槍玉その14 天皇はどこから来たか 長部日出雄 著 新潮文庫 2001年5月 刊 文責 棟上寅七
著者の紹介
この文庫本のカバーに長部さんの写真と略歴の紹介がされています。
”1934年(昭和9年)、青森県生まれ。
新聞社勤務を経て、TV番組の構成、ルポルタージュ、映画評論の執筆等に携わる。
’73年『津軽世去れ節』『津軽じょんがら節』で直木賞、’80年『鬼が来た 棟方志功伝』で芸術選奨、’87年『見知らぬ戦場』で新田次郎文学賞を受賞。
該博な知識と取材力を生かした評伝に定評がある。
主な著書に「密使 支倉常長』、太宰治を描いた「辻音楽師の唄』『桜桃とキリスト』、『反時代的教養主義のすすめ』などがある。”
とあります。
本の内容を簡単に紹介します。
この本のp63などに『歴史空想紀行』と著者のこの本に対する性格付けがなされています。空想紀行ですし、史実と神話の中を自由に想像をめぐらされています。
著者の該博な知識に裏打ちされ、ご自分のリベラルな立場から、幅広く受け入れられる本だと思います。1996年に刊行されて文庫化されるまでに20回以上の増刷がなされ、2001年に文庫化されて以来も10刷以上の増刷がなされているベストセラー的本です。
当研究会としても、長部さんの考えに同調するところが多いのです。何故、槍玉に上げるのか、と問われることでしょう。それに対する答えをこの槍玉その14で述べていきたいと思います。
内容を目次の紹介でしたいと思います。まだ本屋さんでは、平積みで並べているところが多い本です。興味もたれた方は、この研究会の見方に反対の方も読んでいただきたい本です。
第1章 縄文巨木文化
第2章 諏訪の御柱
第3章 スサノオとは何者か
第4章 伊勢神宮の謎
と全体の3分の一を割いて、日本の巨木信仰の源について思いを廻らせます。
第5章 津田左右吉の弁明I
第6章 津田左右吉の弁明II
で、記紀の現在の”通説”の基になった津田学説の紹介と、戦前の国家機関の津田先生への弾圧のあらましを述べられます。
そして、津田学説の腑に落ちない点、南九州は縄文時代には後れた地域ではなかった、ということ、及び、象徴天皇を予見した津田学説の先見性を評価されます。
第7章 ふたつの「高千穂」
第8章 高天原は実在する
で、霧島連峰から臼杵タカチホへ移動した、という、ご本人の”空想天孫降臨説”を述べられます。
第9章 卑弥呼は日御子か
第10章 天照大神の発明
第11章「日本教」の解明
で日本における呪術と政治の係わり合いの歴史を見、「日本教」的日本人の精神構造の根幹について思いを廻らされます。
最後の第12章 天皇の来た道
で、建国以来の宗教・政治・との天皇の係わり合い、明治の絶対君主制は特殊な事態であり、もともと天皇は”象徴”的なものであった、と説かれます。
批評の立場
この本のあとがきで述べられていますが、青森県の三内丸山の縄文遺跡の発掘に触発されて、日本の歴史を、長部日出雄さんの知識+感性で日本列島の古代を、歴史空想紀行をされたわけです。
この本の意見に同調するところが多い、といいながら、どこを問題にしたいのか。寅七自身、長部さんの、事象に対する判断自体には、殆ど同調できます。なかなか一貫して批評する立場が据えられません。
棟上寅七の古代史本批評というブログhttp://ameblo.jp/torashichi/に散発的に、感想的批評を書いています。改めて勘定してみましたら現在まで10回ありました。表にまとめましたので、この批評文の末尾に付しました。
長部日出雄さんの本を読み終えて、悟りすましながら、手八丁で、しかし見かけより頭はかなり堅そう、というイメージが浮かびました。イメージをノリキオ画伯がイラストに表わしてくれました。
問題点はなにか
基本的には、臼杵の高千穂か、霧島のタカチホかというベースから、歴史空想紀行が始まっている、ところが問題なのです。
このホームページのプロローグの中の”天からの助け舟”を読んでいただければお分かりになると思いますが、筑紫の日向が全く無視されていることです。(古田武彦著 盗まれた神話 第七章 天孫降臨の地 に詳しい論証あり)
いくら”空想的”歴史紀行とあらかじめ逃げを打たれていましても、伝承と考古学出土品に全く裏づけがなければ、全くの空想紀行であり、歴史と名付けるのは如何かと思います。
高千穂は福岡県にあった、とすれば、天皇家の祭祀の中心の三種の神器(鏡・矛・勾玉)も伝承と出土品との一致がみられ、矛盾は生じません。
しかし、この本では、宮崎で、鹿児島で、縄文後期の青銅器の出土をみていない事実が、全く述べられていません。該博な知識を誇る著者ですから、これらのことを知らないはずはありません。故意に読者の目に届かないようにしている、とみてもよいのではないかと思われます。
ご自身の空想的歴史紀行的考えから、以下のようにも述べられています。(同書p234)
『鹿児島湾沿岸から来た天孫族は、延岡の河口の平野に住んで水田を広げ、五ヶ瀬川」を遡って達する、神秘的山峡の地に神域を設けて、これまでにない新しい宗教と文化を作り上げた。そしてまず、宗教的な権威を先に立て、あとから武力と政治の専門集団がついて進むかたちで、大和に向かって行ったのでは・・・・・と想像するのである。』
歴史空想紀行、とご自身でおっしゃってるのですから、まともに批評する事柄ではないか、とは思います。
このホームページ、の中で、神武東征について通説批判を書きました。また、記紀が語る、神武たちの戦闘・殺戮・だまし討ちなど、あまりにも血なまぐさく、書くに忍びないとも。(槍玉その7 古代史紀行 神武架空説は正しいか 参照下さい)
宗教的権威を押し立てて、など全く想像も出来ませんでした。寅七と全く反する想像に、長部さんがどうして至ったのか、感性の違いからだけなのでしょうか?
もう一つの問題点は、鹿児島の縄文遺跡を見て、津田博士のいう、「文化発達の遅れた南九州が、わが国発祥の地であるわけがない」、事への疑問を抱いた、と述べられます。つまり、上野原遺跡という立派な縄文遺跡があるので、まんざら、南九州から大和へ古代天皇が移動したのは根拠があるのでは、というところから、歴史空想紀行がスタートします。
九州島の中・南部の火山群の、阿蘇・姶良その他のカルデラを作った、活動による、人類の生活の断裂にも、長部さんは思いを馳せなければならなかったのではないかと、思われます。(巻末付表No.9をご覧下さい)
著者が言いたかったことは?
筆者が言いたかったことは、最後の数ページに記されている、憲法改正の時流に対する警鐘でありましょう。著者の日本教的護憲論をご紹介しましょう。こういう護憲説があることを知る、ということだけでも、この本を買う価値はあると 寅七は思います。
『新憲法が戦後の繁栄の重要な礎石となった事実を否定するのは、改憲論者であっても難しいであろう。
日本国憲法を読み直すと、公布からおよそ半世紀を経た今なお、少しも古びていないばかりか、みずみずしい新鮮ささえ感じさせるのは、条文に記された理想とわが国の現実のあいだに、大きな隔たりが存在するばかりでなく、長い年月が経つにつれ、しだいに敗戦直後の初心を失い、近年はかえってそこから遠ざかっているせいでもあるに違いない。・・・(中略)・・・
第九条と自衛隊容認の問題については、こう考える。
まず、わが国がなんらかの勢力に攻撃され、抵抗しないままに征服されてしまったら、その後どうなるか。
相手は、武力による国際紛争の解決を否定した平和憲法の理念を認めずに攻撃してくるわけだから、征服後は改憲して徴兵制を施行し、厖大なエネルギーを蔵するわが国の工業力と労働力とハイテクノロジーは、そのまま恐るべき軍事力に転化されるだろう。極端にすぎて空想的な平和主義をわが国が貫けば、かえって現実の世界の安定に重大な脅威をもたらす、という背理に陥る。
これを避けて、前文と第九条に掲げた理想に近づくためには、憲法それ自体が、専守防衛に徹して侵略を許さぬ自衛力を持たなければならない。
決して戦争を起こさないための自衛隊、つまり護憲のための自衛隊という考えに立ってこそ、第九条を支持しつつ、自衛隊の存在も認める、という大方の国民感情、及び自衛隊は違憲か合憲か、といまも蟠るディレンマに論理的な整合性を見いださせ、さらにわが国の軍事大国化にもっとも実質的で有効な歯止めもかけられる。 ・・・(中略)・・・
戦後の日本は、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しやうと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)ところから出発した。これを呪文かお題目のように唱えるつもりはなく、その理想を今後も追求しようとすれば、わが国が史上初めて経験することになる、いまだかって世界に先例のない道の困難さを、軽視するものではない。
だが、国際紛争を解決する手段として武力の行使を放棄し、なおかついまの日本からは遥かに遠い国際社会での名誉ある地位をかち得ようとするのは、われわれが持てる能力の限りを尽くして取り組むに値する難問なのではないだろうか。遥か縄文時代から現代にいたり、この列島からルソン島にまでわたった<歴史空想紀行>の結語として、わが国の二十一世紀への望みを、筆者はそこに託したいとおもう。』
このように、憲法に関するお考えを述べられています。
著者の結論的な日本教的護憲論には同調するところ大なのです。しかし、日本教祭祀の中心、象徴天皇をもってくるために、津田左右吉の歴史観について多くの頁を割かれています。
其の中で、津田左右吉は『皇室が権力を持って民衆を圧服しようとせられたことは、長い歴史において一度もない。実際の政治上において、本来皇室と民衆は対立するものではなかった。民主主義によって、国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる』と紹介されています。
単に、「神代史の天皇は実在せず、記紀の編者の造作」説を唱えた人として認識していた津田左右吉像を、時流にぶれなかった人、と、考えを改めさせる、この本でもありました。
しかし、天皇=象徴 と持ってくるための紹介だとしても、その内容、天皇家が民衆を圧服したことなし、云々は、たとえば磐井討伐、蝦夷討伐などと明らかに矛盾します。長部さんは、それらについて全く無批判に紹介しています。
記紀を改めて読んだときの印象は、このホームページ”道草その1 記紀を読んで” に書きましたが、『平和』とは程遠い感じでした。
おそらく長部さんも同様の感想を抱かれたことでしょうが、『平和憲法・象徴天皇』の結論を誘導するために、津田説を、この部分については無批判で紹介する形にしたのではないか、と思われます。
締めくくりとして
この本の批評の締めくくりとしましては、長田日出雄さんのリベラルな立場から、日本古代国家の成立は多元的であった、とする古田説を真面目に取り入れて、歴史空想紀行 を再度著わしていただきたいもの、ということです。
又、巨木信仰やら、縄文遺跡やら、東日流外三郡史など沢山のことを勉強する機会を与えていただいたことを感謝いたしますと共に、随筆風の文章を批評する難しさを知りました。
(この項終わり) トップページに戻る
付表 長部日出雄さん関係の抜書き
No. |
日付 |
『棟上寅七の古代史批評 ブログ』 より 長部さん関係文章を抜粋 |
01 |
2006.10.24 |
長部日出雄さんを槍玉に上げようとして、いろいろ調べてみて、ご本を読んでみても、その思考の方法・流れ・等々殆ど、寅七の琴線に触れ同調和音的に感じられます。その鋭い感性には羨ましく感じられます。 |
02 |
2006.10.26 |
長部日出雄さんの“天皇はどこから来たか”を再度読みました。 |
03 |
2006.10.27 |
槍玉に上げる予定の、長部日出雄さんの本の題名は“天皇はどこから来たか”なのですが、長部さんが、この本で言いたかったのは、“憲法改正反対“ということのように思われます。 |
04 |
2006.10.28 |
槍玉に上げる予定の、長部日出雄さんの本 “天皇はどこから来たか”を読んで感じますことは、「人が判断する力は、その人の知識の範囲を出ることはない」と、言われていることが本当だ、ということです。 |
05 |
2006.10.31 |
3日前、“天孫降臨の地”というタイトルのブログを書きました(2006.10.28)。 |
06 |
2006.11.01 |
年の割には昔のことを覚えている方、と自分では思っていました。 |
07 |
2006.11.02 |
長部日出雄さんは、その著書“天皇はどこから来たか”の中で、巨木=信仰の対象と見られています。 |
08 |
2006.11.04 |
長部日出雄さんが“天皇はどこから来たか”の中で、「巨木信仰」について述べられています。(同書 新潮文庫 p20) |
09 |
2006.11.05 |
長部日出雄さんが、空想的天孫降臨の地として、霧島連峰とされたのには、その近くの「上野原遺跡」という7500年前の縄文遺跡の発掘により、素晴らしい文化が栄えていた、という発見もその根拠の一つのようです。 阿多カルデラ 鹿児島湾口部 (開聞岳) 10万年前 |
10 |
2006.11.06 |
長部さんの”天皇はどこから来たか”のなかで、津軽の古文書”東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)のことが出ています。 |