道草その35 古代逸年号と隅田八幡人物画像鏡銘文について 中村通敏

    ―九州古代史の会
の記録より―
      2019年9月例会での発表

はじめに 

今回の発表内容は、4月の例会での永井正憲さんの「古代逸年号と隅田八幡人物画像鏡銘文」に疑問を感じたからです。その疑問点の概要は次のようなものでした。

(1)この銘文がわが国、それとも、朝鮮半島でつくられたのかという問題についての言及がないこと。

(2)「日」を日本国という意味とする根拠について述べていないこと。銘文には、使者二人の長々しい名前を刻んでいるのに、国名「日本」を「日」と略したとする坂田隆説を無批判に採用するのは理解できない。

(3)「十大王年」を「大王(が即位してから)十年」と説明されていますが、同様な語順で書かれている金石文や古文書の例があるのでしょうか。

(4)永井さんは、「男弟」を「おほと」と訓読して大王名としていますが、朝鮮半島側で「男弟」を「オホトと読み、大王の字名を意味する語」という認識がありえた、という論証が必要ではないでしょうか。

(5)「男弟」が大王の名前であれば、銘文の最初に「男弟大王」と何故ないのでしょうか。

(6)大王名「ヲホト」を、例えば「袁保等〈えん・ほ・とう〉ヲホト」とせず「男弟王」という一般名詞と紛らわしい字を用いている、とする永井説は説得力に欠けている。 

というようなことでした。 

これを、一文をまとめ、会報に使えないかと編集部に提出しましたら、会報の読者は例会に来ていない方も多いから、それよりも例会で話したら、という助言と時間をいただき、今回の話となったわけです。

 

そのためにまず、九州古代史の会でこの九州年号関係でどのような議論が交わされているか、を改めて読んでみました。九州古代史の会の会報は、「市民の古代研究会・九州 ニュース」の時代、その後の「多元的古代・九州 ニュース」、そして現在の「倭国通信」とタイトルは変わってきていますが、会報自体は連続したナンバーが振ってあります。

そのうち表題に関係すると思われる記事は7件ありました。その論述の概要と小生のコメントを記してみたものが今回お手元にあるレジュメです。注意力散漫な私の作成したレジュメには、脱字・誤字などがかなりあります。発表の中で訂正していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。 

◆(01)No.54(1995・2)及び55号(1995・3)高橋勝明氏の論考
「二中暦」をめぐる若干の考察 ―文字・結縄刻字・干支・年号・仏教伝来― というタイトルの論考です、 

会報54号の内容は、『二中暦』の「年始」という書き込みの語句について、古田説では紀元前52年とすると、卑弥呼の時代は二倍年暦であった、という「倭人伝」の記事と矛盾する。
 古田さんは、自説はあくまでも「仮説」と断っておられる、として、その古田仮に対して高橋さんが自分の疑問を述べています。

 古田説を『九州年号―古文書の証言』をテキストとして説明し、高橋氏は古田仮説への主な疑問点は次の諸点だと述べます。

・『二中暦』の行文「無号不記支干三十九年」と『三国志』の倭人国の二倍年暦の記事と合わないこと。

・『隋書』俀国伝の「結縄刻木」の記事と、前漢時代の金石文の卑弥呼の上表文などからみておかしい。古田氏は、「中国から暦が入るまでは、結縄刻木と説明するが、俀国〈たいこく〉伝にはそうは書いていない。『三国志魏志』・『後漢書』などからみて、倭国に文字や干支等の暦法を渡来人などによって知らされていたと思われる。

『隋書』俀国伝の「俀国には文字なし」という「文字」とは、万葉仮名つまり仮借文字の出現、仏教経典がヒンヅー語から中国語へと変換するのに、漢字を仮借していることから、万葉仮名という仮借文字ができた、とする中小路駿逸氏の説明が理に適うのではないか。(つづいて会報55号に続編が掲載されています。) 

丸山晋司氏の『二中暦』の「年始」についての、AD478年説を紹介しています。それに対する古田氏の反論、「年始」という言葉は五世紀の終わりとしてはふさわしくない。干支を知っていたが書かなかったとは信じがたい。結縄刻木が政治の中心だったというのも五世紀の終わりではちょっとおかしいのではないか、などをあげています。

 しかし、「結縄刻木」は五世紀初めの仏教伝来まで続いていたこと。これは、中小路氏が言うように、仮借文字の使用と干支の使用開始が五世紀中であることが明らかになってきた、といわれます。年始はAD478年というのは何でしょうか。それは倭王武の上表文の年である、と高橋氏は指摘します。これは、一元史観の丸山氏の説ですが、二中暦の年始についての結論は一致した、と結んでいます。 

私の意見:以上の高橋氏の論考に対して、私が思うのは、次の様なことです。

 この高橋氏の『二中暦』についての主張に対しての疑問は、倭王武の上表文の時期がなぜ「年始」というエポックメイキングな時期であるのか、ということです。
宋(劉宋)との間に何かトラブルが生じ、その臣下であることを拒否し独立したのか。宋の滅亡(南斉に禅譲)は479年なのですが。古田氏は、南斉になってから朝貢しなくなったことが独立した傍証としていますが。

 また、宋の次の南斉朝は、倭の武王に進号しているという『南斉書』の記事とも矛盾するのですが。これについて、先日の永井さんの講演では、倭王武が思うような称号が得られなかったので、悲憤慷慨して以後独立?した、エポックメイキングな年としているのですが・・・

 私が思うのは、永井さんの場合は、九州年号建元を中国との冊封体制からの離脱というエポックメーキングな年という仮説に使いにくいので、「悲憤慷慨して」という無理な理由付けになったのではないか、ということです。
 また、これはレジュメには書いていませんが、『隋書』の「文字なし」についての高橋氏の疑問は理があるし、その解釈にも納得できます。

 調べてみたら、中国周辺での「文字」の始まりは、西蔵(7c)、突厥(5C),ウイグル(8C)、朝鮮(吏読5C/ハングル15C)、満州(16C)などであり、俀国は5Cということであり平仮名が定着の時期をさすと思われるのです。この『隋書』の文章は、俀国が自国の文字を作り上げたことをほめているのではないか、とさえ思われます。


(02)会報69号に古田武彦氏の「竹林談話」が掲載されていました。

『二中暦』とは直接関係ないのですが、人物画像鏡銘文に関係するかもしれない記事が会報69号に古田武彦氏の「竹林談話」が全文掲載されています。(1997年1月)

 この「竹林談話」の目玉は『新唐書』の「目多利思比孤」の解釈と思われます。その『新唐書』日本国伝再検討のきっかけになったのは、中華書局標点本『旧唐書』で句読点の置き方の間違いで重大な訳が発生していたことを見つけたことに始まる、と古田氏の長々の説明があります。

 ここに上げましたのは、人物画像鏡銘文の読み方で、「日十大王年」という文章を、「日、十大王年」と区切って読む説があり、その解釈の当否について何らかの参考になるかと思い取り上げたものです。

 要点は、中国の正史標準本とされている「標点本」の『旧唐書』本紀第十四、順宗紀に「日本国王并妻還蕃、賜物遣之」とあり、読み下すと「日本国王并びに妻、蕃に還る、物を賜ひて之を遣はす」とあります。これが805年のところに記されているのです。平安時代に日本国王夫妻が中国訪問、という記事です。実はこれは、句読点の置き方の違いから生じた誤訳なのです。

 これを古田武彦氏が調べたところ、「日本国王」の「日」は前の文章の一番終わりの字なのです。これは、吐蕃国王の記事で、「本国王并妻還蕃、賜物遣之」という文章なのです。たまたまそのの前の文章が「日」で終わっているのです。

 その一番終わりの「日」を後の文章にくっつけたので、本国王〈ほんごくおう〉が日本国王となってしまったのです。吐蕃伝では吐蕃の国王を「本国王」と叙述している、と古田さんは言います。この文章は、句読点の置き方で大間違いの文章となってしまった例なのです。

 このように古田武彦氏は、中国文は句読点が無いから、句読点の置き方で、まるで違う文章になるから気を付けなければならない例として挙げています。

私の意見この会報の文章は、先日の永井さんの隅田八幡画像鏡銘文の解読にも、文の区切りに注意が必要、ということの例として取り上げました。

 ネットでチェックしてみました。この文章は、22年後の現在でも句読点の位置は古田武彦氏の指摘そのままになっていました。この中国標点本を正本と見る中国の歴史好事家は、この記事を見つけて、日本の桓武天皇が唐に夫婦で来ていた、と大発見と発表するのかも知れませんね?このところの「標点本」の文章は次です。参考に上げておきました。

久之得還,以習蕃中事,不欲令出外,故囚之仗,至是方釋之。日本國王並妻還蕃,賜物遣之。

 

 ◆(03)No.76号 高橋勝明氏の九州年号基礎講座

 1997年11月例会報告として、高橋副代表幹事の基礎講座「九州年号」の概要が掲載されています。

内容は、

・古田武彦氏の論証『失われた九州王朝』で逸年号とされていた古代の年号群は私的なものではなく大和王朝とは別の権力による公的年号であり「九州王朝」の年号と論じたこと。

・丸山晋司氏の研究『古代逸年号の研究』で、二中暦のみでなく各種の古文書から「古代逸年号のモデル」を呈示したこと。

・古田武彦氏はこの丸山モデルを支持せず、孤立した資料かもしれないが二中暦が最も古く原型に近いものと主張したこと。

・二中暦の前文と後文の問題 年始569年はいつなのか。

古田説:建元の517年から年始569年を引いた紀元前52年(天孫降臨の時か)

丸山説:39年無号を、建元の517年から引いた478年(武王上表)を年始とする。

中村幸雄および西江雄児説:大和年号大宝を遡る39年を無号とし、662年の天智即位を年始とする。

その他「宇治橋断碑」問題・日本書紀の大化朱鳥白雉取り扱い問題・釈迦三尊像光背銘・「法興」年号問題がある、などがコピー42枚の資料と共に発表された、という報告でした。


私の意見:A4版42枚の資料には目を通せなくて残念でしたが、九州年号についてその当時の論点について、簡潔にまとめている報告でした。



◆(04)No.76「正史から漏れた古代年号の秘密」荒金卓也

 前項と同じ76号に荒金卓也氏の「正史から漏れた古代年号の秘密」が掲載されています。
 その概略は、大和朝廷の創始第一号の年号は大宝。唯一大宝のみが「建元」、ほかは「改元」もしくは「改」とあるのがその証拠、と中小路駿逸氏が喝破した。その中小路説の驥尾に付して自分の発見もいれて述べる、とあります。

『日本書紀』の改元関係記事が列挙されます。そこには、孝徳紀「改」大化元年、おなじく白雉元年、「改元」白雉。天武紀天武十五年「改元」朱鳥元年。大宝元年、「建元」大宝元年。以下、慶雲元年、「改元」元年、和銅元年、「改」和銅元年・・・霊亀・養老・神亀・天平・・・延暦、全て「改元」もしくは「改」である、と指摘されています。

 その中で注目するべきは桓武天皇の延暦改元の詔であると次の様に述べられています。

【(桓武帝は)年号の歴史的経緯を述べ、王朝において、たとえその君主がどういう経緯で後継者となったとしても必ず年号は絶やさぬのみか、新君主たるものは必ず改元するものだ、よって朕もまた改元する】。これは「名言である」と評されています。

 この桓武帝の言葉に適合しない『日本書紀』の連続しない「大化」「白雉」「朱鳥」の年号は、大和朝廷の年号ではありえない。同一の王朝で年号不連続といった事態をおこすはずがない。これは桓武帝が証言しているのだ、と言われます。

 そして
この桓武の詔に触れている論者に平野雅曠氏がいること。その著書『九州年号の証言』で詔の中の「継体の君、受禅の主」に注目され継体代と九州年号開始年代との同時性などに言及されている、と紹介しています。

 そのほか、古代逸年号の第一号は何という年号だったのか、という問題があると述べます。

『如是院年代記』には継体天皇の16年に元号「善記」が創始され、以後大宝まで続いたとしている。しかし朝鮮の史書『海東諸国記』では、継体天皇の16年に初めて「善化」という年号を建てた、とし、大長四年に大宝元年に「改元」としている。この両者は「善記」と「善化」と異なっていますが、その後の改元年号についてはほとんど同一である、と指摘しています。

灰塚照明氏は、『新唐書』にも「長安元年(701年)、其の王文武立、改元曰大宝」とあると指摘している、と紹介されます。大和朝廷の立場からすれば、「大宝」は「建元」された年号ですが、日本列島の構図でみれば「改元」ということにもなった、ということなのでしょう。

 大宝以前の日本の年号の真実を封じ込めようとした大和朝廷の意図は、『日本書紀』()続記』の首尾照応できなかったことが、その意図を隠し通せなかったので。大和朝廷の年号以前に先行する連続年号があったことは、大和朝廷自身の証言により明白で。それが九州年号なのです、と結ばれています。

私の意見:この記事は「建元」と「改元」について注目することのなかった自分にとっても非常にためになる記事でした。



◆(05-1)No.78「『二中暦』論を読み直す」兼川晋

 会報78号(1998年3月)に兼川晋氏が「『二中暦』論を読み直す」という短文を掲載しています。『二中暦』行文の年号善記3年の①「発護成始文」②善記以前武烈即位の解釈についての意見です。

①について、西江碓児氏と山崎仁礼男氏の「文」は律令の意味とされるのに同意し、「発護」は身分を証明する文書であろう、とされる。

②の山崎氏は近畿王朝の立場の人の追記としていること、西江氏はこの武烈は『書紀』と即位・没年が大幅に違うことから、磐井か?と結論を控えている、と述べ、私(兼川氏)は『二中暦』の年代暦は九州王朝の記事だろうから、この武烈は当然九州王朝の大王で磐井以外にはないだろうと言われる。

私の意見::この兼川氏の論考は、この時期の九州王朝の大王的人物は磐井しか見当たらないので、まあ、もっともな判断かと思われます。



◆(05-2)No.82&83号「『二中暦』論を読み直す」兼川晋

 No.82号(1998.11)から83号(1999。1)にかけて、兼川氏の隅田八幡神社人物画像鏡の銘文についての意見が発表されています。

 タイトルは「倭王武を継いだのは男弟王〈をおとのきみ〉か」 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文を読む とあります。この論考が兼川説のまとめともいえるかと思われます。

【倭王武と後に出て来る磐井の間に、隅田八幡鏡銘文がある。古田説の「ヒト大王年」を考えるのだがどんなもんだろう】ということから始まっています。次いで古田説の意義は認めるが問題点もある、と概略次の様に述べています。

・従来説、福山敏男、水野裕、井上光貞氏などが「日十大王」や「男弟王」を近畿王朝の天皇にあて、斯麻を列島の人物に宛てて読み、この鏡を国産とみているのに対し、古田が九州の王者と百済の武寧王と宛て、百済で作られた、としたことの意義を認める。

しかし、・「大王と男弟王の兄弟執政体制」・「ヒト大王年という和風名称と中国風一字名称」・「男弟王の名が書かれていないこと」について説得力に欠けると思う、と述べ、葵未の年を503年とすると、その前年502年は倭王武が征東将軍に叙せられた年である。つまり、ヒト大王年は倭王武の次の大王ということになる。これを証する他の史料がない、と指摘されます。

・その点、坂田隆氏の解読は例証を上げて具体的、として概略を説明しています。日は日本の略。金石文には年次とともに国名が記されることがよくある。日本の大王の十年、の意味で、その大王の名が男弟王ということである、と主張されています。

また、・男弟王は九州の継体天皇のことで「ヲオト王」。『日本書紀』の男大迹、『筑後国風土記』では雄大迹は近畿王朝の人物である。『古事記』には袁本杼〈ヲホド〉とあり、『日本書紀』は九州にあった史書群のうちから、ヲオトの名も、継体の年号名も取り上げて、近畿天皇家の伝承にあったヲホドにそっくりかぶせたのだ、とされます。

・近畿天皇家のヲホドは、子の無かった武烈のあとを継いだ主権者であり、九州のヲオトも、武王で絶えた倭王朝を何らかの手続きで後を引き継いだ別系の主権者である。つまり、隅田八幡の鏡は百済の斯麻王が九州の継体、(男弟王)に贈ったもの、という結論されます。

中村注:銘文解釈で一番の問題点は、「日」が日本の略ということも問題ではありますが、「男弟王」という大王の名でしょう。

 この名前を九州王朝の大王の名前だとすると、当然日本側で名乗った名前、ということになります。仮に「ヲオト」であるという論証が正しいとしても、「男弟」という一般名詞的な名前を大王たるものが名乗るだろうか、という素朴な疑問が生じるのです。このあたりの兼川氏の意見が述べられた文があれば見てみたい、と思いますが残念ながら探し出せていません。

 また、この鏡は国内で作られた、という説もありますが、この王の名前に「男弟王」という一般名詞が記されている、ということは、少なくとも鏡の銘文は斯麻側が作成した、という論理が成り立つと思います。

 兼川さんはまた・葵未の年を503年とすると、十大王年=継体十年=503年であるから、継体元年は494年である。しかし日本書紀の記述からは継体即位は507年である。その差は13年であり、

・継体の磐余への遷都を継体20年と日本書紀にあるが、その中に、「一本に七年とあり」13年違う。しかし、この「一本」の記述と鏡銘文の年次は一致する、と言われます。

 兼川さんは続けて、・ただ坂田説は、継体を近畿王朝の大王としている。これは、九州王朝の男弟王を、近畿王朝が九州王朝の歴史書を剽窃して、自分のものとしたことによる、という兼川仮説を述べられます。

 それに加えて『二中暦』の行文について、「善記以前に武烈即位は磐井」、「雄略紀15年の秦の民云々」の記事も磐井の業績を剽窃とされたものと主張されます。

私の意見:兼川説は次の仮説の上に組み立てられているようです。

 男弟=継体。この男弟王は九州の王。『日本書紀』にある男大迹とは別人。継体の『書紀』本文の記述と、注にある「一本」の記述とは13年の差がある。画像鏡銘文の、日は日本の略。十大王年を大王即位の10年と読めれば、年次が合う。これらの仮説上の仮説の上の仮説で組み立てられています。

 つまり坂田隆氏の画像鏡銘文解釈と同様な解釈で、それを近畿王朝が九州王朝の「男弟王」を剽窃して『日本書紀』に取り込んだ、という兼川説と受け取れます。しかし、九州王朝の流れとして、中国の史書に残る「兄弟執政」、宗教的盟主と行政執政官という組み合わせは、三世紀の邪馬壹国、七世紀の俀国でも中国の史書から読み取れるのです。

 また、九州年号には「兄弟」という中国その他では見られない年号があることについて、九州王朝の特異的な執政体制と無関係とは思われないのです。画像鏡銘文もそのような「日十大王と男弟王」という兄弟コンビの執政と取る方が、銘文の解釈としては問題なく解釈できるのではないでしょうか。

 見解の相違と兼川氏から一蹴されることでしょうが。これは、先日の永井さんの主張とほぼ同じと言えます。兼川氏に従って永井氏も、大王十年を継体10年ということで、論を進めています。

 しかし、継体天皇の没年については、『日本書紀』にも「一応辛亥(531)としたが、これは『百済本記』に日本天皇および太子・皇子ともに薨去の記事によった」ものと書いています。またある本には28年に崩じたとある、とも記していて、最後に「後に勘校〈かんが〉へる者〈ひと〉知らむ」で締めくくっているのです。


 つまり、『日本書紀』の没年記事が不確かなことを『日本書紀』自身が認めているのです。しか、兼川・永井氏のご両人とも、もう一つの史書『古事記』の記事は無視されているようです。

 日本の二倍年暦の証拠が天皇の異常な長寿が残されていること。それが、継体紀前後ころ終わる、ということは、二倍年暦をかじった人ならご存知のことでしょう。『古事記』には継体天皇は43歳丁未に亡くなったと伝えています。『日本書紀』では82歳辛亥に亡くなったとしています。『日本書紀』は『古事記』の記事に合わせるためでしょうか、「二月の丁未(7日)」に歿した、としています。

 このように不確かな『日本書紀』に記載された「継体天皇20年に磐余〈いわれ〉の玉穂に都す」の記事の年次が、ある本〈ふみ〉に7年とあり、と『日本書紀』に付け加えられています。この、13年年紀が違うということを取り上げて、論を進めて行かれるのです。

『古事記』には「丁未」に「43歳」で亡くなったとあることについての考察も必要ではないかと思うのですが。『古事記』での没年「丁未」を継体紀と照合してみました。「継体21年(527年)」となり、没年の差は4年となります。この違いをなんとか、埋めることができれば、説得力は増すかもしれませんが。

九州倭国を論じる人々で、この継体紀前後を一倍年暦での復元研究をした人もいるかと思うのですが、残念ながら合理的な説明を目にしていません。知っている方がいたら教えてください。ただ、大和のオホトと九州のヲオトと同時に存在した、とする新たな仮説設定にまで突き進むと、物語の世界のように私には思われ、論評不能となってしまいます。

今年4月の例会での、永井氏が隅田八幡鏡の銘文と『二中暦』とを結びつけた論は、この兼川氏の説に負うところが大きいと思われました。



◆(06)No.83「継体は彦太王〈ヒコフトノミコト〉、男弟王は豊前出身か」兼川晋

 上記のタイトルに―上宮記逸文の継体はホムツワケ六世の孫―というサブタイトルでの、前回の論を発展させた兼川説の発表です。
 概略を紹介します。

・継体天皇の継体は漢風諡号。諱ないし字〈あざな〉は袁本杼(『古事記』)、男大迹(『日本書紀』)。隅田八幡画像鏡の「男弟」と似ているといえば似ているし、男弟は「ヲオト」、袁本杼ヲホドであり、違うと言えば違うような気もする。

・岩波古典文学大系では男大迹を「ヲホド」とよませている。『古事記』がヲホドとなっているから『日本書紀』もそれに合わせる、つまり恣意的な説明である。

 同じく岩波では・継体天皇は応神天皇の五世の孫とされている。書紀の記述では「五世の孫ヒコウシ王の子なり」とあり五世の孫なのか、五世の孫の子、つまり六世なのかハッキリしない。『古事記』に合わせているに過ぎない。

・『上宮記』逸文(『釈日本紀』所引)には継体天皇の系図が出ている。と述べられて、

結論として、
・『古事記』「ホムダ王(天皇)」の方が正当で、『日本書紀』はヒコフトの出自を胡麻化そうとている。ヒコフトは応神の五世の孫ではなかった、のである、と述べられます。

・しかし、もう一つの九州の男弟ヲオトの周辺を探ろうにも文献は失われている。(つまり証拠がない)

・武王、男弟王、磐井、葛子、多利思北孤の墓はどこか、これらをボツボツやるより仕方ない。と、今後の物的証拠の発見に期待するほか手だてがない、とされています。

私の意見:兼川さんの論述は、隅田八幡画像鏡銘文の「日(にち)十(じゅう)大王」と「男弟(だんてい)王」が同一人物、という前提での論述で。その場合、大きな疑問が生じるのです

「男弟王」といういわば普通名詞的な大王名を、日出ずる処の国の天子(大王)が自称するのだろうか。用例があるというのならまだしも、逆にそうではない、と思われる次の用例があるのはこの会では皆ご存知だと思いますが。

 ひとつは、『魏志』倭人伝の次の記事です。「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐暦年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治国。」

 もう一つは、隋書俀国伝の「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、日出れば便ち理を停め、云う、我が弟に委ねん と」あります。(原文「俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聴政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」)

このような兄弟王朝的な記事が中国の史書にあることについては、兼川さんは言及されません、なぜなのでしょうか? 大王=男弟王という仮説の論証が行き詰ったら、その仮説を見直すことも必要かと思うのですが。



◆(07)No.85「二中暦と人物画像鏡」兼川晋

 この1999年5月発行の85号の会報では、二中暦の干支と出土する土器や木簡の干支と一年のずれがある、という問題を取り上げています。

私の意見:日本に中国からはいってきた「元嘉暦」とそのあとに入ってきた「儀鳳暦」の年度のはじまりが違うことにも関することのようです。その時期は安康天皇の時代(5世紀中葉)ということのようです。これについては、論評できるだけの素養がないので論評は控えます。

 余談ですが、この一年の差で顕著な例は、中国の年齢の数え方もそうではないでしょうか。日本でも以前は「数え年」を使っていましたが、中国では今も使われているそうです。

この年齢の数え方の起源についての考察も、誰かがしていることでしょうが、浅学の小生は未だ目にしていません。妊娠月数の数え方も同様というか独特で、現在の日本でも、第0~3週までを妊娠第1月というそうです。

 合理的に考えてみましょう。これは、「人間の年齢は、母体から出た時ではなく、母体が受胎した時から年齢を数え始める、ということにあるのではないか」という仮説が浮かびました。そう考えますと無理なく、「数え年が非合理的な物ではない」という理解を得られるのです。


 この考えが王朝の年代観に投影されたことが、干支が我が国に伝わった時にこの「一年のずれ」を生じさせた原因では、という「仮説」が生まれたのですが如何でしょうか。

私の意見:もう一つ述べておきたいことがあります。兼川さんは、「古田さんが日十大王をヒト大王と訓じたことがちょっとすっきりしない」、という感想を述べています。実は小生も同様な「ちょっとすっきりしない」という感じを持っているのです。

 古田武彦氏は『失われた九州王朝』で概略次の様に説明しています。

【俀国王は「タリシホコ」つまり「足りし矛」の意だ。このうち“足りし”は“豊富にある”という意味の美称であり、隋への国書の自署名である。だから名前の実態は「矛」にある。つまり大王称号をつければ「ホコ大王」だ。これに対し、「ヒト大王」は、美称で読めば、“タリシヒト”であり、“満ち足りて豊富な人民を擁する”ことは、王者にとって、誇るべき内容だったであろう】と。

 しかし、あまりにも身近な日本語「ひと」というのが大王の名でふさわしいのだろうか、とすっきりしないのです。

 折口信夫さんという有名な民俗学者の『万葉集研究』には、古田氏とは違う意味で「ヒト」の意味が解説されているのですが、難解な解説です。小生が理解したところをまとめると、「ヒ」は神聖なもの、由来不明の「ト」と結びついて「神と人間とを結びつける神人」の意味となった、と説かれますもっと詳しく知りたい人は折口氏の『万葉集研究』は、ネットの「青空文庫」で読めるので、読んでみてください。

 では、お前さんの説は、と言われそうなので、小生も仮説を呈示してみましょう。日十を訓読みして「ヒソ大王」はどうでしょうか。これは古田武彦氏も『失われた九州王朝』で紹介していますが、建築史家の福山敏男氏が「日十〈ヒソ〉」または「曰十〈ヲソ〉」大王と読み、オホケ王(仁賢天皇)に宛てたが、なぜ「オホケ」が「ヒソ」「ヲソ」と書かれるのか説明しえていない、と批判しています。

「十」の読みは、福山氏が言うように、「ソ」とも読まれます。例えば、五十川イソガワ、八十島ヤソジマ等々、地名人名に十をソと訓じて今でも使われています。
「ソ」は語尾に付けて、沢山の和語が生じています。例えば、阿蘇・磯・嘘・エソ(魚)・木曽・糞・社〈こそ〉・誘(う)・シソ(植物)・裾・ソソ(っかしい)・たそ(がれ)・屠蘇・臍・細(い)・味噌・めそ(めそ)・八十・他所・・・・仮名二語からなる和語に「〇+そ」が付く例はたくさんあります。

 では「日十」(ヒソ)を大王の名前としたらどういう意味になるのでしょうか。前記の一覧の最後の例に注目してください。「他所〈よそ〉の所」つまり、「ソ」が「土地」という意味に使われている「所」です。

「ソ」には古代朝鮮語で「鉄」という意味がある、と金達寿氏が言っています。また、金沢庄三郎氏の『日韓古地名の研究』には【「ソ」は古代朝鮮の民族名である。丹波の余社、九州の阿蘇など、民族名「ソ」と通ずるところがある】とも紹介しています。(谷川健一氏との共著『地名の古代史』より)しかし「日十」の解釈にはうまく繋がりません。

「日十」を「日所」と解すると、「日十大王」は、「日出づる処の国の大王」の意となるではありませんか。日出づる処の天子と誇った多利思北孤の何代前かの大王名にふさわしい、自称「ヒソ大王」というのが小生の仮説呈示です。まあ「ヒソヒソ」話的な仮説ではありましょうが。


 皆様に配られたレジュメにはここまでの「日十探索」について書いてありますが、以後探索を続けていました。3日前ほどに一応の結論を得ました。

 その結論は、ヒソ大王という訓読みではダメで、
「十」についての『説文解字』の記事、【横の線は東西を示し、縦の線は南北を示す。則ち四方中央を備える】というような説明があることと、『旧唐書』の「其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す」と日本側が伝えたとあり、この二つから、「日十大王」とは「太陽が輝く中心地の大王」という仮説に達した、ということをお知らせしておきます。

 この「日十大王求解の行程」についての詳細は、別途まとめて報告する、ということにしました。


「日十大王・年」の「年」について付け加えておきます。古田武彦氏が「ヒト大王年」、と「年」を中國風一字名としていますが、その例として、『失われた九州王朝』では、『漢書』にみえる「李延年」を上げています。しかし、この人物は「延年」という名であり、「一字名」ではありません。万一、そのことを古田説の瑕疵として指摘される人もいるかもしれない、と心配していました。

 たまたま、生野真好氏が以前「倭人伝」を、「春秋の筆法」を使っての解読をしていたので、それを理解するために『春秋左伝』という書物をネットで見つけ読んでみた時、桓王起居注的なところの「桓公三年」でちょっと引っかかる記事に出会いました。

 次のような「年」という人物の記事です。折角の機会ですから、報告しておきます。「九月、齊公送姜氏于歓。公会齊侯于歓。夫人姜氏至齊。冬、齊侯使其弟年来聘」という記事です。「周の桓王のところに齊侯が、その弟の年を来させた」という記事で、一字名「年」の実在を示していました。



◆終わりに

 この発表に当たって、過去の会報の関係記事を会のホームページから拾い上げたのですが、会報の41号がリンクミスで読めないところがありました。幸い、木村会長から、該当会報のプリントを届けていただきなんとか仕上げることができました。この場をお借りして「どうも有難うございました」と御礼申し上げる次第です。

 特にこの41号には九州年号には直接関係ないのですが、高橋勝明氏が推理小説としての話として、継体天皇がなぜ応神天皇の五世ないし六世の孫という出自を選んだかについて、それは応神天皇が九州王朝の出身だったから、という高橋説を述べ、次のように締めくくっておられます。

【これは物語です。古代史は史料が限定されるから学問としての歴史研究の成果としては、云えることだけしか言えない。僕らも「研究会」として勉強している以上、心すべきと思うけど、たまには推理小説の世界に遊ぶのもいいかもね】と結ばれていました。九州年号の研究においても、この高橋氏の言葉を肝に銘じておかなければ、と思いを新たにしました。

 今回の発表で、会報の「九州年号・二中暦・画像鏡銘文」についての過去ログを紹介する中で、永井氏の講演の内容に対しての疑問については、会報に示されていた各氏の論文に対する疑問点について「中村注:」として述べてきたので、改めて永井氏に対する質問は必要無いことになりました。

 偉そうなことは言えませんが、仮説を立てて論述するのは自由ですが、それについての反論や自説に反する史資料についても意見を述べたうえで、持論を展開したら、展開する自説の説得力も増すのではないか、と思われました。

 永井氏の講演のときに配布された年表は分かりやすく労作ではあった、ということを認めるにやぶさかではありません。男弟王が大王であり、その即位10年を記念しての隅田八幡宮人物画像鏡銘文である、という解読が正しければ、古代への扉を開くものになるでしょうが、それが崩れればまぼろしの扉に過ぎない、ということになるのです。

 ご清聴ありがとうございました。     

 

(2019・9・01 九州古代史の会例会 ももち文化センターにて発表 )