吉野ケ里遺跡近傍に「港」は在り得たのか              中村通敏

先日九州古代史の会の例会で会長の工藤さんから「身近に感じてみたい弥生の風景」 吉野ケ里遺跡と隈・西小田遺跡などをとおして というお話がありました。最初のほうで、「吉野ケ里遺跡はこの地方に点在するクニの母集落であろう、地理的な関係からみると、吉野ケ里遺跡群は有明海に面した港町でもあった」などと述べられます。「港そのものは見つかっていないが高床倉庫群と水路の配置を考えると、近くに港があったことが想定されています」と述べられました。

 古田武彦さんも『吉野ケ里の秘密』1989年光文社カッパブックスで、地図上の有明海と吉野ケ里の位置関係から「江戸(首都)と横浜(港)」の関係になぞらえて「邪馬壹国」と「吉野ケ里」との関係を「首都と港」とみなして“吉野ケ里は倭国首都圏の横浜だ”(同書213ページ)と述べています。古田さんも有明海の異常な干満差が生じる海域についての知識を持ち合わせていなかったようです。地図の汀ラインにとって海と陸は明確に区切られている、と思っておられて、中間の渚にある干潟の存在に気をとめていらっしゃらないようです。

 小生は古代史研究に入る以前は建設技術者(技術士)であり、子供のころ有明海沿岸(熊本県奥古閑村)に住んでもいました。そこは高い防潮堤を巡らせて干潟を干拓した土地です。海水浴はできず、宇土半島の赤瀬海岸まで出かけなければ、熊本市内の小中学生徒は海水浴が出来なかったのです。この私の有明海について感覚は、工藤さんの述べられる有明海沿岸の姿とは程遠いものでした。どこが違っているのか、整理してみた結果を報告します。

 有明海の干満差は、日本でも極めて特異な高さを示しているのです。国土交通省のホームページにアクセスしますと、北部の湾奥部沿岸では2km以上の干潟が発生するのです。一日に2回も年中生じるのです。最近は、その干潟でガタリンピックなどというイベントが開催されていますのでTVなどでその泥海状態を映像でご覧になった方も多いと思います。

 国土交通省のホームページを開きますと干満の状況など詳しく述べています。勿論現在の姿であり2千年まえの姿ではありません。筑後川や嘉瀬川が運んだ沃土が有明海の姿を南へと押し戻した姿ではありましょうが、その姿は有明海と相似形に近い物であったとしても多く区間違ってはいないでしょう。有明海の湾奥部(佐賀県・福岡県)の干潮時の干潟の状況は国土交通省のホームページの干潟の状況を地図に入れ込んでみました。(下図)

この干潟で漁業を営む人たちは「潟スキー」といわれる板に乗って魚介類を採集しています。この有明海の湾奥部には港は江戸時代になって欧州の閘門技術が伝わるまで、全く存在していなかったのです。有明海の入り口に近い、肥前の口ノ津港、竹崎港、肥後の三角港など地形的に干潮影響を受けにくい個所に限られていたのです。

 しかも、干潟が広範囲に発生するので問題も多いようです。その干潟に海難事故が発生すると、現在の海上保安庁でも対応が難しく、特別な対策を取っています。現在海上保安庁三池海上保安部には巡視艇が近づけない干潟での救助を行うため「潟スキー」を利用した救助隊が組織されているそうです。

 吉野ケ里遺跡は当時の有明海に近接していたとしても、喫水1m程度の帆船が近づけるのは、汀線から2kmほど離れた地点であったことでしょう。その地点まで軟弱地盤に桟橋を建設するのは現代の技術でも極めて困難で、湾奥部には通常の「港」は見受けられません。
 むしろ、吉野ケ里の利点としては、海岸からは攻めて来にくい地。無理に満潮時に何らかの方法(潟スキーなどに乗って)敵が攻め込んでも、簡単に防御陣の弓矢の餌食になってしまうことでしょう。干潟は「天然の水城」とでも形容できる防衛施設となっていたと思われます。


 近くではでは朝鮮戦争でのマッカーサーの仁川上陸作戦の成功があります。広大な干潟を日に2回出没させる地域に機動部隊を上陸させたのです。この作戦は多くの反対を押し切って実行され成功しています。多くの歩兵旅団が如何に上陸できたのか、戦史によりますと、多くの歩兵が岸壁の防潮堤をよじ登ったとあります。そのためにマッカーサーは日本のアルミ工場に多くのはしごを造らせ、それを使って一気に侵入できたそうです。防潮堤は自然の高潮と干潟を中に取り込んで干拓され、干潟の成長は止められたのですが、人間の侵入には無力であったということです。

 干潟に港を造るのは、江戸末期になってオランダの閘門技術を導入した、佐賀藩の造船所「三重津海軍所」を嚆矢とし、石炭積み出し用に明治になって建設された三池港が有名です。いずれも満潮時には港内入り口の締め切りゲート閉じて満潮時にも港内に海水を満たして船舶の刑る鵜を可能にしている「ドック」施設の港なのですです。

“吉野ケ里は港の痕跡は発見されていないが、高床倉庫群や水路の配置を考えると近くに港があったと想定される”と工藤さんは言われます。
 しかし、帆船など喫水1m程度の船であっても、吉野ケ里の集落に海側から入るには、汀線から少なくとも2km以上離れたところに停泊する必要があります。そこで田舟などの平底の小型舟に乗り換えるか、泥土部分が多い場所では、潟スキー的な手段で汀までたどり着く、ということが想像されます。浮船的な桟橋を2km沖合に設置することも日に4回発生する潮汐流への対策など多くの困難さがあり現実的とは思われません。また、そのような試みがおこなわれていたのであれば、なんらかの伝承として残されていると思われますが、それらの片々も見られません。

 浮き桟橋的な施設であれば可能でしょうが、これらを軟弱地盤に固定する技術は現代でも難しいと思います。いまだかって有明海湾奥部のいずこにも弥生期はおろか、江戸時代にも「港」の痕跡は存在していないのです。これが私の脳裏に浮かぶ有明海海岸干潟の面影です。

 有明海の中部の長崎県と熊本県に属する海岸部は湾奥部より漸次干潟の成長が弱まるので、船舶が干潮時でも着岸加能な水深の場所に着岸施設を設けてフェリーボートなどの着岸が可能な岸壁がつくられています。しかし湾奥部にに古代の港施設の幻影を求めるのは、木に魚を求めるよりも難しいことでしょう。古代にロマンを求める方々には申し訳ない報告です。


 この感想文を工藤さんにお届けしましたら、古代の石棺などに用いられた、九州の石材が関西方面に積み出されている、などが有明海に港の存在した証拠として工藤さんは挙げられます。
 しかし、問題は有明海全体に港が存在したか、ということではなく、干潟が大規模に存在する地域に近接して存在する吉野ケ里地域の問題なのです。

 ただ諫早湾に入り口に存在したのが古代火山の火口跡である太良町の竹崎港が唯一の港であり、唐軍代表の郭務悰が滞在したと思われる(別稿参照)ところです。有明海の入口から中央部に至る海岸、西側の島原地域、東側の宇土半島地域には干満の差はあっても干潟の出現は小さく、島原の口の津港、肥後の三角港などが古来使われて来たことは著明です。しかし吉野ケ里遺跡が存在した湾奥部には、広大な干潟が出現し「港」は存在できなかったのです。


 また、工藤さんは吉野ケ里遺跡発掘で水路跡が発見されたことが港との存在を示すのではないか、とも言われます。古代人の生活区域には小水路が必要であったのは事実です。とくに排泄物の処理施設のことを「かわや」というように「川」は排泄物の処理には不可欠であったと思われますので。    以上      2023.10.13