『魏志』倭人伝の「戸」と「家」について 中村 通敏
はじめに
古田先生の第一書『「邪馬台国」はなかった』がミネルヴァ社からコレクション版として再版されました。これを期に改めて読みなおし、古田先生の方法論を勉強させてもらいました。
そのなかで、引っかかったのが標記の「戸」と「家」の問題です。「倭人伝」には倭人国を描写している記事に、対海国(対馬)は一千余戸、末盧国(松浦)は四千余戸、伊都国(怡土)は千余戸、奴国は二万余戸としているのに、一大国(壱岐)は三千許家、不彌国は千余家と「戸」と「家」というように表現が異なっています。
古田先生の他の著作を渉猟してみましたが、はっきりとした見解は述べられていませんが、後述するように、「戸」より「家」の方が大きい(人口的に)単位と捉えられているようです。「東夷伝韓伝」でも「戸」と「家」が混在していますが、この記事を読む限り、直感的には「家」の方が「戸」よりも人口的には小さいように思えました。
「戸」」と「家」の違いは何か、「戸」と「家」どちらが人口的に大きい単位か、ということについて私論をまとめてみました。
倭人伝には何故、壱岐は「家」で、対馬は「戸」なのか
不彌国と一大国の記事には、何故「戸」でなくて「家」とあるのか、ということです。それを解くカギは「倭人伝」の「一大国」の記事にあると思います。「一大国」も「三千許家」と記述されています。「倭人伝」に記載されている国で、「家」で表現されているのは、「一大国」と「不彌国」だけで、後は全て「戸」です。(後に述べますが、『魏志』韓伝の表現にも「家」と「戸」の混在があります。)
「對海国」(対馬)は、地理的状況や漁業中心というような記述から、壱岐も対馬とは生活環境に差があるようには思えません。対馬も「千余家」であってもおかしくないのに「千余戸」と単位は「戸」で表されています。
倭人伝の記事を見てみます。対馬は、【千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴〈してき〉(物資の交流)す。】
壱岐は、【三千許〈ばか〉りの家あり。差〈やや〉田地有り、田を耕せども猶〈なお〉食するに足らず、亦、南北に市糴す。】(読み下し文は古田武彦『倭人伝を徹底して読む』による)
以上の二つの文章から両国の違いは、対馬は海産物や交易で自活できるが、壱岐は島内の田からの食料では足らない、ということでしょう。つまり、「田畑の産物での徴税ができる国」かどうかで「戸」と「家」の表現になっていると判断できるのではないでしょうか。
『魏志』を読みますと、魏帝が部下の論功行賞に、封建時代の我が国でしたら「OO石加増する」というところを、「OO戸を授ける」と言うような記事がよく出てきます。「戸」は農産物をベースとする徴税単位という意味のようです。「家」については、一般的な「家」の概念(家長が率いる一家と言う意味)に近い表現が『魏志』には多く見られます。この解釈が正しければ、「不彌国」も「田畑の産物での徴税ができない国」ということになります。そして、「不彌国」の規模は、「一大国」(壱岐)の三分の一ほどの国ということを倭人伝の記事は言っているわけです。
不彌国は、古田先生の解析されたところによると、博多湾岸の姪浜から室見川河口流域の国と言うことかと判断されますが、そうすると、不彌国の領域は、壱岐の三分の一の規模ですから、室見川河口部分だけではとても収まらないと思います。しかし、博多湾周辺の漁労・水上交通を主業務としている地域、と考えると収まります。
「戸」と「家」どちらが人口的大きい単位か、
ところで、人口的にはどうなのだ、「戸」=「家」なのか、という問題も生じます。この問題については古田武彦先生も、『倭人伝を徹底して読む』で、詳しく検討されています。単に“混用”かと思っていた時もあったが調べてみた結果、「戸」は魏の行政単位ではないか、『蜀志』や『呉志』にはそのような「戸」の表現が無い、と述べられています。
『魏志』では「倭人伝」同様に、「東夷伝」韓伝でも「戸」と「家」の混在している記事があります。
韓伝の馬韓の項には【大国万余家、小国数千家、総十余万戸】というように家と家を合わせて戸というような表現があります。そして、【国の総数は五十余国である】とも書かれています。
また、韓伝の「辰韓・弁韓」のところでは、【国の総数は二十四ヶ国、大国は四、五千家、小国は六、七百家、合計四、五万戸。内、辰韓は辰王が十二国を支配している】と「家」と「戸」が混在しています。
これらの「馬韓・辰韓・弁韓」の記事を使って「戸」と「家」の関係を知ることはできるのではないでしょうか?
一国の平均戸数は、馬韓では約二千戸、辰弁韓は、千七百~二千百戸ということはわかります。また、辰韓はおそらく十二国の内、辰王が支配する国のみが大国と思われますが、弁韓の方の情報はありません。これらの記事を手がかりに、「戸」と「家」の大きさの比較が出来ないものでしょうか。大国と小国のそれぞれの国数がわかれば、簡単に解ける単純な算術の問題です。
「韓伝」の記事からでは大国と小国の比率を知ることは出来ません。しかし、「韓伝」と同じ『魏志』東夷伝のなかの「倭人伝」でも、一大国と不彌国では「家」単位で、その他は「戸」単位で記されています。[東夷伝]のなかでは、馬韓国と倭人国の「戸」と「家」の定義は同じと考えてよいのではないでしょうか。つまり「倭人伝」の「大国」と「小国」の比率を使って「馬韓」の「戸と家の関係」を知れるのではないかと思いつき試算してみました。
大国と小国の国数に倭人伝のデータを使ってみる
馬韓の場合、大国と小国の国数比が判れば簡単に連立方程式で解けるのですが、その、大国と小国の国数比がわかりません。そこで、同じ東夷伝仲間の「倭人伝」の場合の大小の国数比を援用出来ないか、と考えました。倭人伝の記述によれば、次のようです。
万戸以上の大国 邪馬台国・投馬国・奴国
万戸(家)以下の小国 對海国・一大国・末盧国・伊都国・不彌国
戸(家)数不明 狗邪韓国・斯馬国など旁国二十一ヶ国 計 三十国 ということです。
(以下に試算の経過を記しますが、算術計算経過などを読むのは面倒、という方は飛ばして結論をご覧ください。)
仮に、不明の国々を全て万戸未満の小国としますと、大国対小国の比は三対二十七(一対九)です。
先の、辰韓の例では大国対小国の比は一対十一と考えても良いように思われます。しかし、弁韓の場合はそう書いてありませんから、大国は少なくとも二国以上あったと思われます。そうすると、両国合わせて、大国三対小国二十一(一対七)となります。これらを勘案して一応、東夷の国の大国と小国の国数比を一対八と仮定して、馬韓の場合の「戸」と「家」とのサイズの大きさ比を算出してみます。
馬韓国の五十余国は、「余」つまりプラスアルファーを幾つにとるかという問題があります。古田先生によれば、「余里」などに使われる場合は有効数字の一桁未満、万余里の場合は、万一千以下、万五百里程度、とされています。そうしますと五十余国の場合、五十一国ととってもよいということになります。
それに一対八の比率を掛けますと、大国五.六七対小国四五.三三(計五一国)となり、数字を丸めて、大国六ヶ国、小国四五ヶ国 計五一ヶ国 とします。
「韓伝」の記事では、大国は万余家で小国は数千家です。数千の「数」とは古田先生によりますと、「数」とは、ほぼ「五」をしめしているとのことですので、それに倣います。計算手順は次です。
馬韓国の総家数は、六大国x一万五百家/国 +四五小国x五千家/国としますと、総家数は、大国は六万三千家、小国は二十二万五千家 計二十八万八千家となります。
一国当りの家数は、二十八万八千家/五十一国=五千六百五十家/国 です。総戸数は十余万戸ですから、これも「余」は若干ですから、十万五千戸とします。
一国の平均戸数は、十万五千戸/五十一国=二千六十戸/国 です。そうすると、五千六百五十家/国/二千六十戸/国=二.七五家/戸 つまり、「家」と「戸」の比は、一対二.七五 となります。
以上の計算には、「余」とか「数」とかかなり幅があると思われますので、この答も大国と小国の比率の仮定次第で変わる値でしょう。しかし、大国対小国の比率を一対七とか一対九に変えても、結果は殆んど変わりません。(一.九の場合家と戸の比が一対二.六九)
念には念を入れておきましょう。私同様の疑い深い人は、倭人伝で戸数や家数が書かれているのは八国に過ぎず、その内、万戸以上は三カ国に過ぎない。この一対八の比率で計算した結果を信用出来ない、とおっしゃることでしょう。
では大国対小国を、「倭人伝」で戸数が明らかな国々のみの、三対五で試算したらどうなるか。結果は、算数のおさらいをしていただければと思いますが、その「家」と「戸」の比率の値は、一戸=三.四二家となります。
結論として
言えるのは、「戸」の方が「家」より大きい単位であること。
◇その倍率は二~三倍くらいではないか。
この結果を適用すると、三千許家の一大国は戸数に直すと、千数百戸ほどで、千余家の不彌国は五百許戸としてよいでしょう。つまり、一大国は、一千余戸の伊都国とほぼ同じくらいの規模の国で、不彌国は、それらの半分くらいのミニ国家であったようです。
古田先生は『倭人伝を徹底して読む』第七章「戸数問題」で、戸と家の区別と言う項で次のように言われます。
【(鮮卑伝)をみると、「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位となっています。ところが下部単位以外のものも含めてでは「戸」とはいえない。つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人迄ふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。そういう含みがあるから、ここは「戸」を使わずに「家」と使っているのです。「家=戸プラス戸以外」です。】
古田先生の説は人口的には「戸より家が大きく」、当方が馬韓伝の記事から得た結果の「戸は家の二~三倍」とは全く逆の結果となりました。
日本書紀によりますと、五十戸で里とするとありますし、川辺里木簡には一戸に百二十四人の名前が記されているなど、古代の「戸と人口」の関係は、現代の「戸」や「家」の認識では計れないところがあることははっきりしています。
この私論は、“「家」というのは農産物出の徴税ができない国の表現であり、一般的な家長に率いられる一家“という仮定から出発しています。仮に、その仮定が間違っていても、あとの算術計算の結果からみると、「家」よりも「戸」の方が大きい単位、と言えると思います。
何の役に立つのか
今回『魏志』東夷伝の「戸」と「家」についての試算の結果を、「だからどうなんだ、何かに役立つのか」と言われますと、単に、古田先生も苦労された問題について、違う方向からのアプローチでの仮説を提示できたかな、ということぐらいでしょうか。
まあ、一大国(壱岐)と伊都国とどちらが人口的に大きかったか、という問題に対しては、古田先生説では「壱岐は伊都国の三倍以上の国」ですが、小生仮説では「壱岐は伊都国ほぼ同じ規模」となる、というような見解の相違がでてきますが。
少し話は逸れますが、古田先生は対馬と壱岐のどちらが天孫降臨の軍隊の発信地か、と言う問題で、「戸」と「家」を同一単位と見られているようです。
『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫版 あとがきに代えて 補章 二十余年の応答 一大率の新局面より で、天孫降臨の出発点として壱岐とされ、その根拠として次のように述べられます。
【壱岐の方であると答えざるを得ない。なぜなら対馬の方は全島「山ばかり」の島であり、人口は少ない。これに対し、壱岐の方は、全島平地が多く人口も多い。(対海国)千余戸有り。(一大国)三千許りの家あり。というごとくである。その上、地理的にも九州本土の北岸部に近いのは、壱岐の方であるから「天孫降臨」の主力は「壱岐の軍団」であった可能性が高い。】
天孫降臨の軍団は壱岐から、というのは、北部九州に近いという事から結論としては納得できますが、倭人伝の記事から、壱岐の方が対馬よりも人口が多いというのは納得しがたいところです。その理由は、
(一)対海国は「方四百里」からわかるように、対馬の「南島」(下県郡)を指しています。従って、対馬全島では略、二倍の戸数があったと思われること。
(二)対海国は「戸」、一大国では「家」で表記されています。それを同じ人口単位として取扱うのは正しくないと思われること。(試算例から「戸」の方が「家」よりも二~三倍大きいのは間違いないと思われる。)
以上のことから『魏志』東夷伝の記事から解析した結果をみる限り、人口的には対馬の方が壱岐よりも多いというのは間違いないと思われます。
諸兄姉のご批判を待ちます。 (以上)