多利思北孤が聖徳太子ではありえない 九州年号から証する
副題:「聖徳」を九州王朝に取り戻したい 中村通敏 2022.11.12 古田武彦記念古代史セミナー にて発表内容
序章 隋書と多利思北孤の謎
◆はじめに
本報告は“「多利思北孤」が「聖徳太子」でありえない。九州年号から証したい。”という視点からまとめてみたものである。論考をまとめている経過で「聖徳」を九州王朝に取り戻したい、という思いを強くし、副題とした。
その要旨は【百済の救援戦に敗れた九州王朝は、大和王朝側に吸収合併された。結果、大和王朝は、その業績・財産 ―「聖徳」・「憲法」・「釈迦三尊像」など― を取り上げ自家のものとしたこと】を、諸種の傍証から証したい、ということにある
古田武彦が提出した「古代に九州王朝が存在した」ということが、各種の傍証が提出されているにも関わらず、世の認証を得るにいたっていない。「九州年号」の検討から、その傍証の一つに加えることができないか という面からのアプローチの報告である。
まず、この時代の中国側の記録『隋書』と日本側の記録『日本書紀』との間の食い違いなどについて簡単におさらいをしておきたい。
◆『隋書』の謎
『隋書』の記事には多くの謎が日本国民にとって存在する。
主なものを列挙してみる。
01)『多利思北孤』とあるのに「タリシホッコ」では日本人の名ではないとして「北」を「比」の誤写として「タリシヒコ」と理解されていること。
02)そのタリシヒコの国の名が「倭国」でなく「俀〈タイ〉国」とされていること。
03)タリシヒコには「雞彌」という妻がいること。つまり男性であること。
04)タリシヒコの太子の名「リカミカフリ」も理解しがたいこと。
05)タリシヒコの国は兄弟執政のようだが弟の名は見えないこと。
06)タリシヒコの国は、『隋書』によれば六〇〇年の時点で、冠位が定まっていること。
07)統治組織「軍尼」「伊尼冀」などは日本の記録に見えないこと。
08)タリシヒコの国の自然の描写が阿蘇のみであること。
09)遣使に係わった人物の名前が『隋書』と『日本書紀』とでは異なること。
10)『隋書』では「之の後、遂に絶つ」という記事で終わっているが、我が国との国交は『日本書紀』によれば、依然として続いていること。
これらの謎の内、今回のテーマ「タリシホコは誰だったのか」の謎に挑んだ人々の説を調べた中から挙げる。
◆タリシヒコの謎に挑んだ人たち
著者 『書名』 タリシヒコは誰?についての意見
魏 徴 『隋書』俀国の姓阿毎、字多利思北孤、阿輩雞彌と号する者の使者が来た。
舎人親王『日本書紀』推古天皇が小野妹子を派遣し、帰りに裴世清を案内してきた。
北畠親房『神皇正統記』聖徳太子が「東の国王云々」の国書を隋に出した。
松下見林『異称日本伝』タリシヒコは舒明天皇の諱「おきなかたらしひろぬか」の誤伝。
本居宣長『馭戎慨言』タリシヒコは西の辺境の豪族・二回目の遣使以降は大和朝廷の遣使。
鶴峯戊申『襲国偽僭考』九州の襲国が中国に朝貢した・襲国は年号を持っていた。
近藤茂樹『征韓起源』熊襲が天足彦と名乗った・国書は聖徳太子が出したもの。
内藤湖南『卑弥呼考』日出処天子の国書は聖徳太子が出した・その語気から察しられる。
白鳥庫吉『国史』国書は厩戸王子が出した。
木宮善彦『中日交通史』熊襲が天足彦と名乗った・日出る処云々の国書は聖徳太子が出書。
津田左右吉『日本古典の研究』推古天皇か・タリシヒコは天皇の当時の称号ではないか。
石母田正『古代国家の成立』タリシヒコは大王の称号・外交には国書は必要であった。
井上光貞『飛鳥の朝廷』アメタラシヒコは称号・推古は女性だが称号だからかまわない。
家永三郎『検定不合格の日本史』タリシヒコは聖徳太子。
長沼賢海『大宰府と邪馬台』聖徳太子がタリシヒコと名乗った。
石原道博『訳註魏志倭人伝他』タリシヒコは天皇の一般的称号。
古田武彦『失われた九州王朝』天の足りし矛は国書の自署名・俀〈大委〉国の天子。
安本美典『虚妄の九州王朝』タリシヒコは日本の史書に出ていないので特定できない。
坂本太郎『聖徳太子』以前は推古天皇かと思っていたが、後年は本居宣長の熊襲説に変節。
大山誠一『聖徳太子と日本人』タリシヒコは当時の大王蘇我馬子。
大津透『天皇の歴史01』倭王の称号「アメタラシヒコ」から誤記された。推古天皇。
王 勇『中日歴史共同研究』当時の実質的な倭王は聖徳太子。
川本芳昭『中日歴史共同研究』タリシヒコは大和朝廷の大王。
竹田恒泰『旧皇族が語る日本史』中国の冊封制度から離れて以後は姓をもたない。
直木孝次郎『日本の歴史2』タリシヒコは聖徳太子
西嶋定生『東アジア論集第3巻』タリシヒコは推古天皇
吉田孝『日本誕生』使者の言葉「アメタラシヒコ」から隋がアメ・タリシヒコと誤記した。
上田正昭『歴史と人物』国書は小野妹子が持参とするがタリシヒコについて言及なし。
熊谷公男『大王から天皇へ』推古・厩戸・馬子の共治体制であった、特定できず。
小和田哲男『日本の歴史がわかる本』聖徳太子が代理で隋と対応した
武蔵義弘『抹殺された倭の五王』タリシヒコは彦人皇子、弟厩戸皇子と兄弟執政。
松本清張『清張通史』タリシヒコは蘇我馬子。
関裕二『聖徳太子は蘇我馬子である』タリシヒコは蘇我馬子。
内倉武久『太宰府は日本の首都だった』隋書には「タリシヒ(ホ)コ」と書いている。
兼川晋『百済王統と日本の古代』俀国のタリシヒコは姓〈かばね〉である。
荒金卓也『九州古代王朝の謎』タリシヒコは肥後に都を置いていた倭国王。
大芝英雄『豊前王朝』九州王朝は、太宰府の兄王朝と豊前の弟王朝。
高橋通『倭国通史』九州王朝の推古が大和に遷都・九州の俀国の使いに小野妹子が随行。
石川晶康『石川日本史B講義の実況中継』詳しくは不明。当時の支配者は推古天皇だが。
◆「タリシヒコ」は誰かを整理する。
①タリシヒコは推古天皇であった。 坂本太郎(若年時)・井上光貞・吉田孝など多数。
②タリシヒコは聖徳太子であった。 上田正昭・直木孝次郎・黒岩重吾・関裕二・扶桑社教科書など多数。
③タリシヒコは上記以外の者であった。 大山誠一(蘇我馬子)・小林久三(彦人皇子)・武蔵義弘(彦人皇子)
④タリシヒコは一般名詞であり特定できない。 大津透・小島毅・兼川晋・岩波文庫(石原道博)・山川教科書など。
⑤タリシヒコは日本の史書に出ていないので特定できない。安本美典。
⑥タリシヒコは大和朝廷とは関係ない豪族の王であった。太安万侶、舎人親王、本居宣長・古田武彦・坂本太郎(老年時)など。
⑦タリシヒコ自体を重要視していない。北畠親房・石母田正・家永三郎教科書・熊谷公男など。
⑧タリシヒコの教科書の説明では謎が残る。石川晶康。
◆七世紀初めのころの中国との交流記録について
『隋書』に記載のある、中国側から使者裵世清について、それらに関する記事も『日本書紀』には書かれてる。従って、この推古朝の時期の日中の交流は、中国の史書と日本の史書双方に記載があるので、双方の史書、『隋書』と『日本書紀』との記述を比較してみる。
[表1]隋と我が国の交流記事比較表
六〇〇年(推古八) 俀〈たい〉国タリシホコ王隋朝に遣使 『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし。
六〇七年(大業三) タリシホコ「日出づる処の天子」の国書持参の遣使 『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし。
六〇七年(推古一五)小野妹子を中国に派遣 『日本書紀』にあるが『隋書』には記事なし。
六〇八年(大業四) 中国が使者裴世清を派遣 『隋書』によると、裴世清はタリシホコと面談している。
『日本書紀』によると、裴世清が「皇帝倭皇に問う」の国書を届ける。推古天皇は面会していない。
六〇八年の のち 『隋書』に「遂に絶つ」の記事が出ている。 『日本書紀』には関係する記事なし。
六一〇年(大業六) 『隋書』に倭国朝貢(俀国ではない)とある。 『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし。
六一四年(推古二二) 『日本書紀』に 推古天皇犬上御田鋤を大唐に派遣 『隋書』に記事なし。
六一八年 隋の滅亡(唐の建国) 『日本書紀』に記載なし
この一覧を見れば多利思北孤は誰なのか、ということが基本的問題ということが理解できるであろう。
また、『日本書紀』には「遣隋使」という言葉も、「隋国」という中国の王朝名も出てこないことも不思議である。推古16年に中国から裵世清が使者として来たことは『日本書紀』にある。しかし、『日本書紀』には、小野妹子が帰国し、「大唐の使 裴世清」と伴ってきた、とあって「隋国」とは書いていない。
しかし、推古26年のところには「新羅が隋の煬帝を打ち破った時に得た方物をもって朝貢してきた」、というところで一度だけ「隋」が出てはいる。
このように、『日本書紀』をいくら読み返しても「タリシヒコの謎」は古来解けていない。古田武彦が、1971年以来「日本列島の古代は、複数の政治勢力が存在していた」と内外の史書を多数引用して、多方面から多数の著作で論じているが、まだ世の中では少数派である。
現状では、論証は出来ても実証と言えるものがないのであるが、この古代史セミナーで少しでも「多利思北孤は誰?」の謎解きが少しでも前進することを願っている。
◆今回の手順
(a)まず、タリシヒコは「聖徳太子」説が主流になっている現状から、その「聖徳太子」自体が存在していなかった、という説を精力的に主張している大山誠一の著作から、その主張のあらましを紹介する。その主張の中の疑問点などについても述べたい。
特に「聖徳太子」が大いにかかわる「法隆寺」の事跡を中心にして、今回のタリシヒコ論を進める。大山誠一は「自分の説は多くの古代史研究者から支持されている。美術史関係者からは飛鳥美術との関係からの反論はあるが」と述べている。
(b)そこで次に美術史家方面からの「実在した聖徳太子」論をあげて検討する。田中英道『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所2004が真っ向から「聖徳太子非実在」はあり得ないと批判しているので、その概要について紹介する。
著者は1942年生まれで大山誠一とほぼ同年代であり、東大文学部仏文科卒である。著者には日本におけるヨーロッパ美術史研究について多数の著作もあり、元東北大学大学院教授である。単に「美術史」方面からではなく、木材伐採年代を木材年輪法による反論も行っている。「木材の伐採年」から展開する法隆寺創建論についての疑問点についても述べたい。
(c)次いで、大山誠一が全く言及しない古田武彦の多元史観からの聖徳太子論について、大下隆司・山浦純共著『「日出処の天子」は誰か』についての論述を紹介したい。
太宰府の観世音寺に現存する「碾磑」〈てんがい〉」と称される巨大な石臼などの検討から古田武彦の観世音寺の法隆寺移設論を補強している。
(d)法隆寺の再建説に古代の木造建築の研究から、聖徳太子と密接な関係がある「法隆寺」は「若草伽藍」消失の後に現在地に再建されたとする米田良三『法隆寺は太宰府から移築された』について概要を紹介する。
それは太宰府の観世音寺を解体移築したものであり、現在釈迦三尊像として法隆寺金堂に安置されている仏像も、また五重塔も同時に移築されたものである、と主張している。
(e)法隆寺と密接な関係のある「聖徳太子」について、古代逸年号の研究についての研究の現状を総括する。古代逸年号「聖徳」と「聖徳太子」との関係有無について考察する。
(f)特に『二中歴』を検討し、この「年代歴」は大和王朝がタリシホコ王朝の「聖徳」を取り上げた「証拠」であることを報告する。
以上の検討結果から、『隋書』に見える「多利思北孤」は北部九州を拠点にしていた「大委(俀)国」の「日出処の天子」を自称していた人物であったことを証する一助となるのではないか。
白村江の敗戦後、「大委国」は大和王朝に吸収され、「大委国」の事跡すべてを取り上げた。その結果の一つが年号「聖徳」の「聖徳」を取上げである。多利思北孤の事跡を厩戸皇子に被せての「聖徳太子の誕生」である。
その聖徳太子が大いに関わる「法隆寺関係の謎」をまず整理する。
第一章 大山誠一のタリシヒコ論について
◆はじめに
大山誠一には多くの「聖徳太子非実在論」の著作がある。その聖徳太子が活躍した同時代の中国史料に、時の日本列島から「俀国」から「多利思北孤」という俀王からの使者の到来とその後の来信などについて中国正史『隋書』に描かれている。
『日本書紀』などの日本側の史料によれば、当時は推古天皇の時代であった。しかし、俀王は男性として隋書には描かれているので、当時の大和朝廷では実質的に聖徳太子が大王であった、とされている。
大山誠一は聖徳太子の業績とされる事跡を取り上げて、それらのすべてが後代に作られたものだ、と論証する。
主なものは、「十七条の憲法」・「法隆寺の創建」・「法華義疏」などである。これらは、いずれもが後世に創作されたものである、と断じる。
大山誠一は東大文学部国史学科卒で大学院博士課程を1975年に修了している。井上光貞に師事したいわば日本古代史研究の最先端かつ権威ある学府の卒業生である。1999年には東大の博士号を授与されている。今年78歳を迎える中部大学名誉教授である。
大山誠一は長屋王家木簡の研究で名を上げ、長尾王家木簡研究では『長屋王家木簡と奈良朝政治史』1993年、『長屋王家木簡と金石文』1998年を、いずれも吉川弘文館より刊行している。その後研究は「聖徳太子の実在を疑う」方向に進む。
今回の論考をまとめるにあたって、大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』吉川弘文館 1999年、『聖徳太子と日本人』風媒社2001年、『天孫降臨の夢』NHK出版協会 2009年、を参考にした。
◆大山誠一の史観
これらの著述から大山誠一の古代史観を概説すると、“邪馬台国は九州にあったが、奈良に生じていた大和王権によって消滅させられた。『隋書』にみえる「俀国」は大和王権のことである”といえよう。
では『隋書』に見える多利思北孤王は誰なのか、ということについては、“「多利思比孤」は、当時の倭朝廷で実際の大王であった蘇我馬子であったのだ”と結論している。
大山誠一は『聖徳太子と日本人』第一章で、「聖徳太子非実在」の証拠として「憲法十七条」と「三経義疏」が聖徳太子の作品ではないことを数々の証拠と諸家の意見で説明し、「今日の古代史学会の常識」とする。(同書37ページ)
その第二章「聖徳太子研究の壁」の項目立てから大山誠一の問題とするところが浮かび上がる。
【目次】・強固な先入観・歴史書は間違っているのか・皇国史観・飛鳥研究がなぜ難しいか・記録を残さない日本人・根強い聖徳太子信仰・天皇制との関係は・とある。
大山誠一は、厩戸皇子は飛鳥期に、たぶん斑鳩宮に住み、斑鳩寺(法隆寺)も建てたであろう有力王族であったとする。その実在は否定できないが、推古天皇の皇太子かつ摂政であったとする「聖徳太子」の実在は否定している。
大山誠一の「聖徳太子非実在論」については『聖徳太子と日本人』の「あとがき」にみえる次の文が参考になろう。(同書236頁)
【(聖徳太子は)720年に完成した『日本書紀』において、当時の権力者であった藤原不比等・長屋王らと唐から帰国した道慈らが創造した人物像である。その目的は、大宝律令で一応完成した律令国家の主宰者である天皇のモデルとして、中国的聖天子像を描くことであった。
その後さらに、天平年間に疫病流行という危機の中で、光明皇后が行信の助言により聖徳太子の加護を求めて、法隆寺にある様々な聖徳太子関係史料を作って聖徳太子信仰を完成させた。また鑑真や最澄が、その聖徳太子信仰を利用し、増幅させていった。】
◆大山誠一の主張の問題点
確かに大山誠一が主張する「聖徳太子非実在」は傾聴に値する。しかし、「聖徳太子実在の証拠」とされる事跡を「後世の捏造」と一言で済ませてよいものであろうか。
大山誠一は、『日本書紀』に見える「法隆寺の一屋残さず火事で被災した記事」と「法隆寺釈迦三尊光背銘が何故無事に運びだせたのか」という古代史の大きな謎については次のように述べている。
【法隆寺系の文献は法隆寺の火災の事実を一切伝えていない。考古学的にも確認されていることなのに、完全に無視しているのである。これに対し、『日本書紀』は、先の銘文(釋迦三尊像光背銘文)ばかりか、法隆寺の建立自体を伝えていないにもかかわらず、逆に、天智九年(六七〇)四月の火災は記している。それどころか、天智八年(六六九)是冬条にも「斑鳩に災〈ひつ〉けり」とあって、二重に記しているのである。厳密にはどちらの記事が正しいか不明だが、一般には、天智九年のこととされている。】(『〈聖徳太子〉の誕生』41頁)と、『日本書紀』の記事のいい加減さに言及するにとどめている。
◆釈迦三尊像光背銘文の解釈について
その光背銘文の解釈にも無理に自説に合わせての無理な解釈をおこなっていると思えるのである。
漢文は句読点がない。読み下しには注意が必要である。大山誠一は、最初の行から二行目にかけて「十二月鬼前太后崩・・・」とある所を「鬼、前太后」と区切り「鬼」は「暦の二十八宿の一つ」という解釈がつけられ、「前太后」という意味不明の代名詞を生み出して解釈している。太后も前太后も同じ意味として、聖徳太子の母としている。
この銘文の登場人物の名前が、ほかの書物には見えないし、「法皇」などの尊称も当時あったとは思われていない。
この銘文は14字14行でできている。その中に「4字一句の10句と11句をうまく入れ込んだ見事な銘文である。
参考のためこの銘文14字14行で書かれている状況を掲示しておく。
法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并俠侍及荘厳
具竟乘斯微福信道知識現在安穏
出生入死隨奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁 (2字目の「岸」は「土偏に岸」)
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造
この銘文の頭書「法興元」という年号については、大山誠一は、「法興」を「法(のり)が興(おこっ)てより、と読ませている。この年号「法興」については、あとの、古代逸年号についての章で検討する。
大山誠一はこの銘文も後世の偽作だとする。しかし偽作者はなぜ「法興元」という年号と見えるような三字を書き込まなければならなかったのか、という点にはふれず、内容は聖徳太子の事績に合う、とする。
この銘文の「法興」という年号についての解釈は、通例によったものであり、次に登場予定の田中英道もほぼ同様の読み方である。どちらもなぜ「法興元」という三文字が刻まれなければならなかったのか、についての意見はない。
この碑文に見える「鬼前太后」は他の史籍には見られない。大山誠一はそこで、14字1行としての碑文の第一行の14字目に「鬼」とあり、次の第二行が「前太后」となっている。これを奇貨としたのか、そこの部分を「鬼」で句読点を入れて解釈している。
(釈文)
法興元丗一年、歳〈ほし〉は辛巳(推古二十九年、六二一)に次〈やど〉る十二月鬼〈き〉(暦の二十八宿の一つ)、前太后〈さきのおおきさき〉(穴穂部間人王)崩〈かむあが〉りたまふ。(以下略)
古田武彦の同部分の解釈は次である。
【法興元丗一年辛巳十二月鬼前太后崩ず。】と原文とほぼ同じ読み下しですっきりとしている。(『古代は輝いていたⅢ 法隆寺のなかの九州王朝』より) 大山誠一の読み下しは無理矢理な解釈という感がぬぐえないのである。
◆「聖徳太子非実在」論に対する古田武彦の意見
今回のセミナーは「古田武彦記念古代史セミナー」と名付けられている。参考のために古田武彦の意見をみてみる。『古田武彦の古代史百問百答』にて「聖徳太子の実在」について次のように答えている。
【わたしは実在したと思います。なぜなら、『古代は輝いていたⅢ』の第四部第二章「薬師寺の光背銘」に述べた論証のように、この「歳次丙午年(五八六)」の銘文の「池辺の大宮に天の下を治らす天皇」(「天皇」は「天子」(九州王朝)に対する第二王者)は用明天皇です。次にある「小治田大宮治天下天皇及東宮聖王」は推古天皇と聖徳太子です。
これが「正しい文面」である証拠は「崇峻欠如」問題であること、前掲書で詳述した通りです。後代の「追作」ならあり得ません(『日本書紀』のごとく)。
薬師仏の光背銘の銘文を「追作」とした(福山博士)のは、例の「釈迦三尊」(本尊)を、七世紀前半における「飛鳥の成立」と見たため、これと「同時代」とは見ることができなかったからです。仏像や銘文そのものの“出来具合い”も、全然ちがいます(『釈迦三尊』の方が優秀)。
これによれば、やはり「東宮聖王」なる人物が用明天皇のあと推古天皇のもとにいたことは確実です。これがいわゆる「聖徳太子」。実在の人物です。
これに対し、『日本書紀』の推古紀に出てくる「上宮厩戸豊聡耳太子」、いわゆる“聖徳太子”関連の業跡はほとんど「X」です。「NO!」なのです。
たとえば、有名な「冠位十二階」や「十七条憲法」などは、すべて九州王朝の「史実」からの“盗用”です。
すなわち、いわゆる「聖徳太子の業跡」はなかったのです。この事実と、「聖徳太子はいなかった(実在しなかった)」という命題とは、全く別です。以下略)】
つまり大山誠一と古田武彦では、「聖徳太子」という人物の事跡はほとんどが「他人の事跡」である、という点では同じである。
しかし、大山誠一は「後代に創作されたもの」とするのに対し古田武彦は「九州王朝からの移入品」という違いがあり、それに、大山誠一は厩戸皇子・斑鳩皇子の存在を認めても「聖徳太子」という名前の皇子の存在は認められない、としている。しかし、古田武彦は「薬師像銘文」にみえる「東宮聖王」から「聖徳太子」という人物は実在した、としているところが両者の違いであろう。
ただ古田説には「東宮聖王」がなぜ「聖徳太子」といえるのか、という論証が不足していることは指摘しておかなければなるまい。
不思議に思えるのは大山誠一の発言には、西部日本の文化の優越性については認識されていることが垣間見えるのである。
◆大山誠一史論への感想
大山誠一は『天孫降臨の夢』での「はじめに」で自分の古代史観について述べている。
【旧石器時代から縄文、弥生、古墳という考古学の時代区分が続いたあと、突然、飛鳥時代となり聖徳太子が登場する。その聖徳太子は、まだ中国との交流もほとんどなかった時代なのに儒教・仏教・道教という中国思想の聖人で、国内では皇太子・摂政として天皇中心の政治を整え、さらに中国・朝鮮との外交も主宰したという。その結果、日本の政治・文化のレベルは、たちまち中国・朝鮮とならび、以後、日本の歴史は聖徳太子の示したままに進行することになる。言ってみれば、本来あったはずの未開から文明への葛藤、つまり考古学が明らかにした日本固有の社会が巨大な中国文明を認識し、悪戦苦闘しながら学び、そのうえで取捨選択し、その結果として独自の秩序と文化を構築するという、そういう長期にして困難かつ複雑な価値観の相克を、聖徳太子という一人の聖人の出現ですましているのである。たった一人で、儒教・仏教・道教の聖人を兼ねるのも変だし、その歴史叙述にも安易なものと言えないだろうか。】
全くその通りである。大山誠一はそこから聖徳太子非実在論でその非を論じる。しかし、本人も認めているように日本列島の文明化は西高東低で行われていたのである。
国立歴史民俗博物館を根城に研究活動をしている藤尾慎一郎は、弥生時代の500年繰上りを学会に認めさせた人物である。藤尾慎一郎が『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年刊で、日本列島の水稲文化の始まりを基準にした弥生文化の始まりを図表で示している。それによれば、北部九州と近畿地方では約350年の差がある。下図参照。
[コピー図表1]弥生時代の年表と列島内諸文化(同書29頁)