道草その32  郭務悰は淑人君子であったのか    2018・10・01   棟上寅七

◆はじめに


『壬申大乱』に見える郭務悰像をおさらいしてみました。古田先生は著書『壬申大乱』で万葉集にある次の二つの天武天皇が読んだとされる和歌を、細部にわたって検証され、次のように論証されています。その和歌は次です。

【25番歌】み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零〈ふ〉りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思いつつぞ来〈こ〉し その山道を
【27番歌】淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見〈与〉良人四来三(よき人の よしとよく見て よしと言いし 芳野よく見よ よき人よく見)の2首です。

古田武彦師は、【この25番歌の「み吉野」は大和の吉野ではなく、九州佐賀の吉野であると考証され、つづく27番歌の意味不明とされて来たものを、この〈与〉は原文が改訂されている、原文は「芳野吉見 多良人四来三」で「多良人よく見」であると指摘され、「元暦校本」その他、各本(類聚古集、紀州本)ともそうだ。その「多」を「与」と直し、一段と珍妙な、「土地勘」を削り去った歌としてしまったのである】と考証されました。

引きつづき先生は【白村江の敗戦後、天武は吉野にいる淑人〈よきひと〉に、みぞれの山道を越えて会いに来た。大伴皇子との対立についての自分の「決断」を唐軍の代表に示し、「淑人」は同意してくれた、その喜びを意味不明の形の暗号文的な和歌として仲間に伝えたのではないか】と推量されています。

ではなぜ「多良(太良)」なのか。古田先生は次のように述べています。【白村江の戦いにたくさんの軍船が九州に集まり出港していったはず。博多湾では敵国の眼があり軍事上無理だ。有明海・佐世保湾・大村湾・伊万里湾であろう。郭務悰は九州王朝の軍事拠点を制圧するために有明海に来たのではないか】と。

しかし有明海は国内第一の干満差のある水域として知られています。唐国の大型軍船が自由に行動できる水域とは思われません。有明海海域の地図をご覧になっていただくとよくお分かりと思いますが、有明海は干満の差以外にも、袋小路的な海域なのです。

唐軍がその海域を拠点にしたら、被占領地の反乱分子によって、場合によっては殲滅させられかねない危険性があります。それなのに何故、占領軍司令官郭務悰が多良に居たのか、この謎は太良町や有明海について調べてみると、その理由が分かりました。尚、この「多良」という地名は、現在は「多良岳」という山名に残っていますが、地名としては「太良町」となっています。

海域の特性については、国土交通省のこの水域の海底地形図によって、太良町の竹崎港の付近が有明海北部で唯一の自然良港であり、その付近は10平方キロ以上にわたり、干潮時でも1メートル以上の吃水を確保できる水域であり、古代の大型船舶集団が停泊可能ということが理解できました。竹崎港の近くに竹崎城という復元施設もありました。


また、駐留軍の司令官郭務悰が袋小路的なところに駐留できたのか、当時の東アジア情勢を検討することによって、理解することができました。

郭務悰がなぜ太良にいたのか、なぜ天武が「淑人」と表現したのか、の謎ときについて報告します。

古田師の『壬申大乱』で言及される、「九州の吉野」に関係する地図を参考に添付しておきます。


有明海北部の海底地形図に、船舶が大潮時でも、吃水1m以上確保できる水域を示したものを右下に掲げておきます。(佐賀県農林水産部調査報告から作成)



郭務悰とは何者なのか。「占領軍司令官」と「淑人君子」とのイメージとの乖離は

郭務悰という人物は、『日本書紀』には登場していますが、中国や朝鮮半島各国の史書には姿を見せていないのです。『日本書紀』では、まず、百済鎮将劉仁願が郭務悰を派遣してきたのが天智3年(664年)で白村江での敗戦の翌年です。

第二回目が、その翌年で、同じく劉仁願が、劉徳高・百済人彌軍と郭務悰の3人の含む254人の代表団です。これらの代表の位階人名が唐の記録に乗っていない、ということで、その出自等については諸説があります。ただ、百済人彌軍は最近墓碑銘文がみつかった、ということで、その一生はかなりわかりました。百済の官僚でったが唐と戦の結果、唐の体制に組み込まれた人物であったようです。

郭務悰は、その後2回にわたって、2千人を引き連れて渡来しています。彼が最後に帰国したのは、天智10年、壬申の乱直前とされています。


さて、唐軍の「占領軍司令官」が、この袋小路的な有明海北部海域に、なぜ本拠を置いたのか。これは、筑紫を本拠とする大倭国(九州王朝)との協力関係が無ければ不可能であったと思われます。


古田武彦師は、大海人皇子が会った相手を「淑人(よきひと)」と形容したことについて、概略次のように説明されています。

【『詩経』に「淑人」の言葉が「淑人君子」という熟語で用いられることが多いことから「淑人」は「単に善人の意味ではなく、きよくふかい国政を正す人」を意味する】と。

古田師は又、『壬申大乱』の中で、郭務悰らの駐留軍の目的は、【第一、唐のみが「天子」であるという大義名分。第二、ふたたび、唐に対して敵対しないような「軍事的制圧」体制の安定化。この二点にあったこと、およそ疑いえないところではあるまいか】とされますが、この見方と「淑人」とはイメージがすっきりとは噛み合いません。

この「淑人」と「占領軍司令官」の印象の乖離について、当時の東アジアの情勢の中での壬申の乱とを整理してみることにしました。また、郭務悰の上司であった、唐の責任者「劉仁願」「劉仁軌」の両人の任務に対する見方などを、中国の史書『旧唐書』と『資治通鑑』における白村江の戦いその以後の記述を参考にすると、「淑人君子」のイメージの人物像が浮かびあがってきました。

白村江の敗戦後の半島情勢を中国史書の記述から、当時の唐と新羅の緊迫した状況や、唐軍の軍事的な状況、単に朝鮮半島よりも大きなチベット族の反乱に対処しなければならない状況にあったことも分かりました。結論的には、そのような国際状況から、郭務悰が大海人皇子の対近江王朝との対決方針に同意を与え、帰国を急いだという方向が見えるように思われました。

それに、『日本書紀』持統紀の「郭務悰が天智天皇のために造った仏像をおくれ」という問題から、「郭務悰と天武天皇との、筑紫における出会い。そして深い、両者の信頼関係」(同書201頁)があった、と古田師は述べています。しかし、この見方は古田師の、例えば磐井の墓の破壊などが唐軍の仕業、とする見方を疑問視することにつながります。

以下、具体的に小生が行った作業について報告します。



◆まず何を調べるのか

まず、この期間の郭務悰を派遣した、百済占領軍司令官の劉仁軌と劉仁願について調べてみる必要があります。この期間の唐の動きについては多くの史料が残されています。『旧唐書』・『新唐書』・『資治通鑑』『冊付元亀』・『唐会要』などです。

劉仁軌については、『旧唐書』「列伝三十四」にまとめられています。多くの古代史史家はこの列伝34の中の「劉仁軌伝」の記事を引用されているようです。『資治通鑑』は、編年体で書かれていて「列伝」はありません。しかし、唐の成立から則天武后の時代について詳しく述べられています。

多くは『旧唐書』の記事からの引用ですが、独自の記事も挿入されています。『資治通鑑』は編年体で書かれているので、例えば劉仁軌という人物がどういう状況の下でどのような行動をしたのか、彼の行動の背景が、紀伝体で叙述されている『旧唐書』の列伝の「劉仁軌」を読むよりも、よく理解ができるのです。

百済の滅亡から新羅の半島統一、この期間の『資治通鑑』の記事には、劉仁軌に関するものが極めて多いのです。百済の占領軍長官であった「劉仁軌像」を、『資治通鑑』を通して、改めて「唐の対倭政策がどうであったのか」を考えてみなければ、この「郭務悰=君子」像と、「度重なる唐軍の来寇と九州王朝潰滅目的の軍司令官郭務悰」という二面性の謎は解けないのではないかと思われました。



◆劉仁願と劉仁軌の百済占領政策

唐の高句麗征討軍の司令は蘇定方でした。高句麗と結んだ百済が、新羅を攻めてくる、というので、その応援部隊として劉仁願などが百済を攻撃し、蘇定方の応援をすることになります。

この時、青洲刺史であった劉仁軌が、海運での応援責任者になり、宰相李義府から急きたてられて荒天にもかかわらず出航させざるをえなくなります。その船が嵐に遭い沈没し多くの水夫が遭難したことの責任を問われます。そして刺史を免ぜられ、一兵卒として劉仁願の軍に編入させられます。

劉仁願は、劉仁軌の優れた知識と統率力を見抜き、殆ど劉仁軌が政策立案実行の役を担います。百済が滅んだあと、劉仁軌が行った政策について、『資治通鑑』では次の様に記述しています。龍朔3年(663年)の白村江の戦に勝ち、その後についての記事です。

【(高宗は)劉仁軌に詔し、兵を率いて百済に鎮せしめ、孫仁師・劉仁願を召して還えらしむ。百済、兵火の影響が建物に明らかに残り、死体は野に満つ有様。仁軌始めて命じて骸骨を埋めしめ。戸籍を復し、村衆を治め、官長を定め、道路を通じ、橋梁を造り、堰堤を補い、池を復し、耕桑を課し、貧乏を賑はし、孤老を養い、唐の社稷を立て、正朔及び廟諱を頒つ。百済大いに悦ぶ。国境をきちん守り、各々其の業に安んじさせ、然る後屯田を修め、干し飯を貯くわえ、士卒を訓錬し、以て高麗を図る。】(『続国訳大成資治通鑑』加藤繁・公田連太郎訳註より)

『旧唐書』にもほぼ同様に記述しているのですが、この中にある「百済大悦」という語はありません。この件は、マッカーサー元帥が職を解かれて帰国する時、羽田空港までの沿道に20万の群衆(勿論日本人)がマツカサさん万歳と見送ったことや日本国国会では感謝決議をしたことと思い合わせると、歴史の符合に驚きます。

劉仁軌施策は、まず民心を掴み、占領地の国力を貯え、究極の目的、高句麗征討を目指す、というものでした。高宗はその方針を認め、百済王子だった余隆を熊津都督として、人心を安らがせます。



中国史書に見える「君子」像

劉仁願が帰国して高宗に報告します。そこで高宗が「卿は本々武人なのに、占領政策もきちんと出来、また、それらについての報告書なども理が通っていた。なぜなのか?」と聞きます。そこで仁願は「これは全て仁軌がやってくれたことです。私は、彼の能力を使っただけです」と答えます。それを聞いていた侍従の上官儀という人物が次のように評したと『資治通鑑』にあります。

龍朔3年(663年)【(原文)上問之曰。卿在海東。前後奏事皆合機宜。復有文理。卿本武人何能如是。仁願曰。此皆劉仁軌所為。非臣臣所及也。上悦加仁軌六階。正除帯方州刺史。爲築第長安。厚賜其妻子。遣使齎璽書労勉之。上官儀曰。仁軌遭黜削而能尽忠。仁願秉節制而能推賢。皆可謂君子矣

(訳文)高宗、仁願に問う、『卿、海東に在りて前後の奏事、皆時機に合い、また、文に理が有る。卿はもと武人なり。何ぞ能くかくの如くなる』と。仁願曰く、『此れ皆、劉仁軌が為す所なり。臣が及ぶ所に非ざるなり』と。高宗悦び、仁軌に六階を加え、直ちに帯方州の刺史に除し、屋敷を長安に築き、厚く其の妻子に賜い、使を遣し璽書をもたらし之をねぎらう。上官儀曰く、『仁軌、官職を外されしも、能く忠を尽し、仁願、規律正しく統制し、能く賢人を推す。皆、君子と謂う可し』と。】
寅七注:上官儀とは、西臺侍郎・同東西臺三品、のち武則天により獄死。「上官」は二字姓)

この文章は『旧唐書』にもありますが、古田師は「君子」についての記述を見逃されていたのかもしれません。つまり、劉仁願・劉仁軌は君子コンビとして評されているのです。その部下で、倭国へ終戦処理を任されたとみられる郭務悰は、この両人の薫陶を受け、大海人皇子からも「淑人君子」という評価を受けた、と言えるのではないでしょうか。




◆白村江の戦いの後の唐軍の状況

ついで、白村江の戦いの後の唐軍と百済の状況はどのようであったのでしょうか。『資治通鑑』の記事から拾い上げてみました。

劉仁軌は麟徳元年(664年)に上表しています。(この年、『日本書紀』によれば、天智3年5月に郭務悰が初来日し10月に帰国しています。)
この文章は極めて長文です。将兵の疲弊した様、軍紀の乱れ、徴兵時の官側の不正などを上げ、これらを正さなければ、百済の残党が高句麗や倭国を結んで、ふたたび一国を興そうとするだろう、と上言しています。この上表文は次の言葉で締めくくられています。

【(原文)「逆耳之事、或無人為陛下尽言、故臣披露肝胆、昧死奏陳」 (訳文)陛下の耳に逆らうことですから、国の為であっても言上する人がいないかもしれません。小職は真底から心情を披瀝し、死を賜ることを覚悟の上で述べたいと思うのです。】

高宗は、劉仁軌の提言を受け入れ、西域から劉仁願に新兵力を授け、劉仁軌の兵と交代することにします。仁軌は、兵は交代させても将を変えると、不逞の輩が妄動しかねない、と留まることを高宗に再度陳情し、自身はとどまることにします。

『日本書紀』には百済の鎮将劉仁願が、郭務悰等を派遣した、とあるのですが、中国史書の記述によると、劉仁願は帰国していて、劉仁軌が「百済鎮将」であった、ということで『日本書紀』の記事の信憑性を問う識者も多いようです。しかし、この『資治通鑑』の記事によれば、再度応援部隊として劉仁願は赴任しています。あながち『日本書紀』の記事は間違いとは言えないのかもしれません。



◆その後の半島情勢は?

新羅は唐の助けにより百済を滅ぼし、高句麗をも攻め滅ぼします。その結果、百済の旧領は熊津都督府の管轄下に、新羅にも雞林都督府がおかれ、唐の冊封体制に組み込まれます。一応、その体制に服す形で経過しますが、徐々に新羅が唐軍の占領体制から逃れる反乱が半島各地に起ります。

唐が新羅の度重なる背反について、高宗自身で親征しようか、ということについて、『資治通鑑』は次の様に重病の侍従が病をおして参内し諫言をおこない、高宗はそれを聞き入れ、その侍従はその後まもなく亡くなったことを描写しています。

儀鳳3年(678年)9月、上、将に兵を発して新羅を討たんとす。侍中張文瓘、病に臥して家に在りしが、輿に乗りて入り見え、諫めて曰はく、『今、吐蕃(チベット)が背き、将に兵を発して西討せむとす。新羅は、不順なりと云うと雖も、未だかって国境を犯さず。若しまた東征とならば、公憤私憤の別をわきまえない行いであり是非ご自制を、と臣は言わざるを得ず』と。上、すなわち止む。癸亥、文瓘薨ず】と。

これらの事を総合的に考えて、唐はその時に、チベット族からの脅威を受けている状況にあり、新羅に対しての武力行使もままならぬ状況にあったようです。日本列島を武力で直接征服する余裕もなく、対日本列島経略方策は、百済の例にみられるように、在地勢力を親唐勢力と変えて利用する、という政策しか取りえなかった、と思われます。



◆『日本書紀』の記述から見えてくる、劉仁軌の対倭政策

以上述べてきたことと、『日本書紀』に見える、唐軍の戦後処理関係の来日を見てみますと、郭務悰は、最初は極めて少人数できて、次に254人と増え、その後2000人の渡来を二回記しています。

最初に倭国事情に詳しい元百済官僚の郭務悰を派遣して「表函」を届けた、とあります。次の劉徳高という唐の高級役人と元百済王国幹部の彌軍と郭務悰の三人が主体として、警備や調査などを入れて254人という、大代表団での本談合が行われたものと思われます。

その談合の結果、郭務悰をトップに置く代表団が、筑紫の政権と協力して、今後の唐に対しての協調体制の確立を図っていく、ということになったのでしょう。

この取り決めには、唐の捕囚となった薩夜麻の留守居役への親書も当然「表函」に入っていたいた筈です。日本人の精神構造からみて、それが大きな力を発揮したものと思われます。1300年後に米国に対して「忍び難きを忍び・・・」という昭和天皇のお言葉で大きな反乱もなく、米軍の占領政策に従ったのと基本的に同じ形での終戦宣言をしたのではないでしょうか。

『日本書紀』が記す、その後の二度の2千人の渡来は、以上の事から演繹されて出てくるのは、捕虜・敗残兵や百済難民という答えです。このような状況下で、筑紫の大分君など『壬申大乱』で活躍する倭国軍勢が大海人皇子に下で近江軍とたたかったものではないかと、推量するものです



◆唐軍の破壊・暴行という仮説が何故生じたのか

白村江の敗戦後に唐軍が九州に進駐し、倭国(九州王朝)を潰した、という説は、九州王朝論者でばかりでなく、例えば東大東洋史学科教授であった故西嶋定生氏も主張しています。これは『日中歴史共同研究』勉誠出版2016年で中国側委員の王小甫氏(北京大学歴史学教授)が、西嶋氏の『日本歴史の国際環境』から次の様に唐軍の派遣について意見を引用して批判しています

西嶋定生氏は、唐の遣使団は2000人を数え、決して和平の使者ではなく、威嚇のために完全武装していたとある。また高宗の泰山封禅までも白江口の戦勝と関連づけている。こうした見方は、敗戦側の倭国の感覚から生じたもので、客観的に事実を求める姿勢とはいえない。当時、唐軍は疲弊していて、百済に駐屯していたが、高句麗の勢力の反撃を恐れていたのに、わざわざ遠方の倭との間に波風を立てるわけがない】と。

古田武彦師が『壬申大乱』で述べている「唐軍の倭国武力占領」という表現はありえても「暴力的占領」は果たしてあったのか疑問に思われます。「淑人君子」の郭務悰軍司令官の下では”なかった”のではないか、と思われるのです。たしかに『万葉集』27番歌から、古田武彦師の郭務悰は淑人君子であった、という論証は正しかったと思います。しかし、唐軍の暴力による九州王朝の墓域の破壊、という古田師の仮説は果たして正しかったのでしょうか?

占領軍として進駐するのが当然、と古田武彦師は『壬申大乱』でも次の様に述べられています。【八年間に6回、人数も、254人、2千余人、2千人、という極めて多い。彼らは倭国の軍事拠点、吉野に近い有明海の太良に唐の水軍を駐留させた。彼らは敵の軍事拠点を完全に制圧するためにきていた。郭務悰がその全唐軍の総司令官であった】と。(『壬申大乱』第四章第二節要約)

そして、その唐軍が大倭国の象徴的な磐井の墓の石人石馬などを破壊したと発展させられます。『失われた九州王朝』コレクション版ミネルバ書房「日本の生きた歴史2」での、「磐井の乱はなかった」との論証の中で、大約次のように述べられています。

【磐井の後を継いだ葛子はなぜ「石の造形物」の造り直しもせず、放置しておいたのでしょうか。・・・・・これは七世紀後半に当地に侵入してきた唐の軍勢との闘い、筑後川流域の古墳などの遺跡の内部を破壊尽くした「暴虐」を換骨奪胎させ・・・・】というような表現をされています。とても「淑人君子」のふるまいではありません。

勿論、君子に率いられた軍隊の一部分子が君子らしくないふるまいをすることは十分考えられますが、古田武彦師の中で、「淑人君子=唐軍の代表者」という、万葉集25番および27番歌から析出された郭務悰のイメージとの乖離がどうしても気になるところです。

しかも、唐軍の進駐や唐軍による九州王朝のシンボリックな墓域の破壊、などの証拠や伝承は何一つ残っていないのです。現地に何一つ証拠がなく、外国史料には白村江の勝利の後に、百済進駐軍は、守備役に劉仁軌を残し、孫仁師や劉仁願は帰国した、とあるのです。

古田師が証拠として挙げるのが、磐井の墓などの石造物の破壊です。ここで、個人的な古田師との会話を持ち出すのはどうか、と思うのですが、先生が久留米大学の市民講座に講師としてお見えになっていた10年前のころ、歩きながらのおしゃべりでしたが、小生が「磐井の墓などの破壊は、天武期の筑紫大地震によるとは考えられませんか」、とお尋ねしたことが有ります。

先生は同行されていたO氏に、その大地震があったのは事実ですか、と聞かれ、O氏が『日本書紀』の天武紀にありますとの答えを受け、先生は無言になられ、宿舎まで考えこまれていました。
いずれにせよ、古田先生の古代史の考証に「M7クラスの天武期の筑紫大地震」(巻末の注を参照ください)について言及されている論考に、小生はお目にかかっていません。



◆倭国軍の撤退はどのように行われたのか

郭務悰が二度にわたって2000人もの人員を引き連れて渡来したことについて考えてみます。倭国軍の敗戦後の半島からの撤退はどのようになされたのでしょうか。まず、派遣人員はどれほどであったのか、『日本書紀』の記述から拾い上げてみます。

①661年5月、安曇比羅夫・狭井檳榔・朴市秦造田来津が百済豊璋王とともに、170余隻と1万余の兵士であった。

②662年3月、上毛野君稚子、巨勢神前臣訳語、阿部比羅夫の2萬7千人。

③同年に、廬原君臣が、1万余人を派遣。 合計、4万7千余の兵士が送り込まれているのです。

この大部隊が、総大将薩夜麻君などの幹部が捕囚となった状況で、戦死者以外の全員が無事に故国へ帰れたのでしょうか。かなりの兵士が捕虜として帰国できなかったものが多数いたことは当然だったと思われます。

また、新羅が、唐に対して反旗を翻し始めていることもあり、伝統的に百済・新羅の反目で、新羅の支配下になることに絶望した百済や旧加羅遺民。また唐の配下になるよりも、縁故を頼って倭国への移住を希望する者もいたと推量されます。

古田師の口調をお借りしてのべますと「郭務悰が、これらの処理のために活躍したのではあるまいか。2千人の渡来が2回という記録は、その想像を裏書きするものではあるまいか。」



◆おわりに

一応、今回のワークで、白村江の敗戦後の数度の郭務悰の渡来は、捕虜交換・難民受け入れ、大倭国の今後の方向について、最終的に大海人皇子の案を郭務悰が承認し、郭務悰が帰国したのではないか、という仮説に至りました。

郭務悰については、『日本書紀』の記されているだけで、外国史料にも現在まで何も見つかっていません。新羅による半島統一の混乱期で、この期間の百済に関する記録は散逸してしまったものでしょう。今後、出てくるかもしれない、新たな郭務悰像が描かれるかもしれない、ということを期待するものです。

この今回のワークによって描き出された郭務悰像によれば、古田武彦師が展開した九州王朝像にいくつかの問題が派生してきます。

第一に、磐井の乱の評価。”なかった”で済まされないのではないか。

第二に、九州年号の記述との整合性。

第三に、裏方で大きな役割を果たした筑紫君薩夜麻のその後は?

などなどキリがないでしょう。83歳を生き延びることはできていますが、小生にはもうあまり残された時間がありません。今後の諸賢の研究に待つ、ということで宜しくお願いいたします。

                          おわり

注:文部省「地震調査研究推進本部地震調査委員会」が平成16年6月9日に発表した報告書「水縄断層帯の評価」という報告。天武7年(679年)の筑紫地震は水縄断層帯の最新の活動である可能性があり、1万4千年周期で発生している。その地震はマグニチュード7.2程度の地震を発生し岩層が水平面で2メートル程度ずれると推定される、とあります。https://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/katsudanso/f094_minou.htm

 

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