プロローグ プロローグは次の4つの短文からできています。
1)それは1971年から始まった。 2)蟷螂の斧。 3)武器弾薬。 4)天からの助け舟。
その1 それは1971年に始まった
この年に始まったものに、新婚さんいらっしゃいがあります。
また”私の城下町”のルミ子さんの歌声がここかしこで聞こえていた年でもあります。
後年この年は藤原紀香さんの誕生した年として記憶されるかも知れません。
この1971年の干支は、辛亥だそうです。
古来、辛酉の干支の年は王朝の交代など異変のある年だそうです。
それと同様に、が、辛亥という年も、清朝が滅亡し辛亥革命として世に知られているように、激動の年だそうです。
(後で知ったのですが、筑紫の君磐井が継体天皇に滅ぼされたのも531年辛亥の年でした。)
ニクソンショックと言われるドルショックが起きたのもこの年です。
中国では毛澤東(マオツオトン)にクーデターを企てた林彪(リンピャウ)が失敗し、モンゴルの空から墜落死という結末を迎えた年でもありました。
しかし、日本古代史にとりましては、古田武彦さんの”「邪馬台国」はなかった”の出版ほど衝撃的な出来事はなかったことでしょう。
以後、”失われた九州王朝””盗まれた神話”と立て続けの古田武彦さんのご本の出版によりまして、従来の諸学説は吹き飛んでしまった(かと思われました)。
近年、日本近代史の見直し、ということで、”新しい歴史教科書”運動が盛んなようです。
しかし、日本歴史の基本の古代史の見方がどうか、と見ますと、旧態依然の歴史観で著述されているようです。
私達が浅学非才をも省みず、蟷螂の斧を振るおう、という理由を次に発表したいと思います。
その2 蟷螂の斧
私は、、辛亥の年、1971年当時、企業戦士の一員として海外にて外国の人を相手にしていまして、日本の情勢、特に、古代史の分野で、辛亥革命・ニクソンショック以上の衝撃を与える、”「邪馬台国」はなかった”が出版されましたことを知る由もありませんでした。
1972年に帰国し、1973年のオイルショックで企業活動が一時混迷の時代に、角川文庫の”邪馬台国はなかった”に書店で出会いました。
一読して一驚、その論理の組み立て方、緻密さに目の覚める思いがしました。引き続き、74年の、”失われた九州王朝”・”盗まれた神話”と立て続けに古田武彦さんのご本が出版されまして、勤務の合間にむさぼるように読みふけったものでした。
それまでは、或る小倉日記伝以来のファンであった松本清張さんの”古代史疑”や目が不自由になりながら鋭い感覚で邪馬台国探しをされた宮崎康平さんの”まぼろしの邪馬台国”を読んでは、やはり邪馬台国の確定は無理なのか、と思っていましたが、積年のツカえが取れた感じで、これで日本の古代史の蒙昧さも晴れた、と思っていました。
それから、何と、35年を閲して、紅顔の青年も企業戦士の役を終え、年金生活に入ることになりました。
家内から、何かなさいませんか、認知症とやらになりかねませんよ、といわれますし、取りあえず、同様の人たちが思い立つように、自分史でも纏めようかと思い立ちました。
しかし、企業戦士としての歴史は、企業活動の歴史とも全く重なります。現在の、コンプライアンスとかの法令順守の世の中の規範とは随分とかけ離れた企業活動であったし、関係者もまだ多数ご存命でご活躍中の現在、文章に出来ることではない、と思い至りました。
青少年時代乱読した本も読み返す時間は出来ました。石橋湛山の小日本論やトロツキーのわが生涯なども読むと、昔と違った感慨が生じます。古田武彦さんの一連のご本も改めて読み、その後の古代史論争はどうなったのだろう、と思いました。
書店に立ち寄って、歴史本コーナーを見てみますと、君が代論・万葉集新解釈・多元国家論などなど、多彩なご本を出版されていらっしゃるではありませんか。私より随分お年は召されている筈、とご著書の奥付を見れば、1926年のお生まれと記してあります。現在(2005年)は昔のいわゆる傘寿のお年なのにはまたビックリです。
それよりも驚きますのは、たとえば、”君が代を深く考える 古田武彦著”の中で(204頁)、”「邪馬台国」はなかった”、以来、表に立った歴史学会からの批判はなく、邪馬台国の所在は『近畿説九州説両論あり、従来通り、』と頬被りを学会が極めこんでいる、なぜ日本の『古代史学会』は沈黙を続けるのか、憤慨されていることです。学会というところは、理論・論理で諾否の判断が出来ないところなのでしょうか。
2003年ころからでしょうか、歴史教科書問題が巷間けたたましくマスコミを賑わし始めました。
”新しい歴史教科書”とあるからには、古代史部分も新しい視点から光が当てられたかな、と若干の期待感で、扶桑社の歴史教科書を手に取ってみますと、これが全くの期待外れです。
ついでに、と受験戦争では古代史はどのように取り上げられているのだろうか、と河合塾の石川先生の講義を聞いてみますと、これも旧態依然としています。
義を見てなさざるは勇なき也、と非才微力をも省みず、蟷螂の斧を私なりに振るってみようか、時間はあるし、非才の部分は、幸いインターネット時代ですし、大量の知識が瞬時に手元でヒモトケます。
ということで、、年金時代の同士をかたらい募り、大層な”新しい歴史教科書(古代史)研究会のホームページを立ち上げることになった次第です。
その3 武器・弾薬
ところで、歴史教科書の古代史部分を批判するにしても、その軸を決めなければなりません。
世の中の理性ある人々に、ナルホドと頷かすことができるかなあ、思っただけでも大変なことを思い立ったものです。
日本古代史には、大まかに言って五つの問題点があると思います。
① 縄文時代に中部日本で花開いた、銅鐸文化をどうとらえているか。
② 邪馬壱(台)国をどう説明しているか。
③ 朝鮮半島と北部九州の関係
④ 倭の五王 をどう説明しているか。
⑤ 倭国と日本国の説明は。
まあ、この諸点からみていこうと思います。
その武器というか弾薬というか、古田武彦さんの一連のご著作を頼りにするにしても、自分の知識も少しは高めなければならないでしょうから、と、ゴルフ練習の時間を久しぶりに読書の時間に当てることにしました。
生来の濫読家と自負していましたが、この半年に、この準備のために読めた本は50冊くらいに過ぎません。
しかし、これらの中には、古田武彦さんの著作はもちろんのことながら、例えば、古墳の森浩一さん、古代技術の志村史夫さん、アジアの歴史の堀敬一さん・井上秀雄さん、九州・朝鮮の人文学の参考になる金達寿さん、司馬遼太郎さんのそれぞれのご本が非常に参考になりました。非常に充実した半年であったかと思います。
また、古事記・日本書紀も改めて読んでみました。この感想は、道草のほうで述べさせていただくつもりです。
閑話休題。それで、槍玉に上げよう、と思いますのは、
A。教科書関係。扶桑社の歴史教科書・まんが日本の歴史がわかる本・家永教科書・福岡県の歴史など。
B。有名作家の歴史本。高木彬光・黒岩重吾・豊田有恒・邦光史朗・永井路子の方々の著書を。
C。歴史学者の著作など。安本美典さんはじめ目についた方々。
D。古田学説に賛成に見える方々の本も
これらの方々の著作を槍玉に上げ、世の人の理性的な常識による判断を、ネット上で仰ぎたいもの、と思います。
出来れば、月2本を槍玉にあげるようなペースでこの研究会を運営していきたいと思っています。
その4 天からの助け舟
この研究会の立場をどう説明したらよいのか、いろいろ考えました。古田さんのご本も何度も読み返し、文庫本だったのですっかり擦り切れてしまいました。
企業でのレポートなら何とかできますが、サテと考え、原稿を書いてみては破り、でしたが、神は見捨て給わず、で、この3月中旬に学士会会報が到着しました。
ルフ同好会はどうなったか、と開いてみれば、”古代史史料批判”古田武彦 と目次に大きくあるではありませんか!
これに縋れば、私たちの研究会の立場の説明は、全てOKとばかりに、肝心な点を昔のリーダースダイジェスト版並みに、抜書きさせていただきましたのが下記です。
論文全体の30%位に縮めていますので、機会がある方は是非、学士会報No857 2006-II をお読みになっていただきたいと思います。
古田武彦 古代史史料批判(抄) 抄録文責 棟上 寅七
私、古田武彦は、九州王朝説を、三十余年来提唱して来ました。学術論文や著述を通じて、その論点を明らかにしてきましたが、学会の応答は無くて、そのために自他に迷惑をかけています。そこでその本質を簡単に述べ、識者の前に提示したいと思います。
その第一は金印です。
後漢の光武帝から授与された金印が、天明四年志賀島で発見されました。又、この金印出土の博多湾周辺から、漢式鏡が百数十面出土し、日本列島全体の、弥生遺跡出土の90%以上を占めています。
つまり、「金印」出土地という点は、「漢式鏡」出土地域という面の中に存在しています。この一点が重要なのです。なぜなら、金印が授与された、倭国の中心王朝の所在地を明示しているからです。
その第二は、三種の神器です。
記・紀の神代巻にも特筆されていますが、それは現在の天皇家にも至っています。その出土領域もまた、博多湾岸周辺に集中しています。吉武高木などの王墓群です。これが弥生時代の王朝でないとしたら、「(弥生の)日本列島に王朝なし」とする以外ありません。
三種の神器を奉ずる、現今の天皇家の淵源も、一切不明となることでしょう。歴史の消失です。
その第三は、神話の史実性です。
記・紀の神代巻に出現する国名は、出雲と筑紫の両国が圧倒的です。考古学的出土状況もまた、これと同じです。筑紫(福岡県)の出土が質量共に抜群です。
漢式鏡・璧・銅矛・銅戈・ガラス勾玉・鉄器等、弥生時代には筑紫が他を圧倒しています。出雲もまた、荒神谷・加茂岩倉の二大出土以来、銅鐸・銅矛(剣)などの、抜群無類の出土領域となりました。これによりまして、記・紀の両国特記と、出土物の両国突出状況と、この両者は一致しました。つまり、記・紀の神話は弥生の史実を背景としていたのです。
その第四は、天孫降臨の史実性です。
従来記・紀の天孫降臨の地は南九州の連峰の地とされていました。近年の相継ぐ発掘によりましても、その地の周辺に三種の神器は絶無でした。そこには致命的な欠陥があった訳です。
日本書紀では確かに南九州の「日向」だけれども、古事記では「筑紫の日向」だったのです。筑紫は福岡県です。全九州なのではないのです。その筑紫の中の「日向」は「ひゅうが」ではなく「ひなた」でした。日向山、日向峠、日向川があって、その川が室見川に合するところに、、最古の三種の神器出土の王墓、吉武高木遺跡があります。
日向山の隣には「クシフル峯」があります。この峰は、先の五つの王墓に取り巻かれています。つまり、この「天孫降臨」記述は、現地(筑紫の日向)の土地鑑にたっていて、考古学的分布状況とも見事に一致し、対応していたのです。津田左右吉がいうような六世紀の天皇家の史官などが空想で「造作」できるものではありません。
(壱岐対馬地方からの矛を武器としての侵略と推定されるー棟上記)
その第五は、「祭祀」問題です。
近畿には、大和を中心に天皇陵が濃密に分布しています。これらの陵墓は生きている墓として、保護され祭られ続けてきています。あの伊勢神宮も垂仁天武の時代に(天照大神が)奉置されながら、21世紀の現在でも、同じく天皇家の祭祀を受けています。
「祭祀」の本質は継続なのです。これに反する領域、それが先述の博多湾周辺の三種の神器の五王墓です。筑後川流域に分布する装飾古墳や、神籠石山城群も同様、「発見以前」に”祭られていた”形跡は皆無なのです。
「生きている陵墓」と「死んでいる陵墓」、との両者はそれぞれ、”生き残った王朝”と滅ぼされた王朝”の存在の生き証人なのです。
その第六は、「筑紫都督府」問題です。
「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」が「使持節都督」の称号を持っていたことは著明です。その都督の拠点は「都督府」です。
では、日本列島内で「都督府」の名称の存在するところはどこでしょうか。文献上、日本書紀、にもあり、現地遺称も残っているのは「筑紫都督府」しかありません。大和都督府・難波都督府など、文献にも、現地遺称ともに全くありません。この史料事実から見れば、5世紀前後の倭国の王者の拠点がいずこにあったか明白です。筑紫なのです。
学問とは仮説の検証です。大胆に仮説を立て、緻密に検証する。その帰結は天の知るところなのです。
一つは「近畿天皇家中心の一元主義」。一般には(明治以降)これは不動の定説のように見られて来ましたけれど、学問的には当然、一個の仮説なのです。
一つは「九州」王朝」説。これもまた、一個の仮説です。
この両説のいずれが、先述の六個の疑問に答えることが出来るでしょうか。回答は明らかです。「九州王朝」説なのです。
敗戦後は、いわゆる「皇国史観」が不動の大前提とされてきました。が、それは、「敗戦」という政治的・軍事的事件によってはじめて”葬り去られ”ました。
しかし、今、再びそのような”他動的な圧力”によるのではなく、ひたすら人間の内なる自明の理性によって、可を可とし、否を否とすべきではないでしょうか。それがわたしたちの、人間としての名誉であると思われるのです。
(プロローグ終わり)
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