多元史観から見た沖ノ島
はじめに
沖ノ島関連施設とともに世界遺産に登録されたということで、宗像大社や地元宗像市などは祝賀ムードです。この遺産については、「大和政権」が祭祀者として古代から交通の安全を祈願してきたというようなのが多くのマスコミでみかける歴史学者の論調です。
その論調で気になった点が二つあります。その第一点は、古文献にはこのようにある、と説明されている内容と、もう一つは出土品と祭祀者との関係の推定について、この二つです。
沖ノ島や宗像大社関係の文献が示していること
宗像・沖ノ島関連での古文献はきわめて少ないのです。その少ない文献を故意にと思いたくありませんが、多くのマスコミでみかける歴史学者の論調では、無視されているのが目に余ります。
例えば『古事記』に書かれている宗像三女神の記述を見てみますと、学者先生方は、スサノヲの三人の娘たちが宗像の三社に鎮座したことはみなさん書いています。しかし、同じ『古事記』には、大国主命がその長女タキリビメを娶って二人の子供を儲けたことも書いてあるのですが、学者先生方の誰一人としてこのことに触れようともしません。なぜなのでしょうか。
宗像大社の社伝には、『古事記』に大国主命とタキリビメとの結婚という記事があることは書かれています。が、その子供たちのことや、大国主命がどのように関係しているのか、は書いてありません。
『先代旧事本紀』には宗像の降臨したのは三男神であり、宗形君の祖としています。『記・紀』に書いてあるように、「女神」が宗像大社の祖とすることを嫌ったのかなあ、それでなければ、出雲が宗像大社に関係していることを消したかったのかなあ、などとも思われる記事です。逆にみると、出雲に関係あるタキリビメの子供たちが宗像大社の祖であった可能性が高かった、という証しなのかもしれません。
そもそも三女神は高天原から胸肩の地に天下っています。(高天原という外地から移住してきているのです) その地は宗像の六ケ岳ともいわれています。つまり、有名なニニギノミコトの筑紫の日向のタカチホに降臨(つまり移住)したよりだいぶ前の話なのです。
『古事記』の記事を読むと、宗像の三女神とニニギノミコトとは伯母―甥の間柄で降臨(つまり移住)の時期も一世代二十年くらいは離れているのです。
「天照大神が降臨する天孫の道案内をせよとの神勅を下し云々」の『日本書紀』の記事や、宗像大社の社伝は明らかに『日本書紀』の編集者が挿入したものではないでしょうか。なぜなら、天照大神が高天原から葦原の中ツ国へ降臨させるのは、息子の天之忍穂耳命に断られ孫のニニギを行かせる、と書かれているのですから、「後から行かせる者たちの案内」という単純なことを「神勅」という大げさな表現にしているのでしょう。
大和朝廷にとって、ニニギは確かに祖先ではありましょう。しかし、神武はその祖先たちのグループの元を離れて、四人兄弟のうち、長兄五瀬命と二人で、「東に向かい」成功して新しい国を建てたのです。(あと二人の兄弟は筑紫の頭領の下に残ったとみられます) そういう見方をすれば、大和朝廷が、特に宗像神社に対して特別の意味を持つものとはいえないことが理解できます。
『日本書紀』によりますと、ニニギは筑紫の日向に降臨してすぐ、日向の膂宍〈そじし〉の空国〈むなくに〉に出かけます。この日向の読みについては何も注意書きもありません。通常「ひゅうが」と訓じられていますが、「ひなた」の方が一般的と思われます。福岡市西部と糸島市の間に日向〈ひなた〉峠があり日向〈ひなた〉川が流れています。筑紫の日向はこの地域である可能性が高いのです。
津田史学では「ソジシのムナ国」というような、やせ細った胸肉のような土地が建国の天皇の出身地であろうはずがない、創作された物語とされ、それが現在の日本古代史の主流となっています。
「ソジシのムナ国」とはどこにあったのでしょうか。ムナ国から「ムナカタ」が連想されます。宗像の地形は、一般的な河川の河口部平野の形と違っています。現在でも宗像大社の横を流れる釣川という川が、玄界灘に流入する河口付近に、五キロほどにわたって両側に丘陵地がせまっています。「膂宍」とは「背中の肉」という意味ですが、その地形は人が伏せた形をしていて、古代人の表現力に驚かされます。この胸肩と『古事記』で表現されている宗像の土地は、この表現にピッタリの地形をしているのです。ソジシのムナクニは「宗像の地」なのです。
津田左右吉博士は、天孫降臨を文字通り天から高い峯に降りた、それも南九州というとんでもないところに、と解したため全くの荒唐無稽な神話とされたようです。
このように、天照大神とスサノヲとの間に生まれて、高天原から宗像に移住してきた三女神は、日本海沿岸を取り仕切っていた、出雲の先住者の神々の庇護を受けたものと思ってもそう間違いではないでしょう。 以前、高天原から追放されたスサノヲも出雲に逃れています。そして大山津見命の娘、クシナダ姫がヤマタノオロチのイケニエにされるところを助け、結婚します。
さて、出雲の大山津見命の六世の孫が大国主命です。兄弟たちからいじめられながら出雲の実力者になりますが、高天原との間で葦原中ツ国を巡って争いが起き、国譲り事件となるのです。
その前あたりの時間帯になるのでしょうか、『古事記』によると、大国主命が宗像三女神の長女タキリビメを娶っているのです。これはどうしたことでしょうか。正妻スセリヒメはスサノヲの娘です。しかし、大国主はたくさんの妻と結婚しています。他の多くの妻たちと大国主との関係を正妻のスセリヒメも認めざるを得ない理由があったのでしょう。
例えば本貫の地、出雲から遥かに遠い筑紫の宗像の地を統治するためには、この婚姻は絶対に必要なことであったのでしょう。タキリビメは一男一女を大国主の間に儲けたとされます。一夜妻ではないのです。
その後、高天原と大国主の間に国譲りが行われ、主導権は高天原側に移ります。案外出雲と高天原の国譲り事件の根幹に、宗像方面の主導権争いがあったのではないか、とも思われます。
ところで、高天原側はどこを主地盤にしていたのでしょうか。その答は、『古事記』にあります。国生み神話に出てくるオノゴロ島であり、イザナミの死後のイザナギが禊をしてのちにたくさんの子供を作る場所、筑紫の日向〈ひなた〉の橘のアハギが原、博多湾岸一帯でしょう。
博多湾の入口に存在する志賀島が漁業や交易の中心であったであろうことは、志賀海神社の存在と、現在でも志賀海神社と姻戚関係が古来続いている、宗像と博多の間の地点、津屋崎の地の宮地嶽神社の存在が示していると思われます。
神話時代から後年になってのことですが、万葉集に「ちはやぶる金の岬は過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神〈すめかみ・すめろぎ〉」第七巻1230番歌 と詠まれています。
鐘岬〈かねざき〉が宗像大社の鼻の先にあります。ここが歌にみえる「金の岬」だとされています。それなのにそのあたりで、宗像三女神より志賀の皇神が、この辺の海域での守り神とされていたのです。
ともあれ、高天原に国譲りした、出雲族のうち大国主の次男建御名方神〈たけみなかたのかみ〉は信濃に逃げた、とあります。彼は諏訪神社の祭神となり、近くには安曇野など安曇族との関係を偲ばせる地名も残っています。
つまり、『古事記』の伝承からは、以上のような古代の動きが読み取れるのですが、『日本書紀』ではそのような記事は抹消されています。
『宗像大社社伝』などには出雲との関係については、『古事記』には大国主命との記事を特に注釈もなく書いてはいます。しかし、タキリビメの子孫のことについてなどどこにも見えません。ただ、『西海道風土記』逸文には、天照大神の四男、大海命が三人の兄たちの命令で宗像にいることになった。その大海命の子孫が宗像朝臣である、とあります。
ところで『日本書紀』が三世紀ごろの出来事として書き残しているのが、「神功皇后の三韓征伐」と俗にいわれている出来事です。
仲哀天皇や神功皇后が博多湾岸の香椎を拠点に賊と戦いますが、戦勝祈願や航路安全を願う神々に「宗像三女神」は全く顔をみせません。住吉大神なのです。この時期には全く「大和朝廷」は宗像三女神を頼りにしていなかったことは間違いないことでしょう。
単に三世紀の頃だけではなく、八世紀以降の出来事を記録している歴史書『続日本紀』にみえる宗像大社の格付け記事などからしても、地方豪族の神社という格付け以上のものではないのです。
以上のお話の参考にした史料は、「むなかた電子博物館紀要第2号 2010・4.1 文献にみる宗像三女神降臨伝承について 平松秋子」に挙げられている史料を探して参考にさせていただき、宗像と出雲の関係について推測を交えて述べました。
結論としていえるのは、「沖ノ島で大和朝廷が国家として祭祀をとりおこなった」という伝承も記録もまったくないということです。では、誰が祭祀を執り行ったのか、は出土品や中国の文献から知ることができます。
出土品と中国史料について。
沖ノ島からの出土品は、古墳時代の品々が大半を占めていて、古墳時代を過ぎてからの物は見られないそうです。四世紀後半から九世紀にかけてのものと推定される出土品です。一石一草たりとも持ち出してはいけないという禁忌が厳重に守られたということでしょう。
なぜか、近年までこのような奉献されたら品々があることや、調査するということもなく、昭和になって福岡出身の実業家出光佐三氏の運動で調査がなされるまでそれらの宝物の存在は隠されていました。
ただ、例外もあったようです。江戸時代に貝原益軒が『筑前国続諸社縁起』で次のように触れています。
【黒田長政が入国して間もなくのころ、沖ノ島の神宝のことを聞き、取り寄せようとした。神罰を恐れて神官たちが断ったので、キリシタンに命じて金製織機などを取り寄せた。城櫓に収めていたら櫓が鳴動するなどの異常が生じたので島に返納して埋めた】とあります。
余談になりますが、そんな馬鹿なことがあるはずもない、偶然に生じた地震ではないか、と思い、念のために福岡地方の地震記録を探してみました。
黒田長政が筑前に入国したのは一六〇一年で、福岡城の完成は一六〇七年だそうです。その後の福岡地方の地震の記録を探してみました。有名なのが、『日本書紀』にも見える、天武紀の六七九年の筑紫大地震ですが、その後、一六九五年、元禄八年の筑後地震まで記録は残っていません。
この天武紀にみえる大地震から千年余りの間、筑紫地方に地震がなかったとは信じられませんが、長政が死んだ一六二三年までの間の福岡地方の地震の記録は残っていないようです。長政が亡くなって七十二年後に起きた元禄八年以降の地震は、武家の日記その他から収集されています。(九州災害履歴情報データベース 〔社〕九州地域づくり協会 より)
そのころ福岡地方にどれくらいの頻度で地震が起きていたのか推定してみました。記録が残っている、元禄八年一六九五年から一七七八年の間に「地震」として世人に認識されたのは二十五回あったと記録されていました。八十三年間に二十五回、年あたり三回強です。結構福岡地方も地震が発生していたようです。そのおかげなのでしょうか、金製の織機も無事に後世に遺されたようです。
余談の余談ですが、『日本書紀』にのこる天武期の筑紫大地震は、その記事によれば、「天武天皇七年(六七九)に筑後国を中心に大地震が発生した。巾約六米、長さ約十粁の地割れが生じ村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明け後に知り驚いた」そうです。
このような大地震が起きたら筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳や近くの石人山古墳などの墳墓周辺に配置されていた石人像などはすべて倒壊したことでしょう。
八女地域に無数に残る石人像の破片について、磐井を誅しそこなった物部軍が石人像を破壊した(五二八年)、いや、白村江の敗戦後に進駐してきた唐軍が破壊した(六七一年)、などの説がありますが、いずれにせよ、このようなマグニチュード七以上と推定される地震に遭ったら一像も残さず倒されたことでしょう。
ところで、中国の文献に沖ノ島の出土品に関係した記事があります。中国の正史『隋書』俀国〈たいこく〉伝の次の風俗を記しているところです。隋は五八一年から六一八年まで存在した国で、日本では推古天皇の時代です。
【国人は物静かで争い事も少ない。楽器に五弦の琴や笛がある。男女の多くは腕・顔・体に入れ墨をしている。潜って魚を捕る】とあります。 沖ノ島の出土品に奉納された金銅製の琴のミニチュアがあります。また、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳からは五弦の琴の埴輪が出ています。
大和朝廷のいろんな記録には五弦の琴は見えませんし、正倉院にも五弦の琴はありません。埴輪については、全国各地で各種の琴の埴輪や琴を奏でる偶像埴輪は出土しています。琴の類の楽器は全国で用いられていたようです。
しかし、確かなことは大和朝廷では六弦の和琴〈わごん〉が用いられていたことです。和琴は東琴〈あずまごと〉ともよばれるそうです。五弦の琴が遠のみかどの西国に存在していた、ということの対語としての「東琴」かもしれません。
この中国の史書『隋書』が記している七世紀の倭国の記事には、「多くの男女が入れ墨をする風習があること、潜水漁業を営んでいること」など書かれています。日本の南の島のことでしょうし、安曇族に関係のある北部九州と見れば納得のいく記事です。
また、笛については、五世紀の倭国のことを記した記事が中国の正史、『宋書』にあります。それには、倭王讃が晋の安帝から細笙という笛を賜った、とあります。
この倭王讃をはじめ、『宋書』に出てくる五人の王、いわゆる「倭の五王」は全く誰一人『記・紀』には登場していないのです。「日本」国に関係ない「倭国王」に笛を賜っているのです。「大和朝廷」とは無関係なのです。これら中国の文献に出てくる「倭国」が沖ノ島の祭祀を行ったのです。「倭国」は大国主から国譲りを受けた北部九州一帯の政治勢力であったのです。
以上のような文献や出土品から見た沖ノ島と宗像大社について、マスコミに登場する歴史学者さんたちが主張するような「この沖ノ島の出土品は大和朝廷が祭祀者として奉納したものだ」ということはあり得ないことなのです。
私の筆不足のため、話があちこちに飛び、私の説明は明快さに欠けると思われます。そこで、わが師、故古田武彦の沖ノ島についての文章を紹介して結びに代えます。
無二の神の島 沖ノ島 (『古代史60の証言 金印から吉野ケ里まで 九州の真実』駸々堂 1992年 証言59 より)
筑紫の北の海に浮かぶ、無二の神の島。それは沖ノ島である。この島こそ、日本の歴史の真相を明らかにすべき宝の島だ。 昭和二十九年から四十六年まで、三次にわたる発掘調査によって姿を現した、おびただしい宝物の数々は、いまもこの島に内蔵されていたものの“一部”に過ぎない。
金銅の忍冬唐草文透彫杏葉、金銅迦陵頻伽文透彫杏葉、金銅透彫玉虫翅飾帯金具、金銅歩揺付雲珠など、みな古墳時代後期後半における、六朝風の工芸品として最高水準にあるもの、という。また「金銅の竜頭、一対」や「黄金の指輪」も出色、著名である。
ではこれらは、どのような人によって「奉納」されたものであろうか。それは、日本書紀の神代巻が明白に物語っている。
(1) 此即ち、筑紫の胸肩君らが祭る神、是なり。(第六段、本文)
(2) 此筑紫の水沼君等が祭る神、是なり。
右の(1)は、当然だ。周知のように、沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)。辺津宮(宗像大社)という、三社を”統括”し、”護持”していたのが「筑紫の胸肩君」だからである。
では、(2)はいかん。従来、これが不審とされてきた。”宗像から離れた、内陸地の豪族がなぜ”という疑問だった。いわゆる「近畿天皇家一元主義の史観」からは、そのようにいぶかしく見えるであろう。しかし、わたしたちの立場、「九州王朝」の視点からすれば、至極当然。なぜなら「装飾古墳の分布図」が示すように、古墳時代後期、九州王朝の本拠地、それが「水沼近辺」(八女など)だったからである。
では、「筑紫の君(九州王朝)」は、なぜこの三女神を厚く祭ったのか。それは、彼女らを「天孫降臨の守護神」とみなしたからである。その「ニニギノミコト」の直系の子孫をもって任ずる、筑紫の君がこれを重視し、現地の胸肩君やお膝元の水沼君に祭らせたのは、当然だ。「天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」(神代紀、第六段、第一)という著名の句の「天孫」とは「ニニギノミコト」を指すこと、いうまでもない。そのニニギは、「筑紫の日向の高千穂のクシフル峰(高祖山連峰)」に天下って、筑紫の君の祖となった。己〈おの〉が守護人であるから。
これを、後代の分流たる近畿天皇家と”直結”させて説こうとする努力、それは「考古学」や「古典学」や「神学」の名を借りた、時の権力への「阿諛〈おもねり〉」でなければ幸いである。 以上
尚、古田武彦氏の文章の転載については、氏の遺産を管理されているご子息のご了解をいただいていますことを付記します。