鏡王女物語 (一) 注書き



(注001) 奈良遷都千三百年祭(ならせんとせんさんびゃくねんさい)  奈良に都が生まれてちょうど1300年となる2010年に平城遷都千三百年祭が開催されました。
小坊主に鹿の角を生やしたマスコットキャラクター「せんとくん」はその後奈良県の公式マスコットとなりました。


(注002) 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集) 七世紀後半から8世紀八後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。天皇、貴族、下級官人、防人など種々の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めています。成立は天平宝字三年(七五九年)以後とされます。しかし、『日本書紀』や『古事記』には全く『万葉集』編纂の記事はありません。十世紀になり村上天皇が『万葉集』のいわゆる万葉仮名と漢語混じりの歌に「訓(よみ)」をつけるように勅命を発するまで、いわば朝廷の奥の院の女御達の間で生き延びていたと思われます。
『万葉集』には数々の疑問があります。①成立した時期、撰者が不明、②序がない、③歌と前書きの不一致、④中皇命など、『記・紀』に該当する人物がいない、⑤東歌はあるが筑紫歌がない、⑥白村江の戦の歌がない、⑦奥書がない、などなどです。それに、『万葉集』には正史『日本書紀』には存在しない「朱鳥七年」などの年号が存在します。また、天武天皇によって制定された「八色の姓」、例えば藤原鎌足が「朝臣」の姓を賜っていたというように、『日本書紀』の記事と合わない疑問点が沢山あるのです。

『万葉集』の中に、「この歌は古集に出づ」という説明があったりしていて、この『万葉集』に先立つ『大倭国万葉集』のようなものが存在していて、その「雑歌」としての大和の歌、それが今に残る『日本国万葉集』の出発点となり、それが現存の巻一・巻二となったのでしょう。一番歌は雄略天皇、二番歌は舒明天皇の御製長歌二首が並びます。この『万葉集』の編集者は時の権力者におもねってその様な構成を試みたということはできるでしょうが、結局は表に出ることは許されなかった歌集だった、といえるでしょう。

(注101)舒明天皇(じょめいてんのう)。五九三年(推古天皇元年)生まれ、は、日本の第三十四代天皇(在位:六二九- 六四一年)。第三〇代敏達天皇の孫にあたります。父は押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおおえ)皇子。諱(いみな)は田村(たむら)。 和風諡号(おくりな)は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)です。 この小説では「寶女王」として登場する皇極天皇(重祚して斉明天皇)の夫です。 

(注102)多利思北孤(たりしほこ) 『隋書』「卷八十一 列伝第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王です。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀(たい)」と記述しています。多利思北孤が国書に「大倭(たいい)国」と書いていたのを、発音が同じ弱いという意味のある「俀国」と記載したものと思われます。開皇二〇年(西暦六〇〇年)と大業三年(六〇七年)に隋に使者(遣隋使)を送っています。「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」と『隋書』にあり、姓は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシホコ)、阿輩雞彌(アハキミ)と号す、とあります。尚、教科書などでは日本人の名前として似合いそうな、タリシヒコ(多利思比孤)となっていますが、正しくはタリシホコ(多利思北孤)です。 

(注103)鏡王(かがみのおおきみ) 鏡王女の父親として『日本書紀』に現われます。一般的には次のようにいわれています。【鏡王は他史料に見えないが「王」とあることから二世~五世の皇族と推定される。一説には近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。】本書では、松浦、鏡の里の豪族、多利思北孤の末子と位置付けました。

(注104)加羅(から) 伽耶(かや)ともいいます。三韓(さんかん)のうち,もと弁韓とよばれた朝鮮半島最南部の地域に,新羅(シルラ)・百済(ペクチュ)の成立後もつづいていたゆるやかな小国家連合。四一四年の好太王(こうたいおう)の碑文によれば,倭人が「任那加羅」を攻めたとされます。三世紀の『魏志』「倭人伝」には「狗邪韓国(くやかんこく)」として記載されていた倭人国の後裔です。

(注105)高麗(こま)  朝鮮半島の北部から中国大陸東北部に勢力を張った高句麗を、わが国では「高麗(こま)」とよびました。後に高麗(こうらい)という国が991年に太祖 (高麗王)王建が建てられ、1932年まで続きました。古代の高句麗の呼び名としての「高麗」とは別です。この昔の「高句麗」が朝鮮族なのか、中国にとっての北方民族満州族の一つとするのか、によって、現代における領土問題に発展する種が存在しています。高句麗王好太王碑も、その首都丸都も、現在は中国吉林省集安市になっています。

(注106)蘇我一党  蘇我氏が大和王権の表舞台に登場してくるのは六世紀の初めで,それまで無名の人物であったと言ってよいようです。そのためか,蘇我家系図に,「高麗」の字が見えることから渡来人だとする説もあります。『日本書紀』によれば、高麗のあとの稲目~馬子~蝦夷~入鹿と歴史の表舞台で活躍します。

(注107)夜伽(よとぎ) 話し相手になることが「伽」です。お伽噺(おとぎばなし)。夜伽となると、1・病人のためなどに、夜付き添うこと。2・女性が男と夜の共寝をすること。 3・ 通夜  という意味があり本書の場合は2・の意味です。

(注108)額田王 一般論としては次のように説明されています。【額田王(ぬかたのおおきみ、生没年不詳)は、 斉明朝から持統朝に活躍した万葉歌人であり、天武天皇の妃(一説に;采女)である。額田王(『万葉集』額田女王(かがみのひめみこ)とも記される。『日本書紀』には鏡王(かがみのおおきみ)の娘で大海人皇子(おおしあまのおうじ)に嫁し十市皇女を生んだ。】「額田」という地名は全国にあります。・愛知県額田郡・東大阪市額田町・大和郡山市額田・茨城県那珂市額田・福岡県早良区額田などです。本書では、博多湾に注ぐ室見川流域の額田の地の出身としています。ところで、なぜ女性なのに「額田王」と「王」なのでしょうか。これは『万葉集』を勉強する人たちを悩ませている問題です。この問題はまだ誰も解明出来ていません、本書以外は

(注109)鎌足(かまたり)  一般的には次のように説明されています。【藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。元々は中臣氏の一族で中臣鎌足(なかとみ の かまたり)。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。出生地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)。常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。】

しかし、新庄智恵子氏(『謡曲のなかの九州王朝』新泉社 の著者)によると、藤原氏の出自は九州王朝の貴族である、とされます。新庄氏の『謡曲の中の九州王朝』によりますと、【『大織冠伝』によると、鎌足は大倭国高市郡藤原第に生まれるとある。大倭国は隋書にいう「俀国」であり、筑紫に本拠を置く国である。高市は、『古事記』四八七番に高市崗本宮とあり、福岡県春日市須玖崗本遺跡と関係がある。鹿島も肥前鹿島という地名が佐賀県にあり、藤原一族が福岡・佐賀に拡がっていたのではないか、】とされます。

(注110)百済(くだら/ ひゃくさい) 百済は、古代の朝鮮半島南西部にあった扶余(ふよ)族による国家(346-660年)です。倭国と親交が深かった百済は、新羅とことを構えた際、新羅を支援した唐によって滅ぼされました。百済の地は最終的に新羅に組み入れられ、倭国も白村江で百済復興戦に敗れ、大和朝廷に統合され滅亡しました。

(注111)新羅(しらぎ) 新羅(しらぎ/しんら、紀元356-935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家です。7世紀に百済を統一しましたが、10世紀になり国力が弱体化し、北の高麗に降伏して滅亡しました。

(注112)大分君(だいぶぎみ) 大分君という人物は『日本書紀』の壬申の乱で活躍した、大分君恵尺(えさか)と大分稚臣(おほきだわかおみ)が出ています。

普通次のように説明されています。 【大分君恵尺(オオキタノキミエサカ)は、豊後国大分郡の豪族である。壬申の乱の勃発時、恵尺は大海人皇子の舎人だったと推測される。 大分 稚臣(わかみ)とも。姓は君 壬申の乱で大海人皇子の軍に加わり、瀬田の戦いで先頭に立って橋を突破した。死後、外小錦上の位を賜る。】と。

ところで、今の大分市付近は、昔、碩田国といわれていたそうでその読み方は、オオキタノクニです。それが訛って大分になったそうです。
ところで、『 日本書紀】の壬申の乱のところに、大分君と出ていますが、読み方まで”オオキタ”として書いてあるわけではありません。単に漢字で”大分”と書いてあり、後世の方々が勝手に”オホキダ”と読み慣わしているのです。
”大分”と呼ばれていた地名は、日本国内に他にも沢山あると思います。特に、大分と云って”あああそこの大分か”と古代の人にすぐわかる地名は、筑紫にあった可能性の方が高いのではないかと思われます。例えば、筑前に大分というところがあります。そこは、太宰府から豊前方面に通じるショウケ峠越えといわれる古い街道の要点に位置しています。(飯塚市大分)そこに、大分廃寺跡(国指定史跡)があり、七世紀初めの遺跡とされています。

ただし、この大分は、読み方は”オオイタ”でなく、”ダイブ”なのです。この大分”ダイブ”の地名の由来は中国の古書『尚書大傅』から来ているそうです。太宰がいるところが太宰府です。大傅がいるところに大傅府がおかれ、廃寺というけれど、当時では役所です。 つまり、「大分君恵尺」は、筑前の大分君であった可能性の方が高いのです。本では、豊国の大分君(だいぶきみ)としていますが、筑前の大分君の誤りです。

(注113)ぬばたまの  短歌の枕詞(まくらことば)の一つです。烏羽玉(ぬばたま、うばたま)という黒色の実から「黒」「闇(やみ)」「夜」「夢」などにかかる枕詞とされます。ブラックベリィかウバタマサボテンなのかは不明です。 

注114)楮紙(こうぞがみ) 楮の樹皮,繊維を原料として漉(す)いた紙のことです。麻紙や雁皮紙(がんぴし)に比べて美しさには劣るとされていますが、丈夫であったために重要な公文書や経典・書籍など長期間の保存を要する文書の用紙として用いられました。また 和傘(わがさ)や障子(しょうじ)、襖(ふすま)の材料としても用いられています。

注115)観世縒り(かんぜより) 和紙を細く切り、指先でよって糸のようにし、それをさらに二本より合わせたもの。能の観世大夫と関係づける説が多いが確かではない。

注116)ぬばたまのこの夜の歌 この和歌は、万葉集巻十一第二三八九 作者不詳をそのまま借用したものです。 歌の意味は、「闇のこめたこの夜は明けてくれるな。あかあかと明けていく朝に帰るあなたを、また夜まで待つことは苦しいことです」

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