後を継がせたら収まった、という経緯に合う人物は、『日本書紀』が編纂されてから現在まで、いろいろと史家が説を立てていますが、誰もその経緯に当てはまる人物群を探し当てることができず、女王ふたりを神功皇后の事績ではないか、と無理やりこじつけておくより(すべ)がなかったのでしょう。

 冨谷先生が依って立つところの、中国学の立場からみたら、神功皇后説は間違っている、別の国の話ではないのか、と疑うのが本筋でしょう。まあ、何が表で何が裏であったか、それを冨谷先生がどう解き明かせたのか、たどってみましょう。


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