『冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』疑問の数々
【01 金印の読みについて】
【レジュメ】
冨谷氏は冒頭に教科書の読み方を紹介する。そこには「漢の委〈わ〉の奴〈な〉の国王」と三段読みにし、委に〈わ〉、奴に〈な〉とルビが振ってある。その三段読みには問題があるとし、問題点を指摘している。
しかし、この三段読みについて批判した先人、稲葉君山氏や市村瓉次郎氏の業績を紹介しつつ、三段読みについての自説を述べた古田武彦氏を全く無視し、まるで自分が発見者のような書きようである。
冨谷氏は、「奴」の読みについて検討し、「な」ではなく、「ど」であるとする、と共に「委」という漢字の「読み」について細心の注意を払っているようだ。「委」と「倭」は意味が通じると縷々説明し、教科書に「委〈わ〉」とあることについては不問であり、「委」が「わ」という読みがあったことを容認しているようである。
それに加え、「委」から「倭」が生じ、意味としては共通している、ということは述べるが、「倭」の読みにも「委」と同様に「い・ゐ」という発音があったことなどこの本には全くと言ってよいほど顔をみせない。
「奴」が「ど/と」ではありえない、「ぬ」である、ということについて私見を述べる。「ど/と」の和音が入る国名に漢字を充てる場合陳寿がどうするか、を考えてみた。「ど/と」の発音を持つ漢字は、土・度・奴・戸・都・斗・・・など多数ある。しかし和語の「ど/と」に字音漢字として「奴」を選ぶと、「ぬ」に当てられる漢字には、怒・駑・孥 のように「奴」由来の字きり残らないのである。陳寿が「奴」を選ぶ筈はない。
後金王朝創始者ヌルハチの中国史書での表記は「奴児哈斉」とあるし、冨谷氏は「匈奴」に「キョウド」とルビを付けているが、中国語での発音は「ションヌ」なのである。
最後に金印の読みとして『後漢書』という後世の史料に従い、「漢の倭奴国〈わどこく〉・王」と読む(38頁)とし、金印の印文にある「委奴」を強引に「倭奴」と読むべきと主張している。
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【本論】【01 金印の読みについて】 (注)文章の朱字部分は冨谷先生の叙述部分です。
◆教科書の記述と三段読みについて
先ず金印についての教科書の記述、山川出版社の『詳説 日本史B』では【1784(天明4)年、福岡県志賀島で一農夫が偶然に掘り出したもの。印には「委奴国王」とあり、「漢〈かん〉の委〈わ〉の奴の国王」と読まれている。こうした印は、文書の秘密を守るための封印に用いられるもの】および、
三省堂『日本史B』の【1784(天明4)年に筑前の志賀島で偶然発見された。蛇の装飾のついた金印には、「漢委奴国王」と記され、「漢〈かん〉の委〈わ〉の奴〈な〉の国王」と解読されている。】が紹介されています。
教科書に見える倭人の国の名前について、「漢の委の奴国」という教科書に見える、所謂三段読みについて次の様な疑問を冨谷先生は述べます。
疑問(1) 「漢の配下の倭に属する奴」というAのBのCという印文は不自然ではないか。
疑問(2) 「奴」という国が後漢光武帝時代に日本列島に存在していたのか。
疑問(3) 中国が賜与する称号で「国王」という称号があるのか。
しかし、冨谷先生が上げる疑問(1)については先人がいるのです。この三段読みについて批判した先人、稲葉君山氏や市村瓉次郎氏の業績を紹介しつつ、三段読みについての自説を述べた古田武彦氏を全く無視し、まるで自分が発見者のような書きようなのです。(なお、三品彰英氏『邪馬台国研究総覧』創元社1970年で稲葉説を紹介しています)
◆委と倭について
「漢の委(倭)の奴国」という三段読みを否定しても、二段読み、「漢の委(倭)奴国」として、あとはその「委(倭)奴」をどう読むのか、という問題が残ります。
冨谷先生は【七世紀の聖徳太子以前にあって、わが日本国の名称は、「倭〈わ〉」であり、その地域の居住者が「倭人〈わじん〉」と呼ばれていたことは周知のことである】(p09)と冒頭に述べています。
次いで、「倭」とはどういう意味があるのか、『説文解字』の倭の字義の解釈を述べます。
【「倭」が「委」に通じ、「委」は「委随〈いずい〉」と熟すように「したがう」「直」という意味をもつ。そこから「委」=「倭」=「従順」との語釈が導きだされる。(『文選』による別説、中略) まずここで、次のことを確認しておきたい。「倭」「倭人」は、中国側が朝鮮半島南の海を隔てた地域そこに居住する人間を、そのように呼称したものであり、「従順」という意味をもっていた】(p10~11)
冨谷先生は、このように、委と倭は意味が通じると縷々説明し、教科書に委〈わ〉とあることについては不問です。
『後漢書』には「倭」とあり、金印には「委」とあるのですが、「委」が「倭」とと同じように「わ」と読めるのか、という論議には入らないのです。つまり、教科書に「委」に「わ」とルビがあるのを奇貨として、漢語専門家であるにもかかわらず、それに、中国で「委」が「わ」と古今読まれたという証は無いにもかかわらず、知らぬ顔の半兵ヱを決め込んでいます。
冨谷先生のこの本では、「倭」が古代中国で「ゐ/い」と読まれていたこと。後年「わ」と同様な読みなった、しかし、「委」は「わ」と変わらなかった、ということについては、中国学専門家らしくなく、なぜか俎上に上げることに慎重のようです。
冨谷先生は、「倭」の原義の説明で、原義としては倭=委であること、後漢期でも同様であったことを史料から次の様に説明します。
【「委奴」を「伊都」のこととする見方もある。これはいささか九州、伊都国にひきつけた我田引水と言わざるを得ない。「委奴」を「伊都」、もしくは「委」を「伊」と表記する他の用例はみあたらず、かつ「倭」と「委」は後漢期にあって通用していたこと、既に「倭」の字義を考えた本書で解説した。さらに、「倭奴国」と明記している『後漢書』光武帝紀および東夷伝の金印授与が志賀島出土の金印であるとの土俵に立つ限り、そこに伊都国が入り入り込む余地はない】(p32)と。
しかしながら、「委」が「ゐ/い」と読まれていて「わ」とは読まれた例がない、という論議には注意深く避け、あたかも「委」が「わ」と読めるかのような書きっぷりなのです。
◆倭/委の複合語について
冨谷先生は「倭」の複合語にもいろいろルビを振っています。そのことについての疑問も述べておきたいと思います。
中国の史書にはこの「倭」「委」に絡んだ言葉が多く出てきます。冨谷先生もいろいろその例を出され振り仮名も施されています。倭人〈わじん〉・委随〈いずい〉・倭傀〈わかい〉・大倭〈やまと〉・倭皇〈わこう〉などと。
「倭人」については、その読みが「ゐじん」であったものがいつの頃「わじん」に変わったのか、はっきりとしませんが、「大倭」については「だいゐ(い)」であったと思われる節がありますが、何故か冨谷先生はこのことについては無言で、和訓の「やまと」と書いています。
冨谷先生が「委」に振り仮名を付けていないのは、この本の第2章の冒頭に日本史Bの教科書の読みが掲げられています。それには全て「委」に「わ」とフリガナが振ってあるこので、それでよし、としているのでしょう、かなりの策士です。
冨谷先生のこの本に出て来る「大倭」は、『日本書紀』の雄略5年秋7月の記事と、『万葉集』の武市の黒人の歌の「倭」の解説で、【八世紀では「ヤマト」には国名としての呼称と、都大和の呼称の二通りが存在し、それは「日本」とも「倭」「大倭」とも漢字表記されたことは確かである】(同書90頁)とされます。
しかし、冨谷先生が取り上げていない「大倭」関係の語はいくつもあるのです。例えば『魏志』東夷伝倭人の条には、邪馬壹国の社会状況の説明のところに【収租賦 有邸閣 国国有市 使大倭監之】と「大倭」という言葉が出ています。
冨谷先生のご専門は本の奥書によれば、古代中国の法制史だそうですが、この日本の古代の管理組織についての記事を無視されているのが不思議に思えます。この文章に出て来る「使大倭」という言葉は、「使大倭」という官名なのか、「使」は動詞で「大倭に・・・せしむ」なのか、議論があってしかるべきかと思いますが、冨谷先生は取り上げません。
また、『後漢書』東夷伝倭 の記事も冨谷先生は前述のように、たくさん引用されています。その『後漢書』には、『魏志』の「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤りの証拠の一つとして良く引用されるのですが、「其の大倭王は邪馬臺国に居す」とあります。
原文は「其大倭王居邪馬臺国」(案令邪靡惟音之訛也)」です。ところが、冨谷先生はこの記事を無視されるのです。この国は「大倭国」でその国王は「邪馬臺国」に居る、と記しているのに、その「大倭」を取り上げていないのです。
この文を読めば、この本の32頁に見られるような「邪馬壹国」に無理に壹(たい)とフリガナを振る必要もないのに何故、と思えるのです。ただ本文に付けられている注釈が「やまいの音が訛った」というようについているので避けたという推測が的を射ていると思われるのです。
ともかく、冨谷先生は「大倭」についての論議については、「委」は「わ」とは読めないという論議とともに、「大倭」という漢字の「だいゐ(い)」という発音を聞きたくないとしか思えないのです。これは私のひがみでしょうか。
◆「俀国」を無断で「倭国」と変えているのはなぜ?
そのひがみの元になるのが、冨谷先生が『隋書』東夷伝俀国について述べるのに、原典の「俀国」を何の断りもなく「倭国」と「俀」を「倭」に書き変えていることがあるのです。
「俀」は「たい」と読まれる漢字です。この「たい」が「大倭」の読みに関係している、という古田武彦氏の指摘があることから、その話題に近づかないようにしているのでしょう。幸い教科書などにも「俀国」となく、「倭国」としているので取り上げる必要がない、としているのでしょうか。
古田武彦氏の『失われた九州王朝』での説明は、「俀」という字は「タイ」と読んで、「弱い」という意味があると指摘しています。ここから類推できることは、日の出ずる処の天子の国書には、「大倭(委)国」という国名が記されていたのではないか、ということです。
中華帝国と対等な立場、二人の天子を主張するとは小癪な「ダイヰコク」だ、と新王朝王莽によって「高句麗を下句麗」と名前を変えさせた前例もあることだし、と「ダイヰコク」を発音が近い「俀国」という表記になったのではないか、と言う推定に理があると思います。
この本には、古田武彦氏の「邪馬壹国」という主張のことについては一言も述べていません。しかし、ものすごく意識していると思われるのは、前にも述べましたが、冨谷先生が「倭人伝」の女王国への行路記事を紹介しているところに現われています。投馬国の次にある国の名に「邪馬壹〈(台)国」とルビを振っているのです。(p32)
このことが意味するものは、何でしょうか。もう世の中に邪馬壹国の主張を受け入れるものはおらず、壹は台ということになっているよ、という勝利宣言のように取れるのですが、これも僻みからでしょうか。この32頁の部分を掲載しておきます。か。
◆「漢倭奴国」の読みは間違っている
冨谷先生は、「奴」の読みについて検討し「ど」であるとします。特に教科書にある「委」の振り仮名「な」についての意見は何もありません。
冨谷先生は、倭人伝に記載がある三十ヵ国の倭人国にルビを振っていらっしゃいますが、「奴」を全て「ド」なのです。声を出して読んでみますと、日本の地域の名前とはとても思えない異様な感じがします。日本の地域名には「ト/ド」が入ることもありますが、それよりも「ノ」が入っている地域名の方が多いのです。
ところが冨谷先生のこの本を読んでみて、なぜ奴は「ド」という発音であったとされるのか、については具体的には全く示されていないのです。かろうじて「匈奴」の読みは「きょうど」だから「倭奴」も同じと言うようなことが書かれているということしか見当たりませんでした。
少し長くなりますが、その部分を紹介しておきます。
【范曄の『後漢書』に「倭奴国」とあり、また別の個所には「倭国」という異なった表記がされているのは、基づいた複数の“原『後漢書』”の表記の差だと私は考えている。当時、中国は「倭」を「倭奴国」とも呼んだのであり、以後の史書にも倭は倭奴ともなっている。范曄がどこまでわかっていたかは知らないが、中国の史書はなべて「倭」と「倭奴」は同一とみている】(p35)と述べ、
倭人伝の記事に「X奴国」という国々が多数あることを記し、【さらに我々は漢の強敵として有名な北方騎馬民族国家「匈奴〈きょうど〉」を知っている。「匈奴」の「匈」は匈河〈きょうが〉という河水の名称であり、それに卑字の「奴」をつけて「匈奴」の二字が成立する。印文は、「倭の奴」ではなく「倭奴」と解釈せねばならないのである】(p36)と主張されています。
このように“匈奴がキョウドと読まれているということはあなた方読者もご存知でしょう、つまり「奴」は「ど」と読まれていた”、というように主張されています。
しかし、奴=ど と当時読まれていたのかどうか、について単に「匈河」の振り仮名に「きょう・が」と付け、「匈奴」にも「きょう・ど」と振り仮名を付けて、奴=ど と言うように持っていくのは大道香具師の手品を見る思いです。
冨谷先生の説明のどこに問題があるのでしょうか。それは「匈奴」が古代中国で「きょう・ど」と発音されていたのか、という説明が抜けているのです。
「匈奴」は現代中国語では「ション・ヌ」と読まれています。「キョウ・ド」という読みは七世紀の後に我が国に入ってきた、いわゆる長安音によるものと思われます。ちなみに呉音では「ク・ヌ」です。
『漢書』には匈奴が中国に降伏したので「恭奴」と表記した、という記事がありますので、漢代には匈=恭で〈キョウ〉という発音であったか、と思われます。しかし、それ以前には諸説があるようです。
調べてみますと、「匈」の読み「キョウ」が入ってくる前の発音は、「ハン」乃至「フン」ではなかったのかと思われます。例えばハンガリー(英文Hungary)という国の名を中国語では「匈牙利」と記しています。4世紀末からヨーロッパに進出したフン帝国は中国語表記では匈帝国です。
日本でも「匈奴」には「フン・ナ」という読みを配した白鳥庫吉氏もいます。(『東西交渉史より見たる遊牧民族』より)それにもまして、、朝鮮半島に漢語が入ったのは中国との地理関係からみて、我が国よりも当然早いと思われ、ハングルでは匈奴は「フン・ノㇺ」(倭人はウェノㇺ)です。
これらのことから、冨谷先生の説かれる“匈奴は〈キョウ・ド〉と読まれる。だから倭奴も〈ワ・ド〉であり、奴は「ド」である“とはとても思えないのです。
冨谷先生は、これらのことも踏まえたうえで、「匈奴」の古代音について京都学派の中国学正学の徒として、再構築されるべきではないか、と提言します。
『魏志』倭人伝に沢山出て来る「奴」について調べてみますと、「奴」は「ド/ト」ではありえないのです。以下にその理由を述べます。一つは数学面からの検証結果から、と、もう一つは字音漢字というのですか借音漢字というのでしょうか、「奴」に「ド/ト」に当てると、「ヌ」に当てる漢字に何があるのか、という二つの点からの検証です。
◆奴は「ド」ではない、数学面からの検証
『魏志』倭人伝に書かれている三十国の名前は、魏使達が倭人に聞いて、もし彼らが漢字表記で答えられない場合は、それを魏使達が和語を字音漢字にて表記した、ということには疑問の余地はないでしょう。
ところで我が国の地名や人名に、長野、上野、野田、日野、大野など「ノ」が入っていることが多いのです。また、古代には「ヌ」と表記されていた地名が、例えば福岡市西区の「額田」が「野方」に変化していますし、岡山県甲奴郡(現在の三次市の一部)が平安時代には「カフノ」呼ばれ、現在では「コウヌ」と表記されていたり、沖縄地方では、沖縄県人以外の日本人のことを「ヤマトヌ(ン)チュ」と現在でも発音するように、所有格の「ノ」が「ン」と「ヌ」に近い発音であることは良く知られていることです。
ところで、冨谷先生が主張されるように「奴」を「ド」としますと、「X奴国」は「和語」的な感じが全く消えてしまうのですが、「奴」を「ヌ/ノ」としますと、それが「和語」的な響きに一変するのです。
弥奴国〈ミドorミノ〉、妲奴国〈シャドorシャノ〉、蘇奴国〈ソドorソノ〉、鬼奴国〈キドorキノ〉、烏奴国〈ウドorウノ〉、奴国〈ドorノ〉などそれぞれの国名を〈ドorノ〉で書いてみました。前者と後者の国名の響きから、後者の方が直感的に和語的と感じられることでしょう。
倭人伝に出ている、三十国のうちに「奴」が付く国は八ヵ国あります。倭人伝には「ト」と思われる漢字「都」が別に二箇所使われています。この問題もありますが、この「奴」が入っている国を全て「ド」読みをしますと、30もの国の名前に「ノ」が全く入らない、という不思議さが浮かび上がってくるのです。
この不思議さを、数学的に検証できないか、と私が試みたことがあります。倭人伝の国々のサイズは、今の県より小さく郡程度の大きさでしょうから、『和名類聚抄』から西海道の郡名を数えたら255郡ありました。そのうち、「ノ」を含むものは21郡数えることができました。
この数学的処理をある物理学者に頼んで計算してもらいました。255個から30個を任意に拾い上げてみて、その中に一個も「ノ」が入らない確率の計算をしたら、4%でした。つまり、奴が「ノ」である確率は96%でした。(古田史学会論集十二集に掲載)このように、奴=ド/トとするより奴=ヌ/ノの方が、確率がはるかに高いのです。
◆奴は「ド」ではない、字音漢字からの検証
それにもまして、奴がド/トではあり得ない、という証拠が別にあります。これについては古田武彦師も誰も気付いていないようです。(どなたか先学の方がいらっしゃいましたらお教えください)
それは、「ド/ト」の字音漢字に当てる漢字には、度・土・塗・斗・都・徒などなど「奴」以外に沢山あります。しかし、「奴」を「ド/ト」の字音漢字に当ててしまうと何が起こるのでしょうか。
「ド/ト」の字音漢字に「奴」を使ってしまうと、「ヌ」という「音」に当てる漢字が存在しなくなることです。どんな漢字辞典を引いてみても「ヌ」に当てられる漢字は「奴・怒・駑・孥〈意;つまこ〉」のように「奴」を原字とした漢字以外には見当たらないのです。
『三国志』の著者陳寿は、後漢代に「倭奴国」から朝貢があったことは知っていたのは間違いないでしょうし、現地「ヰヌ」国からの使者に「倭奴」の字音漢字が使われていたことも知っていたのでしょう。
ですから「ト」が入る国名には、「伊都国」「好古都国」というように、「都」が使われていますし、冨谷先生が主張されるように、邪馬臺国とヤマト国と音通が繋がるのであれば、邪馬都国と陳寿は記していた筈です。
「奴」の漢音は「ド」であり、「ヌ」は呉音である、という反論があることでしょうが、では「ヌ」の音を漢音で示せ、と言われてもできる人はいないでしょう。
中國の中古代北方音でも「ヌ」の音は「奴」ではなかったか、と判断しても間違いないと思われます。例えば、北方民族の将軍から後金帝国の皇帝に登った人に「ヌルハチ」がいます。中国の史書には「奴児哈赤・弩爾哈斉」と字音漢字で表しています。この皇帝の本名はドル八チであったと、冨谷先生は主張しなければならなくなるのです。「奴」は「ヌ」の字音漢字として使われたことは、前述のように間違いないことです。
冨谷先生は、「古田武彦」については何も述べていません。古田武彦氏は“「奴」の読みは「ナ」ではなく、「ド/ト」もしく「「ヌ/ノ」であろう”(『よみがえる九州王朝』第二章参照)というところ迄にとどまっているのです。古代の音韻について「音韻文献学」という方向からだけの考証では、「倭人伝」における「奴」の読みを決定するには至らなかった、ということでしょう。
金印の読みの結論は「漢の委奴〈ヰヌ/イヌ〉もしくは〈ヰノ/イノ〉国王」なのです。
尚、韓国語は「奴=no」です。「奴隷」は日本語では「ド・レイ」ですが、ハングルでは「ノ・イェ」と読むのです。ついでに付け加えますと、倭奴〈ワ・ノm〉です。委と倭の発音の違いについては、例えば委任は〈ウィ・イm〉倭人は〈ウェ・イn〉と「倭・委」について発音が異なる場合があります。これは、その言葉が入ってきた時代によるものかと思われます。(ハングルの発音はウエブサイト「ほっとコリア 韓国語翻訳」によりました)
◆金印の印文の読みの結論
冨谷先生は、結論として、【私は、金印の印文はこう読むべきだ】と次の様に結論づけるのです。
【漢の倭奴〈ど〉国〈・王
そして、金印賜与の背景には、漢は倭奴国に王という称号とその認証を示す印綬を与えたることで、漢に朝貢し従属する異民族国家として倭を位置づけたこと、中国と倭との政治的外交関係は、ここから始まる。そして本書を貫く重要な鍵詞〈キーワード〉は、この「王」と言う一字であることを今ここで申し上げておきたい】(p38)と。
しかし、倭・奴の読みについて検討してきた通り印文の読みは、「漢の委奴〈国王印」と結論せざるを得ないのです。
この印文「漢委奴国王」の国名の読みについての冨谷先生の結論は残念ながら大間違いであったのです。
金印の読みとして「漢の倭奴〈ど〉国〈こく〉・王」と読む(38頁)とし、金印の印文にある「委奴」を強引に、金印という金石文よりも後世の史料『後漢書』にある「倭奴」と読むべき、と主張しているのを読みますと、冨谷先生は錯乱しているとしか思えないのです。その錯乱したと思われる部分を朱◎印を付けて左に示しておきます。
しかしながら、「王」について冨谷先生はキーワードとして位置づけています。どういう意味なのか、どういう方向に導こうとされるのか、今後の本書の内容検討となります。
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