槍玉その19 虚妄の九州王朝 安本美典著 梓書院 1995年刊  文責 棟上寅七

安本美典氏は以前槍玉その3 倭の五王の謎の著者ということで取り上げ、ご経歴なども紹介しましたので今回は割愛します。

はじめに

この"虚妄(まぼろし)の九州王朝"独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ、と副題され、古代史論争シリーズ・1として、1995年に出版されました。
1971年に出版された「邪馬台国」はなかったという本に始まる一連の、古田武彦さんが出された本に対する、安本美典氏の批判の最新版的本です。

まず、安本美典しは、1980年に「邪馬壹国」はなかったという本を、古田武彦批判本として出されました。この本について、古田武彦さんは著書、邪馬一国の証明の中で(p182)次のような感想を述べられています。

『 
昭和55年初頭安本美典氏の「邪馬壱国」はなかったー古田武彦説の崩壊の出現を見た。その主題は私の第1書のパロディだ。内容もまたパロディに満たされ、非難や中傷が多い。しかし、学者の、かくもなりふりかまわぬ態度は、むしろ光栄かもしれぬ。なぜなら感情的な攻撃、それは論者の強さを示すものでなく、弱さをしめす、・・・』と。

この槍玉その19では、この安本さんの古田さんへの悪罵的非難中傷部分への反論は抑えることにし、古田武彦さんが、安本氏の学問的ではない論理に反論の価値もない、とされている(と思われます)事柄を、当研究会なりのスタンス、常識と理性による判断で検討してみたいと思います。

それに、安本美典氏は、この虚妄の・・・の中で、古田説支持者に対しても批判されています(p67~70)ので、当研究会も受けて立たざるを得ません。

尚、理性的反応が出来なかった部分につきましては、
道草10”虚妄の九州王朝”批判 独断と歪曲の「安本美典説」を撃つ にパロディで述べさせて頂きましたことをご寛恕下さい。
虚妄の九州王朝
さて本の内容ですが、安本美典氏は、古代多元王朝説の古田先生に、正に、子供のイチャモン的な言いがかり、をつけている、と寅七みたいな考古学の素人にも思われます。古田さんの片言隻語をとらえ、通説の先生方の見解を引っ張り出して述べ、だからおかしい、という論法が殆どです。ご自分の意見は余りありません。
虚妄の九州王朝という安本美典さんの本を、古代史本批評という立場で読まなければならないのですが、よくぞこんな悪罵に満ちた本を、それなりの名が通った学者さんが、書けるものだ、と感心しかつ呆れています。

古田武彦さんの著作を読んでいらっしゃらない読者が、この本だけを読んで、「九州王朝」に誤ったイメージを抱いてしまうことを恐れ、あまり些事には亘らず(それは古田さんの著作を読んでいただくこととし)、下記の6項目について、検討結果を述べたいと思います。他にも・文献の取り扱い方・考古学的出土品(鉄?)などのこともあるのですが、割愛しました。

 検討した項目

(1)九州王朝の文献は?

(2)邪馬台国の読み方「ヤマト」国は成り立つか?

(3)「古田武彦氏の中国文の読み方批判」は当を得ているか?

(4)アマテラス=卑弥呼説は成り立つか?

(5)弥生時代の人口分布図の利用は正しいか?

(6)安本氏の里程論はどうなったのか?

(1)九州王朝の文献は?

安本美典氏は、数理統計文献学者、とおっしゃるだけあって、この、虚妄の九州王朝でも、文献の評価についての発言が多いようです。特に、目立つのが、九州王朝の文献がない、というフレーズです。
間違ってはいけないので、煩雑ではありますけれど、この種の安本氏の発言の主なところを、2ヶ所挙げてみます。

)九州王朝説の系譜、という章で、本居宣長の提唱した「熊襲偽僭説」を鶴峰戊申が受け継ぎ発展させた、として以下のように云われます。(同書p130)

『鶴峰戊申は主張する。倭人伝、その他の中国史書も朝鮮の史書に現われる倭・倭人・倭国もことごとく南九州の襲のことである、と。卑弥呼はこの襲の女王であった、と。(中略)しかし、古事記・日本書紀をみれば襲国が暦をつくり、年ごとの歴史を記し、寺を建て、銭貨を鋳造した、というような記録は見えない。鶴峰戊申の議論には、創造で補っている部分がかなりある。(後略)』

続いて、『本居宣長段階では、「熊襲などの類」を女酋的なものとして、なんとなく、いやしめられていたものが、鶴峰戊申段階では、「襲国」という国家としての体裁をととのえたものとしてあつかわれ、さらに古田武彦氏の段階では、「九州王朝」という麗々しい王朝に昇格するのである。(中略)』

『しかし、「九州王朝」と名づけるのにふさわしい王朝の存在を伝えるような、確かな文献は存在していない。(後略)』

)又、「九州王朝」についての私の考えという項で(同書p131~132)次のように述べられます。

その(1) 『九州王朝説は中国側の記事と日本側の記事とがあわないことを、主要な根拠とする。しかし、ずっとのちの、豊臣秀吉が、明に攻めていった時代の記事でも、中国側文献の記事と、日本側文献の記事とは、かなりくいちがっている。

たとえば、「明史」の「日本伝」は、信長が関白であったとか、秀吉が関白を僭称したとか、明智とは別の阿奇支というものがいたかのように記すとか奇妙なことを記している。(中略)魏志倭人伝以後の中国の史書にあらわれるわが国についての記載で、わが国の史書と対照できるものについてしらべてみると、ほとんど必ずといってよいほど、中国の史書の中に誤りを見いだすことができる。時代的にもより古い「魏志倭人伝には、後世の史書程度の誤りは、含まれているとみるのが自然である。』

その(2)として、『九州王朝について、豊富な文献資料があり、それに記載されているところが、中国側文献の記すところと、良く合致しているというのなら、九州王朝説の成立する余地がある。しかし、九州王朝について、なんら確証できる文献がなく、中国側文献の記すところと、日本側文献の記すところが、くいちがうところがあるから、九州王朝が存在したというのでは、証明にならない。想像説を出ない。』と述べています。

まず、(A)九州王朝の文献について、古田武彦さんが仰っていることを読者の皆さん紹介します。

古田武彦さんは、著書邪馬壹国の論理の中で、「実在の証拠無視」 という項を立てて「九州王朝」関係史書について詳述されています。(同書p13~)
同書を読んでいただくと良いのですが、寅七が、簡単にまとめて見ます。

「日本列島には、天皇家以外に中央権力として歴史上存在したものはない」という「日本の常識」が歴史史料を見る目を曇らせてきた。それをとり拭うと、はっきり見えてくる。例えば古事記序文だ。天武天皇の詔勅「削偽定実」という有名な言葉。この「偽」とは天皇家を中心と認めないもの、「実」はその逆で、その「偽」の立場に立った「帝紀」「本辞」が「諸家」からもたらされていると云っている。

つまり、天皇家ならざる権力を大義名分とした「歴史書」が、天皇家の歴史書=記紀に先立って存在していた、ということになる。例えば、日本書紀の「一書」がその証例である。神代紀に「一書に曰く」という引用が58個も登場しているのに、次の九州から舞台が近畿に移った神武紀では、それがぴたりと消滅する。この「一書群」が天皇家にとって「偽」であり、九州の王たちの歴史文献だった。

隣の朝鮮の史書「三国史記」に「倭」「倭国」「倭兵」「倭王」「倭女王」「倭軍」「倭賊」「倭船」など97回出現している。しかしこれらの倭国記事は天皇家の伝承と接点がないので、記紀には殆ど登場していない。この「倭国」は新羅国・百済国と並列してかかれた独立の国家である。100艘の船で襲来し、とか、倭国の女王卑弥呼とか出ているが、これらは記紀に殆ど現われていないのは、近畿王朝が三国史記の記す「倭国」ではないことを示している。


ところで、寅七が、このような古代史本の批評をするようになって学んだことの一つは、この著者はなぜこのような問題に触れないのか、を探すことが、その著者にとっての弱点だ、ということです。

安本氏が触れようとしない(と寅七には思われる)大きな問題の内の一つが、中国史書に記せられた「日本列島の二つの政治権力」という問題です。

中国の史書に日本列島にあったとされる国々、「倭奴国」「東鯷国」「扶桑国」「蝦夷国」に始まり、「邪馬壹国」「邪馬臺国」「倭国」「俀国」「日本」と沢山出てきます。ところが、これらの内2国が次の史書ではセットで出てくるのです。「隋書」における「?国」と「倭国」、「旧唐書」における「「倭国」と「日本」、「新唐書」における「倭国」と「日本」、「冊府元亀」における「倭国伝」と「日本伝」というように。

九州王朝は古田さんがそのネーミングを使われて最近でこそ、有名になりましたけれど、古代そのような「九州王朝」という名前が、使われていなかったことは、自明のことです。当然、中国の史書に「九州国」が現れることもなく、日本の歴史書に「九州王朝」が現われることも、あろうはずはありません。

これら2個セットの日本列島の国の一つが、中国の史書を真面目に読む限り、九州にあった政治権力であったと理解せざるを得ません。「倭奴国」「邪馬壹国」「邪馬臺国」「俀国」と称される、「倭人の国」の歴史文献が、中国史書にちゃんと現われているではありませんか。

尚、2個セットの国、倭国と日本についての、それぞれの国の特徴については、古田武彦さんが失われた九州王朝で、旧唐書を中心に、新唐書・冊府元亀・隋書などに書かれた二つの国について詳しく書かれていますので、是非お読み下さい、ここでは割愛します。

次いで(B)の中国の史書には誤りが多い、だから三国志にも誤りがある。三国志の南宋時代の版本を間違いない史書と、それに依拠している古田は間違っている、と言うことについて、古田武彦さんご本人の説明を引用してこなくても、当研究会員棟上寅七の常識から、そんな馬鹿なことをよくいうよという反論が出てきます。

確か、古田さんは、神皇正統記の記事に誤りが発見されたら、続日本紀の記事も信用できない、というのと同じ論法だ、というようなことをいっておられたように思います。(書名は違ったかも知れません、最近老人力が付きはじめていますので)

古田さんは、「魏志無謬論」を唱えてはいない、ことを、安本氏はことさら無視している、ことはさておき、誰しも思うことは次のようなことでしょう。
明史に誤りが多いのなら、その明史について検討すべきで、明史に誤り多いから他の史書も当てにならない、という論法は雑すぎる、と。

安本さんの数理統計文献学の文献の捉え方に問題があるのではないかと、寅七には思われてなりません。文献の質というものを考慮しない、安本先生の質という根本問題があると思います。

槍玉その3で以前、安本さんの古代天皇の平均寿命10年説を検証しました。安本さんは、天皇の代というファンクションを固定的に捉えていて、その代が親子間の世代なのか、兄弟間・夫婦間のものなのか、質の違う天皇の代をゴッチャにして、結局、自説に合うように、天皇在位平均年数10年説に(我田引水的に)結論を持っていかれていることを検証しましたが、このように、安本先生の質という問題が根底に存在するように思われます。

虚妄の九州王朝p236に『(前略)古田氏は「宿痾」という言葉を用いて、他を批判される場合が多いが、それにならっていえば、中国史書と、日本側史書とについての、バランス感覚の異常さ、それは、古田武彦説の、「宿痾」と言える』とも安本氏は述べています。

文献の検討に、「バランス感覚」という指標を持ち出す、というその感覚もまた、安本先生の質という問題に帰せられるか、と寅七には思われます。

安本美典氏のこのような論議をみますと、歴史書と言うものの本質を理解していない人の論議というように思われます。

以前、ダヴィンチのことで何か寅七が書いた記憶がある、と思い調べてみました。最近映画化されたダン・ブラウンという方の推理小説ダ・ヴィンチ・コードの中に、歴史書の本質的な性格として、登場人物に次のように言わせていることを紹介していました。(道草その3 ダヴィンチコード

歴史は常に勝者によって記されるということだ。二つの文化が衝突して、一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。自らの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。ナポレオンはこう言っている。歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない。本来、歴史は一方的にしか記述できない

勝者の歴史書のみを数理統計文献学で研究しても、敗者を含めた歴史の流れを掴み取ることは難しいようです。

              

(2)邪馬台国の読み方「ヤマト」国は成り立つか?

この問題につきましては、・版本の問題、・「臺」が3世紀にどのような意味使われているか、など安本氏はいろいろ述べていますが、読者にとっては煩雑なだけでしょうから、基本的なことに絞って述べていきます。この問題について詳しくお知りになりたいかたは、古田武彦さんの第1「邪馬台国}はなかったを是非お読み下さい。

安本美典氏は「邪馬壹(臺)国」を「ヤマト国」と読みたいようです。そして「倭国」の読みも「ヤマト国」と、もって行きたいわけです。
そのためにまず、魏志の邪馬壹国の、壹は臺の誤字誤刻説をとられます。なぜなら、「邪馬国」でしたら、どうやっても「ヤマト国」と読めないからです。

古田武彦さんは『魏晋朝では、臺は天子を意味する字であり、東夷の国の音標表記に、いろいろ選択できる字があるのに、晋朝の史官が邪馬国と、という「貴字」を使うことはありえない』と主張されます。

そこで、安本氏は、「臺」という字は「貴字」でなく、普通の字である、邪馬という卑字とという字を組み合わせてもおかしくはない、と反論されるわけです。
トを表す漢字表
安本氏が次に超えなければならないハードルは「臺」が「ト」と読めるか、ということです。

邪馬臺国=ヤマト国論者が、「臺」という繁字体(旧字体)を使いたがらず、略字体の「台」を使いたがります。

しかし、この二つの字は、元は別々の文字なのです。近代に臺の略字として台が用いられるようになったのです。卑弥呼の国は、「邪馬壹国」か「邪馬臺国」という論争は成り立っても、「邪馬壹国」か「邪馬台国」かという論争は、もともと成り立たないのです。

「台」を使いたがる、それはなぜか。略字の「台」には「ト」という読みができるから、ということのようです。

魏志で邪馬臺国という国名表記はありえない、ということは先述のように、古田武彦さんがその第1「邪馬台国」はなかったで詳述されています。それに対して、いや臺はトと読める、と藤堂明保さんの古代の音韻表(右図)などを使って力説されています。

ところが、この表について、古田さんが、藤堂明保さんに直接お聞きした、と概略次のように邪馬壹国の論理で述べておられます。

奈良時代以前に「臺」を「ト」と表音文字として使われた例はないのに、どこから、この読みを、との問いに、藤堂先生は次のように答えます。日本の歴史学者の皆さんが、「邪馬臺国」は「やまとこく」と読まれるので、と。』

これでは、「臺」の読みが「ト」である証明にならないのは、中学生でもわかる話です。

この件についての詳細は、邪馬一国への道標1978年刊 のp252~253に詳しく述べておられます。

この邪馬一国への道標という本は、1978年に出版されています。安本氏は、古田武彦さんを、「良き論敵」と目されているようですから、当然、この「藤堂さんの音韻表の中の、について問題がある」、と古田さんが主張されていることはご存知と思われます。

今回の虚妄の九州王朝で、「臺=ト」の確証がないことを知りながら、あえて15年後、再度主張することは、お金を払ってこの虚妄・・・なる本を買った読者に対して、失礼ではないかと思います。

折角苦心されて、安本氏が論を進められたのですが、論理の示すところは、「邪馬臺」国は「ヤマタイ若しくはヤマダイ」国としか読めないという結果になります。
奈良時代以前の国内文献は全て、古田武彦さんが指摘されていますように、「臺」は訓じて「うてな」で音は「ダイ・タイ」なのです。

寅七が疑問に思いますのは、仮に臺がトと読めたとしましょうか。そして魏の使者、張政なりが、日本列島に来て、国の名前をヤマトと聞いた場合どう表記するでしょうか。「ト」の音の字に、「台」にしようか「臺」にしようか、邪馬台国とするか邪馬臺国とするか、と考えたとしましょう。この場合、東夷のいわゆる夷蛮国に対して、邪馬国と書き表すのではないでしょうか。

この臺=トについて、この本の中におかしなことがあります。虚妄の九州王朝p133で、邪馬台は大和と読める、という項を立てていらっしゃいます。『「邪馬台(臺)」は、万葉仮名の読み方では、「やまと」と読める。「大和」とも一致する。奈良時代、「大和」は、「夜麻登」「夜摩苔」などと書かれていた。「邪馬台」も「夜麻登」も、奈良時代の人が読めば、ともに「やまと」であった。』と仰っています。

ここでも、ジワッと、臺から台とすり替えがなされています。奈良時代の人は、「邪馬臺」とあれば、「やまたい」若しくは「やまのうてな」と読んだと思うのが自然じゃないでしょうか。

同書p208で、隋書の俀国伝の記事を紹介されています。「其の地勢、東は高く、西は低く、邪靡堆(やまと)に都す」という文章です。この邪靡に「やまと」と無造作に振り仮名を振っていらっしゃいます。先ほどの藤堂明保先生の表にも、がトと読まれるとは全く出てきていません。これは、「やひたい」もしくは靡が摩の誤刻であれば、「やまたい」でしょう。

この虚妄の九州王朝という本が、論理の一貫性に乏しい、と寅七に言われても仕方ないことだと思われます。

尚、付記しておきたいことがあります。
この、虚妄の九州王朝の大きな部分を割いて、安本氏は古田さんの臺は至高の貴字に反論されています。又、『古田氏は三国志の中の「臺」の数を58個としているが、自分が数えたら60個あった、古田の統計もいい加減だ』とも述べています。

しかし、この問題について、古田さんは、1980年の邪馬壹国の論理でこれらの諸点について、詳しくご自分の考えを改めて述べられ、「臺」2個の見落としの件も、指摘してくれた方々に感謝の念も述べられています。

論争の片方の態度の立派さに比べ、あまりにも極端で感情的な反応示されると、この安本グループの崩壊も近いのでは、などとあらぬ方向に寅七の思考が向かってしまいます。

          

(3)「古田武彦氏の中国文の読み方批判」は当を得ているか?

安本美典氏は、倭人伝の古田さんの解読が今までの邪馬台国論者の読み方が違うのは、古田さんの中国文の読み方がおかしいのだ、と『多くの中国人学者が筆をそろえて述べている』(虚妄の九州王朝p12)と述べていらっしゃいます。

又、倭王武の上表文の読み方にも、『古田氏は、倭王武が悲痛な声を発している、というが、そんなことはない、堂々とした文で授号を果たしている』といいます。
中国文の読み方については、古田さんは、その著書「邪馬台国」はなかった(朝日文庫p56~)で『中国の学者も安易な原文改定をした』とか邪馬壱国の道標(p192)で『3世紀の中国人は、後代の邪馬台国論者のような漢文の読み方をしていない』とか述べていらっしゃいます。

安本氏の本を読んだ読者は、古田武彦さんはその程度の人か、と思ってしまうかもわかりません。

寅七が推測するに、中国文の読み方についての古田さんの発言が、安本氏の逆鱗に触れたのではないか、と思われるところがあるのです。それは、魏志倭人伝の行路部分の解釈のところです。

「邪馬台国」はなかった(朝日文庫p214~)「階段式読法」で、古田さんはこう述べられます。『従来の読み方では、「韓国内全行程水行」では「乍南乍東」がうまく収まらなかった。中国文の文法・語法を忠実に守りつつ理解すると、韓国行路は「全行程陸路」だ』、とされます。そして同書(p217)で、『安本美典邪馬台国への道でもこの「全行程水行」を自明のこととあつかっている』と書かれています。

つまり、古田さんから「安本は中国文の文法・語法が理解できていない」と云われた、と受取り、プライドが傷ついたのではないかと思われます。

この本で、安本氏は、この韓国内行路の問題には触れていません。つまり、理屈で反撥できないので、冒頭の『古田氏の中国文の読み方がおかしい、と多くの中国人学者が筆をそろえて述べている』というような、いわば抽象的な反論になったと思います。

つづいて、倭王武の上奏文の件です。

同書のなかで、古田武彦さんの倭王武の上表文の受け取り方がおかしい、主観的な見方をしている、と次のように述べられます。(p191~192)

『「記紀の(仁徳~雄略の)六代は、対外的に平穏そのものだ。外国との戦火のにおいなどは全くない。これと高句麗に対する軍事的劣勢の中で悲痛な声を発している倭王武の面影とは、全く面目を異にしている。」古田氏の文章にはこのような主観的理解にもとづく文章が、はなはだ多い。倭王武の上表文は、堂々たるもので、かつ、「使者持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の爵号を、宋から授与されているのである。「悲痛な声を発している」などといえるだろうか。』

しかし、この本には肝心の、倭王武の上奏文は載せられていません。読者は、安本先生が言うのならそうかなあ、と思うしかありません。古田武彦さんの失われた九州王朝の中にこの上表文の内容が出ています。(下記参照下さい) しかし、昔の漢学の素養のある方ならともかく、無教養の寅七クラスの人間には理解するには背伸びしても届きません。

堂々たる上表文であることはなんとなくわかるのですが、悲痛な声を発しているかどうか、というところまでは分かりません。しからばと、昔上海勤務時代に現地で求めた、辞海なる辞書とインターネット検索辞書を使い、寅七は浅学非才ではありますが、蛮勇だけはありますので、その蛮勇を奮って寅七流現代語訳を試みてみました。

寅七が倭王武の上表文から読み取れるのは、倭王武をはじめ歴代の倭王たちは朝鮮半島はじめその他の地域での戦闘にいとまなく、それも先頭に立って戦い、大変だっただろうなあ、ということです。勿論、安本氏が倭王武に比定される、雄略天皇の記事、日本書紀の雄略紀などにはこのような様子はひとかけらも見当たりませんでした。

堂々たる文章で苦しい状況をよく伝えていると、寅七には受け取れました。安本氏は数理文献学者ということですが、中国文の読み方はあまりお得意でないのでは、と寅七には思われました。誤りその他お気づきの点、見つけられましたらお教え下さい。


原文

〔宋書]「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬?甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遙百濟、裝治船舫。而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不、臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆載、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府義同三司、其餘咸假授、以勸忠節。」
詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。  
 

和漢文訳(古田武彦 失われた九州王朝 より)

順帝の昇明二年、使を遣わして表を上る。曰く、「封国は偏遠にして、藩を外に()す。昔より祖禰躬(そでいみずか)ら甲冑を?(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国。王道融泰にして、土を(ひら)き畿を(はるか)にす。累葉朝宗して歳に(あや)まらず。臣、下愚なりと雖も、忝なくも先緒を()ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て船舫を装治す。而るに句驪無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉(けんりゅう)して已まず。(つね)に稽滞を致し、以って良風を失い、路に進むと曰うと雖も、或いは通じ或いは(しか)らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞(へいそく)するを忿(いか)り、控弦(こうげん)百万、義声に感激し、(まさ)に大挙せんと欲せしも、(とも)に父兄を(うしな)い、垂成の功をして一簣に獲ざらしむ。居りて(りょうあん)に在り、兵甲を動かさず。是を以って偃息(えんそく)して未だ倢たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を()べんと欲す。義士虎賁(こほん)文武功を(いた)し、白刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。若し帝徳の覆載を以って、この(きょう)敵を(くじ)き克く方難を靖んぜば、前功を替えること無けん。(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は()な仮授して、以って忠節を勧む」と。詔して武を使者持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。(失われた九州王朝 角川文庫 p110)


 現代語訳(棟上寅七訳)

宋の順帝(AD467~479)の昇明2年(478年)に、倭国王武が使いを遣わして国書を奉ってきた。
それには次のように書いてあった。

『私、武が治めよ、と朝廷から封じられた倭国は、皇帝陛下のおられる都よりずっと離れた辺鄙な土地にあります。
皇帝陛下の威光を示す範囲を、ずっと帝国の外側へと広げてまいりました。昔から、私たちの祖先は、自らも甲冑を装い、山河を渡り歩いて戦い、ゆっくり休むこともありませんでした。

その結果、東は毛人の国々55カ国を征伐し、西は衆夷の国々66カ国を服属させ、海を北に渡って平らげた国々は95カ国に及びます。帝国の進む道は安泰になり、帝国の領土はますます拡がっています。

私ども倭国累代の王たちは、ずっと長い年月道を誤らず忠節を尽してきました。皇帝の臣であります、私、武も、愚かな者ではありますが、先王たちの歩んだ道通りに統べるところは率先し、常に崇敬する方向を間違えず、帝都への道は百済の国を隔ててはいますが、常に船による航行ができる準備は整えています。

しかしながら、高句麗は道理を無視し、武力を持って侵略を図り、国境周辺を略奪・侵略を繰り返しています。おまけに侵略した後、その地に留まるので、その地域が宋朝廷に対する忠節心が失われるようになっています。

私たちの朝廷への道も、時には妨害され通じなくなったりしています。私、武の亡き父、倭王済が、この天朝に通じる道を、高句麗が侵略し閉塞したことに怒り、100万の弓弦を準備し、諸国の義勇軍の応援もあり、まさに高句麗に戦いを挑んだその時に、父済と兄とを共に亡くしてしまい、あと一歩というところで成功しませんでした。

その後は順帝陛下の服喪期間となり、兵を動かせず、したがって戦いは休止していて高句麗に勝つことが出来ていません。やっと今となり、兵も武器も充分に準備し、父や兄の果たせなかった目的達成に向かうことを宣言したいと思います。

諸国義勇の士も、諸国の政ごと・軍事ともに整え、白兵戦もみな厭わぬ心構えも出来ています。もし皇帝陛下の御徳を戴き、この強敵高句麗をやっつけることが出来、ほうぼうの被侵略地の回復が出来れば、私たちの父兄の勲功を落としめることはない、と断言できます。

それですから、自分に、従来父に与えられていたと同様の「開府儀同三司」の権限があるものとみなしていただき、配下の諸国王そのた功臣にもそれぞれの位官を仮に授け、以って皇帝陛下への忠節を励まさせたい。』と。

それで、順帝は詔勅を下し、武を「使者持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に叙すことにした。

                        

4)アマテラス=卑弥呼説は成り立つか?

確かに、天照大神と卑弥呼には共通点があります。
たとえば、どちらも女王 どちらも九州島を主たる活動領域としている どちらも弟がいた どちらも宗教的支配者 などで、アマテラス=卑弥呼説は立てられやすいようです。

まず、安本さんの考えを整理しておきます。


安本美典氏はその著書卑弥呼の謎でアマテラス=卑弥呼説を詳しく述べていらっしゃるようですが、自説の古代天皇の平均在位表の説明の中で、アマテラス=卑弥呼説を取る、云われます。(p113)

ここで使われる、古代の平均天皇在位年数10年説は、槍玉その3 倭の五王の謎でその問題点を指摘していますので、ここで改めて繰り返しません。

安本氏は、記紀の記述から、神武天皇から5代先が天照大神とされます。歴史紀年のハッキリしている第30代用明天皇から代数X10年で計算すると、天照大神の年代は卑弥呼の年代(240年ごろ)と合致する、とされます。

安本さんは『「大和朝廷」と「邪馬台国」との関係で、「邪馬台国の後継勢力が、大和朝廷をうちたてたため、邪馬台国の名が引き継がれた』、とされます。そして、『私は邪馬台国東遷説をとる』、といわれます。

そこで、誰が後継勢力なのか、応神天皇と何かの本で見たように思いますが、この虚妄の九州王朝では、そこは確言されていません。
大きな流れとして、卑弥呼=アマテラス の国、邪馬台国が 近畿に移ってきて 大和朝廷を立てた、と論をもっていかれるわけです。

以下に当研究会の検討したところを見ていただきたいと思います。

アマテラスはその神話・伝説の「物」を見ますと、青銅器時代ー弥生時代初期ですし、卑弥呼の時代の倭人伝の「物」は鉄器時代ー弥生中期と違う時代の人、と寅七は思うのです。

古田武彦さんは、P373で「一素人の素朴な感想としても、天照の天の岩戸ごもりの牧歌的なイメージと、卑弥呼の「宮室・楼観・城柵・厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」という峻厳な印象とあまりにもはるかな時間のへだたりを感ずるのではあるまいか」と述べられていますが、寅七も同感です。が、ここはそれは置いておいて、安本説に従って時代検証をしてみたいと思います。

この点につきましても、古田武彦さんは、その第3書盗まれた神話(p370~374)で、安本氏の著書高天原の謎で「九州の朝倉=高天原」説と「天照大神=卑弥呼」説を取り上げて検証されています。詳しくは同書に譲るとしますが、結論は、『記紀に従った、といいながら記紀の記述を自分の都合の良いように取り上げて、天照~神武の間を4代としたことによる。』ということです。

古田さんはこうも云われます、『古事記においてはウガヤフキアエズに580歳などの不透明な霧がかかっているし、書紀においては神武紀に「天孫降臨~神武」間に170万余歳という時間があるなどとされているが、安本氏は、これらのことは、全て造作としながらも、系譜だけは信用できるとし、アマテラス~神武間=4代X10年とし、卑弥呼の年代に合うとした。』と。

以上のこととは別にしても、当研究会が以下に示す、安本説に対する常識的な疑問点を、どう論理的に乗り越えられるのでしょうか?出来ないのではないかと思います。

記紀では、アマテラスの次代は男王アマノオシホノミコトが継いでいる、が、卑弥呼の後は女王壱与が継いでいる、という矛盾点。

記紀では、アマテラスの父母はイザナギ・イザナミである、が、卑弥呼は諸王によって女王の座についている、という矛盾点。

記紀では、アマテラス~オシホノミコト~ニニギ~ヒコホホデミ~ウガヤフキアエズ~神武 と6代である。このアマテラス~神武間の年数計算は、小学生の常識でも、5代分を計算しなければならないことは明らかです。間のオシホ・ニニギ・ホホデミ・ウガヤの4代だから、アマテラス~神武間の計算は「4」X10と4代となるというのはおかしいと思います。

この記紀の6代は、全て、親子間の権力継承である。人間という生物が、生物学的に、40年間で6代代替わりができるか?昔の人は早熟だとしても、生物学的には最短15年x5=75年、常識的には18~20X5=95年ははかかるでしょう。

以上に加えて、寅七が考えるに、倭人伝の記事からみると、卑弥呼自体かなり長く、少なくとも20年以上即位していたし、次の壱与も貢献記事読み取れるのは、から、かなり長くその位置にあり、この二人で、安本さんの4代分の40年は食ってしまうのではないかと思われます。

つまり安本説のアマテラス~神武間は40年が、安本理論に沿った形で寅七が試算しますと、その倍以上、80年以上になってしまいました。こんな雑なことで、統計学の教授が本当に務まっているのでしょうか、と疑われます。

槍玉その3 倭の五王の謎で、当研究会が指摘したのと同じテクニックを使って、自分の仮説結果に合うように、自分が唱えた平均在位年代説を利用した、と言えると思います。

               
(5)弥生時代の人口分布図の利用は正しいか?

安本美典氏は、その虚妄の九州王朝p189、九州王朝の空想性というところで、奴国の位置についての古田武彦さんの説を批判し次のように述べています。

『古田氏はいう。「奴国を那珂川流域(福岡市域)だとする旧説は「まちがい」で、「三国志の表記法の示す通りに解読すれば、「糸島郡の平野部に求めるほかはない、と。(中略)そのあたりに、二万人もの人口がいたとするのは、無理であると思う。
人口分布図
古田氏は邪馬壹国(邪馬臺国)を、福岡市域にあったとする。すると、奴国の二万戸、邪馬台国の七万戸、計九万戸が、北九州博多湾岸にあったことになる。しかし弥生時代の九州において、人口の密集地帯は、そちらの方にはなかった。

大阪の千里にある国立民族博物館の小山修三助教授は、「縄文時代」(中公新書)という本をあらわされた。その中に弥生時代の地図(右図 そのうち九州部分図)をしめしておられる。(中略)この地図の九州の部分をみれば、弥生時代の九州の人口の中心部は、古田氏の説くような、博多湾岸にはない。有明海の沿岸、筑後から、北九州の中央部(甘木市あたり)にかけてにある。

「魏志倭人伝」に記されている倭人の諸国のうち、邪馬壹(臺)国は、人口がもっとも多かったとされている。古田氏は、次のような公理をかかげている。

「一定の文化的特徴を持った出土物が、一定の領域に分布している時、それは一個の政治的文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす。(ここに古代王朝ありき)

いま、古田氏のこの公理をもちることにする。すると、弥生時代の政治的文化的な文明圏の中心部は、古田氏のとくような、博多湾岸あたりにはなかったことになる。」

以上のように、安本さんは、国立博物館の小山先生の作成した図を用いて、あくまでも客観的に、古田説を打破できたように述べられています。
この件については、(A)安本さんの狡猾とも言うべき、論理の展開と、(B)読者に対する反証の事実の隠蔽があるといえます。

まず、(A)です。安本美典氏が取り上げた、この弥生時代の分布図について、当の古田武彦さんがどう云っているか、ご紹介しましょう。

邪馬壹国の証明(角川文庫 1980年10月刊)p112で、分布図の不適切な使用とは何か、と題して以下のように述べられています。

安本美典氏は民族博物館の小山修三氏の作製図によって「弥生時代の政治的文化的な文明圏の中心は、博多湾岸あたりには、なかったことがいえる」といわれた。これを、小山修三しに確かめたところ、それはとんでもない、安本氏の誤解であった。

メッシュ(網の目)が千平方キロ(33km四方)。北辺など、「海と陸」を半々に含む。現在の陸地(博多市街)も、弥生期は海。筑前の南域(春日市~太宰府を含む)と筑後北域は同じメッシュ。春日市~太宰府の間が特に遺跡の濃厚なことは十分に意識。

これらの点が判明したのである。分布図は、その作り方(作製上の方法論)を十分に確かめて慎重に使用せねばならぬ。失礼ながら不適切な使用法によって、「我田引水」に走ってはならない。


また同書p194でも、『小山氏は安本氏の分布図の使用の仕方見て驚かれ、この地図をそのように使用するのは不適切である旨、克明に(上述)告げられたのである。

古田武彦さんは、出土品と文献との関係について、風土記にいた卑弥呼(朝日文庫 1988年刊)で、倭人伝の諸物、矛・絹・勾玉・鏡の出土状況を検証され、p246~260、倭人伝に記載された、物の各種が共在するところは、筑前中域しかないこと、を指摘されています。

次に、(B)です。上記の、古田武彦さんの弥生時代の人口分布図について、小山さんに当って確かめたのは、安本氏が1980年初頭に刊行された、「邪馬壹国」ななかったにおいてその記事を読んだからなのです。

この小山さんの分布図を使って、古田説(邪馬壹国=博多湾岸説)が成り立たない、と安本氏が主張したから、その反論のためにおこなったわけです。そして、前述のように、古田武彦さんは、小山氏本人に確かめられた結果を使って、同年秋に出版された邪馬壹国の証明の中で反論されたわけです。

今回の虚妄の九州王朝では、同じことを15年経ってのちに、二番煎じで述べているわけです。安本さんは、古田さんの各著書をいろんな形で引用されていますから、この分布図についての古田さんが作成者の小山氏に分布図の意味するところを調べ、反論をされたことを、十分知った上で、頬被りされていると思われます。

少なくとも科学的数理統計学者として、分布図の我田引水的な使用について反証を上げなければならないと、寅七には思われます。皆さんはどう感じられましたか。

参考までに申しますと、右上図は、小山修三氏が作成された、日本全国の人口分布図の内の九州部分を掲示したものです。日本全国でしたから1000平方キロという粗いメッシュにならざるを得なかったのでしょうが、今後、せめて九州島部分だけでも、100平方キロぐらいのメッシュでの分布図を、どなたか作っていただければなあ、と期待しています。

                      
(6)安本氏の里程論はどうなったのか?

所謂、邪馬台国論争での一つの大きな問題は、倭人伝の里とはという問題です。1里がどれほどの長さか、ということです。
ところが、この件につきましては、以前の「邪馬壹国」はなかったで、里程論が大半を占めていたようですが、今回は、全くといってよいほど、安本氏は言及されていません。

今回の虚妄の九州王朝の中で言及されているのは、僅か次のことだけです。『古田氏は「邪馬台国」はなかった、の中で、三国志全体に出てくる「里」数値は、159個だとしている、が、自分が調べたところ190個である、古田氏の調査は数え落としの多い、粗雑な調査である』とされます。

安本さんの「里」数値の概念がはっきりしていないし、相互の比較は出来ません。ですから、この問題には入りません、というか入れません。が、邪馬台国筑後の八女市論の安本さんが、この肝心な「里程論」に一言も無いのは不思議です。

この件について、安本さんと古田さんの論争などについて調べてみました。

古田武彦さんは、「邪馬台国」はなかったで、三国志の中の「里」は、里数値から1里=75~90mと推定される、つまり魏短里説を唱えられたのです。
この件につきましては、安本氏は、魏志東夷伝短里説という山尾幸久さんの立場に立っておられました。

邪馬壹国の証明で古田武彦さんは次のようにのべていらっしゃいます。(p102~109)

『三国志の「里」単位は、まず、白鳥庫吉により「魏代の一里は漢代の一里(約435m)と大差ない」とされた。それに、邪馬台国近畿論者も邪馬台国九州論者も「倭人伝里数値誇大説」の方が、それぞれの説に都合がよいと、定説のようになった。

この問題を考察した研究者が山尾幸久氏である。山尾氏は「韓伝・倭人伝」を「誇大値」とされた。次いで、安本美典氏が「韓伝・倭人伝」短里説(その他は長里)を唱えた。』

これらの説に対して、それは成り立たない、魏志全体が短里だ、と論証されています。

又、項を改められて、安本氏の「邪馬壹国」はなかったの中で、里程論に大半を割かれていることについて、その内容の検討結果を(p181~194)に亘って詳細に述べられています。

古田さんは結論として、『その結果は、谷本茂が「中国最古の天文算術書」で天文学的計算結果から1里=約76mと突き止められ、これは宇宙物理学者難波収氏によってその正しいことが確認された』と結び、『今回の論証によって、安本氏・山尾氏・白崎氏等の、「韓伝・倭人伝短里説」も破産し去ることになったのである』と述べています。

そして最後に、『これら、白崎・安本氏等の反論によって、私は第1書(「邪馬台国}はなかった)で言い得なかった多くの点を明確に出来た。そのことを何よりの成果として氏等に感謝したい』と、感謝の弁を述べていらっしゃいます。安本美典氏の論争の態度とは大違いです。

安本美典さんも、「里程論では完全に古田さんに降参しました」と潔く認めれば、寅七もそれなりに評価してあげるのに、と不遜ながら、思いました。


結びとしてのボヤキ

この安本美典氏の虚妄の九州王朝の批判を纏めるのに随分時間がかかりました。他の槍玉の3倍くらいは時間をかけた感じです。
その理由は、安本氏は古田武彦さんの、第1「邪馬台国」はなかったの刊行1971年からこの虚妄・・・・の刊行時1995年までの間の全著作・発表論文を対象に批判されています。

従いまして、失われた九州王朝””盗まれた神話”以降の著作、 邪馬壱国の論理(1975)・邪馬一国の道標(1978)・邪馬一国の証明(1980)・風土記にいた卑弥呼(1984)・日本列島の大王たち(1985)法隆寺の中の九州王朝(1988)・よみがえる卑弥呼(1992)等と共に、古田武彦論文集などにも目を通し、安本氏が批判している諸点にからむ、めぼしいキーワードについての索引を作くらざるをえませんでした。

ばかばかしいことですが、安本氏が、「古田氏は宿痾という言葉を投げつけ他を批判する」ということについて、古田さんの著作にどのように使われているか、なども調べました。

それに、この本は「悪罵・嘲笑・中傷」に満ちていて、古田さんの何を批判しているか、の実体がなかなか見えてこないのです。従って、「悪罵嘲笑部分」にたいしては、まともな批判でなく、寅七の個人的お遊び部分の道草にパロディ文としてまとめたりしたので、時間もかかりました。

棟上寅七の古代史本批評ブログでも、安本氏への「ぼやき」を勘定しましたら20回ほどありました。

しかし、この虚妄の九州王朝を槍玉に上げたお蔭で、随分と勉強させていただきました。なんとなくわかるように思っていた倭王武の上表文でも、逐語的に自分なりに訳してみて、理解が浅かったことも知りました。こういった意味では、安本美典先生にお礼を申し上げなければならない、と思います。

最後に、数理統計文献学者の安本先生が、当研究会の指摘のように、「天皇の在世代」の中身を再検討されて、親子間のと、兄弟間・夫婦間などとの、質の違いをファクターとして、計算をやり直されて、ご自身の「倭王武=雄略」「神功皇后=AD400年ごろ」「アマテラス=卑弥呼」説を検証されてみたら如何でしょうか、ということを申し上げたいと思います。


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