槍玉その9 松本清張 古代史疑 文責 棟上寅七
邪馬台国論争の花形松本清張さん(1902〜1992)の登場です。
国民的人気ナンバーワンの作家です。
写真に見られますように、出身地小倉には、小倉城石垣沿いに立派な松本清張記念館が建てられています。
記念館の中に展示されている、著作の表紙の展示が20平方メートル以上に亘ってビッシリでした。
点と線・日本の黒い霧・張り込み・・・・に混じって『古代史疑』 1968年中央公論社刊 もちゃんとありました。
古代史のコーナーには、 ”松本清張は、この作品、『古代史疑』で「小説家」としてではなく、「一人の学徒」としての立場で、邪馬台国論争に割り込んだ。
明治以来の厖大な研究史、学説史を独自の視点で整理し直した上で、魏志倭人伝の原文に新たな解釈を示し、大きな反響を呼んだ。
これが拍車となり、以後の爆発的な邪馬台国ブームを惹き起こした。” と特筆大書してあります。
このような大巨人を槍玉に上げるには、大いにビビルものがありました。
棟上寅七自身も清張ファンですし、ファン数は8桁を優に超えると思います。これらの方々を敵に回したら大変だなあとも思いました。
もう一つの理由は、古田武彦さんが、対松本清張論争を、鬼籍に入った論敵への書簡、という形で始められているからです。(後述)
古田御大がされるのなら、棟上寅七が口を挟むことはないし、下手な意見を言ってボロを出すだけだ、と思いました。
しかし、改めて『古代史疑』を読み返してみますと、大きな疑問がいくつも生じてきました。
今まで、邪馬台国論で高木彬光さん・邦光史朗さんを槍玉に上げましたが、一番に上げなければならなかったのが松本清張さんだった、と気付きました。
松本清張さんが堂々と、”『魏志』倭人伝の内容はいい加減なもので、著者陳寿の創作に負うところが多い”、と中央公論というエリート誌で連載されました。
それならば私も、ということでしょうか、以後続々と、『魏志』倭人伝の読み方を適当に按配した、間違った方向の、邪馬台国探し歴史本の花盛り、という現象を生み出したと思われるからです。
しかし『古代史疑』の思わぬ功績があります。
それは、この『古代史疑』によって歪められた『魏志』倭人伝を、世に正しく伝えるには、 ”それでは自分でやるしかない” という決意を、古田武彦さんに生じさせたことです。
昨秋、京都のミネルバ社から創刊された不定期刊行雑誌、「なかった」の中の、「敵祭」という題で連載を開始されています。
これは、古田さんが、鬼籍に入られた論敵松本清張さんへの書簡という形をとっています。
その連載第1回の概要を、皆さんにお伝えしたいと思います。
古代史の研究に立ち入るに至った経緯について。(”なかった”誌 創刊号 「敵祭」より抜粋)
発端は『古代史疑』でした。昭和41年6月から42年3月まで中央公論に連載され、私は京都の高校教師でしたが、毎号が待ち遠しかった。
その連載が終わった時、一つのはっきりとした?が生まれていました。何故邪馬台国のままなのだ?。
松本さんが今まで主張しておられたところ、そこから見て信じられい帰結だったから。
著書”陸行水行”の登場人物に 「どの学者も自分に都合が悪い点は、魏志の記述が間違っている、誤写だ錯覚だ、」 「『魏志』倭人伝に関しては、立証文献が他にないので、中国ののちの典拠などを持ち出して、勝手な熱を吹いている」 と言わせています。
だから、松本さんはきっと 「原文は邪馬壹国である。それを後世の学者が『邪馬臺(台)国』と直しておいて、自分の好きなところ、”大和”や”山門”へ、各自持っていって論ずるのでは、きまった『答』が出るはずがない」と。
しかし連載が終わった時、自分の期待が裏切られたことを感ぜざるをえませんでした。
なぜなら、松本さんは終始「邪馬台国」という、「改定本文」に依拠されたまま、原文の邪馬壱国には見向きもしておられなかったからです。
「これは、自分でやるしかないな。」わたしは心の底に、そう思いきめたのです。昭和42年春、40歳のことでした。
まだ緒論です。今後の展開が楽しみです。古田武彦さんの長寿をお祈りします。
ノリキオ画伯が、その辺の機微をイラストに描きましたのでご披露しておきます。
ところで本論に入ります。
先ほど読み返した、と申しましたが、読みながら自分の考えをノートに取っていきました。本稿の末尾に付けていますので、興味ある方はご覧下さい、かなりの量になりました。
松本清張さんの主張の問題点は大きくいって三つです。
その1は、原文の変更はしない、といいながら、通説に従う、という理由で原文の変更をされています。
壱 を 台 へ と読み替えている。それによって、基本的な、邪馬壱国問題が消えてしまっています。
その2は、通説に従うということで、地名の比定をしています。
奴国 を 博多、 狗奴国を クマソ 通説に従う理由を示さずに、論を進めていますので、結論を信じてよいものやら、ということになります。
その3 これが最も重要な問題点です。
『魏志』倭人伝は、著者の陳寿が、五行説に基づきまた、先行史書、『魏略』をハサミとノリで切り張りし、倭国の見聞を適当に創作した、とする点です。
問題点その1は、先述しましたように、松本清張さんが、この点を頬かむりしたために、古田武彦さんの著書『「邪馬台国」はなかった』が生まれたという訳です。ぜひそちらを一度目にしていただきたいと思います。
問題点その2は、既に、何度もこの研究会で取り上げていますので省略します。(槍玉その2 『福岡県の歴史』、奴をどう読むか、参照ください)。狗奴国については、下記の古代史疑ノートの中にもコメントしていますが、何らかの形で今後、狗奴国論をまとめたいと思っています。
ここでは、
(A)五行説とはなにか、倭人伝の数字は虚数なのか、七五三という奇数が本当に好まれているのか、
(B)『魏志』と『魏略』、記述は実際にどうなされているか、についてしらべた結果をお知らせしたいと思います。
(A)五行説とはなにか
この問題について、古田武彦さんが、『三国志』全体の数字を拾い上げる、という全く地道な検証をされています。
虚数説の空虚 という項を立てて、古田武彦著 『邪馬台国はなかった』p201〜205 に述べられていますので要約してご紹介します。
『魏志』倭人伝内の数値記述自体を疑う立場が存在する。例えば下記の方たちである。
白鳥庫吉 中国人は、三を基礎として五、七という奇数を以ってする推算法をとる。
松本清張 白鳥の説は卓見、倭人伝の里数日数はまことにナンセンスなもの。
上田正昭 倭人伝は七五三の数字が多い、五行思想の産物であって実数ではない。
しかしこの問題を”中国人は古来奇数を尊重するから”とか、”五行思想が行われていたから”といったふうな、概括的な論法で処理するのは、その方法論自体が科学的でない。
陳寿に数値記述上の偏向性があるか実証的に検証してみよう。
出現回数 |
数 |
順位 |
833 |
一 |
@ |
652 |
二 |
B |
723 |
三 |
A |
373 |
四 |
D |
456 |
五 |
C |
231 |
六 |
E |
147 |
七 |
G |
136 |
八 |
H |
170 |
九 |
F |
3721 |
計 |
『三国志』全体から各数値を検出した結果がこの表である。
この統計が示しているように、奇数が好まれるという根拠は全くない。
七にいたっては最下位から2番目である。
陳寿が七五三を偏愛した、というのは史料上全く根拠がない、いわば”ぬれぎぬ”と言うほかはない、とこのように述べておられ、松本清張さんの主張に比べ、説得力があります。
つまり、『魏志』倭人伝の数字は、虚の数字でなく、実の数字と考えるべきで、松本清張さんが主張するように、虚数として見るのは全く根拠がないのです。
松本清張さんが、根拠がない”虚数論”に基づいて、以後の論をいかに精力的に展開されましても、それでは小説の世界になってしまい、歴史の検証にはなっていないと思います。
(B)『魏志』と 『魏略』の記事について
この問題につきましても、古田武彦さんは 『「邪馬台国」はなかった』、朝日文庫p295〜296 に以下のように述べられています。(以下に要約)
原田大六氏が、『魏志』倭人伝の戸数を、『魏略』の記事に基づいて誤記だとする主張に対し、以下のように述べている。
魏使は伊都に確実に来ている。「郡使の往来、常に駐まるところ」と記している。
その土地の戸数の桁を間違えて報告することはありえないだろう。
後世唐代の『翰苑』に引かれた『魏略』に、「伊都国に至る、戸万余」とある。このほうが正しくて、『三国志』倭人伝の方の「一千戸」が間違っているというのである。
しかし、この『魏略』は以下に見れるように、相当問題のある語句に満ちている。
『魏志』倭人伝
@其の北岸狗邪韓国に到る七千余里
A副、卑奴母離と曰ふ
B世々王あり。皆女王国に統属す
Cその官に狗古智卑狗有り
『翰苑』所引『魏略』
@’拘邪韓国に到る七十余里
A’副、卑奴と曰ふ
B’其の国王、皆王女に属すなり
C’その官、狗右智卑狗と曰ふ
これを見れば、この『翰苑』に引かれた『魏略』が、相当ひどい改変を受けていることがわかる。
後代唐の里程基準の目で見て、七千余里が過大に見え、字形の似た千を十に変え、中国には女王は存在しないから王女とすれば穏当と考えたのだろう。
但し、『漢書』に引用された『魏略』は『魏志』と同じ里単位認識に立っている。
同じ『魏略』といっても、引用されたときに改変されているから要注意なのです。
以上のようにしてみれば、『翰苑』に引かれた、いわゆる『魏略』が、『三国志』本文を訂正する史料資格を持つものでないことは明らか、と述べておられます。
『魏略』の方がより正、とする松本清張さんですが、『魏略』は断片的にしか残っていないので、という理由で、『魏略』の方が正とする根拠を具体的に示されていないのです。
松本清張さんが、『魏略』が正と主張したのは、『魏志』がいい加減である、という結論に持って行くためではないか、恣意的ではないか、と疑われても仕方がないことではないでしょうか。
結論 松本清張さんは、生前、最後(と思われる)マスコミのインタビューで次のように述べられています。
「好奇心の源泉は?」 との質問に、「”疑い”だね。・・・・体制に対しても疑うし、学界的に偉い人が云った事でも鵜呑みにせず疑ってかかる。・・・・もう少し加えて云うと、歴史にしても社会現象にしても、上から見ないで底辺から見上げてみること。」(週刊プレイボーイ平成4年4月7日号)
いい事をおっしゃっておられるのですが、邪馬台国の疑いに対しては、方向がまったく違った方向に向かったように思われます。
この『古代史疑』では、『魏志』倭人伝の記事がいかにいい加減であるか、ということを力説され、私は邪馬台国は筑後山門にあったと思う、と結論のみを述べておられます。
巨人と言われる松本清張さんが、「これが定説です」と決め付けられると、われわれ読者は、朝まで生テレビで初参加の一年生議員が、田原総一郎に言いまくられてなかなか反論はおろか質問も出来ない、と同様の状態に陥ります。
この本の中で、”女王の都は「宮室、楼館、城柵厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」という中国風の表現をしているが、3世紀前半の弥生時代の日本国内に、このようなものがあるわけはない。” と決め付けられています。
佐賀県の観光スポットNo1になっている、棟上の目からしますと、想像力貧困と思われる吉野ヶ里の復元遺構ですが、それでも当時、邸閣、城柵 があったことを示しています。
しかし、この『古代史疑』は、吉野ヶ里遺跡の発掘以前の出版ですから、今の私たちの考古学的知識で推し量ってはいけない、と思います。
幸い、吉野ヶ里発掘以降の、松本清張さんの著作が発表されていますので、どうご意見が変わったのか、変わらなかったのか見てみました。
松本清張さんが1992年にお亡くなりになり、没後1周年を記念して、遺稿をNHK出版会がまとめ、『吉野ヶ里と邪馬台国の影』が出版されました。
『古代史疑』以降、その後の古代史関係の著作、例えば、『清張通史I 邪馬台国』 1976年刊 では、『古代史疑』とその骨格は、全く変わっていませんでした。
基本的には、この『吉野ヶ里と邪馬台国の影』でも松本清張さんの主張は変わっていません。五行説にしろ、距離の問題にしろ・「宮室、楼館、城柵厳かに設け・・・」の陳寿創作にせよ、『古代史疑』でのご自分の主張を補強する学説を動員されている感じです。
この本を纏められた、佐原真氏(国立歴史民族博物館副館長)は、前書きの中で述べられています。
その、吉野ヶ里に関する、松本清張さんとのやりとりの一節をご紹介しますが、寅七には印象的でした。
”1989年3月、吉野ヶ里遺跡の復元報道について松本先生から電話がかかって来た時の言葉が忘れられない。「先生ネェ、丸ビルでも高さ20メートルですョ。物見やぐらの復元10メートルは高すぎませんか」云々”、の一節です。
吉野ヶ里は、銅器製造工場ではないか、というご意見をお持ちになられたようですが、復元が、「宮室、楼館、城柵厳かに設け・・・」の『魏志』倭人伝の記事のイメージ的になるのに、松本清張さんは反対であった感じです。
(尚、旧丸ビルは確か9階建だった筈、20mと低すぎる、と思い、調べてみましたら、102尺6寸とありました。30.05mでした。)
1999年12月に文芸春秋社から発行された、『昭和史の謎を追う』 秦郁彦 著 で、帝銀事件、松川事件、木星号事件などの米軍謀略説は、”松本清張の妄想に発した”ということをテーマに、事件を再検証した本があります。
又、最近、松本清張さんの推理力について問題があったとする、『松本清張の陰謀』 佐藤一さんの著作が、草思社から刊行されています。
その佐藤さんの本では、松本清張『日本の黒い霧』の中での数々の推理が間違っていたこと。特に、朝鮮動乱の南先攻とする松本清張説は、ソヴエトロシア崩壊後、数々のソ連側から流出してきた資料で、金日成・スターリンによって引き起こされた、と証明された事が述べられています。
推理小説の大家は、必ずしも現実の謎解きの大家とは言えないような状況にもなりかねないようで、私もファンの一人として心配です。
(この項終わり)
古代史疑ノート
頁 |
松本清張さんの主張 |
当研究会のコメント |
7 |
三世紀の日本は国家国民、領土、統治組織の三要素の面で、縄文時代は国家なし。 |
中国からは国と認められているのに、どうしてそのように断定しなければならないのか |
9 |
漁猟時代にも共同生活はあったが、生産手段としての土地を持つことによって、原始共同体が崩れた。 |
生産手段としての海(漁場)という視点を持てば、国の成立も早まるということになる。 |
10 |
記紀は8世紀の始めに作られ、大和朝廷の発生を知ることは出来ない。なぜなら、文字が無い、記録が無い、つまり、歴史が無い時代、としている。考古学で生活は想像出来ても、政治形態の復元は無理。 |
文字が無くても、伝承が残っている例は多いと思う。トロイ戦争の故事とシュリーマンの例もありますが? |
11 |
3世紀前半弥生末期の中国の記録が魏志倭人伝。 |
唯一の古代の記録としながらも、清張さんの評価は何故か低い。 |
13 |
それ以前にも、漢時代の山海経に「倭は燕に属す」、『前漢書』「楽浪の海中、倭人あり。分かれて百余国・・・献見す」とあります。 |
「生口」は松本清張さんの興味を引かなかったようだ。 |
14 |
倭奴国を「わのな」国と読むことは、三宅米吉博士以来”定説”となっている。 |
定説を受け入れている。異説の説明全くなし。 |
15 |
晋の?魚が『魏略』を表し、それを資料として陳寿によって『魏志』東夷伝が書かれた。『魏略』は原本はないが断片が資料として残っている。 |
『魏略』の断片を正とし、『魏志』を『魏略』のつぎはぎ本という風に持って行きたいようだ |
16 |
魏使は外国の旅行者。一人勝手な解釈。正確な通訳もなし。文字がないから筆談も出来ない。 |
後で、一大率の解釈で、帯方郡から派遣された軍政官としている。それなら、倭国の事情も判っている筈。矛盾。 |
17 |
陳寿は『魏略』をノリとハサミでつぎはぎに編集。『魏略』正とする。誤字・脱字も多い。 |
”いわゆる魏略問題”別項で論じる |
19 |
邪馬台国の所在は、大和でも、九州でも、どちらでもよい(津田左右吉)という人もいるが、所在が日本国成立のカギ。 |
アマチュアとおっしゃりながら、決めつけ方にプロ以上の大家意識が見える |
20〜22 |
九州説、大和説の概略を述べたいが大変だ。一応謎のデータ『魏志』倭人伝をみよう。帯方郡〜対馬〜壱岐〜末ろ〜不弥国までは異見はあまりない。不弥国から意見が分かれる。南、邪馬壱(台の誤り)国に至る。 |
簡単に”壱”は”台”の誤りとしている。その理由を全く述べていない。 |
25 |
卑弥呼死して、卑弥呼の宗女台与(原文壱与・梁書と北史を参照して臺与の誤りとされる)が立って納まる。 |
はるか後代の資料で、壱与を台与(それも臺与でなく)と改めている。 |
26 |
”晋武帝の起居注に”倭女王重訳して貢献”と書紀にあるが、なぜか『魏志』にない。 |
倭人伝は、魏志であって、晋書でないから当たり前と思うのだが、女王壱与の存在が目障り? |
27〜39 |
邪馬台国探しの歴史 13世紀北畠親房・15世紀周鳳・17世紀松下見林・新井白石・本居宣長・19世紀鶴峯戊申・伴信友・菅政友、近代の星野恒・那珂通世・吉田東伍・久米邦武・内藤湖南・白鳥庫吉・山田孝雄 の各説の紹介 |
特に意見なし |
40 |
京都大学の内藤湖南の邪馬台国畿内説と東京大学白鳥庫吉の九州説と、丸で統制が行われているかのような錯覚さえ起こさせる。 |
同感 |
41 |
要するに、日数では畿内説、但し南を東に解釈、方向では九州説、しかし距離が合わない、九州の南に突き抜ける |
倭人伝全体を読むと、女王国は不弥国に接している。(古田武彦『「邪馬台国」はなかった』を読めばわかる。) |
42 |
「倭」はワかヰかの読みについて各説を紹介。 |
本人の意見なし。金印の委奴国の委と、倭の関係についての言及なし。 |
43 |
『魏略』は殆ど失われているが、『魏略』の断片から判断すると、『魏志』はネタ本としていることがわかる。 |
”いわゆる魏略問題”別項で論じる |
44〜45 |
考古学の立場から倭人伝の構成の説明。1900年富岡謙蔵が、漢鏡は北九州に多く、魏鏡は畿内に多く出土する。つまり、三国(魏)時代には畿内が全国を統一していた。(邪馬台国は畿内説) |
騎馬民族征服王朝説へもって行くための前説のように思われる。 |
47〜48 |
富岡謙蔵の弟子梅原末治がそれを継承し、古墳の埋納物の変化が3世紀に急激にある、と指摘。後に、江上波夫の騎馬民族制服王朝説への土壌となる。 |
江上波夫の騎馬民族征服王朝説の亜流の方向を暗示している。 |
49〜54 |
銅鐸、銅剣の出土分布の相違も邪馬台国の謎をとくカギ。 |
榎説を重視する。つまり、魏使は伊都にとどまり、後は伝聞で報告をまとめた。つまり倭人伝の報告はいい加減、というための布石か? |
56〜62 |
榎は地名比定から九州に比定したが、地名比定はあまり意味が無い。富来隆は同様な手法で宇佐説。 |
邪馬臺国はヤマダイ国であり、ヤマト国とは読めない。 |
64〜 |
私の考え。原文に忠実に、南を東へ、一月を一日にと読み替えない。 |
邪馬壹国・壹与のそれぞれは、壹は台の誤りとしている理由は? |
81〜84 |
末盧ー伊都の500里は唐六典によると1日の歩行距離は50里とある。10日要するはずなし。つまり500里は虚数である。里数がアテにならないとすると、日数はさらに架空に近いことになる。水行の謎。投馬が10日で耶馬台20(プラス1月)というのは理解できない。 |
「魏の里」を後代の「唐の里」で検証するのはおかしい。それで、倭人伝の距離記事をみれば合わないのは当然なのだが、全て”虚数”という暴論には、驚き。 |
89 |
魏人がはじめから作為をほどこしていたと考える。 |
推理小説作家のサガか |
93〜98 |
戸数の五行説に共感を呼ぶ。七五三の多用。狗邪韓国ー邪馬台国の里数・日程も五行説で解読すべき。距離五行説のベースは500里である。伊都ー奴100里、奴ー不弥100里、としているのは末盧ー伊都の500を足して700とするためである。500を基準にした理由は、中国上代の五服九服の制度による。 |
”五行説”について、古田武彦「邪馬台国はなかった」はそのような事実はない、と検証している(別項で論じる)。 |
99〜 |
邪馬台国の首都は伊都であった。邪馬台は女王が住んでいたところ。奴国は商業の中心地。魏使が伊都に駐まったのは定説になっている。日数の五行説。水行20日で投馬国、南20日、陸行1月で邪馬台国、というのは、つまり、水行30日、陸行も30日と同数で対置させた。 |
大家から、”定説です”といわれると素人は質問の返しようがない。 |
103 |
『魏略』で伊都万戸余が倭人伝では千戸余としている。ここで万とすると狗邪韓国ー不弥国の総戸数が3万戸とならず、3万9000戸になってしまう。陳寿が『魏略』から改竄して記した。 |
勝手に改竄と決め付けられても。深読みしすぎのように思える。 |
104〜 |
総距離12000も虚数。里数日数は丸でナンセンス。 |
虚数とまで言ったら、陳寿さんの名誉毀損では? |
107 |
卑弥呼とは誰か。女王国は国家の連合体。邪馬台国は女王の都する所、つまり地方。 |
国=地方とは苦しい論理展開。 |
108 |
狗奴国も南九州の連合体。 |
狗奴国の位置は不明。女王国の境界の尽きるところの南、であって南九州とは限らない。 |
110 |
卑弥呼は鬼道に事える女、シャーマン。朝鮮の鬼神を祭る流れ。シャーマンの解説、棚瀬襄庸。 |
騎馬民族征服王朝説へもって行くための前説 |
119 |
北九州には、神夏磯媛、速津媛、泉媛、八女津媛、田油津媛、そのような女酋が後まで多かったに違いない。 |
女酋という差別的表現を、どうしてしなければならないのか。 |
120 |
中国流の表現で、実際は集落程度であっても、国と表現し、国があれば王がいた必要があり、その居城も創作しなければならない |
一大率の解釈で、帯方郡から派遣された軍政官としている。それなら、倭国の事情も判っている筈。矛盾。 |
125 |
「宮室、楼館、城柵厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」という中国風の表現となった。3世紀前半の弥生時代の日本国内にこのようなものがあるわけはない。 |
吉野ヶ里が発掘された後で意見の変化があったのかを見てみたい(別項で論じる) |
126 |
景初三年(原文には二年とあるが誤り)の魏天子から卑弥呼への親書も陳寿の創作。倭人が漢字を読めるかもしれないという想像はナンセンスである。 |
”原文には二年とあるが誤り”、とは何故言えるのか、説明全くなし。 |
131〜 |
卑弥呼の読みは通説ヒメコと呼ばれている。疑問をはさむものはない。文学博士坂本太郎は、弥の古音はメであった云っている。 しかし、弥弥とか、他の弥はミの方が、その意義がわかりやすいと思う。8世紀の万葉仮名では、卑弥呼はひみヲ又はひびヲ(”ヲ”は乙類の”を”)であり、通説のヒメコは決定的ではない。 |
同じ書物の中での表音文字が、ある時は「メ」ある時は「ミ」などありえるわけがないでしょう。
卑弥呼の読み方は、”ヒミカ”の可能性は大のように思います。 |
135〜 |
人名と官名の検討 狗奴国と邪馬台国の官名が同じというのは納得がいかない。 |
人種が違う、という先入観念があるからではないか |
138 |
卑弥呼の宗女臺与、梁書と北史で臺与とあるが、これはトヨが通説である。ただ、豊という美称が3世紀にあっただろうか。 |
臺 は ト と読めないはずだが。台 は ト と読めるので、壱 をまず、臺 に変え、臺 を後代の略字 台 に置き換える。めでたく邪馬壹国が、ヤマト国と読めるようになったわけです。 |
141 |
内藤湖南が、「卑弥弓呼素より和せず」と一般に読まれているのを、「卑弥弓呼素」を名前、ヒメコソではないか、と言っている |
|
144 |
官名の各学者の解説はいずれも語呂合わせのような解読である。 |
|
146 |
ヒミコもトヨもヒメコソも地名から来ているのではないか。卑弥呼はヒミカではないか。ヒミカ→ヒムカ(日向)となる。当時の九州のどこかにヒムカという地名があったのではないか。そのヒムカに住んでいた巫女グループがヒミカと呼ばれ、その長が女王として、『魏志』の「鬼道に事え、能く衆を惑わす」という見聞になった。 |
|
148 |
ヒミカの後にトヨという土地に住む巫女グループの、呪術に長けていた少女がトヨであった。女王の地位を継承したので、当時の中国的な観念から、「宗女」とした、と私は考える。 |
|
149 |
卑弥呼論 「そこに住む土地の人間がその地名で呼ばれたのは人名の古い形であろう。」ヒミカもトヨも土地名。 |
|
152 |
「男弟が佐けて国を治む」の男弟は男王であろう。陳寿が夫婿なき女王の為に、王ではまずいので、弟としたまで。「宗女」としたのも陳寿の筆飾。養女と解するのが素直。 |
|
155 |
陳寿はどうして卑弥呼や台与を女王にしなければならなかったのか。 |
|
156 |
狗奴国は、邪馬台国と政治文化風俗も種族も異る敵国の官名に同じ「卑狗」がどうして使われているのか。これも陳寿の創作臭い。 |
種族も違うというのは思い込みではないか、倭人伝には『倭種』と同一民族と書いてあるが、これも創作と言うの? |
157〜 |
狗奴国は「女王国の境界の尽きるところの、その南にある」という以外何も記していない。狗奴国の男王卑弥弓呼素は、陳寿が、女王卑弥呼に対称させて書いたのであろう。卑弥弓呼素はヒミクマソこの音から狗奴国、通説通り狗奴はクマ(熊・球磨)であろう。 |
肥後地方を狗奴国に比定する理由は単に狗奴がクナ、クマに通じ、その官名ククチヒコが菊池彦という語呂合わせという通説に従っているようだ。女王国の領域が山口県(例えば特大漢鏡出土で知られる柳井の茶臼山遺跡)にまで及んでいたとすれば、瀬戸内四国沿岸も狗奴国の候補地になりうる。 |
160〜 |
対馬・壱岐の官名「卑狗」「卑奴母離」も地名に由来するのではないか。 |
特に意見なし |
162 |
時の中国情勢および文化。漢代末(1世紀ごろ)鉄製器が使われ始めた。日本に鉄が入ってくるのは、青銅器と殆ど同じ時期。石器から鉄器に直結したと言ってよい。日本には青銅器時代はなかった。 |
銅矛銅鐸などの評価は?? |
166〜 |
漢の光武帝下賜の金印に示されるように朝貢関係はあった。中国の三国分立時代になり、魏は倭が呉に付くことを恐れていて、印綬や下賜品で懐柔した。 |
特に意見なし |
168 |
「韓は鉄を産し・・・」とある。文化発達の原因は鉄にある。朝鮮の文化発達が日本に先立っていた。 |
特に意見なし |
170〜 |
稲の伝播の各節の紹介。その中の「稲作民族の江南地方からの、漢族に追われての、集団的な渡来」説安藤広太郎に賛成。狗奴国は呉の援助を受けていた、とする説には、当時の海上交通を考えると成り立たない。 |
稲の伝播を取り上げるのは、狗奴国と邪馬壹国の戦争を、北・南九州の耕地争奪戦争へと持っていくための布石に見える。 |
190 |
倭国大乱の動機は、@米の争奪 当時の人口は意外と多かったのでは。クマヒト、肥人、の肥後平野と北九州人との戦い。A南は直播で洪水被害を受けやすく、北は苗植で洪水被害は受け難い。当時の稲は休耕を1〜2年を繰り返していたので余計土地が必要だった。B気候の問題。3世紀は寒冷期で被害も大きかったのでは。 |
戦争の結果、捕虜は、生口と呼ばれる奴隷となっていたのではないか。度々中国への献上品として生口が記されている。つまり戦争は、生口という生産手段の獲得の為、ということもありうることについて全く言及なし |
196 |
狗奴国との戦争結果、女王国が勝ち、あと台与が立ったあと消えている。つまり女王国の消失。しかし、向こう、中国の記録が、動乱で絶えた、と言うこともあろう。197 倭の五王は応神・仁徳・履中とも比定されているが、いずれにしてもこの時期に大和政権が確立し、全国を統一して行った。つまり、卑弥呼のあと200年の間にそれだけの政治変化があった。 |
4世紀の”倭”の外国史料を検討すればそのようにはいえない筈。 |
199〜 |
「一大率が女王国以北を検す」事についての各説の紹介。誰が一大率を置いたのか、主格が見えない。私は、帯方郡から派遣された軍政官と考える。だから諸国が一大率を「畏怖」したのだ。「国中に刺史のごとき有り」の国中とは、中国のこと。「刺史」は一大率の下の警察官のようなものだ。帯方郡より派遣された張政は、一大率を勤めていたと思われる。「女王国以北」とは治外法権の一大率の管轄区域であった。市場に対し「大倭をして之を監せし」めたのも一大率である。魏の滅亡と共に一大率は引き上げ、以北の国々も女王国に復帰した。 |
一大率が魏から派遣された軍司令官であるなら、この倭人伝の記事は極めて正確なものである筈。 |
221 |
要約すると、邪馬台国九州説。卑弥呼は巫女。倭人伝の記述の方向は正。里数・戸数は虚妄の数字。卑弥呼の宮室云々は陳寿の創作。邪馬台国は矛の国で、銅鐸の国は別にあった。 |
倭人伝は結局いい加減な史書で、「私は邪馬台国は福岡県山門郡と思う」、とおっしゃる。何故そうなのか、という説明はない。 |
226 |
日本古代国家の成立は、大和朝廷に朝鮮系の儀式が多いことから、北部九州からの東遷で成立したものであり狗奴国が東遷したものではない。 |
文化の流れは、中国大陸ー朝鮮半島ー日本という基本に異議を挟む人はまずいないでしょう。しかし。勾玉は新羅・百済には出土するが、北方の高句麗では出土例がないと聞くが。 |
234 |
地名の東漸。女王国は、その後朝鮮半島の第三勢力が統率し、東遷した。 |
そのような大事件があったとは、近隣諸国の記録に全く影もない。むしろ、4世紀中は高句麗に倭軍がしょっちゅう攻め込んでいた記録が好大王碑文にある。 |
236〜 |
江上波夫の騎馬民族説は、4〜5世紀の古墳文化の急変も考え、私には納得できる 3世紀前半〜倭の五王間に、北九州から大和へと、政権と種族の移動が行われたと思っている |
〜4世紀の井原古墳遺跡、所謂伊都国の、でも馬具の出土あり。馬の輸入・繁殖が全国的に急激に広まった、と見るのが常識的解釈でしょう。 |