道草その15 ブログに上げた古代史本批評 その2

ブログ「棟上寅七の古代史本批評」に、2006年8月から2008年7月の2年間に上げた本の内のいくつかを、まとめてみました。数が多いのでいくつかのジャンルに別けました。その2 として、推理小説・教科書関係・福岡関係・マイナー本他などをご紹介します。

 注 【  】内数字は、ブログ出稿の日付けです。


(12) 内田康夫 「十三の冥府」
【2007.5.19】

内田康夫さんの十三の冥府読んでいます。古田武彦さんが、「新古代史学8集」に『浅見光彦氏へのレターで所謂「東日流外三郡誌・偽書説」に依拠してこの作を書かれたのは遺憾だ』旨の一文を載せられています。

寅七は読んでいませんでしたので、amazonから取り寄せ読んでみました。
従来の古代の日本の歴史はまったく間違っていた、という内容の古文書を偽書と思うのは、普通の人の感覚であるとは思います。

しかし、その文書を伝承してきた、一家の主人公を、色魔の人非人のように設定するのは、問題が大きいと思います。いくら『この本はフィクションであり、実在の個人・・・とはまったく関係ない云々』と最後に断り書きを入れても、関係者にとってとても我慢ならないことでしょう、きっと、著者の内田康夫氏を怨むことと思われます。

古田武彦さんは、非常に抑えた態度で、諄々と、浅見光彦氏へ、今回の作品についての問題点と、その古文書についての疑問点に答えています。

偽書ということについて、古文書自体がニセモノつまり贋作なのか、内容がニセモノなのか、という二つの面から見なければならないでしょう。所謂偽書説に立つ方々は、『古文書自体がニセモノだ』であり、所謂真書派の方々(古田氏たち)は、『文書はまっとうに伝来している。内容については検討に値する』ということで、全く噛み合っていません。内田康夫さんも安易に、偽書派に乗って作品を書かれた感じがします。安本美典・原田実氏他著の日本史が危ない!に乗っかったような浅見光彦の解説的意見が述べられます。

この十三の冥府は、今までの浅見光彦シリーズにない、くどくてすっきりしない作品のように思われました。内田康夫さんのファンの方も多いことでしょう。この十三の冥府を読んだ方も、読んでいらっしゃらない方も、この古田武彦さんの浅見光彦氏へのレターを読まれることをお奨めします。寅七の古代史本批評とは、格の全く違う批評文です。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html
 をクリックしてみてください。



(13) 小林久三 「二人の聖徳太子」
【2008.6.16】

武蔵先生の彦人皇子=タリシヒコ説のことを調べるためにネットサーフをしていて、「二人の聖徳太子」という小林久三さんの推理小説にブッツカリ、Amazonから取り寄せました。

と言っても本代\1で、345円の送料だけでしたが。早速読んで見ました。推理小説としての出来映えはともかく、飛鳥時代の始まりの頃の古代史の常識を整理させてくれる本ではありました。

小林久三さんなりの古代史観を、登場人物・主人公の父親が、サラリーマンながら趣味で古代史を研究している、という設定で、飛鳥時代の歴史を講釈されます。

隋書にあるタリシヒコ問題では、継体天皇と敏達天皇に自分の娘を妃とした、息長真手王がタリシホコの可能性があるとしながらも、彦人皇子である可能性が高いとしています。

この彦人皇子=タリシヒコ説では、息子のリカミタフリ太子には、茅渟王を当てています。しかしながら、兄弟執政についての見解は述べられていません。武蔵先生と同様に日本書紀の記述はいろいろと創作が入っている、ということでかなり自由に意見を述べられています。

アレキサンダー大王伝説が神武東征伝説になった、とか、正当な皇統継承者、彦人皇子を蘇我馬子(天皇であった)が暗殺したために、正史に載せることが出来なくなり、隋書との矛盾が判りながら推古天皇(女帝)とせざるを得なかった、などとされます。

しかし、小林久三さんは推理小説の背景として使っているだけですし、武蔵先生のような歴史研究書としての発表とは違います。武蔵先生も小説として発表されるべき性質の著作ではなかったのかなあ、と寅七には思われます。

ところで、「二人の聖徳太子」の裏表紙に小林久三さんの経歴がありましたので、掲載します。そういえば、ロサンゼルスの疑惑の銃弾事件でTVのコメンテーターとしてブラウン管上で拝見したお顔でもあります。

小林久三さんの小説の題名「二人の聖徳太子」とは、聖徳太子とその子、山背王子とは同一人物ではなかったか、と作中人物に推定させるところからのようです。

推理小説としての謎解きが終わったあと、主人公に、今後聖徳太子の勉強をしたい、と言わせていますので、今後の小林さんの聖徳太子像の新展開が期待されました。

なぜなら、小林さんは、この本の参考図書として上げられた13冊の本の中に、古田武彦さんの「法隆寺のなかの九州王朝」がありました。釈迦三尊像・法隆寺・聖徳太子の17条の憲法も九州王朝から、という古田史学に触れて、小林さんの新しい聖徳太子像、古代史像が期待されました。

しかし、残念ながら一昨年、寅七と同い年なのに脳梗塞でお亡くなりになっています。合掌。






(14) 吉岡道夫 「古代四国王朝の謎殺人事件
【2008・7・28】

古田武彦さんの足摺岬縄文灯台説を背景にした推理小説「古代四国王朝殺人事件」 吉岡道夫 カッパブックス 1994 が届きました。

倭人伝の侏儒国の記事と、足摺岬縄文灯台と、神代文字を背景に殺人事件を解決する古代史研究家のお話です。殺人事件の推理的興味はちょっと薄く感じられますが、神代文字・侏儒国・足摺岬縄文灯台などが背景として散りばめられていると、お話もまあ面白く読めるような仕上がりにはなっていました。

気になったのは、神代文字、日文の説明が、対馬の「阿比留文字」として説明されていることです。

阿比留文字は平安時代以降のもの、とされていますし、対馬に房総から阿比留氏が来たのも平安時代とされています。魏志倭人伝の3世紀と、8世紀末からの平安時代の資料を、一緒にごちゃ混ぜに使うのは如何なものかなあ、と気になりました。

参考図書に古田武彦さんの縄文灯台の論文が参考になった、としてはありましたが











(15) 家永三郎 「検定不合格日本史」
【2007・10・27】

家永三郎さんと云えば、歴史学者として定評のある方で、文部省の検定教科書に対して、先頭に立って、反対の論陣を張られた方です。しかし、ご興味は近代史に集中されているようです。

「検定不合格日本史」 家永三郎 三一書房 1974 を読んでみましても、縄文時代から弥生への過渡期の「銅鐸の消滅」についても全く無視されています。

第1章 日本国家の成立 というところで、次のように述べるに留まっています。

1農業の輸入と政治組織の発生
『(前略)弥生式時の行われている時代の遺物に銅剣・銅矛・銅戈(主として北九州中心の地方で発掘される)と銅鐸(主として近畿中心の地方で発掘される)とがあるが、中には実用になりそうもない巨大なものもあり、おそらく政治上の権威を示すものとして、このころにおける国家生活の成立を裏書するものであろう。(写真及び銅剣・銅鉾・銅鐸分布図を載せてあります)

この時代にはいると、北九州方面では死者を素焼きのかめや箱式石棺の中に葬る習慣が始まった。(一段小さな活字で)しかし、個人のために特にりっぱな墓を造ったり、贅沢な副葬品を伴ったりする例のないことは、階級の分化や政治的権力の強化が、まだ十分でなかったことを考えさせる。』

銅鐸という立派な文化を残した我らが祖先に対して、もっと具体的に、わからないならわからないと、謎なら謎なりとして、民族の後輩としての出来る限りの評価をしてあげなければ失礼ではないかと思います。



(16) 川瀬健一 「徹底検証 新しい歴史教科書」
【2007.11.14】

川瀬健一さんという元中学校教師で教育評論家の「徹底検証 新しい歴史教科書」という力作が出版されています。

倭国=九州王朝説に基づいて扶桑社の「新しい歴史教科書」を批判されています。

寅七が試みている「福岡県の歴史」の批評を試みているのと同様に、いろいろ歴史本の批評がなされています。「新しい歴史教科書 扶桑社」の批評本も書店で見かけ購入しました。

その本の著者は、長らく中学校の教師をされていらっしゃった、川瀬健一さんとおっしゃる方で、なかなか詳しく批判されています。その古代史部分あたりは、古田多元史観を取り入れていらっしゃっていて、異を唱えるところは見当たらないくらい立派に扶桑社の歴史教科書の内容を批判されています。

全体的には優れた著作とは思いますが、扶桑社の新しい歴史教科書でも、『銅鐸は、銅剣・銅矛などと同じようにもともとは実用の武器であったが、祭祀器用として大型化したもの』、と誠にそっけない扱いですが一応言及しています。残念ながら川瀬さんのこの本には全く銅鐸について言及されていないのは不思議です。

縄文時代に大陸から大量の渡来民が来た、と主張されていますが、銅鐸という極めて精巧な青銅器の技術がどこから伝わり、且つ、何故消えてしまったのか、新しい歴史教科書の政治的側面を攻撃するのに力を傾注され、日本の短い青銅器時代について、つい見落とされたのでしょう。力作だけに残念です

「批評は分った、ではあなたはどのような歴史教科書を理想とするのか」という反問に答え得る本か?といいますと、???の部分が多いようです。

寅七がこの本を読んだところでは、著者の主張が強く出始める中世の天皇の系譜の説明あたりになると、???部分が多くなってきます。ご自身の持論かと思われますが「天皇制の特色」とされる「豪族による共同推戴」、という基本に縛られ、結局天皇家の系譜を追う歴史展開になって、社会史的な視点が希薄になっているようです

。歴史教科書本の批評は難しいなあと心底思います、川瀬さんに同情します。



(17) 武野要子 「博多」
【2008.4.25】

一昨日の昼休み、近くの書店を覗きましたら、岩波新書で博多という本(武野要子著)が出ていました。

槍玉その2「古代最大の内戦 福岡県の歴史」の見直しをやっているのに役に立つか、と思って購入しました。

ちょっと見たとき気付いたのは、磐井の乱のあたりの説明です。今寅七が批評を見直ししている、田村圓澄さん他の「古代最大の内乱 磐井の乱」と、まるっきり同じような、九州独立戦争という捉え方でした。ちょっとがっかりですが、案内書という性格上、定説に従った、というところで仕方ないのかな、と思いました。

その後、わが奥様の温泉での湯上りを待つ間に、じっくりと古代部分の記述を読んだのですが、結論的に云うと、岩波新書の編集者の質も落ちたなあ、これくらいの古代史の間違いを指摘する知識もないのかなあ、と思われました。

例えば、金印の発見時のことが述べられています。金印の発見者亀井南冥が漢委奴国王を「かんのなのこくおう」と読んだ、としているところなどです。亀井南冥は「漢のヤマトノ国王」と読んだのであり、「漢のワノナノ国王」と読んだのは、明治期の三宅米吉さんというのは周知のことと思います。

中世以降の商業史の専門家が、古代の部分については、小田富士雄さんや川添昭二さんの著作を頼りに書いたように思われる本です。具体的には、ちょっと長くなるので、明日時間があれば、纏めて書こうかと思っています。

岩波新書「博多」の古代部分の疑問点。

金印の発見者南冥が漢委奴国王を「かんのなのわのこくおう」と読んだ、と間違ったことが書かれているところは昨日のブログに記しました。そのほかの、これはどうかおかしいぞ、と思われた点を列記してみます。


・磐井の乱の説明は、小田富士雄さんの説、そのままを断定的に述べられます。磐井の墓などの石造物は形象埴輪を石に置き換えたところにオリジナリティがあるとか、磐井は怒り心頭の末、九州独立の戦いを挑んだなどは、考古学会の所謂定説派の中でも議論が多いところでしょう。

・沖ノ島の国宝の三角縁獣神鏡を、3世紀の中国製の鏡と断定しているところは問題だと思われます。現在考古学会でも、三角縁神獣鏡は中国に全く出土せず、日本国内で造られた、という考えが主流になっているのに何故このように断定されるのか不思議です。

・日本書紀にある那津官家が、大宰府の前身と断定しているところも問題でしょう。筆者も博多に住み、この地に愛着がある、と仰っていますので、「都府楼」という地名も勿論ご存知でしょう。日本書記にも出ている筑紫都督府の名称が太宰府のこととはお気づきにならなかったのでしょうか。このあたりのことは全く無視されています。

・鉄矛の出土が北部九州に限られる、とおっしゃっています。ならば、魏志倭人伝には、卑弥呼の国の描写に、「その風俗、・・・・・・兵には、盾、木弓を使う、・・・・」と記してありますことをお忘れになったのでしょうか。仰るように、近畿地方にの出土はない、ゼロなのです。筆者には、博多が卑弥呼の国ではないか、という考えは、かすめもしなかったのでしょうか。

なぜ、このような間違いというか、問題の多い主張が、歴史案内書的な「博多」という本になされているのでしょうか。

筆者は、1953年九州大学経済学部卒業 その後、日本の商業史を専門にされていらっしゃるようです。巻末の参考文献に大学の先輩、田村・小田さんたちの「古代の最大の内戦磐井の乱」、や、同じく同じ九州大学の先輩、「福岡県の歴史」の編集の中心人物、川添昭二さんの著書を多数上げられています。

これでは論調が、寅七が槍玉その2で取り上げた「福岡県の歴史」に同調的になるのは止むを得ない、とは思います。また、古代史についての個々の事象でいろんな意見があるのは止むをえないとは思います。しかし、明らかに間違っていることを書かれるのは如何なものかなあ、「岩波新書」も編集者のレベルが落ちたのかなあ、という寅七の読後感想です。


(18) 森弘子  「太宰府発見」
【2008.5.20】

先日Book-offで森弘子さんの「太宰府発見」という本を見つけました。多元史観側の太宰府関係が書かれた本、古田武彦さんや内倉武久さんの本は読んでいますが、所謂通説の側の本は持っていなかったし、安かったので買いました。

太宰府の起源、いつごろ建てられたのか、誰が建てたのか、何故それらの記録が記紀にないのか、など森弘子さんの本には、「OOOと考えられている」という風に逃げられています。

例えば、「大宰とは東国・播磨・吉備・周防などに置かれ、ある地方の国々の上に立つもの、あるいは朝廷直轄の存在だったと考えられている」とか、「大宰府の前身については、那津官家とする説が江戸時代に河村秀根によって出され、現在も一般的であるが、云々」と書かれています。

しかし、いつ誰が建てたのか、何故日本書紀に書かれてないのか、という考察には進んでいらっしゃいません。特に、発掘調査によって、第期とされる、掘立柱遺構の建設年代については、期の8世紀第四半期より古いということだけの説明なのは???です。

多元史観に拒絶反応を示されるだけでなく、虚心に耳を傾ければ、森さんの考察の幅も拡がるのではないかと思いました。

【2008.5.27】

森弘子さんの「太宰府の発見」の本で、太宰府と日本書紀に出てくる筑紫都督府との関係について、大和朝廷が筑紫大宰の役所を、唐風に筑紫都督府と表現したのだろう、と云われます。どうやら、これが古代史学会の定説となっているようです。

しかし、倭の五王、これも定説では倭王武は雄略天皇とされています、が中国の宋書に、例えば 昇明2年 武を使持節都督ほかに除す とか倭王讃、倭王済なども都督に任じられている、という記録があることを無視されています。

都督であった倭王たちの本拠が都督府であった、と思うのが歴史家としての理性的判断ではないでしょうか。宋書の記事が日本書紀に合わないから、宋書がおかしいと仰りたいのなら、そう仰ってみたら如何でしょうか。



(19) 宝島編集部「暗殺の日本史」

2007.4.01】

先日槍玉その18に上げました、壬申の乱の中で、壬申の乱が果たして古代最大の内乱か?ということで、過去の皇位争奪の歴史を12件拾い上げました。

今、書店で宝島社から、異聞!暗殺の日本史として、別冊宝島編集部編として市販されています。

寅七が上げた12例の内の7例が挙げられています。

全体的に異論をさしはさむところはありません。ただ、歴史書に残っていない、継体天皇の大和入りまでの20年間の謎、に触れていないのは、暗殺には関係ないのですから仕方ないかも知れませんが、ちょっと物足らない感じです。

【2007.6.01】

宝島社文庫の異聞!暗殺の日本史別冊宝島編集部編を読んでいましたら、三浦佑之さんが無視された、所謂欠史八代について書いてありました。

この本も、三浦さんとは別の切り口の古代史でもあります。神武から崇神天皇までの事跡の記述が乏しいことについて、次のように書いてありました。

『大和の侵入した初代神武天皇によって、近畿天皇家の基盤はつくられた。第2代スイゼイ天皇によるタギシミミ殺しはあったものの、崇神天皇までの8代の間はスムーズに親子間で継承されている。後代に比べると、あまりにもすんなりと継承されていることから、「こんなにスムーズなはずがない」と欠史8代の天皇の実在を疑う研究者もいる(実はおおかたの研究者は疑っている)。

しかし、このときの近畿天皇家が置かれた状況を考えると、周囲は依然として敵だらけの状況で「継承争い」ができなかったのが実情ではなかろうか。周囲が復讐の機会を虎視眈々とねらっている中で、格好だけでも団結の姿勢を見せておかなければ、すぐさま周囲の国家からつけこまれる。生き残るためには「継承争い」をしている余裕がなかったと見るべきではないか、』と。

寅七もこのような推測は、常識的なものとして受け取れ、納得できます。



(20) 山田久延彦 「眞説 古事記」
2007.10.06】

わが奥様の買い物の合間に、昨夜から読み始めていた、山田久延彦さんの「古事記コンピューターをもった神々」を一通り読み終わりました。この本には期待に反して「銅鐸」は出てきませんでした。古事記の切り口にこんなやり方もあったのか、と感心させられました。

一言で云いますと、「古事記は地球の創世記」という読み物です。天の沼矛は地球に衝突した原始彗星、だとか、思金の神はコンピューターである、などなど、三浦佑之さんの「古事記講義」よりよっぽど面白い読み物でした。

【2007.10.07】

昨日ブログに書きました、山田久延彦さんの本、改めて紹介しておきます。書名は「真説 古事記」 副題「コンピューターを持った神々」 1979年 徳間書店刊 です。著者は、大手電気メーカー技術者で1937年生まれですから、42才の人生に油が乗った時の出版です。Amazonあたりを検索すれば古書で手に入ると思います。

波動方程式とか、永久機関は存在しうる、熱力学第2法則への挑戦とか、所謂、超科学の範疇に属する読み物です。寅七程度の科学知識では、理屈はわかりませんが、論理の展開の非論理性が面白く思われました。







(21) 時津規美生「高天の原は唐津だ」
【2007.5.12】

時津さんの本は、1976年刊で、いわゆる邪馬台国論花盛り、時代の、ご当地もの、です。彼とは、未成年時代の飲み友でしたので、懐かしさからもあり読み返したものです。

彼は、素人ながら、玄人には見えない所を感じる感覚をお持ちだったようです。

例えば、古事記の神武東征について、宮崎(日向)から東は太平洋だ、宇佐やら難波は北じゃないか、とまっとうな疑問を出しています。(彼の説、唐津出発なら、古事記の記事通りに、東に向かうことになる、という風に話は進むわけですが)

又、神武の又の名、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)と「ケヌ」のミコトに注目し、この「ケヌ」が魏志倭人伝で、卑弥呼と対立する、狗奴(コヌ)国王との関係を示唆しています。

彼は、古田武彦さんの著書を知らずに、立論しているようですが、もし読んでいたら、かなり違った展開になっていたのではないか、と惜しまれます。

【2007.5.13】

故時津規美生さん(平成15年歿)は、唐津新聞社のオーナー兼編集主幹であったので、結構その新聞を、高天の原は唐津だの主題のホームページ的というか、ブログ的というか、そのように意見発表の舞台として使われていたようです

もう少し彼が長生きをしてくれて、寅七がブログを始めたのを知ったら、きっと、学寮での侃侃諤諤と同じように、同レベルの、古代史の、論争ができたでしょうに、と悔やまれます。合掌


(22) 山村将護 「阿蘇神話街道」
【2008.1.05】

先日、阿蘇出身の友人から「阿蘇神話街道」という本を、読んでみて意見を聞きたい、と送って来きました。

阿蘇の草部吉見神社の由緒書と、旧家芹口家に残る由来書の紹介と解説の本です。

阿蘇の国っ神は、東征した天孫族の一派に征服されたように読めます。干球・満球の伝承も残るが、現物はない、など興味深い話も書かれています。しかし、これらの文献は明治41年に纏められていますので、当時の日本神話の理解に引きずられているところがあるように思われます。

「筑紫の日向」は宮崎県と解するのは仕方ないにしても、7世紀初頭に隋の使者裴世清が阿蘇に来て、神社に祭られている大きな夜光玉を見た、という隋書の記事との関連も検討してもよいのではないかと思いました。

神武の息子たちの内の、古事記などに現われない日子八井命などが祭神とされているのにも、興味深いものがあります。「草部」という名は、宮居の壁を草で葺いたことに由来する、と高森町のホームページにありますが、寅七には「草部」はその発音から、日下部と同意義と思われます。

日下部、日の本などと同類の地名ではないしょうか、その意味でもこの伝承の深さが感じられました。筑紫の日向を福岡県という見方で再検討されたら別の物語が紡ぎだされるのではないか、と思いました。






(23) 山内信 「山内一豊の隠れた新事実」
2008.1.28】

高校時代のテニス仲間だったやまさんが、弟が本を書いた。山内一豊の子孫が、姓の読みがヤマウチかヤマノウチかでNHKに意見を申し立てましたが入れられず、さればと自身の家系図などを参考に、山内一豊の子孫のその後などを、「山内一豊の新事実」と題して本に著されたわけです。

Amazonから取り寄せ読みました。掛川から土佐に行った一豊ですが、掛川に残された系譜につながる一族のお話でした。掛川に残った山内一族は財をなし、ご維新後東京に出ましたが、関東大震災で壊滅的にやられ、各所に(九州にも)分散したそうです。

山内家は、藤原鎌足~藤原秀郷につながる名門だそうです。しかし、DNA学の立場からすれば鎌足~一豊間は800年ほど離れています。世代にして40世代近く離れていますことは、1億分の1近くに鎌足のDNAは薄まって?いるわけになるのですが・・・・・。

読後の感想は、「フムフム彼も立派なお先祖さんを持っていたことが分って結構結構」、という平凡なものでした。

山内一豊の隠れた業績?といえるか分りませんが、食中毒を防ぐために、鰹の刺身を食べるのを領民に禁じたそうです。結果、領民の知恵で「鰹のタタキ料理」が出来、土佐名物となったそうですが、寅七はじめ呑み助は、一豊さんの恩恵にあずかっていることになりますネ。

   その2終わり トップページへ戻る