鏡王女物語 (三) 注書き



注301)太宰府 『日本書紀』に筑紫都督府と出ています。また、寧楽(ねらく)の都とも呼ばれていたようです。730年に小野老という太宰府官人が詠んだ“あおによし寧楽(ねらく)の都は咲く花の匂うが如く今さかりなり”は有名です。

太宰府の語源は、中国の周王朝以来の伝統の官名、太宰・太傅(だいふ)・太保(だいほ)の三公から来ています。後年、大和王朝が筑紫大宰を置いた役所で大宰府とするのは誤りです。尚、太傅府は現在の筑前大分、太保府は小郡市大保にあったと思われます。

注302)天ご一統 『隋書』「俀国(大倭国)伝」に其の国の王は、姓は阿毎、名を多利思北孤であった、と出ています。この大倭国王朝の主が「阿毎(あめ=天)」という姓であったと記録されているわけです。

注303)撃ちてし止まむの歌 この疑似万葉調の和歌の元歌は、万葉集巻十一第二六四〇番詠み人知らず 梓弓ひきみゆるべみ、来ずは来ず、の冒頭句をまず頂きました。あとの部分は、『古事記』の神武紀にある古歌の、リフレイン“撃(う)ちてし止まむ”を結びつけたものです。太平洋戦争の戦意高揚のキャッチフレーズとしても、この“撃ちてし止まむ”は1930年代から敗戦まで、日本中に氾濫していました。

注305) 摂州 摂津国(せっつのくに)は、かつて日本に設けられた地方行政区分の一つです。 摂州(せっしゅう)ともよばれ、瀬戸内海航路の起点で淀川大和川水系との結節点でもあり、津国(つのくに)と呼ばれました。『日本書紀』によると、 摂津国内には、難波長柄豊碕宮・難波宮・難波京等、度々天皇の宮処が構えられた、とあります。しかし、「難波」が摂津なのか、ということには異説があり博多湾説もあります。本書では難波長柄豊碕宮を博多湾岸の愛宕神社の位置にあったものとしています。

注306) 毛野国 毛野国・毛国(けのくに)は、関東地方の律令制以前の日本の文化圏の一つです。律令制下では上野国下野国 が置かれました。語源については、①かつて毛人の住む地として毛の国、二字表記にして毛野の字が当てられた、というのと、②毛は二毛作の毛で禾本科の穀物を指し、昔この地域が穀物の産地であったことから毛野の名となった、などがあります。この地は 毛野氏(けぬし)が治めていたとされ、吉備氏・筑紫氏と並ぶ大豪族だった、と言われます。
毛野国は後に上毛野国造(かみつけぬのくにのみやつこ)の領域(後の 上野国)と下毛野国造(しもつけぬのくにのみやつこ)の領域(後の 下野国)に分けられたとされますが、分けられた時期は不明です。両国が元は毛野国で一つであったと伝わるのみで「毛野」としての登場が無いためです。

もう一つ大きな問題があります。かみつけ、しもつけ この表記は東国だけのものではないのです。豊前上毛郡多布郷などというように豊の国に上毛・下毛郡が存在するのです。上毛(こうげ)郡は上毛郷(かみつけのごう)・上毛荘(かみつけのしょう)・上毛別符(かみつけべっぷ)などの名称が記録に残っています。

当時の郡はかなりの範囲を領し、この両毛郡が知らない間に東国の両毛国と混同された可能性が考えられます。例えば磐井の乱で、『日本書紀』の記事に、磐井君と毛野君が昔は一緒に飯を食った仲ではなかったか、とあるように、同じ九州仲間であった可能性は高いと思われます。この物語では、日本列島全体に応援を求めた、という意味で東国の毛野国としています。

注307) 終日(ひねもす) 一日中の意味。用例としては芭蕉の”「春の海 ひねもすのたり のたりかな” が有名。

注308) 忘れ貝の歌 この疑似万葉調の和歌の元歌は、万葉集巻十一第二七九五番詠み人しらずの次の歌です。 “木の国の 飽等(あくら)の浜の忘れ貝 われは忘れじ年は経ぬとも”の場所を、“松浦の玉島川の”に変えてみたものです。

注304) 吉備 吉備国(きびのくに)とは、古代日本の地方国家です。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県の島嶼(とうしょ)部および兵庫県西部にまたがり、筑紫・出雲・大和・越・毛野などと並ぶ有力な勢力の一つでした。別名は、吉備道(きびのみち)、備州(びしゅう)。後には備前国・備前国・備中国・備後国・美作国というように分割されました。吉備団子が有名です。

注310) 厠(かわや) トイレのこと。昔、トイレは流れの上に造られていたことから「川屋かわや」という言葉が出来たというのが定説になっています。

注311) 青丹よし加沙の都の歌 この和歌の元歌は、万葉集巻三第三二八番 大宰少弐小野老朝臣の“青丹よし寧楽(ねいら)の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり”の寧楽を加沙に変えました。「加沙」は、太宰府がある地域現在の地名「御笠」の意味で造りました。
また、「寧楽」は、奈良という解釈が一般的ですが、「ネイラク」を「ナラ」と読むのは無理があり、「寧楽」の字義から、「みなたのしめる」の意で太宰府説もあり、本書でもその意にとりました。

注312) 朝倉(あさくら)  福岡県朝倉郡 斉明女帝が、筑紫国筑紫朝倉に遷宮し戦争に備えたけれど、661年に朝倉宮で死去。『日本書紀』の記事にある、朝倉の橘広庭宮が何処にあったのか現在までわかっていません。しかし、筑後国生葉郡に正倉院という地名があり、そこを発掘調査したら奈良正倉院と同様の建物遺構が出現しました。近くの小郡市の現三井高校がある処が、いわゆる飛鳥の浄の御原であり、そこに宮処があった可能性が高いと思います。

注313) 尋(ひろ) 長さの単位。手を広げた長さである。明治時代に6尺とされたので約1.8mとなるが、古来はもっと短かった。 漢字博士の白川静さんによると【左右の手を広げた一ひろの長さをいう。左右の両手を連ねたその字形からも其の字義のもとづくところは明らかであろう。左右の手をひろげて、その袖をひるがえして舞う左右颯々の儀容は、神の来臨を求める(たづねる)舞である。】ということだそうです。

注314) 君が行く海辺 の歌  元歌は、万葉集巻十五第三五八〇番詠み人しらず。そのまま使わせていただきました。前書きに「新羅に遣はされた使人らの、別れを悲しんて贈答し、海路にして情をいたましめ思を陳べたる、あわせて所に当りて詠える古歌」、とあり、場面によく合うと思いました。

注315)荒津(あらつ) 福岡市中央区の地名。荒江、荒戸などの類似地名もある。現在の福岡市中央区荒戸の港(現博多漁港)と思われます。近くには、古代からの外交・交易の拠点、「鴻臚館」跡もあります。
 福岡市博多区の住吉神社境内に掲げられている鎌倉時代の古代図でも、那の津の表記はみえません。この図には、説明が付いていましたので、ご紹介します。


 博多古図解説『この博多古図は、当住吉神社蔵の絵馬で、鎌倉時代に描かれたものを、江戸時代に筆写し、明治になって奉納されたものであります。西公園は昔から「荒津山」といい、現在の荒戸の地名は荒津の変化したものと云われ「草ヶ江」は、現在の大濠公園や草ヶ江の地名に当時の面影をとどめています。また、「袖の湊」は平清盛が築いたものと云われ、対中国貿易の重要な港で、今の呉服町付近にあたります。この時代では、天神、中洲はもちろん博多の大部分はまだ海中にあった事になります。』とあります。

注309) もろびとの こぞりて祝う の歌 これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、賛美歌の内でもかなり有名な歌、“もろびとこぞりて歌いまつれ、久しく待ちにし 主は来ませり・・・”で始まる、讃美歌第112番を翻案したものです。

注316)目通り めどおり ①古くは、身分の高い人の前に出ること。②目の前。③目の高さ。という用例がありますが、現在では、④目の高さで測った立木の太さ、の意味で林業関係では使われています。

注317)鳥総(とぶさ)立ての歌 元歌は、 『万葉集』巻三第三九一番で、詠み人は、前出(注224)「筑紫の綿」の沙弥満誓。“鳥総立て 足柄山に船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を”の場所を変え、物語の筋から「薪」に変えてみたもの。
 一句目の「鳥総」とは、『講談社文庫 万葉集』中西進の注でもはっきりしません。「梢をもって鳥の総(ふさ)状のものを作り、山神に供えたものか」、とあり、森の神への伐採の許可を得る儀式のためのシメナワとかサカキに類するものでしょう。


注318)杣人(そまびと)  杣とは、古代日本で国が所有した山林のことであり、またその杣から伐り出された木のこともいう。杣人(そまびと)は、この杣において働いている人のことです。近世では林業従事者一般の意味で使われています。

注319)鎮懐石神社(ちんかいせきじんじゃ)現在の鎮懐石八幡宮で、福岡県糸島市二丈深江にあります。 祭神は譽田別(ほむたわけ)天皇・氣長足姫(おきながのたらしひめ)尊・武内宿禰(たけうちのすくね)命。

注320)息長女王 前出 息長(注217)参照 『記・紀』に神功皇后として伝承されている。

注321)本貫(ほんがん) 氏族集団(宗族)の始祖の発祥地をいいます。

注322)下宮(げぐう) 神社にいくつかの社があるとき一番低いところにあるのをいいます。一番高い所に在るのを内宮、中ほどのは中宮です。

雷山は、曽増岐(そそぎ)山と言われ、曽増岐神社の上宮、中宮、下宮があり、中宮は現在「雷神社」として残っている。下宮は「笠折権現」とも呼ばれ、後に千如寺になりました。
雷山神社の鳥居 雷山神社

十勝村梨実のブログ 千如寺の標識

注323)銀銭 日本書紀』には発行の記事がないのですが、神社の礎石の下などから多数出土することから、飛鳥時代に無文銀銭が貨幣の代わりに流通したと思われます。これには、先行王権の文様があったのを大和王朝が削り取らせた、という説もあります。ともかく、この銀銭の存在は、日本最古の通貨と言われている大和朝廷の「和同開珎」よりも先に発行した権力がわが国にあったことを示すと思われます。

注324)一首(しゅ) 首には次のような意味があります。①人体の頭、②人体のくびの部分、③一番先に立つこと、④一番上に立つ人、⑤詩歌を数える詞、⑥自分の首を差し出す、つまり罪を自白する自首。⑦難読語として、匕首(あいくち・首途かどで螻蛄首けらくびがあります。本書の場合は当然⑤の意味です。

注325)草枕 旅行く君を の歌 この和歌は、『万葉集』巻十二第三二一六番詠み人しらず、の歌で、そのまま使用させていただきました。「荒津」は前出(注315)参照。
 歌の意味は、「草を枕の旅に行くあなたを、荒津まで送ってきました。いつまでも心残りだからこそです」 

注327) かたぐるまの歌 この疑似万葉調の和歌の元歌は、童謡 田中星児(1947年生 奈良県出身)作曲作詞「かたぐるまのうた」です。“パパの肩車は気持ちがいいんだよ パパが歩くとふわふわゆれる ララララランランラン”の想を拝借しました。

注328)水堀(みずぼり) 太宰府を守る施設の「水城(みずき)」のことです。『日本書紀』によると、白村江の敗戦のあと、太宰府の防衛施設として築造したとあります。しかし、築造年代については、もっと古いというC14などによる調査結果が報告されています。つまり、白村江の敗戦663年の後ではなく、太宰府が都として使われ始めた四世紀に遡るのではないか、とも言われています。詳しくは内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ社刊 をお読みください。

注329)朱雀門(すざくもん) 古代の平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)の正門ともいわれる門です。朱雀門と都の南大門、羅城門(らしょうもん)との間の大路を朱雀大路(すざくおおじ)といいます。太宰府には「都府楼(とふろう)」「紫宸殿(ししんでん)」「内裏(だいり)」など都が置かれていた名残の地名が残されています。

注326)かち栗  クリの実を日に干して臼で軽くつき、殻と渋皮を取り去ったもので古来保存食として用いられました。カチカチに固くなっているところから「カチ栗」と名付けられたものでしょう。(ひょっとしたら逆で「カチ栗みたいに固い」ことから「カチカチの」という形容詞が出来たのかもしれませんが)。「かち」が「勝ち」と同音であるところから、出陣・祝勝に用いられました。軍歌「敵は幾万ありとても」(山田美妙斉作詞)にも、「邪はそれ正に勝ちがたく、直は曲にぞ勝栗の・・・」と使われていました。

注330) 牛車(ぎっしゃ)古代、牛にひかせた貴人用の車。屋形>部分に豪華装飾を凝らした御所車が有名ですが、位階や公用・私用の別によって乗る車の種類が定められていたそうです。

注331) 外つ国の清き川瀬の歌  この疑似万葉調の歌の元歌は、『万葉集』巻十五第三六一八番の和歌です。“山川の清き川瀬に遊べども 奈良の都は忘れかねつも”を物語の筋に合わせて、若干変えて使いました。この和歌は、都から来た一行が、安芸国長門で磯遊びの折詠んだ五首のうちの一首で、一行のうちの一人は写経生の大石蓑麿と『万葉集』に描かれていますが、この歌の作者は不明です。歌の意味は歌から読み取れると思います。

注332) 他国は住み悪しの歌  この和歌は、『万葉集』巻十五第三七四八番です。狹野茅上娘子(さののかやがみのいらつこ)が、夫、中臣宅守(なかとみのたくもり)が罪を得て、越前の国に流罪されたおり、詠んだ歌が『万葉集』に二十三首載っていますが、これは、その内の一首です。この歌をそのまま使わせてもらいました。意味は、「他国はとても住みにくいといいます。すみやかに早く帰ってきてください、貴方が恋しくて私が死んでしまわないうちに。」です。

注333)年号仁王(ねんごうにおう) 西暦六二三年から六三四年に「仁王」という年号が使われた、と鎌倉時代初期に編纂された『二中歴』という書物に書かれています。

注334)祐筆(ゆうひつ) 右筆とも書きます。文書を書く役目の人、貴人の代わりに文書を書く人のことです。

注335)山鹿(やまが)  熊本県北部の地名 魏略という中国の史書に「邪馬嘉国」とあります。菊池川の中流に位置し、10haに及ぶ弥生時代の方保田(かとうだ)遺跡 があります。近くの彩色壁画で有名なチブサン古墳や、菊池川10km下流には銘文がある鉄剣が出土した江田船山古墳があり、古くから栄えた地域です。

注336)別当(べっとう)  家政を司る役目の人、寺院においては事務を司る役目の僧のことです。

注337)当麻の蹴速と野見宿弥の試合  『日本書紀』によると、蹴速は大倭国の当麻(たいま)に住み、強力を誇っていた。これを聞いた垂仁天皇が出雲国で評判の野見宿禰を呼び、相撲で対戦させた。結果は、蹴速は腰を踏み折られて死んだといいます。本書では、大倭国は太宰府の都の国、当麻は阿蘇の麓の当麻郷(実在)としてこの逸話を取り込んだものです。

注338)垂乳根(たらちね)  「たらちね」は枕詞の一つです。一般的には母にかかる枕詞ですが、親・父に使うこともあります。垂乳根の意味は、銀杏の古木の地上根から出る樹液の様子から「垂乳根」と表現したもの、という説があります。

注339)垂乳根の和歌  元歌は、『万葉集』巻十一「正(ただ)に心緒(おもひ)を述べたる」歌のなかの一首、第二五一七番で詠み人不明です。
 元歌は、“たらちねの母に障(さや)らば いたづらに 汝(いまし)もわれも 事は成るべし”の下の句を、物語の筋に合わせて変えて使わせていただきました。
 元歌の意味は、「母によってさまたげられていたら(母にこだわっていたら)、お前も私も事はむなしくしまうだろう。」ということです。



 (トップページに戻る)