角田氏のヤマト論について              福岡市 中村通敏

 会報148号掲載の角田彰雄氏の「ヤマト・倭・やまと・大和」の起源を解く」について読みましたら、自分の中に違和感が生じました。

 小生は自分のホームページで古代史本の批評をしています。自分自身にそれ程古田史学の素養があるとは思いませんが、古代史本の問題点を古田先生の著作を頼りに批評しています。

 今回の角田氏の「邪馬台国五文字之謎」は力作と思いますが、あくまでも「小説」としてでありこれが古代史の論文となるとそうはいかないと思います。

 古代史の碩学がお集まりの東京古田会でもきっといろいろと反論が出ることと思いますが、私のこの角田論に対する違和感を自身の勉強のためにも検討したいと思います。

「やまと」の語源論について述べられるのですが、高祖山が邪馬壹国の「ヤマ」とされます。だから、ヤマトは北部九州が起源と言われます。

 古田先生の『俾弥呼』では。邪馬壹国のヤマは高祖山であり、そこに祭られた神を「イチ」と書かれています。

 なぜ、近畿で「ヤマト」という語が発生したのか、九州なのだ、けしからん、というような問題の捉え方から発しているように受け取れるのですが、当方の僻み根性から来ているのでしょうか。

 邪馬壹国の語源について古田先生がおっしゃるように高祖山である可能性は高いと思いますが、「やまと」という言葉も北部九州独自のものだ、とは断言できないと思います。

 ですが、高祖山が「ヤマ」だとして、それがどうして「ヤマト」になるのだろう。そのために角田氏は「邪馬壹国」の本拠壱岐の原の辻の港を「海都」とされ、それとの対比で高祖山麓の都を「山都」と呼ばれたとされます。これで高祖山麓の都が「山都=ヤマト」となったのであろう、とされます。

 この立論の為の出だしの「海都」の読みやその地名についての考察はまったくなく、あくまでも角田氏の観念上の産物と思われます。この出だしの、いわば仮説の立脚点があいまいのように感じられます。

「海都」は日本語でしょうから「うみと」か「うみのと」ということなのでしょう。その時代から重箱読みが存在したであろうことは、「都市牛利」の「といち」さんがいらっしゃいますから、それはよいとしても、そもそも天孫降臨当時、王の宮殿地域を「都・と」という語であらわしていたのだろうか、という疑問が涌きます。宮処ミヤトコロからミヤコなったのではないかという感じがしますが、それはともかく、そのあたりの検証がなく、「海都」からの論の発展は、小説ならともかく、史論となるとキチンと論証というか詳しく述べないと世の中には通らない論のように思われます。

 肝腎なのは、「ヤマト・倭・やまと・大和」というように角田氏は挙げられていますが、「倭」の読みは「やまと」ではなく「ちくし」と古田先生はおっしゃっています。小さいころから「倭=やまと」で摺り込まれた我々の頭には、受け入れるに厳しいかと思いますが、「倭=チクシ」で今回のヤマト論も見直されたら別の展望が見えてくるのではないでしょうか。

 なお「邪馬壹国」は、晋が滅亡したのち国名を「邪馬台国=ヤマト国」に変えた、とされるのも果たしてそう言えるのでしょうか。『後漢書』にある「その大倭王は邪馬臺国に居す」については、当時の国(三十許の国を統轄する)の名は「大倭」でありその大倭王の宮殿が「邪馬臺国」という理解が正しいと思うのですが。

 ともかく小説としては面白く読めますし、壱岐の人たちにとってはわが国の源流は壱岐にあり、ということでご当地物として人気もあるであろうと推察します。しかし、「史論」として上げられるのであれば、“なかった”「邪馬台国」にこだわられず、観念上の現在の立論に具体的な根拠・考察を付けられる必要があると思います。  以上

なお昨年の11月20日にブログ「棟上寅七の古代史本批評」に簡単な感想を述べていることを付記ます。http://ameblo.jp/torashichi/day-20121120.html