国史跡安徳大塚古墳について調べてみました 福岡市東区 中村通敏
1. はじめに
この話を始めるまえにまずなぜ安徳大塚古墳について調べ始めたのか、ということからお話しなければならないと思います。私は実業から離れ、70歳のころから古田武彦さんの古代史観が気になり、気に入って、勝手連的応援団として棟上寅七〈ムナカミトラシチ〉というネットネームでホームページやブログを開設してきました。
古田さんは『「邪馬台国」はなかった』で魏使の行路を解析し、不弥国に接するところに「邪馬壱国」は存在したとされ、博多湾に面する福岡平野・室見平野がその候補地とされました。
その後、古田さんは、邪馬壹国は那珂川・御笠川流域が邪馬壹国の領域だ、と『日本古代新史』1991年新泉社刊で述べています。しかし、その魏使の行路についての解釈は変えていません。
それに、女性千人がかしずいていた女王の都は、の確定というところまでの研究は進んでいませんでした。
古田さんがやり残したというか、不完全と思われることを自分流にいくつかやってきました。その中でも古田さんの「倭人伝」の魏使の邪馬壹国への行路についての解釈の中で、「奴国」の比定地が糸島半島にしたことが間違っている、奴国は室見川流域だった、として海鳥社さんから『奴国がわかれば「邪馬台国」がみえる』にまとめてみました。
古田さんも亡くなりました。古田さんが解きえなかった、邪馬壹国の中心はどこか、卑弥呼の都城はどこであったのか、という調査を始めていました。
そこでぶっつかったのが安徳大塚古墳だったのです。そこでその大塚についての伝承などを調べているうちに福岡が生んだ江戸時代の国学者青柳種信の『筑前国續風土記拾遺』という本に安徳村の「大塚」について述べているのを見つけました。
この福岡黒田藩士で国学者の青柳種信(1766~1835)は、貝原益軒が著した『筑前国續風土記』(1688年)について、その後の風土の変化を補い、またその不備と思われるところを補うという意味で『筑前国續風土記・拾遺』を書き始め、残念ながら完成直前に亡くなり、子息その他で完成させたのが1836年とされています。
この本が活版本になるのは大正年代で、一般の人が馴染める活字本として文献出版社から出されたのは1993年でした。その公刊にあたって、九州大学川添昭二教授がその序文でその意義や、青柳種信が本居宣長に私淑していた優秀な国学者であったことを、紹介しています。
しかし、その川添教授の紹介文を読みますと、種信は私淑していたどころか、江戸勤番の帰路松坂の宣長の居宅に寄り入門しているのです。川添教授は言及していませんが、本居宣長は『馭戎慨言』に述べられている「卑弥呼は熊襲の酋長で国王を僭称した」という説を唱えていた人物です。
青柳種信は、その本居宣長の考えを心の底に持っていた人物、という目で、その著作『筑前国續風土記・拾遺』を読む必要があるのではないか、と思いつつ私はこの本に目を通しました。
特に気付いたのは住吉神社の歴史についての彼の見解です。普通、筑前の古代について述べる福岡に縁のある方々は、住吉神社は筑前が本家で摂津住の江本家説は間違っている、とします。種信はやんわりと「現人神社の社伝によれば、那珂郡仲村の現人神社が住吉社の本」ということを指摘し、現在の住吉神社ができたのは寧楽京〈ならのみやこ〉の時代であろうと述べています。
また、那珂川河口と博多との同一性について、海岸線が南へと変化していることを指摘し、万葉集に見える「伊知郷」という現在無くなっている地名についても言及しています。その種信が安徳村の東にある「大塚」についての意見は次です。【村の東に大塚とて有、里人は現人塚と云、仲村の現人大明神の古宮の跡と云。祟有とて里人恐れて近づかず。或云、大塚は原田種直の墳也といふハ誤也】と。
そこで現在その安徳にある大塚の現状は、と調べてみた結果と、私の手に余る問題について報告させていただきます。
2・安徳大塚古墳とは
国指定史跡「安徳大塚古墳」は、那珂郡安徳村から現在、地名表記が変わって、那珂川市安徳に存在しています。
福岡平野の那珂川流域に存在する古代遺跡は数多く、山陽新幹線や九州縦貫道、大規模宅地開発等で埋蔵文化財を発見されることも多く、たくさんの埋蔵文化財調査がなされています。
その調査の結果、いろいろと自治体や国が保護すべき遺跡かどうかを検討し、保護されるべき遺跡を指定します。福岡市郊外の古代から住みよい地域でもあった那珂川流域は、昭和40年代、住宅開発の波が押し寄せます。この安徳大塚古墳の存在する地域も例外ではありません。平成30年(2018)に那珂川町が「国史跡安徳大塚古墳保存活用計画」というパンフレットの那珂川町教育委員会安川教育長の序文に、つぎのような表現が見えます。
【那珂川町は清流と豊かな自然に抱かれて、古代より人々が生活の営みを続けてきました。その痕跡は今も地下に眠り、開発等に伴う発掘調査によって私たちの前にその姿を現わします。安徳大塚古墳も昭和45年の宅地造成の際に注目され、その後の福岡県教育委員会の調査結果によって、当時の福岡県内で最古級の前方後円墳であることがわかり、この貴重な古墳を保存するために関係者の努力が重ねられました。そして平成28年3月7日に国の告示が出され、那珂川町の第一号の国史跡となりました。】
那珂川町はそのように開発の波に見舞われ、多くの埋蔵物文化財調査報告書が見えます。この安川教育長が述べる「昭和45,6年頃の安徳大塚古墳関係の県教育委員会の埋蔵文化財調査報告書を見つけるべく努力しましたが、福岡県及び福岡市の図書館でも、ネットで奈良文化財研究所も探してみましたが、見出すことが出来ずにいます。
その代わり那珂川町教育委員会の数多い埋蔵文化財調査報告のなかに、安徳大塚古墳についての埋蔵文化財関係報告を次のように、いくつか見出しました。
その一つが(a)『那珂川町の文化財(Ⅰ)』です。 1982.3.31 那珂川町教育委員会
そこに、那珂川町の埋蔵文化財一覧が掲載されています。
249 安徳大塚古墳 前方後円墳 字大塚 古墳時代 段丘 埴輪 葺石 周溝
250 大塚第2号墳 円墳 字大塚 古墳時代 丘陵
このように「大塚第2号墳」という円墳の古墳名が見えます。しかし、翌年発行の『那珂川町の文化財(Ⅱ)』では大塚第2号墳は消えています。宅地化されてしまったのでしょうか?
二つ目がb)『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』です。
平成28年(2016)には安徳大塚古墳の調査報告が出され、晴れて「国指定史跡」と公認を受けることができた、と述べていますが、ここで掲載されている古墳地形図(添付図その1【91集にみえる安徳大塚古墳の標高】)の標高に疑問が生じました。
この地形図は1983年の『那珂川町の文化財(Ⅱ)』に「249 安徳大塚古墳」の紹介のページに次の位置図が掲載されています。
この古墳の位置に見える地盤標高は59mとあります。地形図は「91集」にみえる地形図と同じものの様です。つまり、「91集」に掲載されている地形図は、平成28年(2016)に県から提供されたものではなく、それ以前から那珂川町に県から提供されていた地形図であった、ということになります。
この位置図の左下に小山みたいな地形が見えます。この部分の調査は同じく町教育委員会埋蔵文化財調査報告76集に見える地域と思われます。
三つ目が、(c)『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』平成21年(2009)というタイトルの調査報告書です。これは、「大塚遺跡群の中の丘陵部に中世の城館遺構が存在していたか?」という目的で発掘調査がなされたものです。
その現地調査した折の地形図(添付図その3【76集にみえる大塚遺跡群地形図】)が掲載されています。この地形図その6は、お手元の資料頁6に添付しています。後に詳しく述べますが、これは『三国志』倭人伝が述べている卑弥呼の墓ではないか、といえるのでは、と私には思われたのです。この件については後で述べます。
3.『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』の問題とは
前項(b)の『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』平成28年(2016)には「標高」に問題があるのです。
そこに調査報告という形で付けられている地形図は、確かに均整がとれた、目鼻立ちのくっきりした古墳の顔貌をしているといえます。
私が不思議に思ったのは、「盗掘坑の土層図」との著しい高低差でした。そこに見える「盗掘坑地層断面図」には基準高58.4mが記されています。
そこに記されている土層図(添付図その4)に付けられている地山の標高は、56m強なのです。これは国土地理院の2万五千分の一の地形図の地形等高線から見て妥当な標高です。(添付図その5【国土地理院地図 不入道 平成25年現在より作成】)
ところが『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』に付けられている地形図の墳頂部の標高は、89m強の高さを示しています。地形図の標高表示が正しければ、粘土槨が存在したとされる位置は、墳頂から30m以上の下部にあった、ということになります。調査報告書に記載される後円部の噴高6mとあるのとは全く一致しないのです。
この地域は50~60mが基盤とされていますから、墳高6mであれば、墳頂部では56~66m程度になるはずなのに88m以上の標高が記されているのです。
『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』は次のように述べています。「はじめに」の中に次のような文章があります。
【昭和45年(1970)に古墳の周辺で大規模な宅地造成の計画がなされ、昭和46年(1971)に福岡県により確認調査が実施された。調査の結果、当時としては福岡平野で最も古く、とりわけよく旧態をとどめ、この時期の古墳としては県内でも特に均整のとれた墳形を残した前方後円墳であり、史跡的に重要な価値をもつ古墳であることが判明した。
その後、本古墳は開発から除外され、昭和54年(1979)10月19日には文化財保護審議会より史跡指定の答申が出されたが、諸条件が整わず告示には至らなかった。
その後、幾度か文化庁・県文化財保護課・地権者等と協議がもたれた結果、平成26年4月、町の総合政策会議で史跡指定に向け作業を進めることとなり、「安徳台遺跡群」と併せ、「安徳大塚古墳」も指定に向けて調査研究を行う方針がだされた。
これに伴い、昭和46年(1971)度に福岡県教育委員会により実施された確認調査の結果をまとめることが必要となり、文化庁及び福岡県教育委員会より指導を受け、昭和46年に県教育委員会によって作成された図面・写真を用い、本書を刊行する運びとなった。】とあります。
つまり、この『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』は昭和46年の県の調査報告に基づいて町が作成した、と言っています。
その福岡県が行った調査報告書を探しているのですがまだ見つけるに至っていません。これは、今回『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』で昭和46年度の調査報告に基づいて町が作成したので、昔の報告書を残す必要が無くなったので廃棄されたのかもしれません。
県教育委員会文化財保護課にメールで昭和46年の埋蔵文化財報告年報などが存在するか、と問い合わせてみましたら次のような返事をいただきました。
“埋蔵文化財調査年報は平成6年から刊行されているものだけでそれ以前のものは、大宰府史跡については作成されているが、それ以外は作成されていない。県教育委員会の調査報告書第●集という形のものは、それぞれ図書館などに収蔵されている”ということでした。
分かったことは、この『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』にみえる地形図や写真等は「県教育委員会」から提供されたものであり、なぜか地形図の標高が間違っていた前方後円墳の地形図であったのです。現地には盗掘坑が存在していたので、その部分については追加調査を行ったので、私が指摘する「古墳標高の異常値」が生じたものでしょう。(追記:これについては本年1月5日、教育委員会でお聞きしたら、この盗掘坑の調査も昭和45年の調査時のもの、ということでした)
4.国史跡指定後の安徳大塚古墳
この安徳大塚古墳の地形図に疑問に思い、もし地形図が間違っていれば、現地に行けば20m以上の標高の差は目視で判断できる、と思い見学について、那珂川市教育委員会に問い合わせてみました。
その返事は“現時点におきましては、公開していないため見学等は行えません。現在、公開に向けて整備等の準備を行っているところです。公開までには数年かかる予定ですが、公開となりましたらホームページ等で周知を行います。ご希望に添えず大変申し訳ございませんが、ご理解賜りますようよろしくお願いいたします。”というものでした。
折角の観光資源を生かすことが、国指定史跡となって5年経ちますが、未だ活用出来ずにいるようです。この表看板とでもいうべき典型的な姿の前方後円墳の地形図が、その基本的な「標高」に疑問があれば、公開に躊躇することでしょう。ひょっとしたら、別にもっと違う問題があるのかもしれませんが。
ところで、平成28年(2016)に無事国指定史跡になったあと、町はこの国指定を受けて『国史跡安徳大塚古墳保存活用計画』を策定し、魅力ある観光資源として活用しよう、という意気込みでの90頁もの大型パンフレットを平成30年(2018)3月に発表されていました。
その『保存活用計画』というパンフレットの表紙と裏表紙にかけて、安徳大塚古墳の地形調査図の画像が装丁として使われているのです。県から頂いた地形図のおかげで国の指定史跡になった、ということで敬意を表してパンフレットの装丁に用いたものでしょう。標高を示す数字は若干ボケてはいますが、後円部の頂部で88mと判断できる程度に印刷されています。
その『保存活用計画』の中に「図28:安徳大塚古墳墳丘測量図」が掲載されています。
次のような説明があります。
【2-6 発掘調査の概要 安徳大塚古墳の発掘調査は、昭和45年(1970)に現在の史跡地およびその周辺で大規模な宅地造成(現在の王塚台)の計画がなされ、昭和46年(1971)、福岡県教育委員会により実施されたものである。調査はまず墳丘測量が行われ、また後円部の盗掘坑部の精査と前方部から濠にかけてトレンチ調査が行われている。】とあります。
これによりますと、那珂川町教育委員会で改めて墳丘の測量をレーダーによる航空測量実施した、と述べています。その航空測量など行った結果が添付されています。その地形図(添付図その6)と『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』の地形図(添付図その1)とを見比べてみますと、標高の数字だけが違っていて他はそっくりなのです。
第一、レーダーによる航空測量で照葉樹林で標高を正確に知ることは難しく、照葉樹林の場合調査区域の照葉樹林は総て伐採されなければならないのですが、この町が行った航空測量では党が位置を伐採したことを示す写真はなく、50年も前の調査時の伐採された状況の写真が使われているのです。昭和46年から50年経てば竹林主体の植物相はすっかり復元されていて、レーダーで正確な地形図を作成することは難しいのです。ただ、5~10m程度の誤差含みであれば標高もつかめた、と思われますので、那珂川町の文化財保護担当の方は、50年前の「県から頂いた地形図」の標高の誤りを気付いたことと思います。
ともかく、『保存活用計画』の表紙の地形図との30mもの標高の違いを説明しておかなければならなかったのではないでしょうか。まあ、国指定史跡というお墨付きを受けるための、急ぎの作業で「調査結果報告」という書類が緊急必要だったのであったとしても、その後、訂正なり修正なりされるべきだったと思います。
ともかく『91集』と異なる標高については『保護活用計画』には一言も説明がありません。「歴史的価値」という項目で、青柳種信の『筑前国續風土記拾遺』での「安徳村の大塚」の記事を【古墳に対する畏怖の念が地元の人々にあった様子が書かれており、古墳時代において政治的、権力的意味を持っていた場所として認知されていたことを示している】という評価をしている。(同書p49)
しかし青柳種信は「古墳一般」について「祟りがあると言って里人近づかず」と言っているのでなく、「大塚」について特に述べていることを歪曲して理解しているようです。
『保存活用計画』の中に航空測量を行った結果の測量図という説明はあります。しかし県が大塚古墳群の調査を行ったとされる昭和45年からすでに50年経過しています。その間に地形が全く変化していないというのは理解に苦しみます。なぜなら、古墳中心に向かって盗掘坑が存在しています。そのむき出しの盗掘坑が50年の歳月に全く変化をみせていないはずはないと思えるからです。
航空測量を行ったのは事実でしょうが、その姿図は、県から頂いた昭和45年の姿図に基づいて標高の数字だけを書き換えたのではないか、と思われるのです。
しかも、その『保存活用計画書』の表紙に使用したこと、調査報告書91集の県教育委員会作成の地形図で国指定史跡になったことについては何も述べられていません。町教育委員会としては、県教育委員会の調査報告としての地形図に対して、批判することなどできない雰囲気にあったのだろう、と推測されるのです。
いわばフェイクの地形調査報告書に基づいて、国史跡を得た、という不祥事、これを自らが明らかにすることができないでいるのではないかと思ってしまいました。
近隣の自治体、太宰府市は別格でしょうが、春日市は須玖岡本遺跡、大野城市は大野城遺跡、筑紫野市は五郎山古墳とそれぞれ観光の目玉となる国指定史跡を持っています。神功皇后伝承の裂田溝や安徳天皇仮宮伝承のある安徳台など豊富な古代遺跡伝承がある那珂川町には皆無であることが、町民上げての期待が国指定史跡というお墨付きを得ることであったことは疑いないことでしょう。また、福岡県教育委員会の方々も、そのような那珂川町の状況に協力を惜しまない態勢をとり、国の指定を得るために協力を惜しまなかったと思われるのです。
しかしそのように県と町の協力で折角「国指定史跡」のお墨付きを得たにもかかわらず、その過程でフェイクと思われる地形図を使用した、という瑕疵が重荷になって、折角国指定史跡を受けたにも関わらず、貴重な文化財を活用できずにいるのではないか、と私などに意地悪く忖度されてしまったのです。
ここは、過ちを即ち正すには憚ることなかれ、と論語にあるように、経緯を説明し必要な修正を行うことが、那珂川市の今後の文化財保護活用行政に必要なことではないか、とまだ関係者がご存命のうちに訂正されるべきではないかと愚考したのです。
もし、この安徳大塚古墳の国指定史跡を得るために行った不正行為であったとしても、市民の理解は得られるのか分からずグズグズしていては、結果として、世の顰蹙を買う結果になるのではないでしょうか。因果応報として現在の那珂川市当局がと処理に困っている(?)のではないか、と高見の見物を決め込むこともできないのです。
意地悪く忖度すると、那珂川市としては、折角市制発足のお祝い的な国指定史跡を市にもたらしてくださった、県教育委員会のお偉方に傷がつき、叙勲の栄誉を棒に振る結果になるなど、恩を仇で返すことになるのを恐れて、一寸延ばしに結論を出さない、というか出せない状況にあるのではないのか、と思ってしまったのです。
私は一介の古代史好きに過ぎません。このように、私個人が那珂川町時代の教育委員会がまとめられた各種の埋蔵文化財についての公刊された資料を読んでみた結果生じた疑問を述べたにすぎません。
ただ、この安徳大塚古墳と那珂川町教育委員会が認めた古墳が果たして青柳種信が「安徳村」の項で言う【村の東に大塚とてあり。里人現人塚といふ。仲村の現人明神の古宮の跡といふ。祟りありて里民おそれて近づかず。或云、大塚は原田種直の墳といふハ誤也】の「大塚」と同一のものなのでしょうか。
現人神社故宮の址は全く見えず、原田種直の墳でない、ということは、古墳時代前期であろうという時代判定で、種信の意見にあっているようですが、祟りがある、という伝承がなぜ生じたのか、という根拠は見えません。先ほど紹介したように『保存活用計画』が述べる「昔の人は古墳を畏怖していた」ということでは理解できないのです。
私は、不正に得た国指定史跡について、正義感から問題視しているのか、と自問すれば、そうだとも言えないと思います。もし自分が当事者の一員であったら、何としてでも「国指定史跡」を獲得するために努力をしたことでしょう。では、なぜ問題視するのか、というと、古代の貴重な史料である古墳を調べるのに、このようないい加減な調査報告が出て来て、おのれの古代史の勉強を邪魔した、と思われるところからの様です。
このいい加減なとも言える「安徳大塚古墳」の評価によって、この安徳大塚古墳が保存に値する古墳時代の遺跡というお墨付きを得るために、もっと古いかもしれない、ひょっとしたら弥生時代末期の重要な墳墓、『那珂川町の文化財(Ⅰ)』にみえる「大塚2号墳(円墳)」が、消される結果になったのではないか、那珂川町文化祭保護担当者によって、その価値を顧みられることなく、闇に消えた「遺跡」が存在していたのではないか、という疑いが私に生じたのです。
このように一介の古代史好きの者から、折角の「国指定史跡」に傷が付くような疑いをかけられるような事態に至ったのは、それこそ青柳種信が拾った「近づけば祟りがある」というその「祟り」が那珂川町の教育委員会に現実に生じた、ということになるのでしょうか?
以上くどくど述べてきましたが、何が知りたいのかというと簡単なことです。
① 『那珂川町埋蔵文化財調査報告91集』に掲載された古墳地形図の来歴
② 『国史跡安徳大塚古墳保存と活用計画』の地形図が①の地形図と標高以外はそっくりなわけ。
③ 『筑前国續風土記拾遺』にみえる青柳種信の意見についての教育委員会の見解への疑問
④ 那珂川町の文化財(Ⅰ)に見えていた大塚2号墳(円墳)が翌年の文化財(Ⅱ)では消えた理由
今回このように例会で安徳大塚古墳についての調査の報告をするにあたり、図書館に公開されている調査報告書や関係出版物や市のホームページなどから得た情報に落ちがあれば、と思い、市教育委員会にこのような安徳大塚古墳の国指定史跡を得るための地形図が正しくないものである、という報告をするのだけれど、なにかご意見有れば、と伝えましたら、1月5日に会いたい、と連絡があり、話を聞いてまいりました。結論的には次のようなことでした。
このミスについては、文化庁など関係先にはミスを報告し了解してもらい、その後、この地形図を用いる場合は「正誤表」を付けてお知らせしている、ということでした。
5.大塚2号墳は何処へ
この安徳大塚古墳がある近傍には複数の古墳的な遺構が存在していたとあります。『那珂川町の文化財(Ⅰ)』に記載のある「円墳の大塚2号古墳」は翌年(1983年)の『那珂川町の文化財(Ⅱ)では姿を消しています。
おそらく『那珂川町の文化財(Ⅰ)』にある、前方後円墳の大塚1号墳が、平成28年(2016)に国指定史跡「安徳大塚古墳」と命名されたのでしょう。
では大塚2号墳(円墳)はどうなったのでしょうか。その調査報告かと思われるのが、『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』ではないかと思われるのです。
『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』の調査目的について、その序文に次のような文章があります。【今回の発掘調査は、大規模な宅地開発に伴い実施したもので、調査の結果、中世後期の城館跡を中心とする遺跡であることが明らかになりました。】と平成21年3月31日付けで、那珂川町教育委員会教育長の名で述べられています。
調査の記録として、1.はじめに に次のように述べられています。
【現状で、尾根上には分布地図上に周知される大塚1号墳のほか、地形図(付図1)に示すとおり、曲輪状の平坦面とその東と南に土塁上の高まりが認識でき、また、斜面部にはいくつかの狭長な平坦面が観察できた。(中略)
本掘に先立ち、古墳主体部の確認とトレンチ調査による各平坦面における遺構の分布状況の確認をおこない、結果、主体部を確認できず、斜面部東半についても、顕著な遺構は認められなかった。従ってその範囲を地形図に記録するに留め、遺構を確認した範囲を調査地として選定し、調査を開始した。
調査地は東西の2区にわけ、東区から西区へとおこなった。検出した遺構は、曲輪、堀、土塁等の城郭関連遺構、掘立柱建物、土壙およびピットであった】と。
ただ不思議なのは、この調査地が尾根のどのあたりにあったのか、ということが何処にも記載されていないのです。91集の「安徳大塚古墳」の所在の地図で私が述べた推定位置に存在したと思われるのですが。これは、現在この地域は削平され住宅地になっているため、地域住民への配慮によるものと思われます。
どうやらここで述べられている「大塚1号墳」というのがまだ国史跡に指定されていない、後の「安徳大塚古墳」をさすものと思われます。そして“古墳主体部を確認できなかった、として「古墳」ではなかった”としています。
しかし、「古墳」は多くが平地ではなく丘陵部に設けられているものが多いことはよく知られています。その場合墓構は比較的地山に近く設けられその上を周辺に濠を設けてその土を覆土として用いているようです。また、既に古墳時代に入っていた北部九州の3世紀の倭人の葬送について、「棺あれど槨なし」と「倭人伝」にあるように、木棺が用いられ、その木棺を保護する「槨」は無かったのです。しかし、弥生末期というか古墳時代初期の福岡平野では、「棺有れど槨無し」であったのです。
弥生時代の典型的な甕棺葬が、佐賀の吉野ケ里や福岡でも金隈遺跡や西小田遺跡で集団甕棺墓が弥生期の日本列島の人類の形質などの研究に大きな財産となっているのは周知のことです。
しかし、近年の比恵那珂遺跡調査に関連して福岡市教育委員会の久住猛雄氏は「大量の杉材の移入」の痕跡の存在を発表されています。(2018年11月大阪歴史博物館における「古墳時代における実証的比較研究」総括シンポジウム)
鉄鋸の使用で板材の使用が普及すれば、「甕棺」に替えて「木棺」が用いられたことを「倭人伝」は証言しているのです。ただ、木棺の場合、その遺体が「土に還る」のは早く、長くても百年と言われます。(「墓じまい」でネット検索すると条件によるが50年~100年とあります)
この『76集』の「丘」部分の頂部に「木棺墓」が存在していても、中世には既に「遺物」は存在していなかったのです。そこを削平して見張り所などを作るのに原田氏は何も痛痒を感じなかったことでしょう。
1月5日の那珂川市の文化財担当者との面会で、当方が中世以前の遺構であり得ることを指摘していることについて、あそこには唯一小さな甕棺が一つ出ただけだった、と言われました。
甕棺が標準だった時代の後、についての古代墓制について、「倭人伝」という貴重な記録が頭の片隅に調査担当に浮かばなかったことが残念でした。
ここの調査目的は中世のこの地の覇者原田氏がこの見晴らしの良い地に城館などを設けたのではないか、その遺構が残っているのではないか、と行われたものです。当然原田氏は大昔の祟りあり、という伝説を笑い飛ばして現人神社の古宮遺構を、その下の墓壙とともに撤去し「曲輪状の平地」に削平し、望楼などを造ったことでしょう。そして『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』に見られるように、文化財調査の目的であった中世の城館の遺構らしいものを発掘して満足されたのでしょう。
しかも、周囲の裾野部分にたくさん発見された「土壙」について、専門家の意見を広く聞かれることもなく、評価は全く見えません。その中世の遺構が保存に値するものかどうか、内部で議論はあったことでしょうが、開発派の意見が通り、現在の王塚台四丁目になったのでしょう。
私の推測話は一応中断して『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』の内容の紹介に移ります。
6.「76集」の報告の内容
この『那珂川町文化財調査報告書大塚遺跡群76集』の「付図1」という地形図が、本論考の【添付図その3 76集の大塚遺跡群の地形図】です。完全に円墳とは言えない形状ですが、『三志』「倭人伝」にある「径百余歩」(魏の1里は約76mで、1里は300歩、1歩は26cm程度で、百余歩は約30mほど)という形に適合しない、とはいえない形状なのです。
この地形図を見てどこかで見た古墳と同じ形をしているなあ、と思いました。おそらくその墓域に選定した地が同じような尾根だったのではないかと思われます。
一つは那珂川町の文化財(Ⅱ)に1見える87番の史跡、妙法寺古墳群の1号墳です。同じような姿ですが、こちらは前方後円墳と仕別けされています。前方部は削平されたと判断されたのでしょうか。所在地は那珂川町大字恵子字妙法寺で築造年代は4世紀後半です。
大塚古墳群の2号墳(円墳)の方は出土品が無かったので、中世の城閣址と判断したものでしょう。
尚この調査書には丘の裾部に多くの土壙が存在したことが報告されています。その中でも「東区」としてその分布状態が地図的に詳しく報告されています。
(上の付図3は調査報告書76集に見えるものを本稿に添付図その7【76集にみえる土壙などの分布図】として掲載しました))
この『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』には、中世の遺構調査目的ではあったが、発見された土壙46基のうちの44基は縄文~弥生期のものであった、と報告しています。この「東区」とは、どうやら「安徳大塚古墳」とこの「76集」の丘の間に存在していたとおもわれます。なにしろ、この「丘」の存在する場所が、先のにべましたようにはっきりしていないのですが、全体の状況からそう判断して間違いないと思います。
また、ほとんどの土壙には出土品というべきものは殆どなく、そのうちの2基にはサヌカイト鏃が残っていた、とも報告しています。土壙3号の姿図を参考に掲示しておきます。このようなサイズの土壙が数十基も散在しているのです。(添付図その8 【3号土壙図】)
何となく、「倭人伝」の卑弥呼の死亡時に殉死する者百余人とあります。鏃が出土したのは、都城を守備する武人も殉死したのか、など想像を掻き立てる調査報告書なのです。
弥生期の出土品としては、7号土壙に25センチ径の甕が出ています。 小ぶりの甕が1個発見されていることについても、あの世で困らないように種籾を殉死者が甕に入れて持参した、とも想像されるのです。
石鏃が二か所で発見されたのは、倭人伝には「兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭あるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」と詳しく述べています。石鏃とは書かれていませんから、縄文期の墓地の遺物の可能性もあります。しかし、縄文期には部族間の戦いはなく、戦いは弥生期に始まったというのが現在の考古学の見方です。だとすれば、その定説を覆す意味でも貴重な遺構と言えるのではないでしょうか。
つまりこの区域は「中世の遺構」ではなく、「縄文~弥生の遺構」でもあると言えるのです。青柳種信が「安徳村の東の大塚は中世以前の遺構ではないか」というような意見に見合っているこの『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』の調査報告ともいえるのではないでしょうか。
又、この「丘」は地山の上に厚いところは2mほど多種の土で覆われていたと、その土層図に種別が示されています。その土質の違いは何と50種類以上に及ぶのです。墳丘部でも7種類の違う覆土層があることが報告されています。(添付図その9【76集トレンチに見える覆土の土層図】)
疑問は、楼観と言おうが望楼と言おうが、それを設けるのにこの小高い丘を丁寧に分厚く整形する必要はなく、自然の丘であれば頂部を削平すれば済むことでしょう。なぜこのように丘全体を2メートル近く覆わなければならなかったのか、という疑問がこの調査担当者には思い浮かばなかったのでしょうか?
中世の城館を丘の上に建てるのに、現場の近傍からとは思われない多種の覆土を持ち込んで、このような丁寧に築山を造成したとはとても思われないのです。
私には「倭人伝」にある「大いに冢〈ちょう〉を造る」の表現と符合すると思われるのです。近くの多くの村の人々が自分たちの近くから「地元の土」をそれぞれ運び込んで棺を覆ったのではないか。その様子を目撃した魏使の感想が「大いに冢を造る」という表現になったのでは、と思えるのです。
安徳村の大塚は「中世の遺構ではなく、現人明神とのかかわりのころから存在したのではないか」という青柳種信の考えの当否はともかく、『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』に見える遺跡調査は、「中世の遺構探し」に集中されて始まって、そして終っています。
古代の埋葬形式には地域や時代によってさまざまです。この那珂川流域でも時代によって変化しています。土壙墓主体の縄文時代から、弥生期の甕棺墓の時代、古墳期には木棺墓そして粘土槨を用いたり、古墳時代には石棺墓が主になったということでしょうか。弥生町の貝塚から古代の人骨が発見されたり、土井ヶ浜遺跡のように貝殻類の石灰質の砂浜で多数の人骨が発見されのは稀有の例で、阿蘇火山灰の酸性土壌のこの那珂川流域では、遺骨はどれくらいの年月で土に帰るのか。一般的には百年程度とされています。
この大塚遺跡群は慎重に、中世の遺構さがしが主眼であったにしても、もっと複眼の視点で調査をして欲しかった、と惜しまれます。ただ、調査は『91集』のような雑なものでなく、精密になされています。この遺跡記録を私のような素人目でなく、もっと学術的な眼で再検討されるべきと思います。
7.なぜ中世遺構にこだわったのか
このなぜ「中世遺構が目的なのか」という疑問は、文化財保護についての当時の流れをみると、「なぜ中世の遺構調査に熱心になった?」の疑問が解けるようです。
たまたま、昨年秋のこの例会で「古都大宰府保存協会」が機関誌『都府楼』52号「特集 大宰府史跡指定100年」という冊子を不知火書房さんが紹介されていました。その中に「戦後の史跡指定の動き」という報告のなかに次のような文章がありました。
その概略は、【文化財保護法の制定(昭和25年)に続き、昭和26年から戦後の史跡指定がはじまった。昭和43年に担当部局「文化庁」がおかれた。指定基準も変更され、戦前の南朝系統に傾斜していた中世城館遺跡もその偏向が是正された。史跡指定には通常のやり方にて取り組む一方、特定のテーマを設定して調査と指定を促進する場合もある。昭和58年(1983)からは中世城館遺跡・近世大名家墓所、昭和63年からは産業交通土木遺跡について研究者を中心とする検討会を設け、都道府県からの調査報告をもとに指定を進めている。】というものです。(同書7~8頁)
この「中世の城館遺構」という国のテーマに副った発掘調査が『那珂川町文化財調査報告書大塚遺跡群 76集』の調査報告であった、ということなのでしょう。
ただ残念なのは、この「大塚遺跡群」の調査は目的とした“中世の遺跡としては大したものは出土せず”という報告に終わっているように見えます。
この「大塚遺跡群」の調査区域は「大字安徳142ほか」とありますなぜか「小字」名が抜けていて場所の特定ができません。現在の「安徳大塚古墳」の所在地は、「大字安徳字大塚140番ほか」です。少し地名表現は違いますが、現在の「安徳大塚古墳」の近傍にあるだろうと思われるのです。
開発すべきという立場からみると、縄文~弥生期の墳墓遺跡という見解は排除したいと思うのは自然です。この調査報告はそのような立場から書かれた、というように私には思われるのです。
「安徳大塚古墳」が国指摘史跡となって那珂川町が著した『国史跡安徳大塚古墳保存活用計画』平成30年(2018)にという冊子には、いろいろと近傍の地形図が掲載されていますが、「大塚古墳群」が存在したことを窺える地形は、添付図その3にその片鱗が見えるようですが。安徳大塚古墳の所在地の北西部に若干緑地が残っていますが、少しでも残っていればさいわいです。(添付図その10【安徳大塚古墳近傍の現況】)
もう既に“保存に値する遺構の出現を見なかった遺跡”として、この周辺地域の沢山ある「古墳調査後出土品の収集や発見時の状況などを記録した古代遺跡」、例えば福岡県教育委員会の調査記録として残されている安徳に近いところの「炭焼古墳群」がありますが、その古跡は何も残されていません。そのように「大塚遺跡群の曲輪状の丘」も姿を消してしまっているのでしょうか?
1月5日の文化財担当の方の説明では、既に開発されているという口ぶりでした。ただ、どのあたり、という質問には地元の居住者に対しての配慮なのでしょうが、口を濁されて答えていただけませんでした。
折角地元那珂川町教育委員会が行った発掘調査でしたが、「中世の遺構調査」という目的にのみ目を向けた調査報告となっています。折角発掘調査できた「縄文~弥生」期の遺構を発掘しながら。この方面の考古学者などの意見を参照することもなく終わっています。
これでは、青柳種信が伝える「里人は祟りを恐れて近づかず」という言に背いて「勝手に掘りちらかして結局何も報告できず、祟りがあるのではないか」と思われてならないのです。
今回は割愛しましたが、「安徳台遺跡群」『第67集』では、西谷正・小田富士雄・中橋孝博というそうそうたる考古学各方面の専門家に指導をお願いしているのです。なぜ、大塚第二号墳の調査においても、同じように指導を受けなかったのでしょうか。私には文化庁の「中世の遺跡ならば保存対象になる、国指定史跡になる、という掛け声に踊らされて、卑弥呼の墓の資格のある安徳村の大塚が消されてしまった、という思いが強いのです。
今回この論考を書きながら一番残念に思うのは、折角50年前に古田武彦氏が『三国志』に見える「邪馬壹国」は博多湾岸の平野部にあった、というところまで解析されたのですが、それ以後の、では、その都城はどこ?卑弥呼の墓はどこ?壹與以後の王統は?の研究は滞っているように思われることです。
50年前と同じように、「邪馬壹国」ではなく「邪馬台国」でありヤマト国だ。卑弥呼の墓は纏向古墳だ、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命〈やまとととひももそひめのみこと〉だ、という説がまかり通っていることです。
私は、古田説「邪馬壹国=博多湾岸から広がる平野」を進めて、那珂川中流域の「安徳台」と呼ばれている台地が卑弥呼の都城であった、と推定しています。今回、その立場から観ると、数少ない古代の遺跡が闇に葬られたのではないか、という悲痛な思いがついつい表に出てしまいます。つい、文化財保護行政に携わる方々を非難する論調になってしまったところもあるかと思いますが、なにとぞ白髪頭に免じてご寛容ください。
この『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』の調査報告から、卑弥呼の墓の可能性について、いくつかその傍証的な事柄を挙げてみました。古墳について素人同様の知識きり持ち合わせのない私の幼稚な意見と思いますが、同学の士の忌憚ない意見をいただきたく述べさせていただきました。
今回那珂川市の担当者の方から、現在その「丘」は残っていない、というお話をお聞きしまして残念でしたが、幸い詳しい調査報告が残されています。この報告書や安徳台遺跡の調査報告書も、もう少し素人ながら研究させてもらいたいと思っています。
私の蒙を啓いていただければというお願いを聞いていただき、このような機会を設けてくださった「倭国を徹底的に研究する九州古代史の会」に感謝申し上げ結びとします。
2022.1.09
(ももち文化センター3F 視聴覚教室にて九州古代史の会2022年1月例会の発表原稿)
添付図
添付図その1【91集にみえる安徳大塚古墳地形図】
添付図その2【那珂川町の文化財(Ⅱ)にみえる位置図】
添付図その3【76集の大塚遺跡群の地形図】
添付図その4【安徳大塚古墳盗掘坑土層図】
添付図その5【国土地理院地図 不入道 平成25年現在より作成】
添付図その6【保存活用計画にみえる古墳の地形図】
添付図その7【76集にみえる土壙などの分布図】
添付図その8【76集3号土壙詳細図】
添付図その9【76集トレンチに見える覆土の土層図】
添付図その10【安徳大塚古墳近傍の現況】
参考図書
『筑前国續風土記・拾遺』青柳種信 文献出版社 1993年
『国史跡安徳大塚古墳保存活用計画』 那珂川町教育委員会 2018年
『那珂川町の文化財(Ⅰ)』 1982.3.31 那珂川町教育委員会
『那珂川町の文化財(Ⅱ)』1983.3.31 那珂川町教育委員会
『安徳大塚古墳 那珂川町文化財調査報告書91集』平成28年(2016)那珂川町教育委員会
『大塚遺跡群 那珂川町文化財調査報告書76集』平成21年(2009)那珂川町教育委員会
『安徳台遺跡群 那珂川町文化財調査報告書67集』平成18年(2006)那珂川町教育委員会
『都府楼』52号 2021.3 古都大宰府保存協会
『新訂魏志倭人伝他中国正史日本伝(1)』 石原道博編訳 岩波文庫
『「邪馬台国」はなかた』古田武彦 1971年 朝日新聞社
『新日本古代史』古田武彦 1991年 新泉社
『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』 中村通敏 2014年 海鳥社