道草その21 『偽書「東日流外三郡誌」事件』の批評断片集  棟上寅七の古代史本批評 ブログの記事 2010.10.02~12.20 

斎藤光政著『偽書「東日流外三郡誌」事件』(人物往来社 新人物文庫)を槍玉に挙げるべく準備をしています。対象が手に余るほど大きく、着手して3カ月になりますが、まだ全体の30%程度の進捗です。とりあえず、着手以来、毎日のブログの中に、『偽書「東日流外三郡誌」事件』についてつぶやいた感想や、下書き、などを書いてきています。今数えてみると40本という、今までにない出稿本数です。

棟上寅七が、どのように取り組んでいるのか、「馬鹿だなあ、偽書に決まってるじゃん」、「古田さんの勝手連応援団にしては、考えがまだ甘いよ」などと思われることでしょう。5年前に九州王朝から古代史に入り込んだ棟上寅七にとって「東日流外三郡誌」は興味の対象外の出来ごと視していた感なきにしもあらず、と反省しながら取り組んでいるところです。

どのようなものに仕上がるか、ご覧頂けるものにするまでには、もうしばらく時日を要します。道草として、今までのブログを纏めてみましたので、年末年始の暇つぶしにでもご覧になっていただければ幸いです。(各ブログに見出しを付けてみました)

                     2010年12月23日         棟上寅七

◎’10.10.02 「和田氏の所業?」
斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』は、和田喜三郎氏の、特異なキャラで成り立っているようです。

「石ノ塔神社」「役小角の墓」「実相寺の竹筒」など、もし斎藤さんが言うように、和田喜三郎さんの所業だとすれば、もっと突っ込んだ調査をして報告されたら面白いノンフィクションノベルとなったのではないか、と思いました。
『東日流外三郡誌』に真実の歴史が埋もれている、とその発掘に精力を傾けられている古田先生も、この和田喜三郎氏の奇矯な振る舞いの数々に付き合わされて、さぞ大変な思いをされたと思います。


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10.10.07 「筆跡」
斎藤光政さんの、『偽書「東日流外三郡誌」事件』では、「筆跡」が大きな要素を占めています。

斎藤光政さんの結論は、『東日流外三郡誌』関係史料といわれるものは、筆跡や内容からして、すべて昭和20年代以降に書かれたもの、ということのようです。

「筆跡」については、古代史と筆跡鑑定に詳しい安本美典氏に意見を詳しく聞いています(p37~42)。この安本氏が、古田武彦氏の揚げ足取りの著作を量産している、天敵とも言われているような立場の人間ということを、新聞記者ですから当然知っていた筈だと思うのですが。

また、五所川原市の飯詰地区に取材に行ったときにのことを書いています。
「印象的だったのは老年に近い男性の告白とも取れる言葉だった。(中略)「私は和田さんの字を知っているので、彼の筆跡はひと目見ればわかります。とても特徴がありますからね。かなり前のことですが、和田家文書の書写本と呼ばれるものを見たことがあります。残念ながら、かれの筆跡でした。これでは駄目だと思いました。(後略)」(p65)

しかしこの、和田氏を貶める証言者について具体的なものは何も示されていない。斎藤さんのいわば書き放題なのです。

反対派の反論についてはまともに受け取っていません。寛政原本が出版されたことについても、これも、古田先生に私怨を持つといわれる、原田実氏の「古田さんの自爆テロです」という意見を載せて、それを鵜呑みにしています。(p429~430)

古田武彦さんの『東日流「内・外」三郡誌 ついに出現寛政原本』(オンブック社)には、国際日本文化研究センター研究部笠谷和比古教授の鑑定書が掲載されています。
『文献6点についていずれも江戸時代中に作成された文献と認められる。特に、No.4、5,6の署名は「和田孝季」自筆の可能性が高い。4については本文も同人の筆跡と判断される。』という内容のものです。

斉藤さんは文庫版出版時には、このことは知り得たことと思います。この鑑定書の真贋信憑性について検討して、文庫本の読者には報告する義務があるのではなかったかと思います。

なお、この鑑定書には次のような「所感」が付け加えられています。
【「東日流三郡誌」をめぐっては幾多の論議が重ねられ、真偽論争から感情的軋轢を引き起こすことも少なくなかったかと思われるが、これまでの経緯は御破算とし、右記諸文献を基点としつつ、同書に関する純粋に学問的な議論が再開されることを切望するものである。】と。

そのように進むことを願っています。


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10.10.08 「疑問」
斎藤光政さんの、『偽書「東日流三郡誌」事件』を読んで、また、古田史学の会のHPなどを読んでいて、どうしても納得がいかないいくつかの点が残ります。気になっているところは、

1)なぜ寛政原本の出現に手間取ったのか、その理由。
2)和田喜八郎の奇矯な(詐欺師的なともとれる)行為が実際あったのか。例えば安倍頼時遺骨事件では、古田先生がしゃれこうべ鑑定を否定するだけですむのか。
3)寛政原本以外の和田家史料の評価は? 昭和写本はあったのか? (明治写本があって、その時代の知見が盛り込まれた、とすれば、昭和写本にも昭和期の知見が盛り込まれた、ということになるが。)などです。

この辺の疑問が解ければ、と思いつつ関係資料を渉猟していますが、正直くたびれます。


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10.10.10 「書写

一昨日、「東日流外三郡誌」で分からないことの3)として、寛政原本以外の和田家史料の評価は?と書きました。

明治時代の写本があって、その時代の知見が盛り込まれたとすれば、昭和写本にも昭和期の知見が盛り込まれたということになるが、とも書きました。たまたま、古田史学の会の会報をめくっていましたら、吉原賢二さん(東北大学名誉教授)の「科学的記述についての考察」という文章を見つけました。

その中で、吉原教授は、北方新社版『東日流外三郡誌』によれば、【けだし子子孫孫にて本書の増補記事訂正をなし、世の安泰世襲のあらたむ世に至らば本書頒布の需めに応ずべし。(中略)他見無用門外不出と心得】とある。しかし、オンデマンド版の、寛政原本のその部分の写真版には【他見無用門外不出】とだけあり、増補、訂正の勧めがない、と指摘されています。

偽書「東日流外三郡誌」事件』批判は大変だなあ、と改めて感じています。


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10.10.11「科学的記述」 
昨日は、 吉原賢二東北大名誉教授の『東日流外三郡誌』の「科学的記述の考察」について書きました。

それに関連して西村俊一学芸大教授の日本国際教育学会第10回大会における発言(「日本国の原風景」1999年11月7日)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html   などを改めて読み返しているところです。


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10.10.15 「学問のすすめ」
古田史学の会の会報100号が到着しました。

古田先生が記念に論文を寄せられています。そのなかには、東日流三郡誌の偽書事件についても述べられています。斎藤光政氏の『偽書東日流外三郡誌事件』を槍玉に上げようと思って、資料読み込みをしている寅七にとって、これは助かると思って早速読んでみました。

福沢諭吉作とされる学問のすすめ、の文章について、東日流三郡誌における思想の流れから説明されていて、良く理解できます。しかし、吉原賢二先生の発言については、ちょっと古田先生の受け取り方と違った受け取り方を寅七はしていたようです。

3日程前に、吉原先生が同じ会報97号で、【他見無用門外不出】というところが、寛政原本には増補訂正についての記載がないことについて、鑑定にかける必要があるのではないかと危惧している、と書かれていることについてブログに書きました。

しかし、今回古田先生は、吉原先生の科学的記述についての考察で、真書であることが裏付けされた、というように書かれています。寅七の読み方が浅いのかなあ、もう少し詳しく検討してみなければいけないかなあ、と思っているところです。


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10.16 「寛政原本」
古田史学会の会報100号で、東日流三郡誌の寛政原本が出てきてこれで真書ということが証明された、と古田先生が力説されています。

そのことと、例えば昨日のブログに書いた、吉原賢二先生の、「北方新社版の東日流外三郡誌で、門外不出という注意書きに、「けだし子子孫孫にて本書の増補記事訂正をなし、世の安泰世襲のあらたむ世に至らば本書頒布の需めに応ずべし。」と付け加えられていることについて、吉原先生がちょっと疑問を持たれている、というようなことを書きました。

寅七が改めて考えてみるに、古田先生としては、「増補記事訂正云々」は、北方新社版の本ではそうあるだけで、あくまでも「寛政原本」に書いてあることが正しい、いろいろ異本があるのは写本によらざるを得ない史書の常、ということなのでしょうか。


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10・10.19 「北洋伝承黙示録」
昨日、Amazonから『北洋伝承黙示録』渡辺豊和著が届きました。

「東日流外三郡誌」について、西村俊一先生の発表論文を読んでいましたら、渡辺豊和さんの著書に言及されていましたので、古本屋を検索したわけです。さら~っと読んだだけですが、古代からのミチノクの人々の心情が少しは分かるような気がする好著だ、と思いました。

渡辺さんは、「東日流外三郡誌」に、BC3世紀に稲などが伝来したことについて述べられていることに言及され、考古学的発見事実に合うとされています。『偽書「東日流外三郡誌」事件』の斎藤光政さんが全く見落としているポイントです。斎藤さんは、東北への米作普及がが遅れたことが、近畿王朝から虐げられ遅れをとった原因、というように述べています。


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10.11.01  「寛政原本」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』を槍玉にあげよう、と改めて読み直しています。しばらく、「周代の短里」問題にはまりこんだので、もう一度仕切り直しです。

ともかく、筆跡問題がかなり大きなウエイトを占めているようなので、偽書派の主張に対する反論をピックアップする作業を始めたところです。しかし、斉藤光政さんがいうように、和田家文書のすべてが和田喜八郎氏によって書かれた、というのは無理のように、素人の寅七でも思います。

まして、斉藤さんは、「寛政原本」で古田武彦さんが写真版で公開したのに、それを見ることもせず、偽書派の原田実氏の「いや、もう驚きましたよ。その『寛政原本』は見事に和田喜八郎さんの筆跡だっんです。あきれかえりました。(後略)」のコメントを載せてすませています。(p429)

すくなくとも寅七には、『寛政原本』に掲示された各種文書の筆跡が、同一人によるものとは到底思えません。斉藤光政さんも、自身で見て判断して物を言ってもらいたいものです。


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10.11.02 「筆跡」
「和田家文書」の筆跡問題の、偽書派の主張への反論をピックアップする作業をしています。

古田武彦さんが主体で、浅見光彦氏へのレター上岡龍太郎が見た古代史大和桜の反証三つの質問状などの論文。西村俊一さんの日本国の原風景という論文。上条誠さんが古田史学の会の会報に発表された、史料批判と学問の方法という論文。斎藤光政さんの筆跡問題についての主張を覆す論旨を、これらの論文の助けを借りて述べて行きたいと思っています。


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10.11.03 「孝季の存在」
斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』では、「秋田孝季・和田吉次の存在が『東日流外三郡誌』にのみ記載されている」というところが、偽書説の一つの論点となっているようです。いろいろ今までの真書派の方々や古田先生の発言を見ていっています。

古田先生が、上岡龍太郎氏との対談で、「秋田孝季の妹りくの夫和田長三郎の菩提寺の過去帳に残っている」、と言われています。西村俊一氏も『日本国の原風景』で秋田孝季の存在が未証明について、【渡辺豊和も『北洋伝承黙示録』で試みたが、今後の課題として残されている】と書いています。その意味で、秋田孝季の名が記載されている、地元の神社に奉納された「宝剣額」の真贋論争が熱を帯びたのでしょう。

従ってこの次は、宝剣額の真贋論争について、斎藤光政さんの見方と、古田先生側との見方をみていこうと思っています。


22.11.04 「発見時の問題」
斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』では、発見時の問題が一つの偽書の理由になっているようです。p102に次の様に斎藤さんは書きます。

【発見者による和田によると、『外三郡誌』は戦後まもない1947年(1948年ともいう)に、天井を破って屋根裏から突然落ちてきたという。大きな長持ちに入っていたというから驚きだ。その後、『外三郡誌』をはじめとする和田家文書は続々と発見され続け、最終的には千巻以上に達したともいわれている。】

しかし、古田武彦さんが「浅見光彦氏へのレター」のなかで、この点の解説をしています。それを読めば、謎でも何でもない、ということになります。「浅見光彦氏へのレター」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html をクリックしてみてください。


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10.11.09 「用語」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』の偽書とされる理由に、近年の知識や言葉ともとれるものが入っていることが上げられています。

「ビッグバン」や「民活」などが出てきます。 江戸時代なら「蜿蜒」と書かれるべきなのに、「延々」と野村氏の原稿とおりに、近代語で書かれていることなども挙げられています。これらについては、古田史学の会の会報その他で反論がされています。

特に「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」は、『東日流三郡誌』から福沢諭吉が得たものとすることは、偽書の証明ともされ攻撃されています。しかし考えてみればすぐ分かると思うのですが、この名文句を『三郡誌』に取り込めば、そのこと自体が「偽書の証明」と、世の中から糾弾されることは自明のことです。

谷川健一氏は、この文句が入っていることこそ偽書の証拠、(p57)と言われたそうです。谷川氏ならずとも誰でもそう思うことでしょう。しかし、和田喜八郎が、斎藤光政しが紹介するような、稀代の偽書作家であるとしたら、このような危ない橋をわざわざ通ることもないでしょう。実際に祖先からの伝来の書にあったから、そのまま主張した、と思う方が筋が通ると思います。

斎藤光政さんは、ノンフィクション作家藤原明氏の和田商法についてのコメントを紹介した後、次のように締めくくっています。【こうした高度のテクニックを駆使する和田を、安本は「偽書史に残る天才」と評していた。安本が言う「史上最大の偽書」はこうして、津軽の天才によって「用心深く」(藤原)編み出されていた・・・・。片手に余る取材相手は異句同音にそう語っていた。】(p395~396)

斎藤光政さんは、用心深い津軽の天才の「ホコロビ」とでも主張したいのでしょうか。


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10.11.10
 「学問のすすめ」
昨日に続いて「天は人の上に人を造らず・・」について、真書派の方々の意見を見ていきました。

藤田友治さんが、東日流外三郡誌関係文書の中に、その「天は・・・」に近いフレーズが用いられているものを23件挙げています。藤田さんが22番目に挙げている『中山秘問帳』では、次のように記しています。

【(前略)天日ハ光明ノ至ラヌ郷ハ無ケレドモ、吾等一族ノ祖来ハ常ニシテ権制ノ虎視ニ存在シ、奥州ノ白河関以北ハ、日本史伝ノ日陰ニ幽閉サルル耳ニテ、未ダ世浴ノ陽光ニ当ル事ハルケキナリ。吾レ学志ナル福沢氏ノ請願ニ耳荒覇吐神大要ヲ告ゲケレバ、彼ガ世ニ著シタル一行ニ引用アリ。『学問ノ進メ』ニ題セル筆ニ『天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ』ト吾等一族ノ祖訓ヲ記タル者也。 和田末吉、東京市赤坂ニテ演説ス。 演題、北国住民之忍耐。弁士和田末吉。 演題、学問ノ進メ。弁士福沢諭吉。 明治廿年三月四日 和田長三郎末吉。】

この文章には、慶応義塾も驚いたこととは思います。この騒動については、斉藤光政さんが『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、「偽書」の証拠として大々的に取り上げています。

古田武彦さんは、『真実の東北王朝』駸々堂1990年6月で、「福沢諭吉の思想と本質的に相容れない」と詳細に説明しています。現在ではネットでタダで読むことができます。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku10/touhoku6.html  

第六章東日流外三郡誌を問う<神は人の上に人を造らず> で、この名文句がフランスの人権宣言やアメリカの独立宣言から出たものでなく、東日流外三郡誌からの援用ではないか、とされます。是非ジカに古田武彦さんの上記書をネットで読んでみてください。


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10.11.12 「学問のすすめ」
このブログで、斉藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』について何度か取り上げてきました。しかし、例えば福沢諭吉の「天は歩との上に人を造らず・・・・」などが、どのように斎藤光政さんが取り上げていることを知らない方も多いことでしょう。ちょっと面倒ですが、斉藤さんの書きっぷりをご紹介しておきます。

『偽書「東日流外三郡誌」事件』では名言をぱくる?P46で次のように斉藤さんは書いています。

【「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」 日本人なら誰でも知っている福沢諭吉の有名な言葉である。民主主義の原理を簡潔に説いたものとして、著書『学問のすすめ』の巻頭に登場する。ところが、この名言がパクリだとしたらどうだろう。」それも偽書疑惑が浮上している『外三郡誌』からの引用だと教えられたら。その時の私はキツネにつままれたなんとかの状態だった。(後略)】

そのことを教えてくれたのは藤本光幸氏で、彼のところでその文書を見せてもらうことになる。そこのところを斉藤さんは次のように書いています。(p48)

【(前略)藤本は、自分は長い間和田家文書を研究していると語り、「実は」と、おもむろに古文書とみられるもののこぴーを取り出した。和田家文書の一つで、「福沢諭吉の書簡」だという。内容を見て驚いた。「東日流外三郡誌」久しく貸付に預り大切ニ他見ハむ用と存し一説を引用仕り何卒御容許下サレ度願申上候 余著「学文之進め」なる筆頭「天ハ・・・・」(中略)大阪にて飛脚す  津軽飯積邑士族 和田末吉拝 八年六月六日 福沢諭吉 花押 とあった。】

そして、藤本氏の意見も次のように紹介しています。(p49~51)【「でも残念ながら、福沢からの手紙の実物がないんですよ。この写しだけです。写しは七年前に発見された後、文書類の中にまぎれ込み行方不明になっていたんですが、昨年再び見つかったんです」 実物はないのか、もしあったら日本史を揺るがす大ニュースなのに・・・と、私は落胆した。

しかし、藤本は「世紀の発見」に気をよくしてか、興奮気味に話し続けた。 「私も最初に見たときには驚きました。しかし、点は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずという自由平等思想は、もともと和田家文書の中に流れる基本的な考えで、『外三郡誌』をはじめとする文書の中に何回も出てきます。

『外三郡誌』偽書説を唱える人たちは、これまでにこの思想を福沢の『学問のすすめ』から引用したと主張していましたが、事実はむしろ逆。福沢が和田家文書のテーマの一つを踏襲したのだと考えます。写ししか存在しないのは福沢からの手紙本体が虫食いなどで傷んだため、末吉が書写したからでしょう。手紙はもうないと思います。ではその写しはどこにあるか?今はわかりません」(中略)

私は藤本の許しを得て、写しのコピーを撮影することにした。ファインダー越しにのぞくと、文字の一つ一つが』大きく目に飛び込んできた。極端に右上がりの独特な文字が並んでいた。最後のあて名部分を見て、アッと思った。あて名の「和田末吉」の「末」の字がどうしても「未」としか見えなかったからだ。青森古文書研究会と安本が、和田の癖字と発表したものと同じだった。】

長文の引用になりました。藤本さんは、【明治期に筆写されたもので、「人の上に人を造らず・・・」の思想は和田家文書に流れるものだ】、と説明されるのを、筆跡が和田喜八郎氏のものによく似ている、という安本氏などの意見で、斎藤光政さんは偽書と決めつけているようです。

そもそも、和田家文書は、藤本氏も言っているように江戸期から「筆写」されて来ているわけです。古田武彦さん達が主張されるように、「筆跡」よりやはり「内容」での真贋論争が必要だと思います。


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10.11.15 「発見時の問題」
『東日流外三郡誌』の特徴は、なんとなく胡散臭い発見のいきさつでしょう。ちょっと長くなりますが、このあたりの真書派偽書派の説明をみてみましたので紹介します。

この発見にいきさつは、発見者和田喜三郎氏によると、次のようです。(『新・古代学第一集』「和田家文献は断固守る」和田喜八郎より抜粋。)
【昭和二二年夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった。家中みんながとび起き、煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取って見ると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。どの巻にも筆頭として注意の書付があり、「此の書は門外不出、他見無用と心得よ」と記述されていた。

親父がまだ若かったし、私も終戦で通信研究所の役を解かれ、家業である農業と炭を焼く仕事に従事し、これは二年目の出来事である。当時、飯詰村史を担当していた福士貞蔵先生や奥田順造先生にその一冊を持参して見ていただくことにした。次の日五所川原の弥生町に住んでいた福士先生にみていただくと、「これは歴史の外に除かれた実相を書き遺したものだから、大事にするように」、できれば三日ほど貸してくれないかと言われ、そのままにしていたが、まさか飯詰村史に記入されるとは思わなかった。(後略)】
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/wada0101.html  

斎藤光政さんはこの発見のいきさつ、天井裏の構造などからあり得ないとされ、次のように書きます。
【天井裏には大きな長持ちをつっておくようなスペースも、梁に長年縄を縛っていたような痕跡もなかった。第一、梁そのものが細く、「厖大な文書」が入った思い長持ちを六個も七個も支えられない事は明白だった。(p402)】

この短い文章の中に巧妙に捻じ曲げられて伝えている部分がいくつかあります。文書は約380巻であり、その1巻と言っても数ページの簡単なもの、と斎藤さん自身が書いていること。(p226) 【第一、文書は小説でいえば短編やショートショート程度のものが多く占めます。和田さんは断片的な思いつきを羅列することはできても、それを長い文章にまとめる構成力に欠けているんです。】 つまりそれ程の重量ではないのではないか。

「長持ち」と表現しているけれど、形状的には「挟み箱」と和田喜三郎氏は言っていること。結局は水掛け論で、発見者の言い分を信用できるか、ということになるのでしょう。

発見の状況が信用できない、そんないかがわしい出所の文書はいかがわしいに決まっている、という論理で終始しているようです。江戸~明治期に書写された文書なのか、偽書かどうか、発見時の状態と絡み合わせて判断することは、お話としては面白いでしょうが、間違った結論に導くのではないか、と思われますが・・・。


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10.11.17
 「用語」
この『偽書「東日流外三郡誌」事件』には、「偽書」の証拠として、近代に使い始められた新しい言葉とか、新しい概念が入っている、と言うことが取り上げられています。

しかし、新しい言葉とか、当用漢字が使われていることは述べても、具体例はあまり取り上げられていません。新しい言葉としては「民活」「秋田犬」などのいくつかです。ネットで見てみましたら、偽書派の斎藤隆一さんと真書派の古賀達也さんとの間で、たとえば「民活」やそのたいくつかの言葉について論争されています。

「民活」という言葉の、その用法などを無視した批判、というように反論され、その論旨を納得されたせいなのでしょうか、斎藤光政さんはこの『偽書「東日流三郡誌」事件』には具体的には、「秋田犬」一件きり取り上げていません。

「秋田犬」が普遍的な名詞なのか、固有名詞なのか、という論争があったのかどうか、ネットで調べてみたけれど解りませんでした。しかし、秋田地方には秋田マタギという狩猟犬が昔からいた様ですから、寅七が思うに、「秋田犬」という日本犬の一種のブランドが確立した明治時代以前には、「秋田犬」という普遍名詞が存在していなかった、という証明は、偽書派にとっても容易な事ではないでしょう。


22.11.18 「いかがわしい内容」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』には、「偽書」の証拠として、青森のキリスト伝説やム大陸伝説などが取り上げられています。

キリスト伝説やム大陸伝説などがどのように『三郡誌』に取り入れられているのか、斎藤さんの著書からは分かりません。ビッグバンや進化論などについては真書派の方々の反論がありますが、キリスト・ムー大陸についてはどうなのかな、とネットで探して見ているところです。


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10.11.20 「詐欺師?」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』には、「偽書」の状況証拠として、和田喜八郎氏の特異な性格、と奇矯な(詐欺師的な)行為の数々が述べられています。この描写によって、「偽書間違いなし」という観念が読者に植えつけられるようです。斎藤光政さんの筆力もなかなかのものです。第六~八章にかけて約100頁、全体の四分の一を占めています。

第六章 御神体では、・四柱神社ご神体の里帰り・根拠は「丑寅日本記」・洞窟から出土の土偶・遮光器土偶はレプリカ。

第七章 聖地では、・石塔山は聖地か?・ 当初は山の神を祀るだけ・石塔山神社設立趣意書の9人 藤本 相馬弥一郎の息子彰の証言・石塔山神社の石像は体裁付けで隣村から買ってきたもの。

第八章 増殖では、・戸来のキリスト伝説、これは1935年に創作された・竹内文書・ムー大陸、これも1931年チャーチワード・タネ本の数々は。

最後に、安本美典の言として、【筆ペンを手に夜な夜な机に向かいせっせと文書作りにいそしむ男。その男は自分の文章に酔いしれ、文書が世に出た日を想像しては快感に浸る。傍らには歴史関係の本がうず高く積まれ、超古代をテーマにしたオカルト雑誌が散乱する・・・。原田、鈴木、安本が導き出した『外三郡誌』の製作者の姿だった。】ということで結ばれています。

しかし、これらは、『東日流「内・外」三郡誌 遂に出現寛政原本』(オンデマンド版)で古田武彦さんが描き出す、【『東日流外三郡誌』の世界】とは、あまりもの落差に驚くいばかりです。


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10.11.22 「絵画の盗用」
斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、偽書の根拠の一つとして、挿絵が他の絵本からの盗用である、ということが上げられています。

これは、第四章 告発と告白  ねぶた師の告発  『東日流六郡誌絵巻』の挿絵が『国史画帖大和櫻』に酷似している という項目で詳述されています。内容は、「和田は凧絵を書くのがとても上手だった」と和田のいとこのキヨエが確かそう言っていた、などと、p70~83ページにかけて、偽書の証拠として示しています。

この斎藤光政さんの本を読んでいると、「そういうことなら偽書に間違いないだろう」と読者は(寅七も含め)思ってしまいます

真書派としても、これはどう弁解のしようもないのではないかと思われましたが、14枚の絵の一つ一つについて詳しく論証されている古田武彦さんの説明を聞くと、むしろ江戸期に秋田孝季が書いたといういわゆる「真書」の証拠である、ということに納得している自分に気付きます。

詳しくは、『大和櫻の反証』
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta03.html をご覧になっていただきたいのですが、長文の論文です、これを簡単に纏めますと次のような趣旨です。

【『国史画帖大和櫻』は昭和10年に刊行されているが、そこに書かれているように、昔の錦絵などから採録したものだ、というように、元絵は昔からあるもの。寛政期に秋田孝季が書写したものだから、昭和期の国史画帖大和櫻といろいろと異同があるのは当然である。一般的に見て、和田家文書の絵の方が古形を示している。】 納得できない方は、上記URLをクリックされて、直接お読みになってください。


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10。11.24 「奉納額」
斎藤光政さんは『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、日枝神社奉納額問題にp232~265と30頁以上を費やして詳しく書いています。

簡単にまとめますと、【秋田孝季の奉納額が発見されたが、安本美典氏などの赤外線写真撮影調査で、別人の奉納額を書き換えたものということが判明し、奉納額は秋田孝季実在証明の一級資料でなく、偽作証明の一級資料ということになった】ということです。

そして、【さすがの擁護派もがっくりきたかと思ったが、そうではなかった。古田は意気軒昂だった。「昔は資材の再利用は当たり前です。だから、奉納額の墨書きの下から前の字が浮かび上がるのはよくあることで、なんの不思議もありません。筆跡については孝季らの文字と十分に比較してから判断してほしい。学問とは、結論が出るまで時間のかかるものです。偽作説を主張する人たちは結論を急ぎすぎるのではないでしょうか」(p263)】

しかし、古田武彦さんの発言には具体例が述べられているのです。上岡龍太郎さんとの対談では次のようにいわれています。(斉藤光政さんは、別のところで、この対談記事について言及されていますので、これを下敷きの前記の古田発言紹介とみてよいと思います。)

【文化財における「再利用」について、百済の武寧王陵の石碑や法隆寺釈迦三尊の台座などに例があるし、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でも下から別の絵が現れる、などの例をあげ、再利用したことが偽作の証明にはならない。昔の人はむしろ由緒あるものを「再利用」する方がふさわしい、というか奥床しいというかそういう感覚であっただろう】、というように言っています。

奉納額の「再利用」ということで、「にせもの」というのなら、武寧王陵も法隆寺釈迦三尊も「にせもの」という理屈になるわけです。「再利用」の具体例を出すか出さないかでは、読む人に随分と違った受け取り方になります。斎藤光政さんは、一見擁護派の意見を載せて公平を装っているように見せかけて、偽書説に立っている、としか思われません。


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10.11.25 「奥州の古代」
斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』の批評を、もうまとめなければならないかな、と思っています。

この本の中に流れる、斎藤さんの「奥州人」というか、ご自分の地元青森の古代について、あまりご存知でないのではないか、と思われる叙述が散見されます。これを取り上げると揚げ足取りというように取られるのではないかと、ちょっと逡巡しています。

奥州の民が大和朝廷に屈服せざるを得なかったのは、稲作の普及の差、というような表現が気になります。青森県の縄文弥生時代の稲作遺跡について全くご存じない様ですのでよくそれで、古代史関係に物を申うせるなあ、と己を省みず思っています。

斎藤さんはこの本の中で、東北芸大の赤坂先生の言葉を借りて次のように書きます。(p224)【列島最北端の青森に広がっていた蝦夷とヒエ中心の社会に、水田耕作という「日本化」の波が押し寄せ、完全に「日本民族」に組み入れられるのは12世紀末の鎌倉時代のことだった。】これが、いかに考古学上の知見と雲泥の差があることか、東北地方の稲作、特に青森の稲作の歴史を、ネットででも調べたらすぐ判明することです。

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10.11.29 「詐欺師?」
『偽書「東日流三郡誌」事件』での著者、斉藤光政さんの「和田喜三郎観」は、香具師的な詐欺漢というように描かれているようにとれます。それでは、真書派の方々はどのように捉えていたのか、古田史学の会の刊行物などを調べてみました。

和田喜八郎本人・佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・浄円寺住職)・西村俊一氏(東京学芸大学教授)・古賀達也氏(古田史学会)・古田武彦氏の計5人の8本の論文の中に、和田喜八郎の個性について述べてあるところがありました。詳しくは各論文のURLを付記していますので、そちらで見て下さい。

和田喜八郎氏の性格面での真書派の方々の描写

1)和田喜八郎本人 『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集1 東日流外三郡誌の世界「和田家文献は断固として護る」の最後に次のように裁判の行方について、ご自分のことを述べています。
【今年の二月、裁判も判決されるが、私としては真実をつらぬくまで争う心算でいる。これは謂れなき中傷だけの挑戦であり、古田先生や親友の藤本さん、そして私の保存会全国会員の皆さんや古田史学会の皆さんに、全史料の審査を科学的に学際的にも証明していただき、降りかかる火の粉をはらわなければ私も死ねない。

だが私には金も財産も知力もなく、ただ老いだけが遺され、いくばくの余生をむしばんでいる。武家に累代し、世に偲び、そして遺してくれた遺跡や遺物を私の代で失いたくはないのが今の執念でもある。 私をおとしめた者には必ず神の報復が降りかかり、誅滅されることを信じてやまない。

弁解するわけではないが、私を中傷する彼等は、ただ一向に私を既めるために、かつては地方に於て、私の資産をめぐる地方裁判所訴訟で争った相手の一方的な作り話を興信所が報告書にしたものや、私と対立したアマチュア史学らの中傷話を裁判所や一般人にまでコピーを宣布している。 こんなことは許されるものではない。  平成七年一月一七日】
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/wada0101.html

2)佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・浄円寺住職)『古田史学会報7号』 1995年6月25日 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ  
表記について佐藤師に古賀達也氏の聞き書き、の中に和田喜八郎さんの個人的感想が述べられている。

【(古賀)和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。 (佐藤)そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。 (古賀)内容も素晴らしいですからね。 (佐藤)素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三十一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。】
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou07.html

3)西村俊一氏(東京学芸大学教授)『日本国の原風景「東日流外三郡誌」に関する一考察』日本国際教育学会第10回大会報告1999年11月7日 より
表題の報告の中に西村氏の和田喜八郎観が述べられている箇所がある。(偽書論とその問題点)

【和田喜八郎は決して凡庸な人間ではないが、当方の管見するところ、その文字と文章は真に拙劣極まりないものである。それは、和田喜八郎が高等小学校卒業のため、やむを得ないところでもある。そのことは、誰よりも原田実自身が最も良く知るところではないのだろうか。『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家資料」の文章もさほど優れたものとは言い難いが、両者に格段の差があるのは明白である。】
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html

4)古賀達也氏『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社 特集1 東日流外三郡誌の世界 東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 
洞窟から遺物を発見したことについて述べたところに、和田喜八郎氏の個性について次のように述べています。

【余談だが、当時、飯詰村では和田父子が発見した遺物が評判となったようで、和田父子が山に入ると、村人がぞろぞろと後をつけたという。この逸話も当時村人たちが「和田家文書」や「遺物発見」を疑っていなかったことを表しているのではあるまいか。偽作論者はこの時発見された「遺物」をことさら過小評価しようとするが、開米氏の論文に掲載されているグラビア写真を見ても、発見された遺物が貴重なものであることは明白である。少なくとも、戦後の混乱期に炭焼きを業としている貧しい農家であった和田家で偽造したり、購入したりできるものでないことは疑いない。】
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

5)古田武彦氏
a)『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社 特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/kamioka.html
「上岡龍太郎が見た古代史」の、上岡ー古田対談のなかで、偽書派が和田喜三郎がすべて創作した、と主張していることについて、次のように述べています。

【(上岡) 和田喜八郎さんもったいないと、あの津軽にうずもらしておくのが。世界的なすごい大小説家やないですか。あんなすごいことを書ける人ね、偽作にしてはすごすぎる。それが第一印象なんですよね。全部あの人が一人で考えてやったらね、あんなことちょっとでけんで、と思うんですね。年代的にいうと、あの文体とかそういうことがでけんでしょう。 

(古田) 昭和二年ですから、私と同年、私より四カ月あとに生まれておられる。ご本人がいつもそれいうて苦笑しておられるんですよ。「わしがあんなもの書けたら、わしは大変な人間だ。あの中の一つぐらいなら勉強したら何とかいけるかもしれんが、無理じゃ」いうて。】

b)『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社 特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊 「鉄検査のルール違反 谷野満教授への切言」この中で、谷野教授が季刊邪馬台国に掲載された論文中に、「古田氏が和田喜八郎観を述べた」とする内容が間違っている、と次のように述べています。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/furuta04.html

【貴方は同上誌において、次のようにのべておられます。 「なお、ことのついでに、古田氏に和田喜八郎氏のことをどう評価しているのかを聞いてみた。同氏によると和田喜八郎氏は立派な人格者で一部の人達が喧伝しているようないかがわしい人物ではない。自分は和田氏を全面的に信頼している。」(次は、筆跡問題。略) 

読んで唖然としました。なぜなら、わたしの発言とは全くちがっているからです。わたしは次のように言ったのです。 「あの人(和田喜八郎氏)は、確かに長所と短所をもった人です。しかし、自分の家に伝えられた文書などに対しては、これを大事に守るという、その点は立派な人格の方だと思っています。」

和田氏は、圭角(けいかく)の著しい人です。もう七〇歳近くなった今でも、それは変りません。この点、何回か和田氏に会ったことのある人なら、恐らく誰人にも異論はないでしょう。ましてわたしなど、何十回のもの接触の中で、この一〇年前後、悩まされつづけてきた、と言っても、過言ではありません。そのわたしが、どうして「立派な人格者」というような言葉で表現できましょう。貴方も、もし氏と何回か接触する日があれば、右のわたしの感懐を直ちに納得されることでしょう。 

わたしがわざわざ「長所と短所」と言ったのは、この思いがあったからです。 もちろん「長所」もあります。行動力、耐久力など、わたしのような「都会生活者」には及びもつかぬ、数々の「長所」のあること、わたしも熟知するところです。 けれども、和田氏とわたしとを結びつけている、唯一といっていい「きずな」、それは氏の抱く、強烈な「祖先伝来の文書・宝物等に対する、畏敬の心」です。 

氏は言いました。 「おれにとっては、祖先の文書はただの文書じゃない、信仰だよ。」 その「信仰」の一語には、ドキッとするような響きがありました。この一点を指してわたしは「立派な人格の方」と言ったのです。それ以外の何物でもありません。 ところが貴方の文章で、 「立派な人格者」と言うとき、円満で常識豊かな、圭角のとれた人という、通常の日本語の用語に変えられています。「似て非なる文面」です。】

5b)『新・古代学』古田武彦とともに 第8集 2005年 新泉社 「浅見光彦氏へのレター
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html
このレターのなかで、天井裏から箱が落ちてきた時期を、和田喜八郎が昭和22年と言ったり23年としたりしたことに触れ、和田喜八郎氏の個性にも次のように述べています。

【和田喜八郎氏の場合、もう一つの問題があります。それは、彼が相当の書きしぶり派であることです。つまり、「書く」ということは、決して彼にとって得意業(わざ)ではないのです。 この点、農村における、一般の人々。農民やリンゴ園従事者などにとって、決して不思議ではありません。鍬やスコップなどをふるうこととは異なり、「筆を採るのは、苦手」そういう人はむしろ多数派。一般的なのではないでしょうか。 

無論、一般の農業関係者の中では、彼はまだ筆のたつ部類かも、しれません。しかし、都会の会社員生活で生涯を過してきた人々の多くと比べれば、彼ははるかに書くのが、億劫なタイプの人間なのです。 従って、何か、その「必要」があるとき、手頃な人が「眼前」に、あるいは「周辺」にいる場合、ためらわず、「あんた。おれの分を書いといてくれよ。な、頼む」と依頼するのです。これも、農村ではよくあるタイプなのではないでしょうか。 

会社の「上司」などが、外部に発表すべき「自分の文章」を、下僚に書かせる。これも、よくある例だと思いますが、その場合には、部下が書いてきた「自分の文章」を、厳しく点検する。これが通例のケースではないでしょうか。 しかし、和田氏の場合はちがいます。全部まかせるのです。できあがるまで「風馬牛」、知らぬ存ぜぬ、です。 よく言えば、「太っ腹」、悪く言えば、否、率直に言えば杜撰(ずさん)なのです。 

ですから、右にあげられた例をみると、わたしなどは、ニヤリとして、「あっ、和田さん、やったな」と思うのです。もちろん「いい」こととは、まったく思いませんが、これは彼の「習癖」なのです。(もちろん、わたし自身の場合、一生懸命点検しても、なお「誤記」や「誤植」の跡を断たないこと、先述の通りですから、大きなことは言えません。ただ性格上、和田さんほどには「太っ腹」にはなれないだけです) 

なお、「誤解」されないために、明記しておきますが、わたし自身は和田さんから「代作」を頼まれたことはありません。まったく、ありません。 五所川原と東京(当時)という、はなれたところにいたこと、わたしが(和田氏にとっては敬すべき)「大学教授」であったことなどが理由でしょうか。

何にせよ、そのような依頼は一切ありませんでした。 ただ彼から、「ああ、あの『おれの文章』は、おれが書いたんじゃねえ。誰々さんに書いてもらったものだよ」と、無造作な言葉を、何回も耳にしていた。それだけのことです。】


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10.11.30 「安東船商道之事」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、斎藤光政さんは、「偽書」と決めつけてのストーリー展開を、社会部記者らしくうまくストーリーを組み立てているなあ、と感心しています。

和田家文書の一つとされる『安東船商道之事』について、木村博昭氏と古田武彦氏との論争というか、いざこざについて、斎藤さんは100%木村さん側から見たストーリー展開をされています。確かこの件について、古田史学会報かなにかに、真書派のどなたかの反論がでていたなあ、と探しているところです。


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10.12.01 「安東船商道之事」
昨日の続きです。『東日流外三郡誌』裁判の筆跡鑑定に絡んで、「青森の木村実さんが、和田家文書を筆写したというのはあり得ない」、と木村さんの遺族が。「歴史Eye」という雑誌に掲載された論文にの著者、古田武彦さんに抗議した、ということが、斉藤光政さんの本に取り上げられています。

「歴史Eye1994年1月号号」は、大きな図書館に行けば読めるかもしれませんが、内容は、斉藤さんの本からの類推では次のようなことでしょう。

木村さんが持っていたいくつかの古文書は、木村実さんが和田喜八郎さんから借り受けた古文書を筆写した、というように書かれていたことに対しての抗議のようです。これらのことについてネットで調べてみましたら、藤本光幸さんと古賀達也さんが意見を述べていました。

古田史学会報に載せられていますが、『東日流外三郡誌』裁判の意見陳述書という形ででも出されています。おおまかにいいますと、【木村実氏は、和田喜八郎氏の文書を筆写していたこと。木村氏が古文書として資料館などに寄贈したものは、木村氏本人もしくは誰かの筆写したものであり、和田喜八郎氏の筆跡でもない】ということのようです。

これらの筆跡による偽書という証拠は、取り上げられなかった、という裁判の結果になっています。木村実氏関係の、これらの文書、『安東船商道之事』や『高楯城関係文書』は、偽書説側が裁判所に、「これら文書が和田喜八郎によって書かれたもの」という、筆跡鑑定の資料名として出ていました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai3/saiban03.html

藤本光幸氏は、『角田家秘帳』模写のいきさつ という論文で、木村実氏が『角田家秘帳』という古文書も木村氏が書写していたことと、筆跡は木村実氏(書家でもある)の流麗な文字である、というように主張されていました。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru08.htm

このような反論については、全く取り上げず、偽書派の意見のみ取り上げてこの斉藤光政さんの本は出来上がっているようです。
さて、まだあとには、和田家文書の内容の真贋は? という問題の検討が残っているようです。


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10.12.02 「内容」
昨日の続きです。 和田家文書は正しい歴史を記述しているのか?ということですが、斎藤光政さんは、『偽書「東日流三郡誌」事件』で次のように、『外三郡誌』の内容を次のように紹介しています。

【『外三郡誌』が描く世界とはどんなものなのか、中身を簡単に紹介しよう。(p99~101)『外三郡誌』は、中世津軽の豪族である安東一族にかかわる歴史と伝承を、江戸時代の寛政元年から文政元年(1789~1818年)にかけて収集し、編集したという体裁をとっている。この江戸後期に存在したとされる古代~中世の文書や口伝えを、時系列や内容の矛盾にとらわれずそのまま書き留めたとされる独特のスタイルが、真贋論争を複雑にしていることはいうまでもなかった。

安東一族は、前九年の役(1051~1062年)の敗者である安倍氏の子孫とされる。前九年の役は、蝦夷のリーダーだった安倍一族の勢力があまりにも強大になったため、それを恐れた朝廷が源頼義・義家父子に征伐させたといわれる事件だ。

その後、敗者である安倍氏の末裔は、安東氏と名を変えて全国に分散しながらも、自分たちを滅ぼした朝廷に対して敵愾心を持ち続けた、というのが『外三郡誌』の根底を流れる基本テーマだった。中世の国際港湾都市として名高い市浦村・土三湊を支配した安東氏も安倍氏の流れをくむとされる。市浦村役場が『村史資料編』として『外三郡誌』を出版した理由がここにあった。

家史である『外三郡誌』の編纂を企画したのが、安東氏の末裔と伝えられる三春藩(福島県)七代藩主の秋田千季だった。千季はその命を縁者の秋田孝季に与えた。孝季は協力者で妹婿の和田長三郎吉次とともに、日本全国をくまなく歩き回り、各地に残る文書や伝承を記録・蒐集したとされる。吉次は五所川原市の石塔山荒覇吐神社を守る家柄とされ、『外三郡誌』の発見者とされる和田喜八郎の直接の先祖とされていた。なかなか魅力的なストーリーだった。】

しかし、著者の存在も明らかでなく、三春藩の史料にもなく、天井から発見されその後も続々と発見され続け、寛政原本がある、と古田武彦教授は主張するが、和田が死亡して七年後もまだ見つかっていない。荒唐無稽なもう一つの日本史、つまり偽書である、と東大の末木教授(仏教学)の発言を紹介しています。


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10.12.03 「内容」

『東日流外三郡誌』の内容は真実の歴史なのか、斉藤光政さんは、全て和田喜八郎氏の創作とされます。

真書派としてたびたび登場してもらっている、お三方の意見を見てみました。

西村俊一氏は、次のように『三郡誌』の内容について述べ、具体的な内容にまでは立ち入っていません。
【編者秋田孝季の事実認識と価値判断の双方を含んでいる。それ故、現時点で見れば、いずれ、その双方について、(1)肯定できるもの、(2)肯定も否定もできないもの、(3)否定されるべきもの、の3要素が看取されるのは当然である。その中、その事実認識の当否は、認識枠組みの当否とそれに応じる実証的根拠の有無如何によって判断されなければならない。】

古賀達也氏は、和田家文書は偽書ではない、とされます。しかし、その内容についての史料批判は古田武彦さんに「おまかせ」ということのようで、具体的な言及は見当たりません。

その古田武彦さんは、いろいろなところで意見を述べておられるので、全部を渉猟できたわけではないと思いますが、「長髄彦」や「邪馬台国」についての『三郡誌』叙述には批判的のようです。その2例を以下に挙げます。

【大和(奈良県)は、安日彦・長髄彦がこの地方を支配していた。南九州方面にいた神武天皇が大和へと侵入し、彼らを打ち破った。彼らは大和の地を逃れ、津軽(青森県)へと亡命した。これらについては”NO”という立場である。】(浅見光彦氏へのレター

又、【九州に邪馬壱国、近畿に邪馬台国があった、というように書いているが、「これは秋田孝季の歴史認識の誤り」からきている。】というように書いています。(『真実の東北王朝』)

結局、「偽書」かどうか、という論争は、『三郡誌』が秋田孝季なる人物が寛政年間に書いたものか、昭和の時代に和田喜八郎氏が書いたものか、ということに凝縮されるようです。


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10.12.04 「季刊邪馬台国」
一昨日、大学同期の飲み会での四方山話で、Fさんが「季刊邪馬台国」のバックナンバーがほぼ揃っている、と言います。丁度今、斎藤光政さんの本を検討しているのに、「季刊邪馬台国」OO号によれば、という記事の引用が沢山あります。できれば、引用部分だけでなく全体を読んでみたいな、と思っていたので、借りることにしました。

取りあえず、創刊号と69号の2冊を今朝ゴルフ場に行く途中Fさん宅に寄り借りてきて、創刊号を読んでいるところです。『季刊邪馬台国』は、31年前に創刊され、編集責任者野呂邦暢氏と古田武彦さんの対談、古田武彦さんのエッセイなどが収録されています。今の「反古田」の牙城というイメージとは全く異なります。安本美典氏の編集になってから90度方向変換したようです。

折角借りてきましたので、スキャナーで取り込んで随時見れるようにしておこう、と思っています。しかし、結構物理的には「時間」がかかることでしょう。何とか今年中には『偽書「東日流外三郡誌」事件』批判をホームページに載せなくては、と心中の工程表には書いてはいるのですが。


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10.12.05 
『偽書「東日流外三郡誌」事件』について、大体問題点のピックアップが終わったかな、と改めて見直してみましたら、まだまだ沢山あることに気付きました。

「何でも鑑定団に出された遮光土器」・「丑寅日本記に記載のある国記・天皇記」・「役小角関連出土品」・「安倍頼時の遺骨」・「寛政年間の古文書レプリカ作成依頼」などが残っています。この五つについて明日から調べてみようと思っています。

『季刊邪馬台国創刊号』に、「古代史への冒険者」というエッセイを古田武彦さんが寄せられています。その後の古田武彦さんの著述の方向を示唆されているところが多く参考になります。この文章は今の若い人には眼に触れることはおそらく出来ないでしょう。古田史学の会の会報にでも再録されてしかるべきではないかな、それともどこかに既に採録されているのだろうか、などと思いめぐらせました。


◎’10.12.06「遮光器土偶」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』という本が、一般読者に対して説得性のある部分がこの、「何でも鑑定団に出された遮光器土偶」関係の部分かもしれません。

斎藤光政さんは、和田家文書の「丑寅日本記」に記載のある、四柱神社のご神体が、青森県の石塔山荒覇吐神社から出た、と和田さんが言い出し、秋田県の田沢湖町の四柱神社のご神体遷座式が行われたことについて述べます。

そのご神体とされる、青銅製仏像と遮光器土偶の写真を、安本美典さんに送ったところ、「仏像のほうは中国に行けば、どこでも買える土産物にすぎません。遮光器土偶も似たようなものではないですか」とのことだった、と書きます。

そして、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に、和田から大金と引き替えに受け取ったという遮光器土偶を手に出演していた人がいた、と書きます。彼は和田から、石塔山に埋まっていという財宝を掘り出すための資金提供を持ちかけられ、百万円以上を支払ったという。しかし、その財宝が出ることはなく、和田はその資金を返す代わりに、国宝級の品と称して遮光器土偶を差し出し、この遮光器土偶に対する番組の鑑定結果は、「市価数万円で、しかも模造品」と結ばれています。

これについて、和田喜三郎さん、古田武彦さん、古賀さんの、「遮光器土偶」や出土品についての意見を探してみました。直接的に、「なんでも鑑定団」に言及しているところは見当たりませんでしたが、いくつかのものに行き当たりましたので、整理してのちほど報告したいと思っています。


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10.12.07 遮光器土偶」
和田家文書の真贋についての意見は、真書派の方々からも多いのですが、和田喜八郎氏所蔵の出土品についてはあまり言及されていないようです。数千点にも及び、資料収蔵庫を作りたい、と生前の和田さんは言っていたようですが、古田武彦さんもそれらを見せて貰えなかったのか、具体的な話は見えません。遮光器土偶について調べてみました。

古田武彦さんの『真実の東北王朝』に、遮光器土偶について述べられているところがあります。【和田家文書に遮光器土偶の描写(絵)があり、それぞれ権現神社神像権現砦出土  江留澗神社神像カムイ丘出土などと詳細に描かれていることから、それらは土偶でなく、神像として秋田孝季は看做していたことや、江戸時代において、亀ヶ岡(カムイ丘)等出土の「遮光器土偶」を記録・保存していること(実物も、遺存するものあり 和田家)などは確認できる】などと書かれています。

また次の様にも書かれています。【世上、和田喜八郎氏をもって、一個の「詐偽漢」のごとく噂する人士が絶えないようである。氏の所持される漢鏡などの宝物類を、あたかも、他よりもたらした(あるいは他で作らせた)「贋作」のように見なそうと欲するのである。では、その人士に聞こう。「では、なぜ、氏は『銅鐸』の贋作を作らせなかったのか」と。】 

古賀達也さんは、古田史学会報23号「和田家史料(出土物)公開の歴史」で次のように、和田さんの収蔵する出土品は、昭和20年代に既に所有していたと書きます。
【東奥日報の昭和二九年二月十四日付の記事に、和田家が和田家文書に基づいて発掘した文化財公開のことが記されていた。昭和二十年代既に和田家が文化財を大量に収蔵していた事実を証明する記事だが、このことはとりもなおさず、和田家文書が偽作ではなく、安倍安東一族の伝承と秋田孝季らによる調査を記した貴重な文献であることを裏づける。】と。ただ、この記事の最後にある、「権威者による鑑定が待たれる」、というような部分についてのコメントはありません。

和田喜八郎さん本人は、古田史学会報23号で、「荒覇吐神社に、三度も破錠侵入し、数々の遺物が盗みさられた」と既に物が無くなった、と言います。しかし、会報30号では、収蔵庫を建てたい、という希望を述べられていますので、まだ沢山の出土品を持たれていたことがうかがえます。

古田武彦さんも、前述のように、遮光器土偶の「実物も、遺存するものあり ーー和田家」と『真実の東北王朝』に書かれています。ご覧になったのかどうかまでは、この文章からでは解りません。こんど古田先生にお会いした折に聞いてみたいと思います。

今夏、お会いした時に、「三郡誌」についてもう書かれないのですか?とお尋ねしたおりに、「竹田侑子さんが書いてくれるのが一番良いのだけれど」と仰っていました。和田さん所蔵の遺物を実際手に出来ないと、文献的な方面からのアプローチだけでは、これ以上立ち入った検討ができない、ということもあるのかなあ、と今になって思いますが。


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10.12.08 「クジラの化石」
『偽書「東日流外三郡誌」事件には、クジラの化石問題 というのが、第十三章 偽化石 という一章を使って書かれています。おおまか次のように書かれています。

【安倍頼時が前九年の役で源頼義敗れています。安倍頼時の活躍の舞台であった、岩手県衣川村ではその顕彰碑を建立しようとしていた。その安倍頼時の遺骨が青森の五所川原市の荒覇吐神社にある、と岩手県衣川村に連絡があり、古文書に記載があるということで、和田喜八郎から分骨してもらった。これに疑いを持った人たちが、6年後に岩手大学に鑑定を依頼したところ、クジラの骨の化石とわかった。また、このクジラの骨が「津保化族の骨片」として、和田喜八郎氏の著書『知られざる東日流日下王国』で紹介されている。】というものです。

この「遺骨」について、衣川村役場は「頼時の骨で、しかも東京の役か大学の先生の鑑定ずみだと聞いていたのですが・・・」というコメントをp362に書いています。又、偽書派の論客、斉藤隆一氏のコメントも紹介しています。「頼時の遺骨も津保化族の骨片も狙いは同じです。外三郡誌を正当化し権威づけようとしただけなのです。(中略)いくら古田さんが鑑定したとはいえ、鑑定書もないのに受け取る安易さ、これがすべて問題です。(後略)」ここでははっきりと古田武彦さんが鑑定した、という前提での話になっています。

さすがに古田武彦さんもこの件について反論されています。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/furuta09.html
古田武彦さんにとって、許しがたい一文、ー古田氏は、どこまで『和田家資料』に加担するのか―”が『季刊邪馬台国』五四号にあった、と次のように書かれています。問題とされた『季刊邪馬台国』五四号の文章は、次のようなものです。

【「岩手県胆沢郡衣川村に、安倍頼時の菩提を弔う九輪塔と、安倍一族鎮魂碑が再建されている。その地は、昔から九輪堂と呼ばれていて、藤原清衡が建立したという伝承があった。そこの奥まった一角に、突然安倍頼時の墓が出来た。(中略) 実は、和田喜八郎氏が、石塔山荒覇吐神社にあった安倍頼時の骨を、衣川青史会に寄贈し、墓が出来たというわけなのである。なぜ頼時の骨が津軽にあるのかも疑問だが、その骨を鑑定したというのが『古田武彦』氏なのである。

「安倍頼時の骨」など、見たことも、聞いたこともない。それどころか、わたしには「骨を鑑定する」ような、能力もなければ、趣味もない。かつて誰人の骨も、「鑑定」したことなど、一切ないのである。 誰か、他の人類学の専門家ととりちがえたか、さもなくば、全くのガセネタ、つまり「作り話」であろう。 問題は、次の一点だ。これほど事実無根一〇〇パーセントの「古田攻撃」について、一回も、わたし自身に「確認」をとらなかったことである。とれば、事実無根は、すぐ判明したのに、全くせず、「活字」にさせた。】

そしてこの記事が『アサヒ芸能』に転載され、増幅されて、また、季刊邪馬台国55号の記事となっている、とも書かれています。結論として、【この「骨鑑定」が古田によった、という証拠を提出せよ。それができなければ、率直に、明白に謝罪した上、「和田家文書攻撃」を停止せよ。】で結ばれています。

ただ、寅七にはいろいろな資料を読む限り、この騒動自体はガセネタに基づいたとは思われないのです。これは和田喜八郎氏の行動が原因であって、その権威付けに「古田鑑定」が付け加えられている、と思われます。古田さんが和田さんに、この騒動自体がガセネタであるか、という確認を取られたのかどうかは分かりません。古田さんが、和田さんの行動によって火の粉を浴びた、ということは言えると思います。

それにしても、この斉藤光政さんの本が出る前に古田さんの反論は出ていましたのに、全く無視されているのは、他人のコメントという形で、実質的には名誉棄損に当たるのではないかなあ、とも思いました。


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10.12.09 「寛政原本のレプリカ」
『偽書「東日流外三郡誌」事件』には、寛政原本といわれるものがなかなか出てこないことに関連して、古田武彦さんが寛政原本のレプリカの作成を試みた、ということを週刊誌『アサヒ芸能』が報じた、と斎藤光政さんは次の様に書かれています。

【それは、1994年のことである。広島市に住む古美術商が週刊誌などに衝撃の告白を行った。彼によると、古田の依頼を受けて二百万円で「寛政年間の古文書」の作成を請け負ったという。「レプリカを作ってくれというようなレベルのものではありません。本物と発表できるようなものを作ってくれといわれました」(アサヒ芸能1994年9月29日号)

そう証言する古美術商は、その依頼の証拠として、古田からの製作費振り込みを示す銀行口座のコピーを示した。弁護士立会いでの下で書き上げた念書を公開してまでの告白に、歴史学会はもちろん世間は息をのんだ。】(p381)

これが事実であれば、古田武彦さんの学者生命は間違いなく断たれるような事件でしょう。しかし、古田さんが「事実無根、偽書派に嵌められた」、と弁明・反論していますのに、斎藤光政さんは、その真書派側の話は全く読者に伏せたままの一方的な断罪をされています。

いかに「伝聞」という形をとっていても、斎藤光政さんの人間性かどうか、偽書派べったりの取材姿勢はジャーナリストとしての適性は、如何なものか、と問われるのではないでしょうか。(古田さんの反論は明日に。)


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10.12.10
 「寛政原本のレプリカ」
『東日流外三郡誌』の「寛政原本」のレプリカ作成疑惑についての古田さんの弁明・反論は、『新・古代学 第一集』1995年 新泉社 「貴方は何処に行くのか 桐原氏へ」に掲載されています。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/furuta05.html

そこでは、広島旧二中の後輩の桐原氏、のAちゃんという娘さんの窮状に同情した古田さんが銀行送金した事情が述べられ、それが偽書派から利用されることになった経緯がくわしく述べられています。簡単にまとめてみます。

【調査員などをしている桐原氏から、安本ー古田TV対談をみて、偽書説に肩入れをしている編集に憤慨した、と古田さんに近づく。紙の調査についても知識があるということであったし、広島の旧制中学後輩ということと、交通事故で母親を失い自身も重傷を負った娘さんを男手ひとつで育てた、ということにも同情して、調査を依頼することになる。

当時、所謂偽書裁判中で、偽書側は、興信所を使って和田喜八郎周辺を調べていた。その結果の調査書を安本美典氏からなぜか古田さんに送ってきた。つまり、和田というのはこんないい加減な人間なのだ、というようなことを古田さんに言いたかったからであろう。しかし古田さんは、同じように安本側は自分の事も調べさせているのではないか、と不安にかられ、桐原氏に相談すると、安本氏の手口は分かっていますから、と請合あった。

紙の調査と合わせて調査の依頼をし、100万円を支払った。その後、Aちゃんが渡米したいと言っているので、500万円貸して欲しい、という申し出があったが、断った。しかし、Aちゃんに対しての同情心から100万円を差し上げた。これらの経緯については、電話録音もあるし、レプリカ作成依頼などは全くしていない、証拠があるならば出して見せよ。】

しかし、古美術商(古田さんはそうは書いていませんが)で弁護士事務所調査員という人物を簡単に信用して、調査依頼に大金を払った、というのは事実のようです。

古田さんは、【桐原氏が、最初から「仕掛人側」に立っていて、その企画に従って、接触を求めたか。経過の途中の「ある時点」で、「仕掛人側」の掌中におち入ったか。最後段階で「ある力」に屈して、「沈黙」を強いられる状態に入ったか。のいずれかであろう。名誉毀損で訴えても、「レプリカ作成依頼」ということが何故名誉毀損になるか、と言うことになる。古田武彦が三郡誌の寛政原本のレプリカ作成を試みた、というメッセージが世の中に伝わるであろうという心理戦術にはまってしまった】、というように述べています。

古田さんがどうやら、仕掛け人の工作に嵌められた、ということのようです。


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10.12.11 
『偽書「東日流外三郡誌」事件』の「丑寅日本記」の「国記」・「天皇記」問題を書こうと思っていたのですが、今夜は時間が取れそうもありません。まだ、藤本光幸さんのこの件についての「遺稿」などを読み直す作業が残っています。今夜は古代史関係のアップはお休みです。


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10.12.12 「天皇記
『偽書「東日流外三郡誌」事件』には、和田家文書の一つ、「丑寅日本記」に「国記」と「天皇記」が秘密裡に石塔山荒覇吐神社に納められた、とある、そんなことはあり得ない、と言うような事が書かれています。(p192)

確かにもし事実であれば大事件でしょう。史料批判としては、藤本光幸氏が「古田史学会報、71・72.73.75号」で発表された、『和田家文書に依る「天皇記」「国記」及び日本の古代史についての考察』があります。しかし、稿半ばで亡くなられ未完遺稿となっているようです。

寅七には、「丑寅日本記」に記載のあるという「天皇記」「国記」について史料批判を行うだけの素養も能力はありません。ただちょっと引っかかるところがあります。偽書派・真書派のいずれも、この和田家文書絡みの「天皇記」という名前の史書が存在したのか、ということについては問題視されていないようです。

「乙巳の変で天皇記・国記が焼けた」、というような記述が日本書紀にはありますが、「天皇」という称号が確立したのはもっと後の、天武期以降という意見が強いようですし、おそらく間違いないと思われます。つまり、「天皇記」という史書を厩戸王子と蘇我馬子が編纂したのではなく、「スメロギ記」というのかどうか、そのような名前の史書を編纂したのであっただろう、と思われるのですが。今度古田先生にお会いしたらお聞きしてみたいと思っています。


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10.12.16 
ホームページは小島毅さんの『父が子に語る日本史』を上げて以来、3カ月近く  更新されていません。読者の皆様には申し訳ないと思っています。

斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』を批評したいと、準備しているのですが、対象が大き過ぎるというか、幅が広く、偽書の証拠と挙げられる問題点も多いので、整理にオタオタしている、と言うのが実情です。明日あたりからまとめにかかり、何とか年内には、ご期待の応え(?)出稿したいもの、と思っています。


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10.12.18 
『偽書「東日流外三郡誌」事件』の原稿書きに入っています。斎藤光政さんが伝える、「偽書派」の主張に対して、ネットで古田史学会関係の関係論文を、参照しながらやろうと思っていました。

ところが、古田史学会のホームページを開いても、全て文字化けしています。ウイルスにやられたのでしょう。しかし、愉快犯的なウイルス頒布犯によるのか、意識的なサイバーアタックなのか、それとも単なる何かのミスによるものなのかわかりません。少なくとも、擁護派というか真書派というか、古田先生側の主張を、「コピペ」ですまそうと思った寅七の試みは、当面難しいようです。早く、ウイルスを除去して頂くことを願っています。


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10.12.19 
『偽書「東日流外三郡誌」事件』の原稿書きに入って、筆跡問題から、用語の問題まで進みました。古田先生側のの反論を見ようにも、昨日のブログに書いたように、古田史学会のHPは、閲覧不能状態です。ところが、ネットで検索して、「キャッシュ」で検索すると、ちゃんと出てくることが分かりました。もし、このブログの読者で、古田史学会関係のウエブ検索で困っておられる方がおられましたら、「キャッシュ」での検索をお勧めします。


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10.12.20 「筆跡」
古田史学会水野代表からメールで、ホームページの文字化けへの対処法の教授がありました。原因については別に説明はありませんでしたが、F5キーを押すを押すだけでOKということで、試してみたらちゃんと読めました。

斎藤光政さんは、和田家文書は全て和田喜八郎さんが書いたとされます。古田武彦さんが竹田侑子さんと共著で出された『東日流「内・外」三郡誌』には、沢山の和田家文書の写真が出ています。これをみれば、同一人が書いた、などとは到底思えません。コピーをいくつか載せれば納得して貰えるかなあ、と何枚かスキャナーで取り込み作業などをしています。
その内の3枚ほどブログに載せてみます。