鏡王女物語 (二) 注書き
(注201)七山(ななやま) 佐賀県唐津市七山 唐津湾にそそぐ玉島川の上流 夏場は渓流遊びで賑あいます。玉島川を遡り峠を越えて、嘉瀬川を下ると吉野ヶ里を経て有明海に至ります。
(注202)兎を追いし の歌 この疑似万葉調ともいえぬ下手くそな歌の元歌は、“兎追いしあの山 小鮒釣りしかの川”で知られる「故郷(ふるさと)」です。
高野辰之(一八七六年長野県生まれ)作詞で、一九一四年に尋常小学校六年制の唱歌に採用されました。作曲は岡野貞一(一八七八年鳥取県生まれ)で、この両者のコンビで「春が来た」、「朧月夜」、「紅葉」などが生まれました。
(注203)伽耶(かや) 前出「加羅」(注107)参照。
伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部にて、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指し、加羅はまた加耶と呼ばれています。
(注204)心空なり地(つち)はふめども の和歌 元歌は、万葉集巻十二第二九五〇番の「正(ただ)に心緒(おもい)を述べたる歌のなかの一首、詠み人知らずの歌です。
“吾妹子が 夜戸出の姿みてしより こころ空なり地は踏めども”の下の二句だけそのまま頂いています。詠み人知らずとされている、この歌を詠んだ万葉歌人には申し訳ありません。
(注205)利皇子(りおうじ) 『隋書』俀国伝に俀国王多利思想北孤の太子として「太子を名づけて利とす、カミタフ(上塔)の利」とあります。(「名太子爲利歌彌多弗利」)
(注206)国造(くにみやっこ) 国造(くにのみやつこ)は、次のように一般に説明されています。【日本における地方官。軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、孝徳期以降は主に祭祀を司る名誉職となった。行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国が示す範囲は律令が整備される前の行政区分であるため、はっきりと判明していない。】 しかし、六世紀のわが国の様子を記録している『隋書』俀国伝には、百二十人の「軍尼」を置いている、とあります。これは中国の牧宰の如し、ともあります。牧宰とは州の長官という意味ですから、国造と似たような官職と思われます。この件について研究は進んでいないようですが、俀国(たいこく)には「ぐんに」郡司か? という地方支配の官制が敷かれていたことは事実でしょう。
(注207)鬼前皇后(おにさきこうごう) 法隆寺の釈迦三尊の光背銘に「法興元三十一年(六二一年)十二月、鬼前太后崩ず」という金石文が残っています。鬼前太后とはこの銘文によると、上宮法王のお后ととれます。上宮法王とは聖徳太子ではないか、と俗には言われているのですが、古田武彦氏が「多利思北孤」という名で『隋書』に出てくる「俀国王」のことである、と論証されています。
(注208)年号聖徳(ねんごうせいとく) 西暦六三〇年代に、「仁王」と「僧要」という年号の間にわが国で使われた年号です。これは、李氏朝鮮時代に編纂された『海東諸国記』という書物に書かれています。
この「聖徳」の読み方ですが、聖は、せいー漢音 しょうー呉音 です。聖徳太子の「しょうとく」と区別するために漢音の「せいとく」としましたが、中国の南朝と親しかった歴代の倭国王朝を考えると「しょうとく」と発音されていた可能性が高いと思われます。
(注209)モロコシが、琉球に攻め入って 『隋書』流求国伝に次の様な記事があります。 【大業三年(六〇七)に煬帝は羽騎尉の朱寛を流求国に探訪させた。言葉が通じなく一人を掠(かすめ)て帰った。翌年また朱寛を行かせたが通交の要求に応じず、彼らの装束(武具か)を取り上げて帰った。その時に俀国の使節が来ていたのでそれを見せたら、「これはイヤク国人の用いるものだ」と言った。 そして、煬帝は、流求国が服従しないので、軍事力を行使した。すなわち、陳稜に南方諸国人を率いさせて従軍させた。崑崘人で其の語を解する者がいたので、遣わして之を慰諭させた。流求は従わず、官軍にさからう。陳稜、撃ちて進みて其の都に至る。彼らは盛んに戦ったが皆破った。彼らの宮室を焼き、その男女数千人を虜にし、戦利品と共に還る。これより遂に通交は絶えた】
(注210)高なんとやら 旧唐書倭国伝に次の記事があります。【貞観五年(六三一)、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜み、所司に勅して、歳ごとに貢せしむる無し。又、新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。】
この「王子と礼を争い」というところが『日本書紀』にはなく、むしろ歓待した、というような記事になっています。当時の天皇には王子がいなかったし、謎の一つとなっています。これは、大和朝廷に来る前に「大倭国」の多利思北孤王の所にきて、利皇子と礼を争ったのが事実なのです。
(注211)庸(よう) 租庸調(そようちょう)は、中国、朝鮮にならって日本でも行われた租税制度です。そのうちの「庸」とは、元来は壮年男子への労役の賦課制度でした。布や綿花などでの代納物も認められていたようです。
(注212)高麗剣(こまつるぎ)の和歌 この和歌には元歌というほどのものはありません。『万葉集』には沢山の「高麗剣(こまつるぎ)」の句が入っている歌があります。青銅器は朝鮮半島から入ってきたので、“高麗剣”といえば優れた武器というイメージが当時のわが国にあったことでしょう。それを無理やり、敵愾心直結の和歌にしましたので、作者の和歌の素養の幼さが出てしまったようです。
(注213)遣隋使(けんずいし) 遣隋使とは、推古朝の俀國(たいこく)が隋に派遣した朝貢使のことです。六〇〇年~六一八年の十八年間に五回以上派遣されています。なお、遣唐使には日本国からの遣使という記事が『旧唐書』にありますが『日本書紀
』に記載はありません。大和朝廷が派遣したものではなく、俀国多利思北孤王が送ったものだからです。
(注214)うがや一統(いっとう) 「うがや」とは神武天皇の父親とされる人物です。正式の名は、
天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけ うがやふきあえずのみこと)といいます。海神の娘である玉依姫との間に四人の男の子をもうけ、末の若御毛沼命が神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇になった、と『古事記』は記しています。本書では
鵜草葺不合命(神武天皇)一統を略して「うがや一統」としています。なぜ「うがやふきあえず」という奇妙な名になったかといいますと、海幸彦が海神の娘豊玉姫と結婚して、産気づいた時に海辺のなぎさに鵜の羽根を葺草として産殿を作ったが、その出来るが間に合わずに生まれたので、「うがやふきあえず」という名になったという伝承が残っています。なお、「うがや一統」という言葉は、本書の造語です。
(注215)俾弥呼(ひみか) 一般的には次のように説明されています。【卑弥呼(ひみこ、生年不明– 二四八年頃)は、『魏志』「倭人伝」に記されている倭国の女王。邪馬台国に都をおいていたとされる。魏朝から親魏倭王に封ぜられる。後継には宗女の壹與が女王に即位した】
普通「卑弥呼」と書かれますが、魏書本紀には「俾彌呼」とあります。弥の方は彌の略字で問題はないのですが、「俾」が「卑」と人扁がとれたのはなぜなのでしょうか。「俾彌呼」は国書を魏に送った時の自署名ではないでしょうか。それが「倭人伝」では「卑」となったのは、夷蕃の国に対しての『魏志』の著者陳寿の卑字使用ではないかと思われます。また、「ヒミコ」(日御子)と一般に読まれますが、「コ」の発音の字は他にも倭人伝では使われていますし、「ヒミカ」(日甕か)とする説の方が正しいと思います。尚、女王国とは「邪馬壹国」と「倭人伝」には書いてあり、「邪馬台国」は俗説です。詳しくは、ミネルヴァ社の日本評伝『俾弥呼』古田武彦著をご参照ください。
(注216)春うららの歌 この疑似万葉調和歌の元歌は言わずと知れた 滝廉太郎(一八七九年東京生まれ)の「花」です。一九〇〇年に発表された“春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人(ふなびと)が 櫂(かい)の雫(しずく)も花と散る・・・”は、今でも女声合唱曲として現役を保っています。作詞は武島羽衣、作曲は田中穂積です。
(注217)女御(にょうご) これは、天皇の後宮の位の一つで、天皇の寝所に侍(はべ)りました。名称は、古代中国の官制を記した書「周礼(しゅらい)」に由来すると思われます。位は、皇后・中宮につぐもので、定員はなく、複数の女御がいる場合は、住まいの殿舎の名を取って『源氏物語』にあるように「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」などと呼んだそうです。
(注218)息長(おきなが)
息長氏とは、『記・紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の流れとあります。息長氏の根拠地は近江の琵琶湖周辺で、美濃・越への交通の要衝です。また、息長古墳群が存在し、相当の力をもった豪族であった事がうかがえます。
息長氏は天之日矛という渡来した王子との関係があったとする説がありますが、文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われます。
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、神功皇后の父王として知られます。王は、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)をもうけ、彼女は後に神功皇后と諡(おくりな)されました。
(注219)七つ星(ななつぼし) 北斗七星(ほくとしちせい)のことで、大熊座の一部を構成する七つの明るい恒星でかたどられる星列のことです。柄杓(ひしゃく)の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられています。七曜の星とも呼ばれます。今、JR九州が「七つ星」という豪華観光列車を走らせようとする計画があるそうですが、本書とは関係ありません。
(注220)冴ゆる空 奇すしき光 の歌 この疑似万葉調和歌の元歌は、中学唱歌に採用されている堀内敬三(一八九七年東京生まれ)訳詩、「冬の星座」です。「木枯らし途絶えて 冴ゆる空より 地上に降りしく 奇すしき光・・・。」より想を借りたものです。
元歌といいましたが、原曲は、アメリカの一八七一年発表のウイリアム・ヘイス作曲「Molie darling」というラヴソングです。堀内敬三にはアニーロリーとかドボルザークの交響曲「新世界より」 “遠き山に日は落ちて...” などの訳作詞があります。
(注221)松浦(まつら) 古代の史書に出ている、末盧(まつろ)が松浦のことだとされます。末盧国は、魏志倭人伝に書かれている女王国の三〇国の内の一つです。魏使は壱岐から末盧国(現在の唐津市)に渡ったと書かれています。現在の唐津市近郊の最古の稲作遺跡、菜畑遺跡が発見されています。
(注222)高良(こうら)の城 福岡県久留米市郊外にある高良神社には古代の城あと「神護石」の遺跡が存在します。高良神社の祭神玉垂命は九州王朝の天皇だったという伝承が残っています。高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市高良山神社で、古くは
高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれました。ご祭神は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あります。筑後国の一の宮です。
高良山は、もともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていましたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は 結界を張って居座ったとの伝説があります。山の名前については高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説があります。
魏志倭人伝にある邪馬壹国の都も、福岡平野から筑後平野に、四~五世紀にはこの高良に移ったと思われます。なぜなら謡曲に謡われる「都」は、久留米と解しないと理解できないものが多いからです。(新庄智恵子『謡曲の中の九州王朝』より)
この神社のあるすぐ近く、耳納(みのう)山系の端部には祇園山古墳と呼ばれる四世紀の方墳(一辺23m)があり、卑弥呼の墓ではないか、とする説もあります。
(注223)駅馬(はいま) 駅馬とは古代、官吏などの公用の旅行のために、諸道の各駅に備えた馬についての設備のことです。駅馬をなぜ「はいま」と云うのかについては、「早馬」はやうまから「はいま」になったと言います。
(注224a)君恋ふは の歌 及び、いにしえも 夫(つま)を恋ひつつ の歌
“君恋ふは”の歌と次の“いにしへは”の二つの元歌は、北見志保子(一八八六年高知県生まれ)が一九三四年に詠んだ短歌「平城山」です。平井康三郎(一九一〇年高知県生まれ)が翌年曲を付け大ヒットしたそうです。
場所を「平城山」から「み吉野」に変えただけでなく、少しいじってみました。元歌「平城山」の一番は、 “人恋うは 悲しきものと 平城山に もとほりきつつ・・”で、二番は、 “いにしえも 夫を恋つつ 越えしとふ・・・”です。一番の、“もとほり”は、現在人には理解しにくいこと、二番の、“越えしとふ”は話の筋から”声慕う“に変えました。北見さんお許しの程を。
(注224b)筑紫の綿 の歌 この和歌は、万葉集巻三第三三六番にあります。これは物語の文中の引用として、そのまま使用させてもらいました。和歌の意味は現代でも理解しやすい歌で、“しらぬひの筑紫の綿は身につけてまだ着たことはないが、暖かそうに見える”というものです。
綿花が我が国に入ったの年代については、8世紀末(小学館『日本大百科全書・24巻』)で、蚕の繭からの真綿が定説ですが、綿花と解釈しました。
詠んだのは、沙弥満誓という筑紫観音寺の別当で、俗姓は笠朝臣麿と『万葉集』の注にあります。この「笠〈りゅう〉」という姓は九州にはわりに多く、1980年代のグループサウンズC・C・Bのボーカル笠浩二、女子プロゴルファー笠りつ子も九州出身です。
(注225)加耶(かや)のお山 伽耶山とは大韓民国南部にある山並の総称で、慶尚北道の 南西部と慶尚南道の北西部にまたがり、小白山脈の一部となっています。
福岡糸島のシンボル的存在の山、可也山は 糸島富士と讃えられている山です。可也山の名は朝鮮半島の伽耶山に由来するとの説があり、今回伽耶山の名を使いました。写真は畏友山歩塾長、河村隆治氏の提供によるものです。
時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定に基づけば、調絹は長さ五丈一尺・広さ二尺二寸で一反とし、一反が六名分の調とされました。
(注227)鮎釣りの歌 鮎釣りの歌 元歌は、万葉集巻五第八五五番 詠み人知らず 「松浦川 川の瀬光 鮎釣ると 立たせる妹の 裳裾濡れなむ」 です。物語の筋にあわせるために、妹を姉に変えさせてもらいました。元歌の序にこの歌が詠まれた経緯が詳しく書かれていて、高貴な地位の人が松浦に遊覧にきて、たまたま鮎を釣る乙女たちを目にして詠まれた十一首のうちの一首です。肝心の詠み人は、出したら都合が悪かったのでしょうか、隠されています。
(注228)松明(たいまつ) 樹脂分の多い松を小割して束ねて、火を点けて照明に用いました。竹その他の材料も用いられました。
(注229)朝顔の歌 これは著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、THE・BOOMの宮沢和史(一九六〇年甲府市生まれ)作詞作曲の「島唄」“デイゴの花が咲き 風を呼び嵐が来た デイゴが咲き乱れ 風を呼び嵐がきた 繰り返す悲しみは 島渡る波のよう・・・”です。九州の地でデイゴは無理かなと思い朝顔にしました。
(注230)佐嘉鉾(さかほこ) 記・紀』の神話に出てくる「天の逆鉾」は、「佐嘉鉾」つまり、吉野ヶ里あたりで作られた、「佐賀ホコ」ではないか(宮崎康平 まぼろしの邪馬台国)という説を勝手にお借りしました。
(注231)別れそは の歌 これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、島崎藤村(一八七二年木曾馬籠生まれ)の「若菜集高楼」、“別れといえば昔より この人の世の常なるを 名がるる水をたずぬれば・・・”です。小林旭が一九六一年にレコードを出し、翌年、日活映画「惜別の歌」で主題歌となり、大ヒットしました。わたくしのカラオケ十八番でもありましたが、最近は歌う機会はなくなりました。
(注232)肩衣(かたぎぬ) 肩までの短衣,つまり袖なしの衣服で,古くから庶民の間で着られたもの。『万葉集』巻五の山上憶良の「貧窮問答歌」の中に「綿もなき 布肩衣・・・」とあります。 しかし、近世以後の肩衣は,このような袖のない衣服そのものではなくて,時代劇によくみられるように、主要衣服の小袖の上に補助衣的に着用されているものです。
(注233)懸想(けそう) 思いをかけること、恋い慕うこと、です。懸想文(―ぶみ)となると恋文のことです。
(注234)砂山に の歌 これも著者が疑似万葉調歌として作った歌の一つです。元歌は、言わずとしれた石川啄木(一八八五か六年岩手県生まれ)の詩集「一握りの砂 」“砂山の 砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠く・・・”より想を拝借しました。
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