倭の五王の都督府は邪馬臺国にあったのでは 福岡市 中村通敏
(この論考は多元的古代研究会の会報「多元 165号 Sep.2021 に掲載されたものです。)totokuhu h
今年の八王子セミナーの論点は「倭の五王」についての論議ということで、あまり現状の古代史学では論じる所は少ないか、と思っていました。
しかし、本日郵便受けで届いた会報を開いて、古田史学の会の主筆的論客の古賀氏の論考を読んで、基本のところが抜けているように思われ、まだまだ検討すべきところがあることに気づきました。ということで会員諸兄姉への一筆啓上となった次第です。
その一つは、倭の五王は五世紀初頭から自らを「都督」と呼んでいることと、それを三世紀の卑弥呼の時代と結び付けて考えることが見られないことです。
それは『宋書』倭国伝、太祖元嘉二年の項に、【讃、また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。】とあります。太祖元嘉二年は西暦四二五年です。
この記事から倭王珍のころには「都督」と自称していたことは間違いない、と言えましょう。
太宰府を都督府とするには考古学的調査で五世紀創建という結果が出ないことを残念に思い、高良山あたりに擬したい方が多いようです。
しかし、『後漢書』には東夷伝・倭に【その大倭王は、邪馬臺国に居る】と書いてあるのです。書いたのは、范曄という宋朝に仕えた人物であり、彼は「後漢書」と称するものは多くありながら、いずれにも満足できず、多くを『三国志』の東夷伝の記述を参考にして、後に中国二十四正史の一つとされる『後漢書』を完成しました。
執筆の年代は四四〇年から没した四四五年の間と言われています。倭王珍~倭王済と同時代の人物です。
その彼が倭国の歴史を略述し、既に親魏倭王という称号をもらっていた卑弥呼から、最近朝貢してきた多くの「倭人国」を「親魏」側以外の国々を統率し、「大委王」と名乗った、倭王讃以下の大王たちの居所を「邪馬臺国」と書いているのです。
言葉を変えて言えば、中国史書の記述に従えば、「倭の五王」たち都督の居所は「邪馬臺国」であった、と証言しているのです。
歴代の倭王(自称では大委王でしょうが)彼らは「都督」と自称していましたから、かれらの都督府も耶馬臺国にあった、という論理的帰結になります。
論理的にみれば、「倭の五王」の後年には、耶馬臺国から太宰府付近に移った、という仮説が浮かんできてもおかしくないと、小生には思われます。
五世紀の倭国は既に漢字・漢文は支配階級には普及していたであろうことは、四七八年の倭王武の宋朝への上奏文が証明しているところでしょう。「臺」の意味は漢語の意味と同じように倭人国側も使っている時代になっていたのは間違いないと思われます。
邪馬臺国と『後漢書』に書かれたことは、倭人側が大委王の居所はヤマダイコク・耶馬臺国などと表現したものを「邪馬臺国」と『後漢書』には表現されたものと取るのが理性的判断であろうと思われます。ヤマダイコク探しに微力ながら残りの生を生かしたいと思っているところです。以上。
二〇二一年七月六日記す