タリシヒコ考

『タリシヒコの謎に挑んだ人たち』  新しい歴史教科書(古代史)研究会

(第二部 明治維新から昭和二十年の敗戦まで)

 

第六章 明治維新から太平洋戦争終戦後までの古代史をめぐる社会環境について

 

明治維新によって天皇親政の体制となります。日本帝国憲法も公布され、この体制は1945年(昭和45年)8月15日に昭和天皇のポツダム宣言受け入れまで続きます。

 

主な流れは次のようです。

1868年(慶応4年) 王政復古(五箇条の御誓文)
1868年(慶応4年) 廃仏稀釈令(太政官「神仏分離令」布告)
1869年(明治2年) 修史事業勅諭(修史の詔発表)
1877年(明治10年) 西南戦争・東京大学設置(1886年東京帝国大学に名称変更)
1880年(明治13年) 不敬罪制定)

1889年(明治22年) 大日本帝国憲法公布
1889年 東京帝国大学に史学会設立(注03
1890年(明治23年) 教育勅語公布
1892年(明治25年) 久米邦武筆禍事件注04
1894~1895(明治27~28年)日清戦争
1904~1905(明治37~38年)日露戦争
1912年(明治45年) 明治天皇崩御
1914年(大正3年) 第一次世界大戦参戦(1918年周旋)
1917年(大正6年) ロシア革命
1918年(大正7年) 平民宰相原敬就任(大正デモクラシー)
1921年 (大正10年)  原敬首相暗殺さる
1924年(大正13年) 治安維持法の制定
1937年(昭和12年) 日支戦争(盧溝橋事件発生)
1945年(昭和20年) 太平洋戦争敗戦

 
 憲法制定に先立って「不敬罪」が制定され、皇統の研究発表には注意が払わねばならなくなります。後述しますが、東京帝大美濃部達吉の「天皇機関説」(注05参照)に対する不敬罪告発、『記・紀』の既述にある、古代天皇や聖徳太子の実在について論じる津田左右吉に対する「不敬罪」告発と実刑判決(のち時効)などがあります。 

そのような時代背景もあり、民間の学者が自由に研究で来た江戸時代と違った歴史研究環境となってきます。それをよくあらわしているものが「朕〈ちん〉惟〈おも〉フニワカ皇祖皇宗〈こうそこうそう〉国ヲ肇〈はじ〉ムルコト宏遠〈こうえん〉ニ・・」ではじまる教育勅語でしょう。
【朕惟フニ、我カ高祖高宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹〈た〉ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克〈よ〉ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一〈いつ〉ニシテ世々厥〈その〉ノ美ヲ済〈な〉セルハ、此レ我か国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦此〈ここ〉ニ存ス。(後略)】

 また、帝国憲法の発布についての勅諭(上諭)に、「朕は祖先の偉業を受け万世一系の帝位を継ぎ云々」という言葉から始まっているのですから、『日本書紀』や『神皇正統記』の精神に副わない範疇での研究にとっては、江戸期より歴史研究にとっては、厳しい環境となったと思われます。

参考までに帝国憲法の前文と言われるその「上諭」を掲げておきます。

 【朕、祖宗〈そそう〉ノ遺烈〈いれつ〉ヲ承ケ、万世一系〈ばんせいいっけい〉ノ帝位ヲ践〈ふ〉ミ、朕カ親愛スル所ノ臣民ハ、即チ朕カ祖宗ノ恵撫〈けいぶ〉ヲ慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念〈おも〉ヒ、其ノ康福〈こうふく〉ヲ増進シ、其ノ懿徳〈いとく〉良能ヲ発達セシムルコトヲ願ヒ、又其ノ翼賛ニ依リ、倶〈とも〉ニ国家ノ進運ヲ扶持〈ふじ〉セムコトヲ望ミ、スナワチ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践〈りせん〉シ、ココニ大憲〈たいけん〉ヲ制定シ、朕カ率由〈そつゆう〉スル所ヲ示シ、朕カ後嗣及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲシラシム。
国家統治ノ大憲ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ。朕及朕カ子孫ハ、将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ、之ヲ行フコトヲ愆〈あやま〉ラサルヘシ。】


修史事業の顛末

江戸期では鶴峯戊申が8世紀まで筑紫を中心とした倭国が存在した、というところまで論考された、その衣鉢を継ぐものはいなかったのでしょうか。本居宣長の卑弥呼は熊襲の女酋説を継ぐのはどうなったのか、それを良く示しているのが、明治天皇の修史の詔で始められた修史事業の顛末です。(注03参照)

 修史事業は、国学者と漢学者との混成であり、修史の詔に漢文で書くこと、と規定されていることも問題を複雑にしたと言われますが、内部抗争や久米邦武の筆禍事件により、久米や頭株の重野安鐸の帝大教授辞職もあり結果的に国史編さんはまとまらずに終わります。

注03史学会の設立とその流れ

修史事業の実戦部隊として、修史編纂局が帝大に移管され、史学会も組織された。このあたりの事情について、フランスのアルザス欧州日本学研究所(CEEJA)の「日本研究セミナー”明治”」で報告されている。
このセミナーは、
2009年、2010年の二回に亘り御厨貴氏(東京大学名誉教授)を講師に迎えて行われた。そこでの、スエーデンのエテボリ大学の高宇ドルヒーン洋子氏が「明治時代の史学の確立」という発表をしています。
明治維新で、天皇親政となった時代が史学研究に及ぼした影響については、あまり考慮されていない報告ですが、この報告書から、修史編纂局や史学会の設立前後の状況が見られるので、参考に関係部分を抜粋して紹介します。


【1877年に東京大学が創立され、史学科も設けられた。1886年に帝国大学と名前を変え、その中の文科大学に史学科を設けることになり、ランケ史学の流れをくむルドビク・リースがベルリン大学の推薦で派遣された。政府内の修史編纂局は、臨時 編年史 編纂掛と改名され、帝国大学に移管された。それによって、修史作業に携わっていた、重野安繹・久米邦武・星野恒〈ひさし〉らが文科大学の教授となった。
リースは欧米の例にならい史学会の組織をつくり(1889年)、史学雑誌の刊行を始めた。史学雑誌創刊号巻頭の論説は、ランケ実証史学と漢学の伝統を重ね合わせて議論を進めている重野で、次いで、二番目の論説「史学の話」を書いた小中村清矩は、実証主義の道を取った国学者として知られ、教育勅語草案も彼が書いたとされる。巻末には星野恒が、歴史編纂はその資料を良く吟味することについて書いている。第二号の巻頭論文は久米邦武が書く、というように当時の史学会の状況が、大きく二つの流れにあったことがうかがえる。
史学雑誌に、歴史研究についての抽象的な議論が続くことについて、学会誌にはそぐわないと、リースは第5号で具体的な問題、資料収集と、その学術的な調査に力を注ぐべき、との編集方針を提案し、受け入れられた。
明治期の史学会が受けた弾圧に、久米邦武の筆禍事件(注04)および喜田定吉の南北朝正閏問題がある。
喜田定吉は明治44年(1911)に、小学校教科書に南北朝双方を正統と書き、南朝正統論者から糾弾され、東京帝国大学教授休職処分を受けた。
このように明治期の国史学は、漢学と国学の間にランケ史学をいれ、実証主義を中心に、それら三つの折衷させた近代明治の歴史学ということになった】


注04)久米邦武の筆禍事件

久米邦武(1839~1931年、天保10年~昭和6年)は佐賀藩士。藩校弘道館~昌平坂学問所に学びます。帰藩し弘道館で教鞭をとり、明治維新後、明治政府に出仕し岩倉視察団の一員として欧米視察します。米国に6カ月イギリスに4カ月とかなり長く逗留しました。修史局が組織変更され修史館となりましたが、そこに入り、重野安鐸と共に「大日本編年史」などの国史の編纂作業に携わりました。
明治21年、帝国大学教授兼 編年史編纂委員 に就任しました。史学雑誌に「神道は祭天の古俗」という論文を掲載しましたが、雑誌「史海」を出していた田口卯吉の勧めで、同誌にこの論文が転載されました。
このときの田口卯吉の推薦文に「自分はこの論文を読んで、世の中の神道家は口をつぐんでいてよいのか、もし口をつぐみ続けるのであれば、世の神道家は全く閉口したものとみなさざるを得ない」と一種のアジテーション的な文章を載せました。
その結果、多くの神道家たちが久米のもとに押し寄せ、論文の撤回を迫りました。久米は新聞に広告して、論文の撤回を約しましたが、騒動は収まらず、帝大教授と修史編纂委員の職を辞しました。
後、同郷の大隈重信の招きで早稲田大学教授として1922年(大正10年)まで古代史や古文書学を講じました。


◆明治年間の古代史研究の状況 

このような明治年間の古代史研究の状況について、明治時代の代表的歴史学者、内藤湖南と大正時代の代表的な歴史学者、津田左右吉がが説明しているところを参考までに紹介します。
内藤湖南の『日本上古の状態』1919年(大正8年)という論文に、明治大正期の歴史研究を取り巻く環境を、湖南の立場から、述べているところをまず、抜粋し抄訳紹介します。


明治以後史学が盛んになったとはいえ、日本の側から歴史を観察する、本國中心主義が依然として國史界を支配し、少し際どい研究法を用いると、神職及び教育家等から激しい攻撃を受ける事が常であった。國史の研究はどこまでも本國中心でなくてはならないとし、日本國成立の素因を外界の刺激に幾分かは依るとすることさえも不都合とするのである。彼らは、外國の資料によって研究することは、記録の不確實なる朝鮮によることは寛容しながら、記録の確実な中国の歴史より研究することに対しては排斥する傾向が強かった。だから日本の古代についての見解の程度は、今日に於いても依然として國学者流の考えから脱しえていない。これは今後の国史研究上の一大問題とせねばならない。】と、まっとうな意見を述べています。

津田左右吉〈日本歴史研究における科学的態度〉1946年3月 雑誌「世界」
月号「上代史の問題についって」より。
もっとも、こういう(上代の天皇の系譜等への研究)ことがらについての学問的研究は、近年(昭和期)ほど乱暴な態度や方法によってではなかったにせよ、その前から、知識の乏しい官憲や固陋な思想をもっているものの言動やによって、或る程度の、場合によっては少なからぬ、抑制を蒙ってはいた。明治の或る時期には古典の批判がかなり活発に行われ、皇室に関することについてもいろいろの新しい自由な研究が現れても来た、その傍には、神道や国学や または儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとしたのである。それがために、学界においても、こういう問題については、自由な学問的研究の精神が弱められ、学徒をして、あるいは俗論を顧慮して不徹底な態度をとらしめ、あるいはそれに触れることを避けさせる傾向が生じ、そうしてその間には、学徒みずからのうちにも知らず知らず固陋な思想に蝕まれるものが生ずるようになり、全体として研究が進まなくなった。これが明治の末期からの状態であった。(中略)
ところが、上記の固陋の思想は、近年(昭和期)に至って政治界における軍国主義の跳梁に伴い、それと結合することによって急に勢いを得、思想界における反動的勢力の一翼としてその暴威を振うようになった。上に権力者の恣〈ほしいまま〉な主張といい、虚偽迷蒙な説といい、気狂いじみた言論といったのは、即ちそれである。】
と、大正から昭和初期に至って、気違いじみた言論が跋扈したことが、歴史研究の障害となったことを述べています。

注05)天皇機関説
憲法制定に先立って不敬罪が制定され、古代史研究に大意気な影響があったと前に述べました。
その「天皇機関説」について簡単に説明しておきます。

天皇機関説というのは明治憲法下での天皇の位置付けに関する学説で、主唱者は美濃部達吉東京帝大教授にして貴族院勅撰議員でもあった美濃部達吉でした。
天皇は法律的には国家機関の頂点に位置する、というもので、議会・政党の役割を重視するものでもありました。

ところが政党は政争に明け暮れ、議会政治の統制外であった軍部の台頭をゆるす結果となります。
天皇を絶対視する軍部の一部は五・一五事件で犬養首相を暗殺するに至る。天皇は神聖にして侵すべきでないと貴族院では公然と天皇機関説が攻撃され、美濃部達吉が弁明しましたが、不敬罪で官憲の取り調べを受けることになりました。結果は不起訴処分でしたが美濃部達吉は議員を辞職しました。

当時の首相岡田啓介(海軍大将)は、「いわゆる天皇機関説は神聖なわが国体の精神に反するものであり排除されるべき」という声明(国体明徴声明と称された)を発表し、天皇機関説を排除し、その憲法論の教授も禁じられました。
美濃部達吉の『日本国憲法ノ基本主義』『憲法概要』『逐条憲法精義』の三冊は発禁処分(出版法違反)を受けたという事件です。】

この「天皇機関説」について直木孝次郎が当時を振り返って、『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公文庫 「天皇不執政論と天皇機関説」で次のように述べています。


古代の天皇は宗教的に神聖な存在であり、直接政治に携わるのは皇太子や蘇我氏などの天皇外戚の有力者であり、天皇不執政が原則であった、ということの延長に、現在明治憲法の下での天皇の地位について、国会が政治を行い、天皇は元首であるが国を代表する最高機関に過ぎないという天皇機関説(美濃部達吉東大教授罷免事件)に根拠を与える、家永三郎などの進歩的研究者の古代天皇不執政についての研究は当局からにらまれた。】


このような明治帝欽定の大日本帝国憲法のもとでの歴史研究がどうであったか、「タリシヒコの謎」に迫る事ができたのか、具体的に見て行きます。取り上げたい論者は多いのですが、特徴的な数人に絞ってその論旨を見ることにします。



第七章 明治~敗戦時までのタリシホコの謎について

この明治帝の欽定大日本帝国憲法のもとでの歴史研究がどうであったか、「タリシヒコの謎」に迫る事ができたのか、数多い論者の中で次の三人程に絞ってその論旨をみてみたいと思います。例えば、内藤湖南の論述の中で、鶴峯や久米などの評価も見る事ができますので。

西の内藤湖南、東の白鳥庫吉と並び称された二人に加え、国史の方からでなく、日中の通交の歴史という方面からの『日華文化交流史』を著した木宮泰彦を取り上げます。
それに加え、津田事件の津田左右吉も「実証主義」を掲げ、戦後の国史研究におおきな影響を与えています。この四人の「タリシヒコの謎に関係する発言や史観も見ていきます。


①内藤湖南

略歴:1866年(慶応2年)生まれで、1934年(昭和9年)に没しています。生まれは秋田県で秋田師範を卒業し、しばらく秋田で小学校の訓導を勤め、1877年(明治20年)に上京し、新聞・雑誌の編集に携わり1907年(明治40年)に京都帝国大学が東洋史学科が開設されたときに講師として招聘された。明治42年に教授になり、東京帝大の白鳥庫吉との邪馬台国論争「東の白鳥の九州説、西の内藤の大和説」が有名。


内藤湖南のタリシヒコの謎に関係する発言

内藤湖南は、隋との交渉は聖徳太子が行ったとしています。しかし、『隋書』と「日本の伝承」との相違点などについて見解を述べることはありません。わずか以下に紹介する『増訂日本文化史研究』弘文堂1930(昭和5)年11月発行 のなかの「聖徳太子」に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙なきや」の国書について、聖徳太子が書いたもの、と言われているところだけです。

【卑弥呼が中国と通じた、と中国の史書にある。これは熊襲などの女酋が女王と偽ったのだろう、とする学者がいるがそうではない。又、『宋書』には倭の五王の叙爵記事がある。これは朝鮮の日本府の長官が偽って名乗ったものだという説もあるがこれもそうではない。

古の外交を担当していたのは帰化人であった。『魏志』にあるように、中国からの文物は博多あたりで検査を受ける。印章も担当に預け放しであるから、帰化人の担当者の思うままに作成される。彼らが使者として行くと、先方の鴻臚寺の管理役人と示し合わせ都合よく上表などを作る。これを聖徳太子が、帰化人外交の外交権を取り戻し、小野妹子などの名家の者を使者とするようになった。

「日出づる処の天子云々」の国書は、その語気から察するに、太子自ら筆を執ったものであろう。太子のように巧妙に中国と外交したものはいない。】(『聖徳太子』より抄訳)


内藤湖南のタリシヒコに関係する発言でこれ以上詳しく言及している文章を見つけることはできませんでした。つまり、聖徳太子が小野妹子を使者として派遣するまでは、国の外交・通商は、渡来人に任せっぱなしだったので、記録などもいい加減なのだ、ということにしています。また、「その語気から察するに」ということで聖徳太子が書いたものとする論理は「学問」とは程遠いものです。

この内藤湖南の論調は『卑弥呼考』(初出『藝文』1910年)でも共通しています。やはり外交は帰化人任せであり、卑弥呼という女王は大和朝廷の倭姫命である、とされています。倭の五王も、大和朝廷の天皇の方々とされています。

この内藤湖南の古代史史観を観るには『卑弥呼考』での発言を見るとよくわかります。内藤湖南は、『卑弥呼考』で、『魏志』にある邪馬台国は大和であり、卑弥呼は垂仁天皇の四番目の娘、倭姫命としています。何故そういえるのか、それは『隋書』の記事で明らかである、と言います。「大和」の名は古くから中国に伝わっていて、『隋書』には「邪靡堆」と書かれていることからも明らかであり、九州説は間違いと論じています。


その『卑弥呼考』の関係部分を抄訳して紹介します。

【中国の史書に見える女王卑弥呼を神功皇后としたり、或いは筑紫の女酋としていて、近年は後者を取る者が多いがいずれも間違っている。

 中世足利時代、僧周鳳が『善隣国宝記』で中国史書にある倭国というものは果たして日本なのだろうか、という疑念を示した。つまり、倭国の東千里にある倭種の国のいずれが「日本」なのか、ということであり。これは鶴峯戊申が『襲国偽僭考』でも指摘している。

 しかし、松下見林は、神功皇后説を述べているが、それが九州説に一転したのは、本居宣長の『馭戎慨言』で、「卑弥呼は神功皇后であろう。しかし、魏に使いしたのは朝廷の正使ではなく、熊襲の類が女王の名声を使い偽りの私的な使いを出したのだ、としたからだ。

 また、鶴峯は景行天皇の熊襲征伐でも生き残った国が、神功皇后の時代に、姫尊を立てて女王としたのが「卑弥呼」として中国に伝わった、とした。この説は世の学者を靡かせる力があった。

 明治以降も大体において鶴峯説の範疇である。菅政友、吉田東伍、那珂通世、久米邦武それらの著書は全て筑紫の女酋説で、筑後か肥後かなど小差があるだけ。彼らはみな「陸行一月」を「一日」の誤りとしている。鶴峯は「水行十日」を二十日の誤りとしている。

このように史書の記事を軽々しく変更する説には従えない。また、宣長のように、「偽って魏使を受ける」というような説は、児戯に等しくあり得ないことだ。

『魏志』にある「邪馬壹」は「邪馬臺」の誤りであることはいうまでもない。『梁書』・『北史』・『隋書』みな「臺」としている。魏の時代でも「大和」は中国に「邪馬臺」として認識されていた。『魏志』にある「七万戸」の大国は、辺境の筑紫に求めるより、王畿の地に求むべきである。この邪馬臺の地は大和国より広大で、当時の朝廷の直轄領を包括していたと思われる。

結論として、卑弥呼は倭姫命である。】と、このように、邪馬台国大和説と卑弥呼倭姫命説を述べています。


湖南は、九州説を支持する学者たちが、史書の記述を読みかえることについて批判していますが、ご自身の大和説は、「南を東に読み替える」ことで成り立っていることについては無言ですし、邪馬臺は大和と自明のことと強弁しています。それに、七万戸の大国に大和を比定するのは流石に無理と思われたのでしょうか、朝廷の直轄領全体というように弁解しています。まさに湖南が、宣長の「偽って魏使を迎えた」説を「児戯に等しい」と批判しているのは、下世話で言う「目くそ鼻くそを笑う」の類ではないでしょうか?


『宋書』にある「倭の五王」に関係する湖南の発言を見てみますと、そこにも同じく『卑弥呼考』に次ぎの様に、「倭の五王は大和朝廷の王であり卑弥呼の後裔」、という発言が見られます。

【『隋書』及び『北史』には、「倭国は邪摩堆に都す。すなわち『魏志』の邪馬臺という所なり」とある。これは、隋の時には大和を以て邪馬臺とみなした証拠である。東晋より宋、斉、梁の代にわたって倭王讃、珍、済、興、武などが朝貢したという記事が『宋書』・『梁書』にみえるが、これを大和朝廷の正使ではない、辺境の将軍などの私使である、などという説もあるが、その上表文によれば、大和朝廷の名で通交しているのは明白だ。

であるから、梁の代において、大和朝廷の存在は明らかに中国人に知られていたことは勿論だが、『梁書』では当時の倭王を『魏志』がいう倭王の間違いない後裔としている。このように中国の記録から見た邪馬臺国を大和朝廷の所在地に比定する他、異見が出る余地はない。】


この湖南の立論の基本の邪馬臺=ヤマト、つまり臺=トという等式が成り立つのか、もし成り立たなければ、湖南説は根本から成り立たなくなるのですが。また、「倭王武の上表文から大和朝廷が通交していたのは明らか」とされますが、その「通交が明らか」についての説明は全くありません。つまり「自分の判断を信じろ」ということなのでしょうか?


内藤湖南は、『隋書』の「タリシヒコに関する記事について、「日出づる処の天子云々」の国書は聖徳太子が書いたものである、と信じていたとしても、その他の疑問、家族関係・執務態度など全く聖徳太子の伝承に似つかわしくないのですが、中国側が日本の使者の言葉を誤って採録した、ということで済ませていることは、それこそ不思議と思わなかったこと自体が謎と思わざるを得ません。



では、内藤湖南と対比されて東の白鳥庫吉の場合はどうなのでしょうか

②白鳥庫吉 

 略歴 白鳥庫吉は1865年(元治2年)生まれ。1942年(昭和17年)没。千葉県の出身で、一高から東京大学(後の東京帝国大学)に入学し、ドイツからの招聘歴史学者リースに師事する。津田左右吉は弟子。

学習院教授~東京帝大教授を歴任。1914年~1920年は裕仁皇太子の教育係も勤めた。
同時期の歴史学者内藤湖南と、「邪馬台国九州説の白鳥、近畿説の内藤」、「実証主義の内藤、文献主義の白鳥」、とも称せられたという。白鳥の論文には漢語の片仮名表記が多いのも特徴である。


白鳥庫吉は昭和天皇の皇太子時代の教育係でした。庫吉がそのために準備した「教科書」の原稿が、最近庫吉の孫、白鳥芳朗氏(上智大学名誉教授)の手に依ってまとめられ勉誠出版から2015年に出版されています。その『国史』には次のように、『宋書』の「倭の五王」及び『隋書』の「タリシヒコ」の記事について、簡単に述べています。



雄略天皇の頃に任那日本府から宋に使いをしたようなことがあるが、隋との通交が本朝初めてである。厩戸王子が初めてである。国史には当時の書に「東天皇敬白西皇帝」と書かれ、中国の書には「日出処天子致書日没処天子」とあり、わが国は始より対等の礼を以て之と交った。(『国史』より)

以上のように、白鳥庫吉は、宋に雄略天皇が通交したとあるけれど、それは正式の通交でなく、正式に中国の王朝「隋」と通交を始めたのは厩戸王子である、と聖徳太子とせず厩戸王子としています。それ以外は内藤湖南と同様の意見です。


古代史史観で内藤湖南と違っているのは、湖南が「卑弥呼は倭姫命」としているのに対し、白鳥は「卑弥呼は熊襲の女王」としているところです。

白鳥庫吉は、「卑弥呼は大和朝廷外の人物」としている関係でしょうか、昭和天皇の皇太子時代の教科書『国史』には全く「卑弥呼」や「邪馬台国」は出てきません。皇太子からのご質問があったかどうか、興味あるところですが。

白鳥庫吉の卑弥呼と大和朝廷との関係についての説明が『白鳥庫吉全集第二巻』日本上代史の諸問題「三韓征服」にありますので抜粋抄訳して紹介します。


白鳥庫吉は、『後漢書』にある、「倭奴国が朝貢し印綬を受けた、その後、卑弥呼という女王が立った」、という記事について次のように述べます。

九州地方は朝廷の祖先が支配していたところだけれど、この頃には朝廷の威光が薄らいだとみえ、九州地方に大騒乱が生じ熊襲が九州を統一し卑弥呼女王を立てた。
それをその後、崇神天皇が大いに奮励して統一された。

卑弥呼の熊襲は、反大和であるから、当然外国勢の力を借りようと努力した。その結果が『魏志』にある遣使記事である。
国史にいう、熊襲が大和朝廷に服さないのは背面に新羅がいるから、というが、実はその裏の帯方郡というところにあったのではないか。
その後、任那と新羅の紛争に朝廷軍が任那を助けて新羅を討ち、漢の二郡も衰弱していった。その影響で熊襲の勢いも弱まったのである。
国史に、仲哀天皇は海の向こうに新羅という国があることを知らなかった、とあるがこれは間違いである。】

つまり、卑弥呼は熊襲であり大和朝廷とは関係ない、大和朝廷は崇神天皇のころから全国を統治した、としています。

巷間、「文献の白鳥」と目されていたようですが、「実証主義の内藤湖南」同様、こちらも『隋書』記載の「多利思比孤」の記事と『国史』との齟齬について何ら意見を述べていません。ご自分が理解できない問題であり、競争相手の湖南も問題にしていないから、こちらから問題提起する必要もないかな、皇室と無関係と思われるし」というところあたりでしょうか。


参考:
白鳥庫吉『国史』の「推古朝の隋との通交」に見える記事(現代文に直しています〉

【従来我が国が中国の文物から学んだのは、主として百済の媒介によってであり、日本に渡来した漢人なども百済を経由してきた者たちである。
しかるに、推古天皇の時代になり厩戸皇子の考えによって、中国王朝に小野妹子を使節として書を持たせたことにより、両国間の国交がはじまった。この後は百済などを経由することなく、中国から直接その文化を輸入することができるようになった。 雄略天皇のころ、任那府の諸臣が中国に使いを出したことがあったが、わが国の皇室が中国に使節を派遣されたのはこの推古朝に始まった。

隋朝が久しく南北朝に分かれていた中国を統一した時であり、その名は朝鮮半島を通じ遠く我が国にも伝わってきた。その都は長安(今の西安)であった。我が国の使節は百済から海路山東半島に渡り、黄河の流域を西に進み、遠いその都長安に達したものであろう。

向こうからも答礼使が派遣され、妹子とともに来朝した。山は緑で水は澄み、風光明美な瀬戸内海を東に向かって、難波の浦から上陸した中国使節たちは、中国の限りない平原と濁った黄河を思い起こして驚嘆したことは間違いないことであろう。朝廷は飾り船30艘を河口に浮かべて一行を歓迎し、飛鳥の都に入る時には飾り馬75頭を出し、謁見の式では、皇族諸臣は色様々の冠をかぶり綾錦の衣服を着て居並び、彼らに東方にこのような典雅な文化国家があることを感じさせたことであろう。彼らが帰る時には、再び妹子を大使として中国へ行かせ、南淵請安・高向玄理などの留学生および留学僧数人を随行させた。

『日本書紀』には、「東天皇敬白西皇帝」とあり、中国の史書には「日出処天子致書日没処天子」とある。古来中国は東洋における唯一の文明国であり、自らを「華」と誇っていた。付近の諸民族を「夷狄」として賤しみ、周辺諸国も臣属の礼をもって中国の皇帝に対していたが、我が国は初めからその陋習に従わず対等の礼で接していた。

隋朝はこののち数年ならずして滅び、唐朝がそれに代わった。舒明天皇の代になり、使節として犬上御田耜を使節として派遣し、唐もまた答礼使を派遣して来て国交が続くことになった。】

 このように自著『国史』で白鳥庫吉は、隋との通交について述べています。しかし、内藤湖南と口裏を合わせるかのように、俀王多利思北孤に関する『隋書』の記事は、「日出づる処の天子云々」の国書以外については何も話題に取り上げていません。日本の文献に記載のない中国史書の記事は、誤った伝聞によるもの、とされたのでしょうか?

次は木宮泰彦です。

③木宮泰彦 

略歴
1887年(明治20年)生まれ、1969年(昭和44年)没。
静岡県浜松生まれ。東京帝国大学国史科(大正2年)卒。京都帝国大学大学院進学。
大正9年山形高校教授を皮切りに水戸高校・静岡高校教授から昭和22年同校校長(事務取扱)を最後に退官。
静岡女子高等学校(現常葉学園)を創立理事長学長を歴任。
「栄西禅師」「日華文化交流史」「日本印刷文化史」「日本民族と海洋思想」など著書多数。



『日華文化交流史』について

木宮が著した『日華文化交流史』という本は、内藤・白鳥の二人と異なり、中国の史書を、いい加減なわが国の外交使節の言葉を、いい加減な鴻臚寺の役人が聞き取って記録した、というのではなく、それなりの内容がある史書として検討されたものです。

特にこの本は、中国語に翻訳され上海で出版されたので、中国の歴史研究者にはかなり有名のようです。2006年に始まった日中歴史共同研究は2010年にその成果の報告書が外務省から、日中双方の論文の併記という形で発表されました。(2014年に勉誠出版から出版)その日中歴史共同研究でも日中双方の委員が取り上げていました。



肝心のタリシヒコ関係の発言は次のようです。

最初の遣使に名前があるタリシヒコは本居宣長のいうように「西の辺なる者の仕業」であろう。韓土に派遣されていた鎮将などが大陸の情勢を探らせるために使節を派遣したのかもしれない。

姓阿毎、字多利思比孤というのは、天足彦〈アメノタリシヒコ〉であろう。足彦は孝安・景行・成務など歴代の諱に多くあり、ほとんど天皇の異名の如くである。阿輩雞彌とあるのは大君〈オホキミ〉の音を写したものであろう。松下見林の推古天皇の諱御食〈ミケ〉炊屋姫を訛伝したというのは当たらない。】

と、内藤湖南・白鳥庫吉と若干違って、熊襲もしくは朝鮮半島の鎮将派遣説です。ただ二人と違ってタリシヒコは、天足彦であり歴代天皇の一般的な名称であろう、と具体的に述べている点です。


木宮泰彦は、「倭の五王」と「卑弥呼」については次のように述べます。

【『宋書』にある「倭の五王」は大和朝廷の天皇方である。「倭国」とは以前の北九州の倭ではなく、大和朝廷を指している。倭王讃は仁徳天皇で倭王武は雄略天皇であることは広く学者の認めているところである。宋朝から六国諸軍事安東大将軍などの爵号を受けたのは対高句麗政策であったのだろう。

この『宋書』に見えるわが使節の通交は、任那日本府の高官が好き勝手に朝廷の名を冒称してやったのか、朝廷からの命令でやったのか、という問題がある。

本居宣長は『馭戎慨言』で、全く朝廷の関知しないこととしているし、大日本史外国列伝も同様である。しかし新井白石は『殊號事略』で、『宋書』にこれほど詳しく書かれた我が国の記事はない。『日本書紀』などには記載されていないが、三韓の地に置かれた日本府の宰臣が、大和朝廷の命で行ったことがあったと思われる、とある。

これはどちらも理由のあることである。ある時は宰臣が、ある時は朝廷が直接遣使することもあったと解するのが事実に近いと思う。】


つまり、倭の五王達は中国に出先を通じて通交し、いろいろと綬爵した、と言っています。

肝心のタリシヒコは推古女帝以外の天皇といっているだけで、例の「日出づる処の天子云々」の国書は誰が出したのか、についての考察は見えません。(聖徳太子ではない、と言っていませんから通説通り、ということなのでしょうか。)


木宮泰彦は、卑弥呼は北九州の倭国であり大和朝廷とは別国としますが、「倭の五王」段階では、大和朝廷の天皇方とされます。つまり3世紀の卑弥呼の倭国は5世紀の「倭の五王」のときまでに大和に経略された、としその理由を『日華文化交流史』次のように述べています。

魏志に見える我が国との通交については古来歴史家の考証が多いが、この南朝との交渉については歴史家の考証はほとんど見られない。

これは、晋が新たに遼西に起こった鮮卑のために、倭国と中国との通交をふさぎ、また一方では、北九州の倭国が大和朝廷の治下に帰した結果であろう。

鮮卑が起こり中国王朝は朝鮮半島の支配権を失い、高句麗・新羅・百済の三国が支配することになった。

大和朝廷は神武から開化の九代までは畿内中心であり、北九州の倭国とは政治上全く没交渉であったと思われる。

崇神天皇時代のころから勢いは次第に西の方に伸びて、ついには倭国をも併合したものと思われる。それは旧唐書に「日本はもと小国、倭国の地を併合した」とある。ただ、その併合がいつ行われたのか定めにくいことではあるが。

国史(日本書紀)には、北九州の倭国を併合したという痕跡らしい物語をみとめることはできない。

しかし、日韓交通上の要衝の地であるからこの地を治めていなければ、朝鮮半島と直接に政治的関係を築くことができない筈である。大和朝廷は次第次第に倭国を経略したものと思われる。

応神記に良馬が贈られた記事がある百済は高句麗の圧力に抗するために、半島の一角に勢力を樹立した大和朝廷に好を通じておこうとしたものであろう。

神功皇后の新羅征伐は信用しがたいとしても、高句麗の広開土王陵碑の碑文からみても、わが軍が高句麗と交戦したのは間違いない。

我が国の新羅に対する政策は、常に任那におけるわが勢力を維持するためだったのである。

大和朝廷は、まず倭国を経略し、任那を保護するために新羅に圧力を加え、百済はわが方に朝貢するようになったのである。

この結果、百済を通じて我が国はさらに中国南朝とも通交するようになったのである。このことはなぜかわが国史には欠けているが宋書にいくつもの記事が残っている。

この宋書にある「倭国」とは以前の北九州の倭ではなく、大和朝廷を指していることは、中国史書を通読すればあきらかである。】


このように、大和朝廷がどのようにして「倭国」を経略したかは『日本書紀』などには見えないし、綬爵の記事もなぜか欠けている、とし、しかし中国史書を通読すれば、『宋書』のいう倭国は大和朝廷であることは明らか、と書いています。

それが分からないのは、中国の史書の読み方が不足しているのだ。『旧唐書』には、日本はもと小国、倭国を併せた、と書いてあるのだ、と読者の読み方の不十分さの責にしているような文章です。
『旧唐書】の前の時代の前の『隋書』にも、その前の『宋書』にも「日本が倭国を併せた」と書いていないのだから、『隋書』の時代の後に「日本はもと小国、倭国を併せた」事件があったということではないでしょうか。
特に『宋書』には「倭国は、世々朝貢してくる」と書いてあるだけです。3世紀の『魏志』にある倭人国と同じ系列の国が続いているように読めるのですが、木宮の読み取り方は違っていたようです。
朝鮮と通交するためにも、任那に日本府を置いていたのだから、北部九州を抑えておかなければならないのは明らかである。だから、大和朝廷が九州を4世紀までには勢力下に居たのは間違いない、とする論理なのです。

これは、『日本書紀』の任那関係記事を疑わないというところからきているものでしょう。折角、中国との通交を中国の史書の記事を照合しながら論じている木宮ですから、『魏志』にみえる「狗邪韓国」と「任那日本府」との関連の有無にまで目を配れば、違った解釈が導きだされたのではないでしょうか。

 

 ④津田左右吉

以上の三人は東京帝大と京都帝大という官学に関係しているという点では共通点があります。私学の雄、早稲田大学の歴史学の中心に居たのが津田左右吉です。

官学の制約から離れて比較的自由な論考を発表しています。建国についての論評や聖徳太子実在の疑問などから不敬罪にあたると攻撃されたり、著書4冊の発禁処分を受けた。1942年に皇室の尊厳を冒とくしたとして起訴された。(のち時効により免訴)


津田左右吉は、『記・紀』の4世紀以前の記述は、6世紀の朝廷の官員の創作として歴史叙述とするのは間違い、として戦後の日本史をリードしました。

しかし、彼の古代史史観は、かれが師事した白鳥庫吉とほぼ同様の史観です。

津田左右吉は早稲田専門学校の卒業で早稲田大学の教授を長く勤めたのですが、自分は所謂早稲田色の人間ではない。白鳥先生が多忙で書肆の著作の願望をかなえることが出来なかった折に自分が代筆した、とも語っています。

彼の古代史史観と白鳥庫吉との関係を紹介しておきます。

(イ)早稲田と自分、及び白鳥庫吉との関係について

『学究生活五十年』1951年(昭和26年)『思想』319号 より抜粋

【明治23年に早大の前身の東京専門学校に入り1年半ばかりいて卒業したが、特に何を勉強したということもなく、本を読んで、特に上野の図書館でいろいろと読んだ。宣長の『古訓古事記』や『日本書紀』も読んだが、読んだと言うだけで特に内容は記憶にない。白鳥先生とふとした縁で出会いお宅にお邪魔するようになった。先生はまだ大学を出て3,4年位であったが、お願いすると学習院の書物も借り出してくださった。白鳥先生からリース先生の講義の筆記をお借りして通読もさせて頂いた。

先生がある書肆の懇請を断り切れず教科書の編修を引き受けられ、ぼくに一つの仕事をさせようという心づかいか、先生の大体の構想に従って草稿を作り、先生のお宅に伺ってはその検討を乞い、分厚いものが出来上がった。先生の名を恥かしめることになりはしないか、と心配したものである。

先生のお世話に依り満鉄の中に「満韓史」の研究室を作られそこで仕事をし、大正元年ごろ満鉄の都合で打ち切られた。それから早稲田大学で講義をするようになった。
むかし東京専門学校に学生として籍は置いたが、その後は何ら「早稲田」とはそこの教授諸子とも何ら交渉もなく、学校や学問のことからいうと、むしろ帝大の方につながりがあったといえよう。早稲田の講義は1940年(昭和15年)にやめた。(中略)

自分には官学私学という区別はない。早稲田の関係も、早稲田の学問上の特色があったかどうか知らぬが、気にも留めなかった。研究の方法は原典の批判をすることである。しかし、シナのことを言えば漢学者の機嫌にさわり、仏教のことを言えば仏教家から、日本のことを言えば国学者や神道先生から叱られる。自分は自分の研究の帰結が一般のとは異なっただけ。】


次に、津田左右吉の上代史観は次の文章から読み取れると思われます。発表時期は戦後ですが、内容は戦前の状況をよく表していると思われます。日本の建国時には九州の邪馬台国(ヤマト)と近畿の邪馬台国(ヤマト)のせめぎあいがあり、近畿が勝利いたのではないか、という仮説に基づく日本建国略史です。

(ロ)津田左右吉の古代史史観(『建国の事情と万世一系の思想』より)

日本民族の存在が明らかに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。(中略)

日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今のキュウシュウの西北部に当る地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、当時その地方にひろがって来ていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。(中略)

シナの文物をうけ入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。キュウシュウ地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀に世紀をとおして変わることなく行われたが、その間の関係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識がますます多くなると共に、それを得ようとする欲求も強くなり、その欲求の為に船舶を派遣する君主の数も多くなった。鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。

ところが三世紀になると、文化上の関係がさらにふかくなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは付近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬台、今の筑後の山門か)の女王として伝えられているヒミコがそれである。当時、このヤマトの君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。(中略)


(九州地方で得られた知識などは)瀬戸内海の航路によって、早くから近畿地方に伝えられ、一、二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、それにはその地域を領有する政治勢力の存在が伴っていたことが考えられる。そのヤマト(大和)が何時からの存在であり、どうしてうちたてられたのかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう経路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいったような勢力として存在したらしい。(中略)

三世紀にはその領土が次第にひろがって、瀬戸内・・・・(中略) 

しかし三世紀においては、イズモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、九州地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。

けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆され、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところhがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。

この勢いの一歩を進めたのが、四世紀後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによって我が国と半島とに新しい事態が生じた。そうして半島を通じてヤマトの朝廷にとりいれられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、従ってまた一つの国家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。

ただキュウシュウの南半、即ちいわゆるクマソの地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が服属した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの国家の範囲に入っていたことが、推察される。それは即ちほぼ今のカントウからシナノを経てエチゴの中部地方に至るまでである。】(カタカナ使用は原文のまま)


◆津田左右吉のタリシヒコ論は

津田左右吉がタリシヒコについて言及していないのはおかしい、と思ったのですが、なかなか見つからない。図書館の『津田左右吉全集』全集各巻の「索引」ページから「タリシヒコ」について探してみました。『日本古典の研究』と、『天皇考』の二巻に「タリシヒコ」の語をを見ることができました。又、左右吉の中学校用「国史教科書」も読むことが出来ました。結果は関係個所を次に紹介しますが、「タリシヒコ」は中国の史書に出て来るから、当時の天皇(大王)の称号に「タリシヒコ」という語があったのではないか、と推論を述べているだけであった。

a)津田左右吉全集第2巻「日本古典の研究」下 より。
第四篇 応神天皇から後の記紀の記載 第四章 用明紀から天智紀までの書紀の記載

津田左右吉は「用明紀から天智紀までの書紀の記載」の章で、推古紀前後の『日本書紀』を中心に、その記述について、次のように検討を加えている。

【推古朝あたりから法隆寺の仏像の光背銘や道後温泉の碑文などのように、推古期に書かれたものが残っている。ということから、それ以前から文字が用いられていたのは確かだが、だからと言って、用明・崇峻期もそうかと思って書紀を読むとそう簡単には思われない。崇峻期の四天王寺や、法興寺縁起や、推古期の聖徳太子の経の講説や斑鳩寺、薨去の際に高麗僧恵慈の言などは、何れもみな仏家の仮託の説があるらしい。

東山道や東海道、北陸道などとあるが、その道の制度がなかったのは明らかであるし、亦、推古期には出雲「国」、近江「国」等々あるが、「国」がその当時あるはずもなく、対韓問題にも多くの疑問がある。

厩戸王の名前の説話や、「生而能言」「兼知未然」等々。また、国記云々の記事も、「国」が存在していたのか疑問であり、国記というものは、「国」が画一的に地方行政区画の名となった大化改新においてはじめて考えられるものであろう。尚重要なのは、推古12年の憲法十七条に対する疑問である。国司国造が大化改新前にあったはずがない。

以上のように、用明~崇峻~推古期において、事実の記録としては信用し難いもの、疑いを入れるべきものは少なくない。

その間に確かな記事のあるのも事実である。推古11年の冠位の制定、12年の観勒、18年の曇徴の来朝、15・16年の隋との交通、26年の高麗からの報告などである。書紀編纂の時には、隋書が我が国に届いていたことは雄略紀に隋書の記事を使っていることから明らかである。それにもかかわらず、隋との交渉に於いて、隋書を参考にしていない、ということは考うべきことである。

わが国との考証に関する隋書の記載は、本紀と列伝とに所謂朝貢の年について齟齬する点があるが、列伝のは書紀と一致する。しかし、列伝に見える開皇20年のは書紀になく、書紀にある推古22年の遣使は隋書には記してない。開皇の遣使も事実であろうが、それは我が国の史料に記載がなかったのであろう。

隋書に所謂倭王を男性のように記してあることには疑問があるが、これは、此の時の使者が一般的に天皇の尊称を語ったからからのことらしい。タリシヒコが天皇の特殊の称号として公式に定められたものであったかどうか明らかでないが、此のころには一般に用いられていたらしく、オホヤマトタラシヒコ・オホタラシヒコ・ワカタラシヒコ・タラシナカツヒコ、という称号は、此の普通名詞をそのまま固有名詞としたものに違いない。


なお、書紀の記事そのものは事実であっても、それを記している年月は必ずしも信じがたいことを注意しなければならない。書紀の紀年は必ずしも正確でないからである。】(同書105~139頁を抄訳)


津田左右吉は「実証主義者」と言われる。俀国の使者は「紹介状」とか「上表」とか、何らかの書類を持たずに手ぶらで隋都に出かけたのだろうか。三世紀の卑弥呼の国は、伊都で帯方郡との文書のやり取りを一大率に監督させた、とある。当然タリシヒコの使者も「文書」を持参し、そこに国王名が書かれていた筈である。このあたりを考慮しない「タリシヒコは天皇の特殊な称号」説は、その「実証」が不十分に思われる。


(b)津田左右吉全集第3巻「上代史の研究」付録 四 天皇考

わが国の「天皇」という称号は言うまでもなく漢語であって、それにあたる国語すらもない。「スメラミコト」というのが国語での照合であり、隋書の記載によると、「タリシヒコ」という語も称号として用いられたかと思われるが、それらは「天皇」という漢語とは意義の上に何らの関係の無い物である。

いつから「天皇」という称号が使われたのか、記紀に「天皇」という称号の記載があっても、書紀の編者によって書かれたものと推測され、それが当時使われていた称号という証拠にはならない。

ただ、推古期に天皇の称号が用いられたことは、法隆寺金堂の薬師像光背銘に「池邉大宮治天下天皇」とあるからである。推古一六年の「東天皇敬白西皇帝」も文字通りに認めても差し支えないかもしれない。これより前については確実な証跡は何も無い。

この「天皇」の称号は中国でも唐の高宗が「天皇」と称したことはあるが、これは推古天皇の時代よりもずっと後のことである。春秋緯の合議図に「天皇大帝北辰星也」とある。】(以下、天皇という語の起源などについての考察があるが省略)


(c)津田左右吉全集第23巻付録「国史教科書」

全集第23巻の雑録の付録として『国史教科書』がありました。明治35年1月に宝永館というところからの出版とあります。説明に、「中学五年級及びそれに相当する学級の教科書に用う」とありました。内容的には 通説通りで、タリシヒコの語は見えません。その聖徳太子あたりの記述を紹介します。

【聖徳太子は最も佛を信じ、崇峻の崩を前世の業果であるとし、大逆無道の馬子と共に女皇を擁立して朝政をとり、其の憲法に「以 和爲 貴、無 忤爲 宗」と言い、「篤 敬三寳 」と言うなど、上代に比して思想の変遷甚だしきものあり。ただ之と共に韓唐の工藝より、遠くインド・ギリシャ式の美術まで輸入せられ、太子はまた鋭意隋唐の文物を模倣せんと勉めることで、文化はここに長足の進歩を遂げた。そのうえに、「カバネ」のほか新たに冠位を設け、また朝廷の儀礼を制定したことなどは、実に大化改新の前駆となるものであった。】(現代語に抄訳)

定説通りの記述です。津田の実証主義も「教科書」に反映させることは難しかったようです。この『津田左右吉全集』の雑録で「編集子」が、津田が白鳥庫吉の代筆をしたことに触れています。当時は弟子が先生の代筆をすることはそれほど問題視されていなかったようです。次に紹介します。

白鳥庫吉編著の『西洋歴史』(明治30年」・『新撰西洋史』(明治32年)ともに冨山房刊行 をこの雑録に採らなかったことは遺憾であるが、それは同書が明らかに白鳥庫吉氏の名において出版せられたものであること、また、その著述のできた経緯について津田先生みづから『学究生活五十年』の中で触れられてゐられるにも拘わらず、いま当時の実情が必ずしも明確には知りがたいこと、などを考慮したためである。(昭和四〇年七月 津田左右吉全集編集室)】

津田左右吉は、白鳥庫吉直伝の実証主義で歴史研究を行ったのですが、外国史料についての検証にまで進まず、『隋書』と『日本書紀』の記述の齟齬について十分な考察を進めることが出来てなかった、と言えるでしょう。



明治期から敗戦までの「タリシヒコ論」のまとめ

以上の四人の論述をまとめると、内藤湖南は、歴史は国内資料を中心に読む従来の研究方針は間違っている、外国の資料も研究の対象にしなくてはならないと述べています。しかし、同一事件で国内資料と外国資料とが食い違う場合、どうしても国内資料第一で見てしまっています。

白鳥庫吉も、久米邦武の系列の国史論で、卑弥呼の評価が内藤湖南と違っている、というところだけです。この二人は、「タリシヒコ」という『隋書』に出てくる名前も、中国史書のいい加減さ、と見たのか、次の、木宮泰彦や津田左右吉と違って、全く述べていない。

木宮泰彦は 古代の倭国は北九州の倭国としながらも 「倭の五王」は大和朝廷の天皇方であり、時には朝鮮半島の日本府の長官が大和朝廷の意を戴して中国と通交したのだ、としている。タリシヒコの最初の遣使は、宣長がいう「西の辺のもの」の仕業かもしれないが、二回目の遣使は大和朝廷が派遣した遣隋使としている。

津田左右吉は、『記・紀』の神代部分や崇神天皇までの記述は、6世紀の史官の創作として斥ける。五世紀ごろまでにヤマト(近畿)がヤマト(邪馬台)を吸収した。「倭の五王」も大和朝廷の大王としている。用明以降の書紀の記述は、漢字が使用されていたことは、金石文で確かめられるが、書紀の記述が事実なのかは、疑わしいところも多い、と言う。

木宮はタリシヒコは天皇の異名説、津田は天皇の特殊な称号説を述べています。なぜ大和朝廷が筑紫の倭国を経略出来たのか、内藤・白鳥の両者が述べ得ていないところを、木宮はその理由づけを試みています。特に『旧唐書』にある「或云う、日本はもと小国。倭国を併せた」という記事を、その根拠としています。

明治期の論者に共通していることは、邪馬臺国をヤマト国としているところだ。臺を「ト」と読むことに何も疑問を感じない、その思い込みが問題の根源にあるといえましょう。しかも、江戸時代、国学・儒学・宗教家などの影響を受けながらも、九州に大和と別の倭国が存在していたのではないか、という論は、明治後期に入り影をひそめます。

4~5世紀ごろからは、九州地方も大和朝廷の勢力範囲となり、『宋書』にある「倭の五王」や、『隋書』に見える「日出づる処の天子云々」の国書も大和朝廷が出した、という方向になってしまいます。


明治期から第二次世界大戦敗戦までの古代史研究の論争点は、「邪馬台国と卑弥呼女王」を中心に花を咲かせたようです。やはり、明治期の天皇親政システムのもとでは、いろいろな精神的な制約があり、自由闊達な古代史研究・論争は難しかったようです。


この点については、江戸時代に、例えば本居宣長にかみついた、上田秋成〈うえだ・あきなり〉の「日の神論争」(注06参照)のような精神的自由がなくなっていたといえるでしょう。


注06) 日の神論争とは 

江戸時代の朝廷や公家の位階官職や年中行事など伝統的な事柄についての専門的知識、有職故実〈ゆうそくこじつ〉の専門家であった藤貞幹が、古事記などの記事をそのまま実際会ったことと信じるべきではない。例えば神武天皇の即位した年代は、出土品などからみると、六百年ぐらいは繰り下げるのが妥当であろうとする考えを『衝口発』という書物にあらわした。

これに対して、本居宣長たち国学者が反発した。宣長が、藤貞幹の『衝口発』での年代考証が杜撰であることを『鉗狂人〈けんきょうじん〉』という本を書いて指摘した。

『雨月物語』の作者として有名な上田秋成が、藤貞幹の肩を持つ書簡を宣長に出した。その後、何度も書簡が両者の間で往復し、その対談集ともいうべき本『珂刈葭〈かがいか〉』を宣長が出した。これに対して秋成の方も、『往々笑解〈おうおうそうかい〉』という本などで答えた、ということだ。

秋成の基本的な主張は、「宣長は天照大神が世界中の万国を照らすというが、世界地図を見れば、そのようなことはありえないことがわかる」ということだ。



内藤湖南・白鳥庫吉・木宮泰彦・津田左右吉など、明治・大正・昭和初期の古代史の論客が、結局は明治期の種々のクビキにより、意識してか、それとも意識外だったのかわかりませんが、『古事記』・『日本書紀』の記述の範囲内で泳がされ、わずかな違いについて意見を交わし、「夫々の史観」とされ、それぞれの一家を構築されていったように見えます。

そして、第二次世界大戦の敗戦により、一九四六年元旦に昭和天皇の「天皇は現人神ではない」という趣旨の人間宣言がされます。そして、大日本帝国憲法が1947年5月3日に日本国憲法が発布され廃止されます。日本は神国なり、の軛〈くびき〉から解き放され、歴史研究の花が開きます。

津田左右吉も、もう遠慮なく『記・紀』の神話は歴史ではない、6世紀ごろに史官が国の創立物語を創作したのだ、ということを主張できるようになりました。本当に、自由な研究ができるようになったのか、明治の厳しい「くびき」が雲霧消散したのでしょうか。章を改め、第二次大戦敗戦以後のタリシヒコ論を見ていきます。



第三部 敗戦以後の国史研究の中でのタリシヒコの謎解き

そして、太平洋戦争の敗戦により、1946年元旦に昭和天皇の天皇は現人神ではないという趣旨の「人間宣言」がなされ、大日本帝国憲法が1947年5月3日に日本国憲法の発布により廃止されます。

日本は神国なり、の軛〈くびき〉から解き放され、歴史研究の花が開きます。津田左右吉ももう遠慮なく『記・紀』の神話は歴史ではない、6世紀ごろに史官が国の創立物語を創作したのだ、ということを遠慮なく主張できるようになります。

どのように「タリシヒコの謎」が取り扱われるようになったのか、見ていきます。

(以下 第三部に続く)