道草その17 「奴」をどう読むか    棟上寅七(むなかみとらしち) 【古田史学の会 論集古代に真実を求めて 第12集 より転載】


 この論文は上記のように論集に掲載された棟上寅七の論文です。この論文は、以前このホームページで発表した「道草その7 奴をどう読むか」(2006年11月)を、道草その7補遺「奴はナに非ずの仮説と検証」(2007年8月)にて発展させ、今回古田史学の会の論文としてまとめたものです。したがいまして、「道草その7」および「その7補遺」は取り下げます。

 はじめに

 この「奴」という字をどう読むか、このことは、邪馬台国論争の根幹にかかわる問題ということは皆様ご存知のとおりです。しかしながら、この問題をまとめて取り上げた方は、古田武彦さん以外にはいらっしゃらないようです。

古田先生は、「奴はド・ヌ・ノであろう」(「邪馬台国」はなかった、奴をどう読むか)と述べられるにとどまっていらっしゃるようですが、その後「倭人伝を徹底して読む」で「奴佳?」の読みの、「奴」は ド、ヌ (農都切・奴故切)とされています。そして、“奴国をナ国と読んで博多にあてるが、これは間違い。博多の東隣に「奴山ヌヤマ」という地名が残っているように、「奴国はヌ国」と仰っています。

今回、「奴」の読みは「ノ若しくはヌ」であって、「ド・トでもナ」でもない、ということをまとめてみました。

 ひょっとして数学的に「奴はナではない」と証明できないか、と試みましたが、数学的な絶対性のある証明までには至りませんでした。(巻末付録参照)

「奴」という文字が古代史で出てくるのは、ご存知のように金印と倭人伝です。漢委奴国王印を貰ったのは帥升という王様で、一世紀半ばのことです。次に、三世紀の魏志倭人伝で「奴」という文字が出てきます。当時の日本の国名や官名・人名を表記するのに、表音文字として使われています。「奴」は古代中国でどう読まれていたのでしょうか。一世紀と三世紀では同じだったのでしょうか?

 たとえば藤堂明保編「漢和大字典」学習研究社によりますと、奴の発音 「上古音nag  中古音no(ndo)  中世音nu  現代音nu」とあり、ナ・ノ(ンド)・ヌとなっています。(古田先生の著書よりの孫引き)

ナ・ノ・ドどうでもとれるようなので困ります。

 皆さんご承知のように、「奴」をどう読むか、が志賀島で発見された「漢委奴国王印」の委奴国の読みにかかわり、①「倭の奴(わのな)国」説、②「伊都国(奴=ド・ト)」説、③「委奴国(奴=ヌ・ノ)」説と分かれます。各説を見ていきます。

①「倭の奴国」説

委奴国を、倭(わ)の奴(な)国と読む、これが現在の古代史のいわば定説となっています。

「奴」を「ナ」と読むことを言い始めたのは、本居宣長と言われます。その邪馬台国熊襲偽僭説で、『奴国=那の津』を唱えたそうです。その後、明治二十五年に三宅米吉博士が、志賀島出土の金印を、漢の委(ワ)の奴(ナ)の国王印と読むことを提唱されました。「奴」は上古音で「ナ」であり、那の津(福岡市)と今でも地名が残っているように、奴国は博多湾岸の国であろう、という説です。しかし、”奴”の上古音は「ナ」であった、という証明はされていないようです。三宅博士以前は後述のように、委奴=イト説が通説とされていたのです。しかし、三宅説発表以降、奴=ナ が定説として定着したようです。

私は“新しい歴史教科書(古代史)研究会“というホームページで、勝手に古代史本の批評を展開していますが、そのなかで、槍玉に上げた方々、高木彬光、松本清張、安本美典、皆さんいずれも「奴=ナ」読み説です。”逆説の日本史”井沢元彦さんもそうです。井沢さんは、言霊の力などおっしゃるので、「字」「発音」などにもっと注意を払われるのか、と思ったら、まったくそのような気配はありません。「奴」は当然「ナ」と、その根拠も示されません。

確かに、広辞苑によりますと、「なのくに 奴国 灘国 弥生時代の北九州にあった小国。後に儺県(なのあがた)、また那珂郡となる。」とあります。

しかし、博多湾は古来、那の津と呼ばれていたか、必ずしもそうとは云えません。

倭人伝に「ナ」の表記として使われているのは、「奴」ではなく、むしろ「那」や「難」である。「弥弥那利」や「難升米」という官名や人名にあらわれている、と古田武彦さんは『「邪馬台国」はなかった』の中の「奴国」をどう読むか、の項で指摘されています。そして、定説が「奴」を「ナ」と読んだのは、博多湾岸は、七・八世紀文献の地名として、「那の津」「儺の県」があり、それと結合させて、地名比定として「奴」を「ナ」と読んだ、とされます。

それに、万葉集などに出てくる博多港は、殆ど荒津という表記なのです。巻十二 三二一六番 「草枕 旅行く君を 荒津まで 送りぞ来つる 飽き足らねこそ」がもっとも有名なようですが。時代は下がりますが、八世紀に編集された万葉集(収録された歌はより古い時代も含んでいます)では「奴」は、ヌ にしか使われていないそうです。(講談社文庫 万葉集一 中西進 解説 4表現の方法 参照)

また、福岡市の住吉神社境内に掲げられている鎌倉時代の古代図でも那の津の表記はみえません。この図には、説明が付いていましたので、ご紹介します。【注:論集12には写真は省略しています】

博多古図解説

『この博多古図は、当住吉神社蔵の絵馬で、鎌倉時代に描かれたものを、江戸時代に筆写し、明治になって奉納されたものであります。西公園は昔から「荒津山」といい、現在の荒戸の地名は荒津の変化したものと云われ、「草ヶ江」は、現在の大濠公園や草ヶ江の地名に当時の面影をとどめています。また、「袖の湊」は平清盛が築いたものと云われ、対中国貿易の重要な港で、今の呉服町付近にあたります。この時代では、天神、中洲はもちろん博多の大部分はまだ海中にあった事になります。』

倭人伝に「奴」という字が沢山現われるのに、「ナ」と読むと、「ノ」の字が現われないことになる。このことから、数学的に「奴はナに非ず」ということを証明できないか、と試みました。巻末に付した『“数学的検討結果』では、倭人伝の30の国名に絶対「ノ・ヌ」が入らない確率は4%以下であること、が判りました。(96%以上の確率で、ノ若しくはヌがはいっていなければおかしい、ということ)

以上の事柄を総合的、理性的判断として、「奴=ナ」説は無理があると思います。




②「奴=ド・ト」説

これは、金印の委奴国は、福岡県の糸島の「伊都」ではないか、魏志倭人伝にも伊都国と出ている、ということを根拠に、最初に上田秋成が天明四年の金印発見の年に「漢委奴国王金印考」で唱えたそうです。

明治に入り、久米邦武も唱え、三宅米吉が『奴はドであり、伊都はトであり音韻的に合わない』、と指摘するまで、委奴=伊都説は主流であったようです。

しかし、古代日本語の音韻、甲類・乙類などを、中国側がそれほど正確に書き分けたか、ということには疑問があります。三宅博士の主張は論理的過ぎるともいえましょう。

最近では、「太宰府は日本の首都だった」の著者の内倉武久さんが主張されていますが、「奴」は漢音で「ト」であり「奴国」は「戸国」と、奴=ト説を主張されています。(『卑弥呼と神武が明かす古代』ミネルヴァ書房 2007年)

 ところで、「奴=ド・ト」としますと大きな問題が生じます。倭人伝には、沢山「奴」の文字が使われています。30の国名に8個の奴が出現します。それなのに、伊奴国という表記はされていません。ご承知のように、伊「都」国というよう明らかに「と」の表音記号としては「都」が使われてもいるのです。この点が「奴=ド・ト」のアキレス腱と思われますが、この問題をクリアーできた方は古田武彦さん以外まだ見ていません。(古田武彦さんは、邪馬壱国の副都という意味での伊都であろうとされています。邪馬壱国の論理)

魏志倭人伝の国名に「奴」が「ド、ト」という表音文字に使われたとすると、ちょっと多すぎるのではないか(確率は8÷30=27%)、日本の地名にそれほど「ド・ト」は使われていないのではないかと思われました。

そこで、「奴=ナに非ず」の場合と同様に、和名類聚抄にある西日本の郡名を調べてみました。255郡名の中に「ド・ト」が使われているのは、わずか10個に過ぎません。出雲国神門・美作国苫東・苫西・筑前国怡土・筑後国山本・山門・肥後国山本・宇土・讃岐国多度・土佐国土佐の10個です。確率は、10÷255=0.0392 約4%です。

これに対して、奴を「ヌ・ノ」と読んだとすると、21個の郡名があります。率にして21÷255=約8%です。乱暴な言い方をすれば、奴を「ト・ド」と読むより「ノ・ヌ」と読むほうが2倍以上の有意性があるといえるのではないでしょうか。

この「奴=ト」説を主張される方々は、委奴国の読み方だけでなく、倭人伝全体の「奴」の読み方として「ト」と主張しているか、どうもそのようではなく、委奴=伊都にもっていきたいがための、論に過ぎないようです。

後漢書には、委奴と並んで匈奴の記述もあります。北の猛々しい民族に「匈奴」と名付け、東方の従順な民族に「委奴」と付けた、と古田先生も説かれています。しからば、「匈奴」は何と読まれたのでしょうか。確証はないようですが、手がかりはあります。

北方民族は古来「胡」と呼ばれてきたそうです。「胡」昔も今も「フー」だそうです。「匈奴」を「キョウド」と読むのは今の日本での漢字の読み方です。これは委奴を「イド」と読むのと同様です。現代中国語で匈奴は、xiong-nu (ションヌ)だそうです。

一つの手がかりは、古代のフン族が立てた国、ハンガリー(Hungary)を中国語では「匈牙利(現在の中国語読みはションヤリ)」と表記していることです。又、匈奴を中国語辞典で引いてみますと、「漢代の北方民族、古来「胡」とも呼ばれ、西洋史にはHunsとしてあらわれている」とありました。「胡」はhuと読まれているようです。胡椒・胡桃・胡弓などの言葉にその存在の影響が窺えます。

推測ですが、「フン」という民族が中国では「胡(フー)」と呼ばれていた。そして、中国の皇帝が、強い嫌な奴だ、「胡」なんて奴輩ではない、「匈奴フン(フヌ)」という名前がふさわしい、としたものと思われます。そうすると、「委奴」も「ヰン(ヰヌ)」と読むべきだろうと思われます。

古田先生は「倭人伝を徹底して読む」の中で匈奴について言及されています。「史記」の大宛列伝の夷蛮の固有名詞を拾い上げていらっしゃいます。そして、「匈河水のほとりに住んでいたから匈奴で、胡の種族は胡奴と書かれている、とされます。残念ながら、匈奴をどう読むべきかについての意見は述べられていません。

もう一つ、蛇足的に付け加えますと、倭人伝の邪馬壹国を臺の誤りとして、邪馬台国とし、台をトと読み、邪馬台国=大和国とする定説があります。この場合も何故この場合だけ「ト」に臺を使ったのか、邪馬奴国であれば、卑字揃いでそれなりに理は通るのですが?

以上のことから総合的に判断して「奴=ト」説は、かなり無理筋と思われます。

③「奴=ヌ・ノ」説

私たちは、学校で”ひらがな”は漢字の崩し文字で出来た、と教わりました。「奈」から「な」が、「奴」から「ぬ」が出来たというように。前述のように万葉集では「奴」は、ヌ にしか使われていないそうです。

それと、ヌとノが同意語的に用いられていたことは、万葉集などからもうかがわれますが、沖縄方言では今でもヌがノと同意味で使われています。3世紀の倭国も同様であったのではないかと思われます。

「奴」が「ノ」 という説も、昔の人で述べた人もいないわけではありません。福岡藩の漢学者亀井南冥が、金印が発見され、漢委奴国王印 の読み方を、『「奴」は中国上古時代「ノ」と発音し、”漢の委(ヤマト)奴(ノ)国王”と読みます』と黒田藩主に説明した、と記録に残っています、が、これは例外のようです。

ご存知のように、日本の地名には「O野」とか、「OOノ」というように名詞につけて所有格的にもよく使われています。前述の、和名類聚抄にある西日本の郡名を調べて確率的に検討してみました。結果的には、奴がナではなくノである確率は約96%という結果でした。99%ぐらいであれば大手を振って発表できるのですが。ナである確率も4%弱なのですが、ゼロではないのです。(詳しくは巻末付録の「奴はナにあらずの検証」をご参照ください。)

古田武彦さんは、奴はドもしくはノ・ヌであろう、(『「邪馬台国」はなかった』)とされますが、以上のような状況証拠を総合的に判断すれば、一歩進んで「奴はノ」である、と判断してよいと思われます。

これは勝手な推論となりますが、「委奴国」は「ヰノ国」、つまり、きれいな水の豊富な「井の国」ではなかったのか、と思われます。

それでもなぜ、日本史の学者先生方は、奴をナと読みたがるのでしょうか。

「魏志倭人伝」に出てくる邪馬壹国は、戸数7万戸の大国と記されています。奴国は2万戸、伊都国は2千戸です。九州島内で、古来より開けていて弥生時代の考古学的出土品の質・量からして、最大の人口稠密地域は、博多湾岸地方であったろう、ということには、皆さんに異議は生じないと思われます。

奴国を「ナノクニ」と読み、博多湾岸地域に比定しますと、何が次に生じるでしょうか?

奴国(博多)より3~4倍の規模の国は、九州島内には求めることが出来ない、という結論です。つまり、邪馬壹国=邪馬台国=やまと国(近畿地方)という結論への誘導の障害が、なくなる訳です。邪馬台国は大和政権の国だ、という暗黙の了解事項が、この「奴」の「ナ」読みにあるということです。

この「奴」を「ヌ」もしくは「ノ」と読めば、魏志倭人伝の邪馬壹国への行路記事通りに、伊都国の東南八粁に奴国(野国でしょうか)があったことになり、伊都国と邪馬壹国(山井国・博多湾岸国家)の間に、不弥国(海国でしょうか)があったことになり、なんら矛盾点はなくなります。

いずれにせよ、通説「奴=ナ」という通説の権威に寄りかかって、根本的な疑問を、疑問視しない、学者先生方、それに追随する、マスコミ・歴史小説家の皆さんに、ご自分たちの空中楼閣の説を組み立てる前に、「奴=ナ」の証明を、まずしてから、砂上の楼閣の説でも構築にかかっていただきたいもの、と思います。

                              以上

参考書籍など 「邪馬台国」はなかった 古田武彦  朝日文庫  1975年

        風土記にいた卑弥呼  古田武彦  朝日文庫  1988年

        倭人伝を徹底して読む 古田武彦  朝日文庫  1992年

        邪馬壱国の論理    古田武彦  朝日新聞社 1975年

        万葉集             中西進    講談社文庫   1955年

和名類聚抄郷名考證  池邉 彌   吉川弘文館  1966年

辞海           上海辞書出版社         1979年

中日大辞典       愛知大学中日大辞典編纂処編   1968年

                                  

    

付録

  奴はナに非ず の仮説の検証 

 

『倭人伝の30もの国名に1個も「ノ」という音が入らない不自然さ』を、確率論から立証できないか、との試み、及びその結果を、物理学者K博士と棟上寅七との会話体で進めます。

 博士『歴史など専門外の私に相談とは、どんな問題なのですか?』

寅七『私は全く数学に弱いので、いつも数学を取り扱っている博士なら、簡単に問題を解いていただけるのではないか、と思っての相談なのです。具体的には3世紀のころの話なのです。中国の史書に日本の記事が出ていて、その中に「奴国」という国が出てきています。まず、「奴国」は、中国の上古音つまり殷・夏の時代には「ナ」と読まれていたという説があり、また九州博多が、古名「那の津」と呼ばれていたことから、奴=「ナ」、奴国は博多ということに現在の歴史家では通説になっています。

しかし、倭人伝には「ナ」に当てる表音文字として、「那」を当てているところもあるのです。もし、「ナの津」と呼ばれるように「ナ国」があったら、「那国」と書き表したと思われますし、わざわざ「奴国」と書き表さないのではないかと思われます。古田武彦説によりますと、奴国はヌ国もしくはノ国ではなかったか推測されています。』

 博『なるほど。それで私への相談は何でしょうか。』

寅『「奴」が「ナ」でなく「ヌ・ノ」である、ということを数学的に証明できるのではないか、と思うのです。この魏志倭人伝には、倭人国として30の国の名前が上げられています。それらの国の名を表すのに漢字を表音文字として使っています。「奴」は30カ国に八個使われていて、奴=ナ としますと、30カ国の国名に「ナ」が沢山入っているのに、全く「ヌ・ノ」が入っていません。 全く不自然な感じなのです。それで考えたのですが、日本の地名には、人名もそうですが、長野・中野・海の中道・野崎のように、「ヌ」はともかく「ノ」は使われる頻度は高いと思います。』

博『そうかもしれません、しかし、その頻度を数字的に表せないことはないでしょうが、どのように母集団をとるか、など、大変な仕事になるように思いますよ。』

寅『幸い、日本の古い地名、正式には「郡名」ですが、和名類聚抄に残っています。倭人伝の国々は西日本の国々と思われるので、山陽道・山陰道・西海道の郡が255ありますので、これらの郡名にどれ位「ヌ・ノ」が含まれているのか調べてみて、その結果を「ヌ・ノ頻度」として使えないか、と思うのです。もし、日本の地名を30個拾い上げて、その中に「ヌ・ノ」が入らないことはあり得ない、ということが証明できないものだろうか、と思うのです。調べてみますと、その和名抄の「ヌ・ノ頻度」は、255個の中で21個でした。これで計算すると、21÷255 = 0.0823です。30カ国だと0.0823302.470です。そうすると、30カ国拾い上げたら必ず、2カ国くらい入っている筈、つまり「奴はナに非ず」という結論でよいでしょうか』

博『確率というものは、そういうものではありませんよ。まず、255個の中の21個というデータ自体に不安定な要素があります。この21個の測定値はポアッソン分布なのです。

どれくらいばらつくかの指標は、その21の平方根で求められます。21の平方根は4.852 この程度の誤差を含んでいます。

本当の出現率は、(214.58)÷ 255(21+4.58) ÷ 255 = 0.06440.1003 の範囲にあるということです。このばらつきの相対値は、4.12÷17 = 0.242 です。

よろしいですか。次に、30個選んだときに「ヌ・ノ」が入る期待値は、30x0.0823 = 2.47個です。しかし、この0.0823という測定値にも誤差が入っているわけです。これもポアッソン分布なので、どれくらいばらつくかの指標は、2.47の平方根 1.571です。このばらつきの相対値は1.571÷ 2.47 = 0.636 です。出現率のときに生じたばらつきの度合いと、期待値のばらつきの度合いを加味しますと、トータルのばらつきは、次のようになります。{(0.218の二乗)+(0.636の二乗)}の平方根 0.672 。したがって、「ヌ・ノ」が入る期待値は、2.47 x 0.672 = 1.661 程度ばらつきます。』

 寅『具体的に説明していただくと助かるのですが?』

博『つまり、30カ国を任意に取り上げたときに、国の名前に「ヌ・ノ」が入るということは、次の範囲の値で示されます。(2.471.66)(2.47+1.66) = 0.814.13  この範囲でばらつくことになります。

寅『ということは、0.814.13 ですから、まあ大雑把に言って少なくとも 1 程度、つまり、「殆ど出現する」、と言ってよいのではないでしょうか。』

博『いいえそうではありません。逆に、255カ国の内から、30カ国を拾い上げてみたら、まったく「ヌ・ノ」が入っていなかった場合を見て見ましょう。この場合もさっきの計算と同様に、(2.470)÷ 1.66 = 1.487で、標準偏差の1.487倍だけはみだしていることになります。これは 「十分起こりうる程度」のレア度です。』

寅『その「レアの程度」を知りたいのですが。』

博『大学受験生の例でいいますと、学生一人無作為に抽出したら、その学生の偏差値が通常よりかなり高く、63.6であった、ということに対応します。これは十分起こりうることです。この63.6であったのは、抽出方法に作為があった、とはいえないのと同様だ、ということと、今回の設問の答えが同程度ということです。

寅『おっしゃることは、なんとなくわかるのですが、そこを数字的になんとか表せないのでしょうか。』

博『出現しない、つまり、「0」 というのは、この値からそうはみだしていない、つまり、「ノ・ヌ」がまったく入らない可能性はある、といえます』

寅『その可能性の度合い、というものはどの程度のものなのでしょうか。標準偏差からどれくらいはみでたら、「殆ど実社会では起こりえない程度の確率」といえるのでしょうか。』

博『標準偏差の範囲に落ち着く確率は、以下のガウス分布(正規分布表)によって示されます。

 1倍   0.6826894850

 2倍   0.9544997241

 3倍   0.9973002038>

 4倍   0.9999366575

 5倍   0.9999994267

 6倍   0.9999999980

インターネットで検索するには、下記のURLで検索すると正規分布の表を見れます。

http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/sensei/mnaka/ut/normdisttab.html

例題の、標準偏差から1.49倍以内に収まる確率をみてみますと、0.932です。この正規分布表の片側にはみ出るというのが、「ヌ・ノ」が全く出ない、という確率になります。その値は、(10.932 ) ÷ 2 = 0.0341です。この0.0341という値だと、まあ殆ど起きないのではないか、と一般的には思われるかもしれません。この約4%という確率をどう評価するか、ということが問題なのです。数学的には「起りうる」という範囲と思われます。どの程度はみでたら「起こりえない程度」と評価できるかは、その人の判断によりますが、標準偏差の5倍くらいにしておけばかなり安全ではないでしょうか。上の表で、9が6個並ぶくらいのところです。例えば、選挙の当選確実をテレビが打つには千分の一程度で十分かもかもしれませんが、予防接種で副作用を起こす確率は百万分の一でも十分とはいえないでしょう。』

寅『「起りえない確率」というのは大変厳しいのですね。ルーレットでゼロが出たら続けてゼロは「絶対」出ない、というのが、一般人の感覚としての「起りえない確率」の範囲と思うのですが』

博士『それは甘いと思いますよ。今回の検討は、全体的にそれほど数学的に厳密な扱いはしていないのですよ。数学者でしたら、もっと「厳密」な答えが返ってくるかも知れませんよ。私達物理学者は数学者と違って、「だいたいこの程度」という議論のほうが好きなのです。しかし、今回の設問の答えは「十分起りうる程度のレア度」ということです。』

寅七『「だいたいこの程度」という議論でも、寅七みたいな一般人にはついていくのが大変でした。「30もの地名(国名)に一個も「ノ」という音が入らない不合理」が証明できるかと期待したのですが、残念な結果でした。数学的に、「起こりえない」ことの証明が、こんなに面倒かつ厳しいものだとは知りませんでした。勉強になりました。ありがとうございました』

 

(注)

和名類聚抄より、下記の国々を対象に、その郡名を数えました。

自山陰道至山陽道 丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門

自南海道至西海道 阿波・讃岐・伊予・土佐・筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬

           この項終わり