崇神以前は母系社会だったのか? 福岡市 棟上寅七 2010.7.15
はじめに
2005年に出版された、安本美典氏著『大和朝廷の起源』(勉誠出版)という本を読んでいて、不思議に思ったのは、安本氏の説”卑弥呼=天照大神”の基本をなす、「古代天皇平均在年数」というところの説明がほとんどないことです。
“第一章 2 邪馬台国の問題“という項で次のように、おおまか論じています。
【私はまず、実年代がはっきりしている第31代用明天皇以後の天皇について、平均在位年数を調べてみた。その結果、天皇一代の平均在位年数は、だいたい、11年ないし15年程度であることがわかった。
そこで、この平均在位年数を用い、『古事記』・『日本書紀』の天皇の代の数をもとに、推定の誤差計算をおこないながら、邪馬台国の卑弥呼の活躍していた西紀3世紀の初頭は、わが国の史料に記されている誰の時代時期にあたるかを推定してみた。
その結果として、これまで、卑弥呼ではないかとされていた神功皇后、倭姫〈やまとひめ〉、倭迹迹日百襲姫〈やまとととひももそひめ〉などの活躍の時期は、卑弥呼の活躍の時期とは、ほとんど重ならず、活躍の時期が、卑弥呼とかなりのたしからしさで重なりあうのは、もし求めるとすれば、神話に現れる、神武天皇より5代前の天照大御神だけとなることがあきらかになった。
そこで、思い切って、天照大御神は卑弥呼であるという「仮説」をたててみる(全体の構成は、仮説検証的な論理(後述)にしたがう)これはその出発点となるひとつの「仮説」である。
すると、この仮説からは、『古事記』『日本書紀』によるとき、天照大御神が活躍していたのは、九州であるから、卑弥呼が都した邪馬台国は、九州にあったということが、みちびきだされる。活躍する邪馬台国は九州である、ということが導き出される。】と。(『大和朝廷の起源』p82~83)
ところが本を読み進めますと、この平均在位年数が、11年ないし15年ていど(p82)が、いつの間にか10年(p261)となって論を進められます。それで、安本氏の過去の著書を調べてみましたら、1972年に講談社現代新書として発行された『卑弥呼の謎』が、「古代天皇平均在位年数」についての説明の基になっている、ということがわかりました。
したがって、『大和朝廷の起源』の基本問題、”卑弥呼=天照大神”を検討するには、まず、『卑弥呼の謎』で展開された安本美典氏の「古代天皇平均在位年」論の当否を検討する必要があります。
1 『卑弥呼の謎』で展開された年代論についての検討
安本年代論の成り立つ仮説条件とその流れは次のようなことといってよいでしょう。
① 世界の王、中国の王、それらの王の在位期間を調べてみると、古代にさかのぼるほど短い。(『卑弥呼の謎』p71~73。以下『卑弥呼の謎』の頁数)
② 日本(用明~大正)においても同様だ。(p73~74)
③ 日本の場合、古代天皇(崇神~雄略)は10.73年/代である。(p126)
④ 神武天皇が存在した場合、その活躍の時代は、おそらく280~300年であろうと考えている。(p134)
⑤ 『日本書紀』『古事記』は、神武天皇の5代前が天照大御神であったと記している。
一代平均10年として、神武天皇の時代、270年~300年から、5代50年さかのぼれば、天照大御神の時代は、220~250年ごろとなる。(p175)
⑥ これは、『魏志』倭人伝に記録のある卑弥呼の活躍紀と重なる。したがって、卑弥呼=天照大神という仮説が成り立つ。
という流れで説明されています。
まあ、古代になるほど寿命は短かったでしょうから、①は一般論としては成り立つでしょう。ただ、寿命と在位年数は比例しませんから、注意を要します。
この本を読んで第一に感じることは、「古代天皇の在位云々」というように「天皇」という言葉を「形」で取り上げて、天皇が意味するところの時代による変化、など考慮されていないことです。
『日本書紀』ではすべて「天皇」としていますが、実態はかなり変化していると思います。『日本書紀』は、「天皇」という称号を古代の王者に追贈しているのであって、実際には「天皇」ではなかった、のです。『日本書紀』という「文献」に書かれているから、そこの「天皇」はすべて同一の意義を持つ、という安本氏の感覚の根本に、問題があるように思われます。
安本氏は以前、「邪馬X国」説を唱えられました。「邪馬臺国」「邪馬壹国」「邪馬嘉国」など史料によって異なるので、「邪馬X国」として、文献検討をすすめたら、と提案されました。これは、古田武彦氏が”各史料を平等に扱う”という「等距離処理法」である、と批判されました。 これと同様に、文献に現れる「天皇という語の質」などは、検討の対象にない、安本氏の数理文献学なのでしょうか?
「天皇」じゃなく、せいぜい「族長」乃至「地域の親分」の時期と、管轄範囲が大きくなり始めた、4世紀以降の「大王」期、8世紀以降の日本統一期を同一のファンクション「天皇」で統計処理しようとする、その根本にそもそもの問題があるように思います。この8世紀以降の列島の権力者としての「天皇」を、弥生期の族長の継承と、同様にとらえてよいものでしょうか。
2 父子継承の伝承は信じられない、という安本氏の判断の根拠は?
安本美典氏は、古代も普通の家は父子継承であったろうが、天皇という権力者の場合はそうでなかった(だろう)といいます。特に、神武~崇神間の10代について、安本氏は単に【『古事記』『日本書紀雄』の諸天皇の「代の数」は信じられるが、「父子継承」は信じられないものとする。】(『卑弥呼の謎』p172)といいます。
その理由とは、【古代の天皇の父子継承率が、後世に比べ高すぎるから】(『卑弥呼の謎p94)ということを上げられます。
これも「天皇」の語の定義内容を考慮しない論といえましょう。
『記・紀』でも記すように、いわゆる古墳時代、大王期から、勢力争いなどで、継承の順位が乱れ、兄弟間継承、夫婦間継承などが現れます。この変化が多い時期の在位年数を、結束が必要な族長期にも同様に、兄弟間継承・夫婦間継承などが現れます。
この変化が多い時期の在位年数を、結束が必要な族長期にも同様に、兄弟間・夫婦間の権力継承があった、とする根拠は薄いのではないでしょうか。地域のいわば族長クラスの場合は、結束を固めるために、むしろ何らかのルールに沿って後継者が決められていた、と考えるのが合理的推量ではないでしょうか。権力争いをする余裕はなく、『記・紀』が記すように、父子継承が行われた、という伝承を否定する積極的理由は、見当たらないのではないでしょうか。
一族の継承という意味で、例えば、豊臣秀吉の武将たちが朝鮮半島から陶工達のその後の系図を見ても、原則的には一子相伝を守って、現在14世の時代です。1592~1598年が文禄・慶長の役、それから約410年経った現在、窯元は、有田でも鹿児島でもどこでも、大体14世を名乗っています。薩摩焼の沈寿官さんも、司馬遼太郎さんの『故郷忘れがたく候』で有名ですが、14世です。この場合410÷14=29.2です。銘菓で知られる名古屋の青柳家も外郎家24代600年一子相伝です(25年/代)。
天皇の父子継承の場合、安本美典氏は、平均在位年数は18.6年と計算しています。(『卑弥呼の謎』p104)
それなのに、安本氏は、【崇神以前の継承についての『記・紀』の記事は、「作為」や「創作」によるよりも、むしろ訛伝」よると思われる。】(『卑弥呼の謎』p102) とされます。
『古事記』の伝承と、『日本書紀』(参考にされた一書群)の父子継承伝承が合っているのに、それを覆すだけの、安本氏がよく使う「有意性」のある、論証ができているとはとても思われません。いずれにしても、文献数統計理学を押し立てて論ずる安本氏にしては、あまりにもお粗末な論旨の展開なのです。
なお、それに加えて、古代にさかのぼるほど在位年数が短くなるという一般論を持ってきて、綏靖~崇神間の9台は、1代9年とします。【3世紀末から4世紀ごろの天皇平均在位年数は、9年程度ではないかと思われる。・・・(中略)・・・綏靖天皇以下の8帝は、もし実在したとしても、その期間は、比較的短かったのではなかろうか。8帝で50年~70年ていどではなかろうかと思われる。】(『卑弥呼の謎』p134~135)とします。
つまり、ここで、父子継承の場合の、自分で計算した「18.4年」を半分に減らすことに成功しています。なぜ、父子継承のばあいの1代18.6年ではダメなのか。それは、そうすると、「卑弥呼=天照大神が成り立たなくなるから」としか思われません。
3 なぜ神武~天照大神は、父(母)子継承ではないのか?
もう一つの問題は、神武~天照大神間も同じく、平均在位年数として10年を用いていることです。
天照大神が孫のニニギを派遣したことを記した『記・紀』伝承を疑う人はありません。ニニギ~神武の父ウガヤフキアエズ間は、とてつもない時間が流れている、という伝承はありますが、この5代の間に、兄弟間夫婦間の権威の継承が行われた、という伝承は見えないようです。それなのになぜ、安本美典氏は、この5代の在位期間を「5X10」年とされるのでしょうか?
この天照大神~神武間は父(母)子継承であり、安本氏が父子継承の場合の数値をそのまま使っても、「5X18.6=93」年であり、安本氏の主張する50年の倍くらい伸びてしまっています。これも、神武~崇神間で検討した結果と同様、そうしないと「卑弥呼=天照大神が成り立たなくなるから」ということではないでしょうか。
もし崇神~天照大神間を、安本氏の主張するように14代とし、『記・紀』の伝承通りに父子継承が行われたおし、一般的な在位年数を適用すると、「14X18.6=260.4年となります。同じ14代を、安本氏が定理的に使っている「古代天皇在位平均年数10年説」に従えば、「14X10=140」年となります。この二つの計算の差は、120年となり、天照大神の活躍時代は、卑弥呼の時代より古い1世紀になってしまい、安本説「卑弥呼=天照大神」の崩壊となります。
神武天皇の活躍の時期は同様に、仮に、1代平均在位を18.6年に取ると、安本氏の崇神天皇の時期を360年ごろ(『卑弥呼の謎』p134)というのをそのまま採用しても、神武天皇の活躍の時期は180年ごろとなります。つまり、神武天皇でさえ、卑弥呼の活躍時期より60年ほど前、3~4代前の人ということになります。
以上の検討は、安本美典氏の天皇平均在位年数のデータを用いて計算したものです。つまり、安本仮説の中に含まれているものなのです。結局、安本美典氏は、卑弥呼=天照大神に合うように、「天皇平均在位年数」を科学的に見えるように操っているにすぎません。
4 古田武彦氏の指摘
これについては既に30年前に、古田武彦氏が『盗まれた神話』で指摘されています。
この安本の見解を吟味しよう。
第二に、「卑弥呼=天照大神」説。これは遺憾ながら従いえない。この本の論証がしめす通り、天照は三世紀の卑弥呼などより、遥かに悠遠、古えの存在なのである。
以下「天照~卑弥呼」間の歴史を通観しよう。 ・・・(中略)・・・
こうしてみると、三世紀卑弥呼の時代は、倭人百余国が成立した前漢武帝、前二世紀のずっと後、「百余国」を「三十国」に統合し、各国の長官、副官も整えrされた”はるか後代”なのである。すなわち、天照大神と卑弥呼の間は、あまりにも遠いのだ。
安本とわたしとの、このような帰結の差異を生んだのものは何なんだろうか。それは、安本が天照と神武との間(アメノオシホミミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズ)をわずか四代と計算し、それに安本の言う古代王者の平均在位年数の十年を掛け合わせ、天照の実在年代を割り出す、という方法を取ったからである。
『古事記』においては、ウガヤフキアエズ以下に厚い不分明の霧がかかっており(五百八十歳問題等)、『書紀』においては一方で史料につぎはぎの断絶、〈神代紀第十、第十一段の間〉がある。他方、「神武紀」〈帝王本紀〉においては、、「天孫降臨―神武」の間に膨大な時間(百七十九万余歳)の流れていることが強烈に主張されている。にも拘わらず、安本はこれらを一切かえりみなかった。”それらは「後代の造作」であり系譜だけは信用できる”として、「四十年」を計算し、もって解とした。 ―これが原因である。これでは、安本もくりかえしのべている”古文献の記事をむげに「後代の造作」として否定し去らないこと”という原則をみずから放棄することにならないだろうか。
この”天照大神は卑弥呼より古い”という命題については、他にも今まで論じられてきた。・・・(中略)・・・(吉本隆明「起源論」、『共同幻想論』所収) もっとも、吉本の論断を待つまでもなく、一素人の素朴な感想をもってしても、天照の天の岩戸ごもりの神話に見られる牧歌的なイメージと、卑弥呼の「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」という峻厳な印象と、”あまりにもはるかな時間のへだたり”をそこに感ずるのではあるまいか。(『盗まれた神話』第十三章「天照大神はどこにいたか」より)
5 安本氏は別の値も提案していますが?
安本美典氏は、なぜか、【仮説系II】として、父子継承の場合、データから得られた18.6年でなく、父子継承の場合の平均在位を14年とするのが妥当(卑弥呼の謎p169)ではないかと提案されます。まあ、これでいくと「卑弥呼=天照大神説」が成り立つギリギリの値なのでしょうか?
しかし、平均在位14年での父子継承は、生物学的に続くわけはありません。仮に初代が20歳で嗣子を得て、在位14年経て34歳で死ぬという仮定でスタートします。そのとき2代目は14歳で即位することになります。その子が在位14年を経て28歳で死ぬと、その2代目が17歳で嗣子を得たとしても、その子、つまり3代目は11才です。11才での幼年君主となります。その3代目が在位14年を経て死ぬ。同様に17才で嗣子を得ていたとして、その4代目はそのとき8才である。
このように、4~5代で生物学的に連鎖は止まってしまう。やはり父子継承の平均在位年数は、20歳近くに設定し20歳近くで嗣子を得る、ということでないと続かない。その意味での「父子継承の場合の平均在位年数18.6年」は下限に近い値と思われます。
6 伝承にしたがって父子継承とし、神武~崇神間を検討してみます
在位年代という一見、数理統計的に取り扱えるかのようなに見えますが、歴史上の人物と、その年代とを照合するのなら、在位年数でなく、『記・紀』の伝承記録から、まともに「世代」を検討してみたら、その方がより科学的は結果が得られるのではないだろうか、と思われます。そこで、『記・紀』の神武~崇神間9代の継承を、伝承のように父子継承とした場合、どのような結果が得られるだろうか、と検討してみました。
条件として、
①各天皇の生存年齢は、古田武彦氏著『失われた九州王朝』―「二倍年暦はいつ終わる」の表によりました。
②生物としての人間は、ミニマムとして、13歳以降で生殖能力を発揮し、14歳以降で子を得る事は可能だろうが、常識的に、成人するのが15才、嗣子を得るのは17才位とした。
③天皇が歿し嗣子が継ぐが、在位は2~3年は最低あったとする。(1年程度であれば、伝承ではオミットされたと思われる)
④幼年での継承も可能とした。(妻や、その他の後見人がいたとする)
⑤古事記と日本書紀、それぞれの検討をしてみた。
条件が沢山あるので、棒グラフを作って、いろいろトライアルに動かしてみて、上記条件に合う図を作りました。
『記・紀』の神武~崇神間9代の継承を図にしてみたのが次の図-1です。
また、綏靖~安寧~懿徳~孝昭~孝安は『古事記』によると、若年で没していて、純然たる父子継承が連続した、というには無理があるようですので、詳細に検討しました。それが図-2及び-3です。
以上の結果から言えることは、
①神武歿年~崇神即位まで、古事記の数字からは、140年(平均在位17.5年/代)
②『日本書紀』からは160年(平均在位20年/代)という値がえられた
③『古事記』によると、安寧・孝昭の両天皇は幼年即位(10才未満)となる
④『古事記』によると孝霊天皇は極めて短期間在位(5年位)になる
⑤『日本書紀』の記述に従えば、幼年即位、短期間在位もない(平均在位が『古事記』に比べ長いから当然であろうが)
ということでした。
7 崇神以前は母系社会だったのか?
『古事記』の伝承による検討結果の継承図によりますと、安寧、懿徳、考昭は、幼年継承とならざるを得ないようです。そのことは、閨閥によるバックアップがあったのではないか、母系社会であったのではないか、という可能性がでてきます。
ところで、『日本書紀』によりますと、綏靖天皇の寿命が『古事記』に比べ非常に長くなっています。(『古事記』は44年、『日本書紀』は84年、いずれも2倍年歴)。このせいで父子継承としても無理なくつながります。
これから引き出される仮説として、『日本書紀』の編集者は、『古事記』の伝承をそのまま用いると、母系社会的な相続であったことが明らかになることを嫌って、綏靖の年齢を引き伸ばしたのではないか、という疑いが出てきます。
これは、『日本書紀』の編集者は、太陰暦の2倍暦という古代の日本の暦の存在を知っていた、という仮説にたっての話となりますが。(注1)
以上の、神武~崇神の継承図による検討結果は、“神武~崇神の継承の系譜は信じられるが、父子継承は信じられない”、という安本美典氏の説を支持するものではなく、父子継承を強調したい『日本書紀』編集者の意向があったのではないだろうか、ということになります。
いずれにせよ、「卑弥呼の活躍した3世紀中葉と天照大神の活躍機関が合うことはない」、という安本説批判の補強にはなると思います。
結論として
安本美典氏の頭の片隅にでも、ひょっとしたら、本居宣長がいうように、「九州の酋長がわが国の代表ヅラをして通交したのでは」、という思いは横切らなかったのでしょうか。あまりにも文書記録にこだわり、記録がないことは歴史でない、というような安本美典氏だと思われます。
しかし、安本美典氏にとって、たとえ記事があっても、例えば『続日本紀』の焚書の記事などは目に入っていないようです。安本美典氏にとっては、「焚書した」と書かれていないと、そのような事実があったと認識できない文献学者なのでしょう。せめて、古田武彦氏が提案する、『筑後国風土記』にある卑弥呼甕依姫説も、科学的文献学者であったら一度検討してご覧になったらいかがでしょうか、と言いたい。
安本美典氏が講談社現代新書『卑弥呼の謎』で展開した、「天皇在位平均年数」論が崩れると、安本美典の一生を懸けた成果が雲霧消散し、裸の王様になってしまうことになり、可哀そうな気もします。
しかし、この30年『季刊邪馬台国』に陣取り、古代史関係の学会の上下関係の縛りにも似たような編集で、九州邪馬台国神武東遷説を垂れ流している罪は重いのではないでしょうか。
(以上)
(注1) この古代の暦については、『日本書紀』の記述に、月の後半の日付が殆んどないことに着目して、1月=15日暦説を唱えている、アマチュア古代史家、貝田禎造氏の『古代天皇長寿の謎』の“日本の古代に太陰暦渡来以前に独特の暦”説は説得力があります。
参考図書
・安本美典著『大和朝廷の起源』 勉誠出版 2005年刊
・安本美典著『卑弥呼の謎』 講談社現代新書 1972年刊
・古田武彦著『盗まれた神話』 角川書店角川文庫 1979年刊
・貝田禎造著『古代天皇長寿の謎』 六興出版 2010年刊