『史記』の「穆王50歳即位説」について   中村通敏  本論考は東京古田会ニュース194号(2020・9)に掲載されました。

 本会(東京古田会)ニュース179号(Mar.2018)で、古賀達也氏が「『論語』二倍年暦説の論理―中村通敏さんにお答えする―」という論考が掲載されています。

その中で古賀氏が主張する周王朝の二倍年暦で主張している根拠は二つです。

一つは『史記』で穆王が五十歳で即位し55年在位していたということ。もう一つは『東方年表』によれば、周代の王の在位年齢が長い王たちの存在、です。

そして、【たとえ一人でも二倍年暦と理解せざるを得ない王がいる以上、その王朝では二倍年暦が採用されていたとするのが、史料理解の基本です。(穆王だけは二倍年暦で記されていた、としたいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生します)。】という挑戦的な言葉で自説を締めています。

この古賀氏の主張の、『東方年表』については、その年表に依拠して論を展開することの不当なことは、本会ニュース184号(Jan.2019)にて「『東方年表』批判」というタイトルで、その史料批判を行ないました。

もう一つの論点『史記』の穆王の105歳生存記事についての反論ができないままになっていました。

本会の会員の方々からも、この周代の二倍年暦についての古賀論考に何か異見がみえるか、と期待もしていましたが、残念ながら現在まで音無しに過ぎています。

これでは周代の二倍年暦を認めることになってしまう、と思い筆を執った次第です。

 

 東周以前については、中国史書ナンバーワンとされる『史記』も「表」つまり各王の位在位年数 を書くことが出来ずに終わっています。その理由については、秦の始皇帝の焚書令による史書の焼却が大きいようです。しかし、孔子の『春秋』はもとより現在には残っていない『左氏春秋』の書名も『史記』にはみえていますし、かなりの史料や伝承などが手元にあっての『史記』編纂だったことは間違いないことでしょう。

『史記』には西周以前については、春秋期の十二諸侯の「表」は書けているのに、本家の「表」が書かれていません。周本紀が書けたのになぜだろうか、と思います。

特に、周朝の五代目の穆王について、司馬遷は、周本紀では2代成王・3代康王の時代は天下が安寧であったと、書き、【康王が崩じてその子昭王瑕が立った。昭王の時代には王道がやや衰えた。昭王は南へ巡狩して帰らず、揚子江上で死んだ。その死は諸侯に告知されなかった。ことを諱んだからである。昭王の子の満を立てた。これが穆王である。穆王は即位したとき、すでに五十歳であった。王道は衰微していた。(中略)穆王は立ってから五十五年で崩じた。その子、共王繄扈〈えいこ〉が立った】とあります。

 

このように司馬遷は、穆王は昭王の子であると書いています。しかし、何か司馬遷には納得できないものがあったのではないかと思われます。この「穆王105歳の記事」の情報元の史料に不信感を抱き、一応その史料に敬意を表して記事には書いたものの、「表」にするには、信頼性に疑いが生じて、「表」の完成ができなかったのではないか、と思われるのです。

この司馬遷の疑いの謎を解くには、もう少し資料が必要と思っていましたら、近年、中国での史料研究や古代遺跡の発見が相次ぎました。小沢賢二氏の『中国天文学史』汲古書院 によれば、汲冢竹簡で有名な『竹書紀年』も散逸していた竹簡の再編集が大掛かりになされ、『史書』扱いになっていること、及び中国国家プロジェクトとして「夏商周断代工程」という古代中国の歴史探究国家プロジェクトが一応の成果をあげたことが報告されています。

小沢氏は周王の即位時の年代については、断代工程での結論BC1046年には同意せず、むしろ『竹書紀年』から得られるBC1027年を取るべきではないか、という意見です。それはともあれ、周代の帝王の在位年をほぼ確定させた、ということから、この成果を利用して、なぜ司馬遷が穆王の105歳の長寿について、何も表現していなかったのか、のなぞ解きに挑んでみました。『竹書紀年』と「夏商周断代工程」という二つの周代の年代紀の双方を満足できる「なぞ解き」ができれば、と思ったのです。、

 与えられている条件は、

・周代の王は原則として長子相続である。(すくなくとも7代目までは)

・原則として、前王が逝去し、その時に新王元年となっている。

・『竹書紀年』には各王の即位年と逝去年を記している。(年齢ではない)

・「夏商周断代工程」では各王の即位年と逝去年について、結論を出している。

・『竹書紀年』と「断代工程」の年代案は穆王までの4代でも若干異なる。(トータルで10余年)

以上の条件で初代武王の死亡時、つまり2代目の成王の時点を原点として、系図の流れを、『竹書紀年』の場合と「夏商周断代工程」の場合の双方を並べてグラフにしてみました。その結果が次の「穆王即位時50歳検証図」です。

 

 

まだ確定的ではなくとも、『竹書紀年』と「夏商周断代工程」で得られた周王たちの在位年を元にして作成したグラフです。

おそらく、司馬遷も私と同様に、手元にある諸史料の年紀を系図にしてみて、その結果、直ちに「穆王が昭王の子」であることと、「穆王の50歳での即位」は両立しない、と悟り西周代の「表」の作成は行わなかったと思われるのです。何が問題であったのでしょうか。グラフを見れば一目瞭然です。

もし、50歳での即位ということになれば、穆王は昭王の子ではなく、祖父康王、ひょっとしたら、曽祖父成王の子供である可能性もあるのです。危険な「穆王即位50歳説」なのです。ちなみに、夏商周断代工程は穆王20歳即位説を取っています。

以上、司馬選が『史記』に穆王が50歳で即位し55年在位した、と書きながら、その件自体についての「太史公曰く」という司馬遷節が出ていないのかが気になり、そのなぞ解きについて述べました。

最初に戻れば、穆王の百五歳生存説が否定されたのですから、周代の二倍年暦説も成立せず、論語も二倍年暦で書かれてはいなかった、となるのです。この『史記』の穆王即位時50歳説否定の結論を受け入れないのであれば、受け入れない側、古賀氏に『竹書紀年』の史料批判、「夏商周断代工程」批判を含む論証責任がある、と付け加えたいと思います。

終わり、

参考資料:『史記上 中国古典文学大系10』平凡社 野口定男ほか訳

『夏王朝は幻ではなかった』岳南著 柏書房 265頁

    『中国天文学研究』小沢賢二安徽師範大学客座教授2010年汲古書院刊

『竹書紀年』https://ctext.org/zhushu-jinian/zh

(ホームページトップに戻る