「短里によって史料批判を行う場合の問題点などについて」 棟上寅七

(この論文は古田史学会報102号に掲載されたものです)

 はじめに

 この一文を草する前に「周代の里についての一考察」という論文を会報に投稿したことから、話を始めなければなりません。

 古代史の勉強については、周回遅れのランナーみたいな小生です。「魏・西晋朝の里単位」について、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』での、「三国志魏志の里は同じ距離75~90㍍で書かれている、ということと、『数理科学』誌で「『周髀算経』に記載の「一寸千里の法」という測量についての記事から、周代では1里=76~77㍍という短い里単位が用いられていた、という谷本茂氏の論文によって、ほぼ解明された、というように思われました。

 しかし、どこかがおかしい。近世では、1メートルを北極から赤道までの子午線弧長の1000万分の一という値から決めたのと同様に、「一寸千里の法」といういわば「公理」によって、周代の基準里の長さが決められた、とみるのは常識的に考えておかしいのではないだろうか。論理が逆立ちしているのではないだろうか。当然「基準里」はその基となる1里=OOO歩というような「歩」(もしくは「尺」)というものが、文献ないし出土品で明らかにされて初めて確定されるものでしょうし、それまでは「76~77㍍」は誤差含みという但し書きが入るべきではないかと思いました。なぜかと言いますと、「一寸千里」の実験には測定の誤差が当然あるはずです。また、影の長さ1尺5寸とかいう場合、1尺5寸4分でも、1尺5寸と表現されるでしょうし、このような有効数字の丸め方にも誤差が生じることでしょう。このようなことから、「周代の里の一考察」という文をまとめて、会報編集部に送るとともに古田先生にも読んでいただきました。

 古田先生から、谷本茂氏を紹介するから読んでいただくように、とご指導をいただき、谷本茂氏からは、再度にわたって詳しく小生の考えの不十分さなどをメールでご指導いただきました。そのやりとりのなかで、里程論についての小生の知識の欠落を知られた古田先生は、里程論についてまとめてある参考書として、『季刊邪馬台国35号』里程論特集号を読むように、とわざわざ書留小包で送ってくださいました。その中には、谷本茂氏の「一寸千里の法」に基づく氏の里程論についての各氏から批判に対する反論で、「誤差」についての谷本氏の考えも詳しく出ていて大いに参考になりました。

 それらを読み込んで、さて最初の「周代の基準里」の長さとは、という問題について改めてまとめて、先に会報編集部へ提出した一文は破棄していただき、再提出することにしました。結論は、【最近の多元史観の論文でも「短里=76~77㍍」というのが、あたかも真値のごとく取り扱われていますが、周代の基準里の長さを証明する文献なり考古学出土品などの探索は、まだ続けられなければならないのではないか。史料批判に当たっては、1里=76~77㍍という値は、もっと幅のありうる値である立場で論ずるべきではないか。】という常識的なものです。「そんなことは言われなくてもわかっている」と古田史学の会の諸兄姉からご叱正を受けることと思いますが、周回遅れのランナーですのでご寛容のほどをと、まず最初にお願いしておきます。



 疑問に思うこと

 「一寸千里の法」から得られた「里」の値、76~77㍍が、果たして真の「里」の値か?という問題の整理に頭をイタメています。そういう問題意識で、古田先生の里程についての発言を追っていきますと、魏・西晋朝の1里=76~77㍍という値で、古田先生も論を進められていらっしゃるようです。また、古田史学の会の諸氏も、それに疑いを示さずに、その上に乗った論を展開されているようです。

 それでよいのかなあ、谷本茂氏も、この76~77㍍という値は、誤差含みの値であり真値とは仰っていませんのに、という思いです。秦・漢代の長里の五分の一程度の短里が魏・西晋朝では、周代の古制に復帰ということで、使われていた、というところまでしか現在の段階では断定はできないのではないのかなあ、という思いでこの一文を草しました。

 なぜこのような疑問が頭から離れないのか。「一寸千里の法」という古代中国の測量公理が導き出された、とされる実地実験の精度が果たして信頼できるのか、ということのようです。具体的にもう少し、自分の頭の中を整理してみます。まず、周代の1里は300歩であった、というところまでは、理解できます。不二井伸平さんの『なかった6号DVD』所収の「短里」と「長里」というタイトルの労作に感謝します。

 ここでは「歩」と「尺」の関係は一応置いておいて、「歩」の長さが周代には、「周歩」として定められたことは疑いないことでしょう。この「周歩」が果たして現在の何センチに相当するか、がわかれば全て解決するわけです。

 いろいろな文献(『季刊邪馬台国35号』「里程論特集」にまとめてあります)にも、周代の文献や考古学的出土品についての確かな情報はないようです。周の次の王朝、秦始皇帝の焚書令が、前の王朝の度量衡制度の記録の完全抹殺に成功したのでしょうか?

 ともかく、「周歩」という基準尺が存在して、1「周里」の長さが決められていたのでしょう。その「周里」を基にして、「一寸千里の法」のもととなった、いわば実験が行われた。その実験の具体的な数値などは、『周髀算経』に残っていて、谷本茂氏が詳しく『数理科学』誌で1978年3月号に発表されています。それは、古田先生が『邪馬一国の証明』の「解説にかえて」で谷本論文を紹介されています。したがって古田史学の会の会員の方々には常識でしょうから「一寸千里の法」についての詳細説明は省く事にします。

 しかし、私が不審に思ったのは、基準点から南北それぞれ千里(約80粁)という長距離の地点を設定する測量作業の精度はどれくらいのものであったか、というところでした。それに派生していろいろ疑問が出てきました。千里という離れた二点の日影の差が「丁度1寸」という値であった、ということは、信じられないくらいの僥倖ではないか。1尺6寸という測定値には、1尺5寸6分~1尺6寸4分という範囲が含まれていることでしょう。これだけで±2.5%の誤差を含むことになります。 (しかし、これくらいの誤差があっても大きな測量をする場合の「公理」とするのには差支えないとは思います)



 唐代の南宮説の「一寸千里の法」の実験

 また、中国科学史について著書が多い薮内清氏の著書の中に、「一寸千里の法」の唐代の実験について書かれていることに気付きました。(薮内清氏 元京都大学人文科学研究所教授『中国古代の科学』講談社学術文庫2004年刊参照)。

 唐代に、南宮説という天文学者により、大掛かりな測地実験が行われています。『資治通鑑』第212巻 唐紀28 に次のように記されています。

 壬子,命太史監南宮説等於河南、北平地測日?及極星,夏至日中立八尺之表,同時候之。 (壬子、河南、北平の地にて、日時計と極星を測定するよう、太史監南宮説等へ命じた。夏至の日中に八尺の標柱を立てて同時に測定するのである。)

 その結果は日影2寸で526里270歩であったといいます。この結果からすると、1寸当りはその二分の一であり、唐代の1里=440㍍、および360歩=1里を用いると、寸あたりの距離は、263.375里=115885㍍です。8世紀のころよくも200粁以上の測地ができたものだ、と感心します。

 この結果は、1里=116㍍となります。 この結果を当時の唐の人たちは、1寸千里などでたらめと斥けてしまったようです。しかし、これは、周代の短い里についての概念が、唐代では既に失われていたことによる結果でしょう。実験データだけを見れば、「一寸千里の法」による1里は、唐代の里より四分の一ほどの短い里であった、ということを示していたのです。

 この場合の、谷本茂氏の解析との差が生じた原因はなにか、一つには200km以上に及ぶ距離測定の誤差がまず、推定されますが、それにしては大きすぎます。谷本茂氏は、前述の『数理科学』での論文発表の10年ほどのちに、『季刊邪馬台国35号』に論文「『周髀算経』の里単位について」を掲載されています。

 『数理科学』での論文発表後のいろんな方からの批判に対しての反論で、「誤差」についても述べています。その中に、篠原俊次さんという方の、子午線上の日影長さの変化(500%くらいの誤差が生じると主張)について、せいぜい30パーセント程度くらいと述べられています。天文学の分野にまではとても私の頭はついていけませんが、周代の日影と唐代の日影には、その長さに変化がある、ということをおぼろげにわかり、長年月の経過が、唐代の実験結果に影響があった可能性もあるのかなあ、と思いました。


 『説文』の「丈」の説明の検討

ついでにネットで調べていて、「丈」の説明で、「周代は、1尺は8寸であった」、という記述にぶつかりました。それは、【小学館日本大百科全書 「丈」の説明 『説文』によれば「丈丈夫也、周以八寸為尺、十尺為丈、人長八尺故曰丈夫」とあり、周は寸(後漢の尺で実長約6寸)を1尺とした。】という記事です。

 これがもし正しいとすると、一寸千里の法の解析の結果が変わってきます。谷本さんは10寸=1尺として計算されています。『説文』に従って計算をやり直してみますと、1寸が1.125倍になるわけです。

 このことについて、谷本茂氏にこの計算結果などをお送りしましたら、谷本茂氏から丁寧に教えていただきました。

 【まず、「1尺=8寸」説は『周髀算経』の該当部分では妥当ではありません。影長:1尺6寸距離:16000里(夏至)  影長:1丈3尺5寸=距離:135000里(冬至)  竹空長:8尺=80寸(「日髀の率」の計算)  となっていて、明らかに1尺=10寸の制です。疑問の余地はありません。従って、「1尺=8寸」説は史料事実に反します。また、『説文』の文面も古来解釈の分かれている部分で、『小学館日本大百科全書』の説明は一解釈ではありますが、それで確定している訳ではありません。勿論「1尺=8寸」を仮説として採用して検討することは構いませんが、該当文献の史料事実に反するとすれば、根拠の乏しい仮説であり、『周髀算経』(上巻)の史料批判には採用できないと判断すべきです。】

 これは谷本茂氏の説明が理に叶っていると思われます。


「一寸千里の法」を設定する実験の精度及び誤差について

 重ねて小生が、【行われたのは、『周髀算経』の記事からみると事実かもしれませんが、その値の測定が真実の値を得ることができたか、ということが、小生の納得がいかないところです。素人考えながら誤差について、いろいろな誤差が生じる要因を含んで得られたデータで、正しい答えが出るのでしょうか? 得られた値はかなりの幅がある値になるのではないでしょうか、というのが小生の疑問点なのです。】とお聞きしました。

 それに対して、 谷本茂氏は自分の論文、『季刊邪馬台国35号』を読んでもらうとわかるように、それには「+5~+10%程度の誤差がありうる」ことも書いている、ということでした。それに加えて、里程論を進めるのに、仮定は結構だが生産的な論議になるように、というご指導もありました。

 小生の中で何が問題なのか、再度おのれに問うてみました。得た答えは、【「周里の長さ」についてしっかりとした土台が完全でないのに、「短里は76~77mでもう完全だ」、その上に立って、文献の史料批判などをやっても問題ない、というまでには至っていないのではないか】、ということでした。

 古田先生も、『古代史の「ゆがみ」を正す』のなかでの谷本茂氏との対談で、【『「邪馬台国」はなかった』の時には75~90㍍と考えていたが、76~77㍍という値で現在は考えている】というようなことをおっしゃっています。

 先生は単に、里程だけからでなく、総合的に判断されてのことだとは思いますが、不弥国は姪浜あたり、邪馬壱国は室見川流域吉武高木遺跡あたりが浮かびあがる、というような話をされています。また、不二井伸平氏も『なかった6号』での論文の中で、「1里76~77㍍の実測値」という前提で論を進められています。(後述)

 やはり、まだ今の段階では、そこまで進めていいのだろうか、「少なくともある程度の誤差がある数字だけれども」という但し書き付きで論議を進めなければならないのではないか、と思います。古田先生からは、「君の話は人の説にケチばかり付け、楽しい論議にならない」とおしかりを受けると思いますが。

 しかし、谷本茂氏が、この値を述べる場合には必ず「誤差がある値」ということをおっしゃって、古代の里・歩・尺などの文献研究を進めなければならない、と付言されていることを強調したいと思います。

a) 『数理科学』で発表された論文は、おおよそのところは、『邪馬一国の証明』の「解説にかえて」の文章と変わりません。しかし、結びの近くに次のように谷本さんは述べられていることに気づきました。(この論文は実物を見れずに困っていましたら、国立天文台の蔵書にあると知人がコピーを取ってくれて助かりました)

 【(III)東洋古代史の分野で、古田武彦氏により、「魏晋(西晋)朝短里」という概念が提出されている。それによると、1(短)里は 75~90㍍であり、しかも 75mに近い数値であるという。またその名称が示すように、魏から西晋にかけての文献の中に見出されるという限定性をもつ。本稿で得た、1里約 76~77㍍の数値と周髀算経の成立時期を考え合わせれば、これらは単なる偶然の一致としてすませることはできない。東洋の度量衡単位の変遷については未だ明らかでない点も多い。それらを解明する研究の一つとして、この短い里単位について検討が必要である。】(p56)と結ばれているとことです。(アンダーラインは小生)

b)季刊邪馬台国35号』「『周髀算経』の里単位について」 【筆者は『周髀算経』の記事が正しいものと仮定すれば、簡単な三角関数の計算により、一里=約76~77㍍という値が得られることを示した。もちろん測定誤差などを考慮すると、有効数字としての値は、慎重な処理が必要であろう。地球が完全に球形でないことによる影響、空気の屈折率の差の光路への影響などの計算上の補正(ただしこれらは、ごくわずかである)があり、また、実際問題として、髀の鉛直度(傾き)、測影面の水平度、半影本影の見きわめ、測長尺の精度、地上距離千里の測り方、子午線と地表距離のズレ等々、いろんな誤差要因が考えられる。そのおのおのが、どれくらいの誤差を生じるかは、仮定のとり方によって、多数の考えができる。あえて、『 周髀算経』の記事が正しいものと仮定して計算した結果であるからこそ、「検討が必要な」仮説(「一寸千里」の里単位が、通常の里ではなく、別種の短い里として理解する視点)として提示した次第である。(p187~188)(アンダーラインは小生)

c)同じく(p190)で、【篠原氏の『周髀算経』の記事で、「冬至と夏至の日影値に整合性がないので観測値が不正確」ということへ反論されている。詳細は同書にゆずるが、かりに「表1」(篠原氏の提示した各年代における夏至および冬至の日影長の測定誤差のグラフ)に示された影長が正しいとして測定誤差を計算してみよう。(中略)つまり影長誤差は5~10㌫程度であり、いずれもプラス側(長めに計測している)となっている。これから、測定系の系統的誤差が一定率存在したとみなせば「大きな誤差」も科学的に解釈できうるのである。けっして、篠原氏の解釈が唯一の正しい解釈とはいえない。(ここでは、解釈の一方法を示したまでで、このような系統的誤差が存在したのだと積極的に主張したいわけではないので、念のために一言する。)】(アンダーラインは小生)

d)また、(p191)では、【拙考は、『周髀算経』の測定値が現代天文学のレベルで求められるような正確な値であると主張するつもりは毛頭なく、先述のごとく、測定誤差をいろいろ議論すると収拾がつかなくなるので、仮に「正しい」としたら計算結果はこうなると示したまでであり他意はない。】と述べられています。(アンダーラインは小生)

e)『古代の「ゆがみ」を正す』“III 東アジアの古代文献を「短里」で読む「短里」仮説の措定「一寸千里の法」の里単位 の説明より(p101~102)

【さて、南北に各々千里離れた三地点で夏至の日の影長がわかっているのであるから、三角法の簡単な計算により、観測地点は北緯35度付近であり、』一里は約七六~七七メートルと知ることができる。つまり「一短里=約八〇メートル弱」が得られた。この結果は、影長が観測事実にもとづくと考え、測定誤差がないと仮定した上での計算値である。したがって、有効数字は慎重に扱わなければならないにしても、通説の周代一里=約四〇五メートルとは明らかに異なる里単位である。】(アンダーラインは小生)

f)また、<補論>で計測誤差の評価方法について、一項を設けて説明されています。(p151~152)これは『季刊邪馬台国35号での篠原俊次氏への反論(先述)とほぼ同様のものです。

【篠原氏が採用されたデータをもとに筆者が影長観測地点間の実距離と誤差を示すグラフを描いたところ、八世紀以前の古代のデータにおいては、南北距離と誤差との間に相関があることがわかったのである。つまり、南北距離が長いと誤差も大きい。このような相関を想定した場合は、一里が約四〇〇㍍としても、(千里=四〇〇粁であるから)せいぜい一〇〇パーセント程度の誤差、もし一里が八〇㍍とすると(千里=八〇粁であるから)誤差は三〇パーセント程度が「自然」とみなしうることになり、逆に五〇〇パーセントの誤差は「不自然」ということになろう。】(アンダーラインは小生)

 これらの引用文に見られるように、谷本茂氏は「一寸千里の法」から得られた値、1里=76~77㍍はあくまでも、『周髀算経』の記事通りに実験が行われて観測値が正しい、とした場合の値であり、当然「誤差」は考慮されなければならない、と繰り返しおっしゃっています。


まとめ

 今回、いろいろとこの一文を草する過程で、古田先生、谷本茂氏から直接いろいろと懇切丁寧に「里程論」について、ご教授いただきました。

 しかし、やはり短里76~77㍍という値が、古田史学の会の中で「定説」化しているようで、そこが気になります。今回、そのような問題意識を持って、古田先生はじめ里程論についての論文を改めて読んでみました。

会報51号では、西村秀己氏が「盤古の二倍年暦」の中で短里について言及されています。

主に「丈」という単位が周代と後代では異なっていた、と論じています。盤古の伝説の数字九万里という、通説では計算が合わないが、二倍年暦と短里1里=76㍍を採用した場合ほぼ九万里という値が得られて、伝説の話の中の数字がでたらめでないことがわかる、とされます。

 この場合も、もし、九万里という数字が正確だとすれば、西村さんの数式を使って逆算すると、1里は79.1㍍となります。これも、盤古伝説の一日一丈伸長する盤古の高さが一万八千年後に九万里となったことを、いわば「公理」とした場合であり、公理的解答とはいえないでしょうが、論理としては「盤古伝説を、二倍年紀を考慮して、そこから得られる1丈から換算すると、1里は80㍍弱であった。谷本氏が『周髀算経』から解析された約80㍍弱の値と不思議にも一致した」ということになるのではないでしょうか。それこそピッタシカンカンの値を得られたのに、一寸千里の法からの計算値、1里=76~77㍍引きずられる逆立ちの論述になっているように思われます。

 古田先生の『中国古代里単位之史料批判』(中国語訳)も、1里=76~77㍍とされていますが、誤差含み数字であるのことには全く触れられていません。<補論>みたいな形ででも、触れておいた方が正確だと思うのですが。

 『なかった6号』には、不二井論文【「短歩」と「長歩」という優れた里程論があります。特に、なぜ1里=300歩という半端な数字が基準になったのか、同じ「歩」という表現単位に「静歩」と「動歩」という二種類の「歩」があったのではないか、という仮説からとかれる仮説は傾聴に値すると思います。しかし、下記の論文抜粋に見られるように、細部において、例えば、1里は76~77㍍の実測値と表現されています。76.5㍍÷300歩=25.5センチ/歩として論が進みます。

 歩測靴というユニークな仮説もなるほどと思わせるのですが、25.5センチの歩測靴が博物館にそれと知られず展示されているのではないか、というのは、論が逆立ちしているのではないか、と思われます。歩測靴と思われるものがもしあったとすれば、そのサイズの300倍を1「周里」とすべきではないかと愚考します。

 その記事は、不二井論文の半ばあたり次のように書かれています。 【「一寸千里の法」のとき、谷本茂氏の実測値からの計算では、南へ千里、北へ千里が76.9kmと76.3km。0.6kmの違いしかない。従って約25.5cmの長さの「静歩」を普遍単位として採用したとみたい。「静歩」約25.5cmなら千里で76.5kmとなる。こんなことを仮定してみた。「静歩」を測るための専用の靴が存在したのではないかと。歩測のための靴だ。古代の中国に「歩測靴」が存在していたのではないか。約25.5cmの靴が。中国の博物館等で調査すれば存在するのではないか。歩測の為の靴と認識されないまま展示されている「歩測靴」があるのではないか。裸足と履足の考えをいれなければならないが静歩の一歩が尺と同じ長さと見た、あるいは採用した「静歩」の一歩を尺とした。】(DVD記載の論文は頁数などがないので、参照頁などが記載できない不便さがあります)

 この論文には上記のように、「歩」=「尺」というよにもとれる表現もあります。しかし、魏代のものさしの出土品では、1尺は24.12センチだったそうです。(『季刊邪馬台国35号』p19)そうすると、1里=300歩=300尺 とすれば、魏代の1里は72.4㍍となるのですが、不二井氏はそこまでは踏み込んでいません。

 小生は、別に為にするために、イチャモンをつけているわけではありません。魏志倭人伝の行路記事によれば、1里が75㍍程度ならば、『「邪馬台国」はなかった』で、古田先生が述べられているように、邪馬壱国は室見川流域、90㍍なら御笠川流域あたりになるわけです。

 まだ、1里が75㍍と決めるには尚早、いずれとも決め難いのではないか、というようなことを古田先生に申し上げましたら、「里程論」をもっと勉強してから物をいったらどうか、と『季刊邪馬台国』なども貸して頂いたり、読むべき資料もいろいろと教えてくださいました。谷本茂氏は、自分は+5~+10%位の誤差はあるだろうと思う、ともおっしゃいます。つまり、76~77㍍×(1.05~1.10)=80~85㍍、80㍍強という形容になってもよい値となります。

 前述のように、最近の多元史観の論文でも「1里=76~77㍍」というのが、あたかも真値のごとく取り扱われています。足元をもっと強固に固めるためにも、周代の基準里の長さを証明する文献なり考古学出土品などの探索を続けられなければならないと思います。確たる値が得られるまでは、史料批判に当たっては、1里=76~77㍍という値はあくまでも「一寸千里の法」から導かれた、もっと幅のある値であり、真値とは違うという立場で論ずるべきではないか、という、まあ、当たり前のことが小生の言いたいことなのです。

                  以上  2010・10.27


参考資料など

『「邪馬台国」はなかった』 古田武彦 ミネルヴァ書房 2010年1月
『邪馬一国の証明』 古田武彦 角川文庫版 1980年10月
『理数科学』誌 谷本茂「周髀算経之事」1978年3月号 
『季刊邪馬台国35号』「『周髀算経』の里単位について」1988年春号
『中国古代の科学』 薮内 清 講談社学術文庫 2004年4月
『古田史学会会報51号』「盤古の二倍年暦」 西村秀己  2002.8.08
『なかった6号』【「短里」と「長里」】不二井伸平 ミネルヴァ社 2009年7月
『古代史の「ゆがみ」を正す』 古田武彦・谷本茂共著 新泉社1994年4月


追記
今回の論文を書くに当たって、古田先生および谷本茂氏から懇切丁寧なごし教導を受けました。古田先生からは『季刊邪馬台国35号』を貸してあげるからよく勉強しなさいと、わざわざ書留で送って下さったり、谷本茂氏からの2度にわたるご指導メールの内容については、公表してもよい、とのご承諾もいただきましたが、概ね本論の中に引用した論文に表れていますので、省略いたし小生のみの宝物にすることにしました。

古田先生のご教導にも関わらず、先生の著作の中の記述をも批判するようなものに仕上がってしまいました。周回遅れでなかなか追っ付けない、不肖の弟子の理解不足のせいと、ご寛容下さることを願っています。

今度この文章を書くのに、DVDに載せられている不二井論文を参照させていただきましたが、折角の労作もDVDだと引用などに苦労します。(DVDからWORDファイルにする作業は結構手間がかかりました。)できれば会報に掲載しておいていただくと、検索もしやすく、折角の労作もなお生きるのではないか、など思いましたことを付言します。