槍玉その4  邦光史朗  邪馬台国の旅  光文社 カッパブックス 1976年11月刊   文責 棟上寅七
                                          邪馬台国への旅行案内書
槍玉第四弾 にこの本を取り上げました理由は、古代史の最大の謎 邪馬台国について、この研究会としての見方を出してみたい、と思ったことが、その大きな理由です。

この邦光史郎さんの「邪馬台国の旅」には、古くからの各邪馬台国説の紹介は勿論、古田武彦さんの「邪馬台国」はなかったまで取り上げられていますので、検討の俎上に上げるには最適の本か、と思われました。

著者 邦光史朗さんは、寅七の青年時代の売れっ子作家でした。この欄に掲載するにあたって、先の黒岩重吾さんと同様にWikipedia百科事典などを参照してみました。

邦光 史郎(くにみつ しろう、1922214 - 1996811日)は、作家。東京生まれ。本名・田中美佐雄。高輪学園卒。京都で五味康祐らと『文学地帯』を創刊。のち放送作家。1962年『社外極秘』で直木賞候補。以後企業小説、推理小説、歴史推理小説、伝記小説などを多岐に亘って多数執筆。妻は作家の田中阿里子さん。

梶山季之・笹沢佐保・黒岩重吾などの方々と同時代ですから、寅七などの年代より若い戦後生まれの方はご存知ない方が多いかもしれません。
邦光史郎
この邪馬台国の旅は邦光さんの最盛期の著作で、「邪馬台国」に興味の無い方をも引き込む魅力のある本です。古田武彦さんの「邪馬台国」はなかった5年後の出版で、邦光さんもこの本の中で古田さんの本に言及もされ、参考にもされています。

又、19767月に、古田武彦共著で「邪馬台国の謎」ー古代史探検I(他、狩野治生・百瀬明治・鳥越憲三郎・門脇禎二・田辺昭三 の座談会)を出版されています。この本は、その直後の出版で、1960年代の邪馬台国論議論争を受けて、その集大成的に纏められています。邦光さんは、その後も古代史関係の著作も多く、この「邪馬台国の旅」を契機として、古代史探求に精力を使われていくことになったといえましょう。

この「邪馬台国の旅」の内容

もうこの本も絶版になっているようです。この本の内容を簡単に説明しておきたいと思います。

まず、第一章邪馬台国への道で、魏からの使者梯儁(ていしゅん)が邪馬台国へやってくるその旅を、物語風にまとめています。

次に、第二章邪馬台国はどこにあったか で、古くより現在までの邪馬台国の各説を紹介しています。
1716
年の新井白石・1778年の本居宣長・1784年の上田秋成・1848年の伴信友・1878年那珂道世、などから、白鳥庫吉と内藤湖南の九州説大和説の対立から現在の各説まで、手際よく説明されています。なかなか役に立つ表が付いています。

この中には古田武彦さんの「邪馬台国」はなかったも取り上げられています。ひょっとしたら、古田さんの著書を、一般の読者を対象にまじめに取り上げた最初の本かも知れません。この本は、邪馬台国論争について、一般的に云って、公平なというか常識的な立場から、まとめてある本と云えると思います。

最後に第三章邪馬台国を歩くで、現在の邪馬台国の各比定地を紹介されています。箸墓古墳説・大和郡山説・香椎説・香春説・豊前宇佐説・朝倉甘木説・筑後山門説・博多説・と各説の説明があり、最後に邦光さんの筑後高良山(久留米)説が述べられています。


表題に邪馬台国へのとありますように、各比定地への旅行案内が付け加えてあり、著者のサービス精神が汲み取れます。例えば大和説の中心的な比定地箸墓古墳三輪神社については次のような「ガイド」が付けられています。
ツアーガイド
『箸墓(はしばか)古墳(百襲姫命〈モモソヒメノミコト〉の墓)は、国鉄桜井線巻向(まきむく)駅から歩いて15分。
三輪神社には、同線三輪駅から20分で行ける。
三輪山の西のすそをたどって金屋(かなや)から三輪神社をへて天理市の石上(いそのかみ)神社に至る山ノ辺(やまのべ)の道は、1日のハイキングコースとしても最適である。
行程5時間。途中にこんもりとした箸墓古墳の森がながめられる。』

と、このような調子で各邪馬台国説の旅行案内をされています。


この本の評価されるところ

今までの所謂邪馬台国論争に割って入った、古田武彦さんの「邪馬台国」はなかった、の出版を、肯定的に捉えていらっしゃいます。おそらく、古代史作家といわれる方々の内ではイの一番ではなかったでしょうか。

具体的に挙げてみます。

まず、倭人伝の読み方です。

通説では、韓国内では魏使は西海岸を水行した、とされていました。古田さんが初めて、韓国内陸行と解釈されたのですが、それを支持されています。

又、通説では、「狗邪韓国は倭の北岸」、という倭人伝の記述を無視されていましたが、邦光さんは、「狗邪韓国は倭の北岸」、及び、倭人伝の記述にある、「トクロ国は倭と国境を接している・韓は倭と接す」などを紹介されています。

魏使は壱岐から松浦に渡ってきたのではなく、壱岐から宗像方面に渡ってきた、とする説(邪馬台国宇佐説)はありえない、と説かれています。

また、倭人伝の記す内容、と日本の弥生期の2大青銅文化圏、「剣・矛・鏡」と「銅鐸」の分布状況から見て、「邪馬台国は北九州」は疑いようが無い、とされます。

このように、当研究会「古田武彦私設応援団」を喜ばすかのように、古田武彦さんの「邪馬台国」はなかったの紹介をされ、この古田説を越えるのは至難の業、とまで持ち上げられています。

この本の気になるところ

このように沢山の常識的な説明をされているにもかかわらず、この本を流れる基本のトーンが寅七には微妙に気になります。

そのことは、この「邪馬台国の旅」を読んだだけでは分らなかったのですが、邦光さんの古代史観にあるのではないか気付きました。この本ではあまり露骨な形では出ていませんが、この後の著作「消えた銅鐸族」ではっきりと出てきています。江上波夫さんの「騎馬民族征服王朝の東進」説に大きき影響されていらっしゃるようなのです。

カッパブックス消えた銅鐸族そのために、古田武彦さんが魏志倭人伝の陳寿の記述をそのまま理解しようとされているのに対して、倭人伝はそう正確なものではない、ということをしきりに強調されようとしています。

邦光史郎さんは、古田武彦さんの論理を、一応認めざるを得ないと仰りながらも、それではご本人の創作の隙間がないと思われたのでしょう、無理な古田説のアラ探しが目に付きます。ご自分でも、古田さんのあら捜し、と言っていらっしゃいます。そしてそのアラは見付かったのでしょうか、後ほどゆっくりと見ていきましょう。

倭人伝とは

ところで、この「邪馬台国の旅」のみならず、「魏志倭人伝」もご存じない読者の方も多いかと思います。

この魏志倭人伝(正式には三国志魏志東夷伝倭人の条)という古い中国の史書に、私たちの日本の3世紀頃の状況が書き表されているのです。その本に倭人国の女王卑弥呼の国、邪馬台国(正式には邪馬壹国)への行路が書かれているのです。

その行路部分は次のようです。その文章は当然中国文いわゆる漢文です。これだけの文章の解釈が、いろいろと論議を呼んでいるのです。

従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里始渡一海千余里至対海国(中略)方可四百余里(中略)又南度一海千余里名曰瀚海至一大国(中略)方可三百里(中略)又渡一海千余里至末盧国(中略)東南陸行五百余里到伊都国(中略)東南至奴国百里(中略)東行至不弥国百里(中略)南至投馬国水行二十日(中略)南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月(中略)自郡至女王国萬二千余里
中略部分には、戸数とか官の名前やその他余国の名とかが入っています。

これを今までの通説とほぼ同様の読み方を邦光さんはされていますので、その部分をご紹介します。

『郡より倭に至るには、海岸に循がって水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて渡ること一海千余里、対海国に至る(中略)四百余里平方なるべし(中略)又南へ一海を渡ること千余里名づけて瀚海という。一大国に至る。(中略)三百里平方なるべし(中略)又一海を渡ること千余里、末盧国に至る。(中略)東南陸行五百余里にして、伊都国に到る。(中略)東南奴国に至る百里。(中略)東行不弥国に至る百里。(中略)南、投馬国に至る水行二十日。(中略)南邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。(中略)郡より女王国至る萬二千余里。

一読して、日本語として一応読めますが、内容的に不弥国から南へ20日行って、更に南へ水行10日陸行ひと月行ったところが卑弥呼の都という説明なのです。末盧や伊都など北部九州とほぼ間違いのないところから、南へ船旅30日、陸路30日というとんでもない南に邪馬台国があるという記述となります。

それで、今まで沢山の研究者が、南は東の間違いではないか、とか、1月は1日の間違いではないか、と各説が出て華々しく論戦が行われました。これまでの研究者の邪馬台国論の一覧表を同書から書き抜いて見ました。(邪馬台国研究一覧表)

主な邪馬台国論一覧    (「邪馬台国の旅」p156より)

論者 邪馬台国比定地 卑弥呼擬定者 論拠
松下見林 大和 神功皇后 「日本書紀」「古事記」「延喜式」を参考。
新井白石 大和 神功皇后 諸国名を北九州の各地に比定、伊都国は太宰府の役割を持つ。
本居宣長 九州南部 熊襲の偽僭 1月は1日の誤り。九州東岸行路。投馬国は日向の都万にあたる。
伴 信友 大和 神功皇后 水行10日陸行1月は、実地に見聞したものでない。
久米邦武 筑後国山門郡 八女津姫 八女津姫は、後漢の光武帝から金印を受けた伊都国王であった。
星野 恒 筑後国山門郡 田油津姫の先代 台与が田油津姫である。「倭人伝」は九州の実地検分によっている。
吉田東伍 薩摩曽於城 熊襲の偽僭 1月は1日の誤り。投馬国は薩摩の南部。
白鳥庫吉 肥後国内 日数を否定。方位は南のみを採る。大陸文化は日本海を経て近畿へ。
内藤寅次郎 大和 倭姫命 瀬戸内航路。投馬は周防国玉祖郷。
橋本増吉 筑後国山門郡 日数を否定。筑後川、有明海を水行した。卑弥呼の墓は円墳。
那珂通世 大隅国姫木城 熊襲女酋 邪馬台国の名は、倭の由来して僭称した。
喜田定吉 筑後国山門郡 日程記事は大和への行程で、後代の知識である。
渡辺村男 筑後国山門郡 女山の女王 女山にある神護石は、邪馬台国の名残を伝える。
高橋健自 大和 大和の古墳文化が西漸した。九州は大和の支配下にあった。
笠井新也 大和 百襲姫 箸墓が卑弥呼の墓。行路は日本海岸沿いに敦賀に上陸し大和に入る。
山田孝雄 大和 日本海岸沿いの行路。投馬は出雲。
三宅米吉 大和 1月は1日の誤り。瀬戸内航路。投馬国は備後国鞆。
坪井九馬三 筑後国山門郡 里数は後漢尺。日数は誇張。筑後川を水行した。
安藤正直 肥後国佐俣 伊都国以遠は、放射的読み方をする。
志田不動麿 大和 神功皇后 瀬戸内航路で、水行すれば1日、陸行すれば1月と読む。投馬は鞆。
太田 亮 筑後国山門郡 水行10日陸行1月は、対馬より邪馬台国までの距離を示している。
中山平治郎 大和 北九州弥生遺跡の研究による。後に筑後説になる。
藤田元春 大和 倭姫命 瀬戸内航路。兵庫に上陸すれば陸行1月になる。
壇 一雄 肥後か筑後 放射的読み方をする。伊都国より邪馬台国まで1500里とする。
石田幹之助 筑後川下流域 日程記事は信用できない。
津田左右吉 筑後国山門郡 距離は魏使の誇張報告。
鈴木 俊 大和 邪馬台国への里数と日数は、帯方郡からの距離。
樋口隆康 大和 古墳及び出土鏡による。
浜田 敦 大和 邪馬台・大和のトは乙類、山門のトは甲類。
和歌森太郎 大和 百襲姫 東は南の誤り。投馬国は日向国妻。
牧 建二 筑後国山門郡 諸国名、官名を九州地名から考証する。
富来 隆 豊前国宇佐 1月は1日の誤り。諸国名を九州地名に推当。水行は筑後川。
肥後和男 大和 百襲姫 南は東。1月は1日の誤り。
和辻哲郎 大和 天照大神 水行陸行は伝聞である。
小林行雄 近畿 同范鏡の分布による。山門郡に出土品なし。
植村清二 筑後国三井郡 放射的読み方。投馬は薩摩の川内盆地。陸行1月は水行10日に換算。
宮崎康平 有明海岸 九州地名の字音を重視。
安本美典 筑後国甘木 天照大神 数理文献学による。壱与は台与の誤り。
古田武彦 博多湾岸 邪馬台国への里数は、帯方郡からの距離。投馬は薩摩。


そこを、古田武彦さんが、「邪馬台国」はなかったという本で、倭人伝の記事は誤っていない、読み方が間違っている、とされました。詳しく書きますと大変ですが、骨子は次のようです。

魏志に於ける、到ると至るの用法、日程表示と里表示などの解析から、この文章は「道行き文」である、とされます。『郡より倭に至るには・・・・伊都国へ到る。それから東南へ100里行けば奴国に至る。(これは傍線行程) 伊都国から東へ100里行くと不弥国に至る(これが邪馬壹国の入り口)。不弥国から南20日の航路で投馬国に至る。(これも傍線行程)  郡から倭へ至るには、南へ水行10日陸行ひと月行ったところが卑弥呼の都であり、計12000余里である』と読み下しています。

その結果、「邪馬壹国」は博多湾岸にあった国家とされます。

しかし、当研究会はノッケから、邪馬台国論争というところに皆さんを引き込むことは如何なものか、と思い次のような順序で検討を進めることにします。


I。邦光さんが描く、私達の先祖の暮らしぶり、について
II。邦光さんの、倭人伝の解釈について
III。邦光さんの、倭人伝の説明の不足について


I。私達の先祖の暮らしぶり、について

邦光史郎さんは、倭人の風俗をかなり俗化したというか蔑んだ表現をされています。倭人伝の記述と異なる部分が多いのです。これはどうしたことでしょうか。

これは邦光史朗さんだけでないのですが、何故なのか不思議なのです。国内のいろんな書物で、縄文や弥生時代の説明となると、極端な原始人的表現が多いようです。そして大して年月も経たないのに、古墳時代奈良時代になると、絢爛たる生活文化に描かれます。

外国の、例えば、古代ヨーロッパの先住民族ケルト人についてBC10世紀ごろの姿をゲルハルト・ヘルムという人がその著書ケルト人(河出書房新社1992年刊)で詳しく描いています。

その生活や風俗は、野蛮人的ではありますが、現代人と比べ極端に原始的とは描かれていません。古代と次の時代との連続性が感じられます。それに比べ日本の場合は、連続性が全く感じられません。

国内のどこの遺跡復元施設でも、私たちの祖先の美的感覚がゼロだったかのような復元が見られます。家屋も、丸太組み、萱葺き掘っ立て小屋 的に作られています。

縄文時代であっても、当時の家々は、木組みもしっかりと、所によっては鉄の鎹で止め、屋根には格好良く千木が配置され、木材の表面は黒曜石の刃物で綺麗に削られ磨かれ、塗料も使われていた、と見てよいと思います。

あの勾玉の精密加工、芸術的な火炎土器・銅鐸などを見ても私達の祖先が持っていた技術の高さと優れた美的感覚が判ろうかと思います。高い技術の一つの例として、最近の朝日新聞2008年3月30日日曜版beの記事をご紹介します。日本での縄文時代から伝わる「三軸織」という技術が、宇宙開発資材や、ゴルフの軽くて強いシャフト材として使われていることなどを教えてくれます。

ではこの本をご存じない読者諸兄姉に、寅七が邦光さんの『侮蔑的表現』と感じたところを、同書から拾い上げて紹介します。

魏からの使者梯儁(ていしゅん)が狗邪韓国で港の役人との会話『「彼らはわが国で不要になった鏡や矛をありがたく頂戴して、それを何に使うかというと、鏡を見て化粧するわけでない、鏡を木の枝にかけて、ご神体にしているんですよ。

矛だって彼らにかかると神さまになっちまうんです。なにしろ未開の民ですからね、鏡が陽光を受けて光るのが珍しいのですよ。つまり日輪がそこに現われているわけです』『幼稚なものですな、倭人の民は・・』

『そりゃいまだ文字もなければ(*1)聖人哲人の教えがあるわけでなし、ただ食物が手に入って、酒でも飲んでいたらそれで満足という、いわば動物並みの暮らし(*4)ですからな』(同書P39~40)

『やがて糸島半島の付け根のところで出迎えの人たちとめぐり会った。彼らは何を云ってもただひたすら人のよさそうな薄笑いを浮かべるばかりだった。(p57)彼らは箸を使わず、手づかみで食べていた(*2)』。(p66)

『彼らは半地下式の掘っ立て小屋を作り(*3)、そこに20人ばかりの家族がかたまって住んでいる。小屋の中には炉が切られていて、そのまわりに草や藁を敷いてゴロ寝するのである。』

『中国人の目からみると、富める者はかならず4,5人の妻を持っているように思えたけれど、では誰が誰の妻なのか実はよく分らない。それに彼らはどうも戸外で性行為を営んでいた(*5)ものとみえて、屋内では、ただ食べて寝て子供を育てているだけだった。』(p73~74)
『南行20日で投馬国に着く、と倭人伝にあるが、どうして真南にあると分ったのだろう。彼らが磁石を持っていたとは思えない(*6)し・・・』(同書p190)

以上のように、倭人の描写を野蛮人的に書くことが、読者に対してのサービスと邦光さんは思われたのでしょうか。

しかし、下記の諸点のように、明らかに間違っているところが多いのです。では、個々に見ていきます。

*1文字がなかったか

AD57年に漢王朝から委奴国は金印を授かっています。その使用方法を私達の祖先は、理解できなかった、とは思われません。少なくとも国王まわりの中枢部では玉璽を押す文書(布であれ皮であれ)の文化が始まっていた、文字文明が既に開花していた、と理解するのが常識でしょう。

それから、180年も経ってからの中国よりの使節来国です。この時点でも邦光さんは文字が無い、という表現をされています。
ところが、魏書には、「倭王使いに因って上表し詔恩を答謝す」とあります。つまり文書で応答していると書かれていることについて邦光さんは、「お雇い中国人に書かせた」、と書いています。

180年間ずーっとお雇い中国人がいて文書担当をしていたのでしょうか? われらが祖先の真似能力のDNAは、連綿として現在に連なっているのは皆さん後承知の通りと思います。明治維新の時、僅々30年ほどで近代化を成し遂げたではありませんか。

180年の間には、少なくとも政治権力の中枢の廻りには、文字の読み書き能力が備わって来ていた、と思うのが普通の考えと思います。この、わが民族の特質に対する理解も邦光さんには無いように思われます。

これは私達の祖先に対する侮辱と言ってよいでしょう。

嘘!こいつ俺の先祖~?(*2)手づかみで食べていたか

手づかみで食べていた、などいい加減な想像といえましょう。どこの博物館に行っても縄文~弥生の出土品に木製匙や石製ナイフなどが展示してあることは、読者諸兄姉も充分ご承知のことで、多言を要しないでしょう。


(*3)性生活の描写は正しいか

性生活の描写でも、魏志倭人伝に当時の中国人が見た倭人の習俗が書いてあるにもかかわらず、それをストレートに出さず、自分の倭人のイメージを出されているのは、どうしたことかと思います。

倭人伝にはこう書いてあります。『その風俗(いん)ならず。居室あり父母兄弟臥息(がそく)(ところ)を異にす。婦人淫せず(ねた)まず。』 邦光さんが描かれる姿とはまったく違った表現です。

(*4)住居は全て半地下式か

前述の倭人伝の引用のように、「居室あり父母兄弟臥息処を異にす」と家の中は仕切られた居室があった、とちゃんと書いてあります。その他にも、倭人伝には「倭国は、・・・租賦(そふ)を収む、邸閣(ていかく)あり、国国市(くぬぐにいち)あり、云々」とその文化のそれほど低くないことを記しています。邸閣とは、ものの本によりますと軍用倉庫の役を担う建物だそうです。7世紀ごろ日本書紀にも現れる屯倉(みやけ)に当たるものでありましょう。

出雲大社も弥生時代以前に建てられた大規模建造物ですが、倭人伝にも「この倭国にも楼閣あり」、と書かれています。それらも当時の美的センスで装飾されていた、と思うのが自然と思います。

(*5)果たして動物並みの暮らしだったか

倭人伝に国国市ありとあります。がどのようなものか詳しく書かれていないのが残念ですが、市場を運営する能力の或る人々が動物並みの暮らしという表現をされねばならないのでしょうか。私には邦光さんの頭の中が理解できません。

東夷伝には、倭人も辰韓で鉄を取り、鉄をあたかも貨幣のように用いているという表現もあります。物々交換でなく貨幣経済的なものが成立していた、とどうして文明化しつつある倭人と捉えてあげないのでしょうか。

(*6)磁石を持っていなかった、と断言できるのでしょうか

古代中国の文明に対しても正当な評価を邦光さんはされていないようです。古代中国の四大発明は、紙・印刷・火薬・羅針盤 だそうです。

中国語の辞書で指南を引きました。指南針(指南車)の説明がありました。指南針(指南車) 有一種觀點認為中國古代記載的「司南」就是指南針最早形式 (戰國時韓非子 有度篇 即已出現[司南]一詞)

漢字ですから大体のことはお分かりになるかと思います。戦国時代 韓非子(かんぴし)という書物の中の有度(ゆうど)篇に早くも「司南」という南を知る器具のことが記されている、と書かれています。戦国時代とはBC3~4世紀の頃で、この魏志の邪馬台国訪問の600年も前に「南を知る器具」があったとされます。

未知の邪馬台国に来るのに、羅針盤的なものを持参した可能性は高いのではないかと思われるのですが、読者の皆さんはどう思われますか? 


II。倭人伝の解釈について

倭人伝の解釈について、問題と思われるところ (ア).邪馬台国の位置の説明・(イ).行路についての解釈 (ウ).「里」の長さ・(エ).戸当りの人数(人口)・ (オ).漢字の読み方 が挙げられます。

(ア) 邪馬台国の位置の説明
これは、倭人伝のハイライトとも云うべき点なのです。

古田さんの「邪馬台国」はなかった、では、不弥国は邪馬壱国に接している(邪馬壱国は博多湾岸から福岡平野に亘る地域)と推定されています。

邦光さんは、古田さんの読み方は論理的だが、と仰りながら次のように自説を述べられます。邪馬台国は、不弥国から南へ、水行20日して、かつ陸行10日行った所にあるのだ、という通説と同様の捉え方なのです。

不弥国は博多近郊とされますので、それから計30日行ったところ、となりますと、とんでもない所に行き着くわけです。つまりは、魏志倭人伝はいい加減、という結論にもっていかれます。結局、邪馬台国はどこにあるのか不明、と、いわば読者の前に無責任に放り出されている、としか取れないのです。

つまり、古田説も尤もだが、通説もそれなりに理屈が通る、との考えのようです。つまり、通説の歴史学の大家さんたちに逆らわないでおこう、というような立場のようにも取れます。

邦光史郎さんは、各地の邪馬台国の比定地を紹介された後、最後にご自分の筑後高良山説を述べられています。この説に持って来るために、いろいろと手管を練られていたのでは、と勘ぐりたくなります。

しかしこの久留米説の肝心の点、久留米が目的地なら、魏使は何故、松浦から南下し直接久留米に来なかったのか。何故、伊都や不弥国など大回りをしたのか。松浦半島から佐賀市方面に出て、吉野ヶ里という国を経れば、その方が旅程も三分の二以下で済むのに、という質問に耐えられるでしょうか。九州の地理にあまりお詳しくない読者のために地図を添付します。(北部九州地図参照

4世紀5世紀の後には、久留米市近傍に、倭国の首都的なものがあった可能性は充分あると思います。このことにつきましては、新庄智恵子さんという方が、「謡曲の中の九州王朝」という著書で、謡曲に再三タカラのミヤコという言葉がでてくるが、これは久留米の高良の都であろう、と論証されています。

しかし、この魏志倭人伝が伝える、3世紀の魏使が来た時代では、筑後川エリアではなく、やはり福岡平野エリアというのが正解だと思われます。


(イ) 行路について
邦光さんは朝鮮半島南岸~松浦全行程船行きと見ています。当時の船は刳り舟で粗末なものだったから、天候に留意し旅をしなければならなかった、と邦光さんはこの本の中で述べています。ところがその一方では、対海国(対馬)や一大国(壱岐)で、島内を陸路横断するより、船で島を周航した方が簡単だ、と矛盾したことを書いています。下図は同書p47の挿絵です。遺跡からの船の埴輪や古代船の出土品から想像して描かれたものでしょう。

朝鮮半島から対馬へと渡る場合、対馬の西岸を目指し、対馬を横断し、東側に出、再び、海路壱岐の北岸を目指す。そして壱岐を陸路縦断し、壱岐南岸から松浦半島を目指す、というのが常識的な判断ではないでしょうか。

海とは縁遠い中国から来たお役人の一行は、基本的に船旅は最小限にし、出来るだけ陸路を選択したことはまず間違いないことだと思うのです。朝鮮半島を南に下るのも、船に依らず殆どを陸路に依っています。
古代の船
これもご自分でも言っておられますところの、古田説のアラサガシなのでしょうか。つまり、古田武彦さんが、対馬、壱岐の半周めぐり里程を入れ込んで、陳寿が記すトータル12000里は間違っていない、とされた手法を認めない、と云っていることになります。

何故このように、陸を行けるところを船で行く、常識的には矛盾と判っていて、全行程船行きを主張するか、といいますと、「古田説はおかしいよ、距離勘定が合わないよ、魏志倭人伝の記事もいい加減なのだよ、大和説も久留米説なども、それなりに理屈が通っているのだよ」、というような誘導尋問の手口を見せられている感じもします。
 
(ウ) 「里」の問題について 
邦光さんは、『伊能忠敬の壱岐・対馬の実測里数と、倭人伝の記す里数がいかに異なっているか、末櫨~伊都~不弥国間の倭人伝の里数と実測値と異なっていることを挙げ、倭人伝の里数が信用ならない』、とされます。

この「邪馬台国の旅」の読者の中の、古代史についての知識が豊富でない方には、「倭人伝の里」も、「江戸時代の里」も同じ「里」ですから、ナルホドな、となるでしょう。

しかし、実体は「魏の時代の里」と「江戸時代の里」をそのまま付き合わせるのですから、それぞれの「里」が、同じ距離を表わしているのかまずもって検証する必要があります。それを無視されて話を進められるのは無茶としか云いようがありません。

なぜ、「魏の里」についての古田さんの解析結果を、邦光さんは真面目に検討されなかったのでしょうか。つまるところ、「里数問題はいい加減」とすることによって、邪馬台国をご自分の久留米説に持って来れる、という下心があったのでは、と疑われても仕方がないのではないかと思われます。

(エ) 「戸」の問題について
倭人伝の記事の中の戸数について、邦光さんは「奈良時代は平均20人が1戸に住んでいた、とすると、今でも人口46000人ほどの壱岐に、倭人伝は三千余家(六万人)と言っているが、それは多過ぎる。従って倭人伝の数字は信用できない」。そして壱岐だけでなく、その他の国も、この戸数X20人/戸 で計算すると、後世の調査数と比較しても過大でとても信用にならない、とされます。(p48)

邦光さんの論法は、魏の国の単位の「戸」と奈良時代の「戸」とを並列的に置いていますし、又、「戸」と「家」を区別していない雑な論法と云えましょう。

奈良時代の律令に定められた「戸」を調べてみますと、幾通りもあるようです。一般的に律令でいう「戸」は租税徴収単位で、「郷戸」を指し、これは20~50人だったそうです。その下に「房戸」というのがあり、1戸当り10人未満くらいだったそうです。2~3房戸で1郷戸を構成し、50郷戸で里(さと)を構成したそうです。

なお、縄文~弥生期の竪穴式住居は5~10人/住居のようです。(登呂遺跡などの例)。また、江戸時代の記録を調べてみますと農家1軒平均5人だったそうです。それに、魏志にいう「戸」と「家」をどう定義するのか、決めないままでは議論出来ないでしょう。

幸い、魏志には「戸」と「家」の双方の記述があります。倭人伝だけでなく、魏志全体を検証された古田武彦さんは、「戸」は租税徴収単位であり、「家」は所謂1住戸の意であり、租税徴収単位でないという意であろう、とされます。但し、1戸および1家当り平均何人かは魏志自体からでは分らない、とされます。それが正直なところだと思われます。

壱岐の3世紀当時の1住戸あたりの人口を推定してみることにします。

平成13年の住基調査での壱岐の人口は、34127人です。奈良時代以前の人口は、今より少なかったと思われますが正確なところはわかりません。全国の明治5年の人口は、3480万人と現在の3分の1以下です。

しかし、今と同じとしても、34127人÷3000余家、まあ10~12人/家となります。明治時代と同じ人口と仮定すれば、約3~4人/家となります。4人とすれば、魏志倭人伝では、壱岐約1.5万人、邪馬台国28万人と常識的と思われる人口が記述されていることになります。

倭人伝によりますと、倭人の大人は奥さんを沢山持っていたようですし、1戸に20人以上居住していたかも知れませんが、同時に、倭人伝は、下戸は奥さんの持てない人もいる、とこれまた当然のことを記しています。

大人と下戸の比率が出ていませんからなんとも言えないでしょうが、根拠も無く、20人/戸で計算し、現在の人口との比較をし、だから倭人伝の記事は信用できない、というのは論理的でないと云えましょう。

この「戸数」についての邦光さんの意見は、「倭人伝の記述はおかしいよ」という方向に読者を誘導しているように思われてなりません。


(オ) 漢字の振り仮名が恣意的です
邦光さんは今までの、邪馬台国大和説・九州説に対しての批判は極力抑えていらっしゃいます。例えば、と何のためらいも無く読んでいます。又、倭人伝の記事にある壱与台与とこれも何のためらいもなく書き換え、それを読み変えてトヨと読むなど、邦光さんは今までの通説に迎合しすぎ、という感じさえします。

ところで、陳壽という人が書いた倭人伝の中では、「邪馬台国」関連の諸国の名前を漢字で表しています。今までの古代史の通説では「奴」は、「奴国」を「ナコク」というように、「ナ」と読まれていました。これは、博多が昔「那の津」と呼ばれていたので、奴国=博多=那の津であり、奴=ナとされてきていました。(詳しくは奴をどうよむかをクリックください)

しかし、陳壽は、奴は「ナ」ではなく「ヌ」若しくは「ノ」の発音を漢字で表したのではないか、と思われるのです。なぜなら、倭人伝の中に、官名として「ミミナリ」という言葉に、「弥弥那利」という字をあてています。つまり、「ナ」は「那」を使って陳壽は表しているのです。「奴」が「ナ」でない可能性は非常に高いと判断されます。

しかし、邦光さんは、この「邪馬台国の旅」の中で、()国、卑()母離、()佳鞮、(以上p59)、鬼()国(p153)、というように「奴」を「ナ」「ヌ」「ノ」と恣意的に使っているのは理解できません。ひょっとすると、古田武彦さんが、「奴はド、ヌ若しくはノ」ではないか、と”「邪馬台国」はなかったで論じられているのを、邦光さんは無原則的に適当に取り入れた、のかなあ、としか取りようがありません。小説家は学者でないのだ、厳密にやらなくてもよいのだ、と仰られているのでしょうか。


III。倭人伝の説明の不足について

邦光史郎さんは、かなり詳しく倭人伝を紹介しているようです。しかし、倭人伝の記述を、意識的にとは思いたくないのですが、落として読者に説明していないところがあります。その内の重要なところを挙げます。

(ア)難升米の授号記事 

卑弥呼の部下、難升米その他の人物に魏王朝は率善中郎将という官職を授与し銀印なども授与した、と記されています。つまり、魏王朝の官僚でもあったわけです。形式的なものであった、とは思われますが、それなりの魏王朝=難升米間の紐帯はあった、と思われます。卑弥呼がもらった親魏倭王の印や銀印などが出土すれば面白いのですが。

(イ)塞曹掾史の張政の滞在記事

邦光さんは、意図的にか、倭人伝の終わりに少しだけ書かれています。しかし、魏の塞曹掾史の張政という人が、卑弥呼の支援に来たこと、壱与の代まで滞在し、帰りを掖邪狗(この人も魏朝の率善中郎将に任ぜられている)に送らせた、という記事の重要さを無視しています。

この張政の役職名についても邦光さんは事務官的な職としています。古田さんは軍事司令官的な職と見ていますが、その方が軍旗を奉じてということからすると、常識的には正解ではないかと思われます。この漢字の字義からして、「砦を守備する次官」というように取れます。

黄幢という魏帝の軍旗を持って援軍に来た、張政の報告もこの倭人伝の記事の裏にある、というのは当然ではないか、と思います。しかも彼、張政は、調べてみますと、正始七年西暦247年に来て、泰始2年西暦266年に帰国しています。

その間19年間、ずーっと倭国に滞在した、とは書いてありませんが、張政の任務途中での各種の報告も、魏朝廷に報告されていた、と思うのが当たり前と思います。

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回こっきりの梯儁(ていしゅん)の報告書の意味でこの倭人伝が書かれているのではない、倭人国の実地調査報告書に基づくものであり、精度は高い、という認識が邦光さんには欠けているようです。いい加減な報告書というように誘導するために、張政という人を軽く扱っているように思われます。


当研究会の結論

ところで、読んでしまった後、「だからどこが卑弥呼の国なの?」 邦光説(久留米説)も全く説得力がありませんし、ご本人も自説にこだわっておられないようです。これは、何故なのか、と考えてみました。

邦光さんが天性の売れるための本造りの性格に拠るところが大きいのではないか、と思いいたりました。
倭人伝から見て邪馬台国はどこにあったかの論争の決着点は、「福岡平野エリヤ」か「大和・九州(福岡平野以外)」の二つに一つです。

論理的考証・考古学的出土状況の双方からして、前者以外にはあり得ない、と言うことを認めたがらない、邦光史朗さんの姿が浮かび上がった著作がこの邪馬台国の旅だ、と思います。

この本のあいまいさ、その原因は、初めの方で述べました、騎馬民族征服王朝説への傾斜と、邦光史朗さんの、流行作家のサガといいますか業(ごう)といいますか、真実を追究することより、本が売れる要素の取り込みの方が優先的に、本能的に、なされてしまうというところにあったのではないでしょうか。

しかし、古田武彦さんの著作を評価され、これを乗り越えるのは至難の業、とまで表現されていることは、通説に依拠する多くの方々と違って常識的な判断を備えておられていた方であった、といえましょう。

一見、邦光史朗さんは、通説をうまく取り込み、古田説にも理解を示しながら、「邪馬台国の旅」を売れる本に仕上げた、とも見えなくもないのです。しかし、幾たびか読み返してみて、ご自分なりに一般読者に古代史の魅力を伝える努力されたとも云えるかなあ、と思い直しました。いま少し長生きされて、その後の古代史の潮流をガイドなさることができれば良かったのに、と思います。

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