道草その14 ブログに上げた古代史本批評 その1

ブログ「棟上寅七の古代史本批評」に、2006年8月から2008年7月の2年間に上げた本の内のいくつかを、まとめてみました。数が多いのでいくつかのジャンルに別けました。その1 として、日本人のルーツ・非古田多元史観・騎馬民族などをご紹介します。

 注 【  】内数字は、ブログ出稿の日付けです。

(01)・中橋孝博「日本人の起源 古人骨からルーツを探る」 講談社選書メチエ 2005年
【2008・1・24】

「福岡県の歴史」の本の批評をしようと思うと、縄文人と弥生人などの違いについて、勉強せざるを得ないようです。それが先日ブログに書いたように、人類学者の中橋孝博さんの「日本人の起源 古人骨からルーツを探る」と、古人骨のDNA研究の士農田謙一さんの「日本人になった祖先たち」という本がAmazonから届きました。

中橋さんの本は、人類の誕生から、世界への拡散、日本人起源論、縄文人から弥生人、渡来系弥生人の拡散、現代人への道 とこの本一冊を読めば、何となく日本人の起源がわかっったような気にさせてくれる本です。

まだ、途中の日本人の起源の論争史のところまで読んだところです。最近のDNA関係の研究の進展に伴って、論争もほぼ落ち着いてきている、ということのようです。

しかし、この分野での論争は、たとえ旧石器時代の遺跡の偽造などがあったにせよ(藤村某氏だけでなく、古くは英国でも人骨偽造があったとか)学術的になされているように見受けられます。何度も云うようですが、弥生~古墳時代の遺跡評価は、何故科学的基準が出来ないのか不思議です。

【2008・1・25】
昨日の続きです。中橋孝博さんの「日本人の起源 古人骨からルーツを探る」を三分の二ほど読みました。いろいろ学術的なことが書いてありますが、結論(的)には、日本列島の先住民族は、大陸からの移住民族に、琉球とアイヌの南北に押しやられ、弥生的人種が北九州から近畿地方に拡散して行ったという確率が高いようだ、とされます。(というように読めます)

今の平均的な日本人の65%は、大陸のモンゴロイドと遺伝子が同じなどと云われます。寅七が思うに、結局はみんな一緒だ、ということ、小さいことは云うな、で済むことかなあ、(済まないでしょうね)と思いますが。

【2008・1・27】
中橋孝博さんの「日本人の起源 古人骨からルーツを探る」を一通り読みました。自分の仮説を立てて、古人骨のデータを使って検証されています。その場合、自分の仮説に不利なようなデータの数値をあえて使っても仮設が成り立つか、を見ていかれているのは、自然科学者としては当然かも知れませんが、古代史歴史学者にも見習ってもらいたいものです。

北部九州の弥生初期に、渡来人型と縄文人型の双方が同時に存在していたことを、まず説明されます。しかし、居住地域は別であるのに何故か墓制文化は同様で、かつ、双方の中間型の人骨は出土しない、という問題があることを語られます。そして、弥生後期には渡来系型が人口の大半を占めている、というデータが語るものは何か、ということに対して、次のような結論というか、仮説を提示されています。

狩猟採集型縄文人の列島に、農耕文化を持って中国・朝鮮半島から渡来してくる。彼らは平地の低湿地を生活基盤地とするので、縄文文化人と基本的には対立しなくて済む。徐々に渡来人も増え、農耕民の方が人口増加率が高いので、2~300年の間には人口比が逆転する。その間に縄文人も、墓制文化を含む農耕文化を覚えて行った、ということのようです。

ちょっと簡単にまとめすぎたのかも知れませんが、大変内容のある本だ、と思います。日本人の祖先探し、という意味で共通テーマを、中橋さんは人骨を、篠原さんはDNAを手段として追い求めていらっしゃるわけです。篠崎さんお「日本人になった祖先たち」も読む前から興味こころが湧きます。


(02)篠崎謙一「日本人になった祖先たち」 NHKブックス 2007年

【2008・1・25】
もう一つの篠崎さんの本は、分子人類学など難しい言葉も出てきますが、何故、欧米人と違って日本人には酒が飲めない人がかなりいるのか、など卑近な例を取り上げて説明してくれますので、寅七などの門外漢にでも、内容は非常に難しいことなのに、なぜか判ったような気にさせてくれます。

それにしても、「分子人類学」という分野があるとは、この年になるまで全く知りませんでした。一応ウイキペディア百科事典で「分子人類学」を検索しましたが、ありませんでした。最近のDNA関係の研究の進展に伴って出てきたカテゴリーか、と思われます。

篠田謙一さんの「DNAから解明する日本人の祖先たち」は、難しいけれどなかなか面白い本です。女性から子に伝わるミトコンドリアDNAを追っていくと、アフリカ大陸で10万年前に発生した女性新人「イヴ」にたどり着くそうです。また、男性から男性に伝わるY染色体を追っていくと、これもまた、9万年ほど前のアフリカで新人が発生したことに行き着くそうです。

いずれにせよアフリカからいろんな回路を伝って日本列島に流れ込み、現代日本人の遺伝子DNA構造は、多重構造になっているそうです。その中でも、縄文から弥生期の時代のDNAの混合時代と、かってないほど人々が移動し、また外国人との混血する機会が大きい現代が、二つの大きな日本列島のDNA上の変動期だそうです。

日本列島に縄文人がいた、というのではなく、朝鮮半島を含む地域に縄文人がいて、中国大陸南方、又、北方から移動があったとされます。古人骨から検討される中橋さんの日本人の祖先探求と、相互に補完関係にある本と思われました。

Y染色体は男性から男性へ伝えられるそうです。もし男性中心の民族が、他のDNAの異なる民族を征服した場合、ミトコンドリアDNAの比率と、Y染色体DNAの比率を比較すると、混合の状況が推定できるそうです。

例えば南米の先住民とヨーロッパ系の住民との調査例だと、6~9倍高く、征服され先住民男性が極端に少なくなったことが推定されるそうですが、しかし日本列島の場合それが見られないそうです。このことは、縄文から弥生への移行期のDNAの混合は基本的に平和裏に推移した、と仮定しなければ説明できない、(同書200~201頁)と書かれていることは、納得できる仮説と思われました。


(03)樋口隆康 「日本人はどこから来たか」 講談社新書 1971年

【2008・2・13】
再び読み直している本に、樋口隆康さんの「日本人はどこから来たか」という本があります。随分前に出された本ですが(1971年 講談社現代新書)、著者の長年の実学の成果がよく現れていて、今日の日本人祖先論に引けをとらないようで感心させれます。

樋口京大名誉教授は1919年のお生まれですから、今89才近くおなりかと思います。内容について説明しようと思いましたが、前述のように、少々いただいていますので、今夜は失礼させていただきます。

考古学・日本人論に興味のある方は是非Amazon Shopなどからお求めになることをお勧めします。










(04)芹沢長介 「日本旧石器時代」 岩波新書 1982年

【2008・2・22】
「福岡県の歴史」批判に、旧石器時代のことも書かなければならないか、と思って芹沢長介さんの「日本旧石器時代」を読み直しているところです。

旧石器時代では、先年藤原某が捏造事件を起こしていますので、そのあたりのことも考慮に入れながら検討しなければならないでしょう。

旧石器時代の年代設定に、海洋同位体ステージなる術語も出てきたりして、結構脳の体操になります。石器時代の同位性炭素法を取り入れるまでに、従来の土器編年に依存する学者側からかなりの抵抗があった、ということも芹沢さんは書いています。

弥生時代・古墳時代なども、全面的に科学的年代測定法に早くならないものかなあ、と切に思います。










(05)大野晋 「日本人の神」 新潮文庫 2001年

【2008・7・22】
去る14日、大野晋さんがお亡くなりになりました。88才というお年なのに、近年も旺盛に執筆活動をされておられたようです。寅七の書棚にも、「日本語練習帳」とか、「日本人の神」などがあります。

大野先生が唱えた、日本語のタミル語起源説は、その後の日本人のDNA分析からは必ずしもバックアップしてもらえていないようです。

古田武彦さんがどこかで仰っていたように、日本語はいわば言葉の吹き溜まりみたいなもの、というのが当を得ているかと思います。

大野晋先生も、タミル語の単語と日本語の単語との類似だけでなく、文法の方面からも併せてアプローチできなかったのでしょうか。まあ、そうすると、通説のウラルアルタイ語系ということになり、北方に引っこずられてしまうでしょうけれど。








(06)丹羽基二 「日本人の苗字」 光文社新書 2002年

【2007・4・23】
「日本人の苗字」聞かなければ読めない苗字を持っている人や、偉そうな苗字を持っている人が、誰でも身の回りにいることでしょう。なんでそんな苗字になったの?と誰しもおもったことがあると思います。

そんな、苗字の持つ底知れぬ魅力に取り付かれた筆者が、長年の30万件にも及ぶ苗字の蒐集の成果の一部を、みなさんにその楽しみを分かち合おう、ということで書かれた本、と前書きにあります。

国学院大学で歴史を学び、柳田國男・折口信夫の両先生から、「苗字では飯は食えないぞ」と忠告を受けながらも、大学での学級の道を志しますが、徒弟制度的なアカデミズム(雑用3年、資料集め7年、給料もスズメの涙)になじめず、ひと月で退職。その後、女子校の中・高の教師をしながら、半世紀以上苗字研究に注ぎ込んだ著者の精神が伝わってくる本です。

寅七は、日本書紀に出てくる昔の人名などから、古代の人名に興味を持つようになり、本書を書店で手に取ったわけですが、この本は、読んでよかったと思える数少ない本でした。「苗字集め」というフィールドワークから入っていますので、所謂、通説・定説に縛られず、ご自分の意見で物を言っていらっしゃるのが、スカッとした気分にしてくれます。

例えば、桓武天皇の頃(799年)に、わが国初めての官選氏姓台帳ともいうべき「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」が編集されています。そのことに触れられて、「新撰」というからには「旧撰」があったとも考えられ、それは大和でなく、九州王朝で作られたともいわれる、と通常の国史学者が云えないことも、スッと仰っています。

ご高齢なのに、最近の若い人達の文字遊びなどにも理解を示されています。病だれに閉と書いて「ひきこもり」と読ませたり、女偏に幼と書いて「ロリータ」とするなど、日本語の持つ発展性の現われ、と肯定的に捉えていらっしゃいます。

この本の中の著述内容もさることながら、各章の合間に〔COLUMN 苗字こぼれ話〕 というコラムがありますが、これがなかなか面白い読み物になっています。

残念ながら、丹羽基二さんは、この本を出されたのが2002年で、81才のご高齢でした。その後、87才でお亡くなりになっていらっしゃいます。もっと長生きしていただきたかった、と寅七に思わせる本でした。このブログで初めてタイトル内容にあった記事を掲載できたのかなア、と思います。


(07)李錘恒(兼川晋 訳) 「韓半島からきた倭国」 新泉社 2000年

【2008・1・10】
「韓国からきた倭国」という本を一読しました。一見、古田武彦さんの著書を韓国向きにした本のようです。

古田さんは、古代の「倭」は朝鮮半島南部+北部九州の海峡国家とされます。この韓国の李錘恒さんは、「「倭」は朝鮮半島南部の古代加耶国が本国で、北部九州にも進出していった、とされます。

つまり、九州王朝の元は加耶国である。ニニギの命は加耶から天下った、つまり日本の王朝は韓国の流れ、という説です。

こrなら、任那問題も、高句麗の好太王碑の倭寇問題も、せべて韓国内の問題として片付けることができます。韓国の人のプライドも保てる説でしょう。

しかし、「倭」の代表として金印が、加耶国えなく北九州にもたらされ、魏志倭人伝でも、加耶は、「狗邪韓国」と、邪馬壱国の30国の1国とされていたりしている事については、触れたがっていらっしゃらないようです。

加耶本国説を裏付ける加耶国の考古学的出土品がないのが残念、と李先生も思われているようです。








(08)内倉武久 「謎の巨大氏族・紀氏」

【2008・2・04】
香港旅行に「謎の巨大氏族・紀氏」という太宰府は九州の首都だったという本を書かれた、内倉武久さんの本を持って行きました。内倉さんは、朝日新聞の記者を長らくされた方です。なかなか読み応えのある本でした。

和歌山に勤務中に「紀氏」に興味を持たれて、古田武彦さんの多元古代史観に啓発されてかかれたようです。地元新聞に連載されたものを基に、本にまとめられたそうで、和歌山の地元の方々には受け入れやすいところがあったのではないでしょうか。「紀氏が日本を動かした」ということには郷土愛に訴えるものがあると思われました。

今回は、少々長くなりますので、2度に分けて掲載したいと思います。なかなか良い本と申しましたが、ただ、寅七にはちょっと気になったところが3点ありました。

まず第1点。歴史史料と考古学的出土品に基づいて話をすすめられます。不明のところは、「こうあったのではないか、あくまでも推測ですが」、というような書き方をされています。

そのこと自体はそれで良い、と思いますが、古代日本の二大青銅器文化圏について、紀氏がどのような立場であったのか、銅鐸圏の紀州が、銅矛圏の北部九州と対立する二つの圏にまたがって紀氏が活動できたのか、ということについては、全く触れられていません。この点についての内倉さんのお考えをお聞きしたいものと思いました。

【2008・2・05】
今日は「謎の巨大氏族・紀氏」批評の昨日の続きです。寅七がきになったところの第2点です。

倭の五王などの宋書の記事が、何故日本書紀にないのか、という問題について、内倉さんは次のように見解を述べられています。『倭の五王の記事は、大和政権以外の政権の記事だから載せなかった。そのほかの、受号記事などは、主語を変えたり時期を変えたりして日本書紀に取り入れている。中国から位を貰ったりしたことまでは、関係者の子孫もいることだし、そこまで日本書紀の編集者は嘘がつけなかった、ということではないか』と。

寅七が師匠と仰ぐ古田武彦さんはこの点について、いろんな著書で大約次のように推定されています。『「宋」はいわゆる南朝で、日本書紀が模範とした「唐」はいわゆる北朝である。北朝の立場からすると、南朝「宋」は偽王朝である。偽王朝との交渉を正史たる日本書紀に載せるわけにはいかないから』とされます。

寅七には古田さんの説の方に理がある、と思いますが皆さん方はどう思われますか?

第3の問題点は、「万世一系」的なうち蔵さんの氏族論批判です。

【2008・2・06】
今日も「謎の巨大氏族・紀氏」批評の続きです。寅七が気になったところの第3点です。

内倉さんは、日本中に紀氏が散らばって、それぞれ地方のの豪族になったとされます。遺伝子学的にみてもそれは事実でしょうが、紀氏一族と云えるか、というと遺伝子学上からも問題があるようです。

といいますのは、先日ご紹介しました篠原謙一さんの「日本人になった祖先たち」で「家系」とか「万世一系」などを、遺伝子学の立場から次のように批判されているのです。

『遺伝子から見れば私達の個性は、数百年の命でしかない。私個人のルーツを一本槍で追及することは実際には出来ない。私自身の遺伝子一つ一つが膨大な数の祖先からいくつもの径路を伝わってきていて、沢山のルーツを持っている。両親から半分ずつのDNAを受け取り、20世代遡れば100万を越す祖先が存在することになる。男性から男性にだけ遺伝するY染色体DNAの研究で、ある学者は、チンギスハンに由来するY染色体DNAを持つ人々は、「元帝国」版図の中の男性の8%、およそ1600万人いる、という研究報告をしている。万世一系は、ある一筋でなく、万世万系ということになる。』というように説かれています。

篠崎さんの説かれる、DNAの誤解による万世一系の過ちを、内倉さんも冒していらっしゃるのではないかと思いました。

文句ばっかりつけているように思われるかも知れませんが、それは全体のごくごく一部分で、残りの97%くらいは立派なもので敬意を払ってよい本です。特に巻末に古代の年表が記されていますが、寅七には大いに役立ちました。

内倉さんには「太宰府は日本の首都だった」という著書があり、寅七もいろいろと、中でも時代区分の考え方などで随分助けられています。

弥生時代を土器によって区分する、という従来の手法に、最近???と云われ始めています。「太宰府は日本の首都だった」の本に、埋蔵文化財研究会という発掘担当者さんたちの会の1996年の研究発表会で、「考古学と実年代」という理化学的な測定法と、従来の土器による定説年代との比較が700件まとめて報告された、と書いてあります。

インターネットでその研究会のことを調べてみましたら、その発表会から焼く3年後まで活動していたようですが、今ではどうやら活動を休止しているようで残念です。1月14日の寅七のブログに、熊本山鹿の方保田(カトーダ)遺跡のことを書きましたが、山が市立博物館では、方保田は弥生後期、吉野ヶ里と同時期、と説明を受けました。内倉さんが「太宰府は日本の首都だった」に資料として抜粋掲載されている、「考古学と実年代」によれば、方保田はなんと、BC260±30年と500年も遡ってしまいます。やはり、考古学が「科学」であるためには、科学的な調査手法の採用が必要だ、と思われます。


(09)邦光史郎 「消えた銅鐸族」 カッパブックス 1986年

【2007・10・14】
邦光史郎さんの「消えた銅鐸族」という本を読みました。書名に反して、この本は銅鐸中心のお話ではありませんでした。

邦光さんが、「勝者によって消されたもう一つの古代史」というテーマで、通説の古代史の謎、8個を上げられています。銅鐸族はなぜ消えたのか、というのはその8個の謎の一つというわけです。

しかし、邦光さんのこの本の主題は、応神=騎馬民族王朝説、のようです。この本は1986年の出版で、例えば、銅鏡の鋳型が何故発見されないのか、などと書かれていますが、須玖永田遺跡や田主丸寺徳古墳などからの鋳型の出土は既に報じられて(1980年)いるのにのかかわらず、調査不足が目立ちます。

邦光史郎さんの「消えた銅鐸族」を読みますと、次のように「消えた」理由が述べられています。『近畿の銅鐸を祭祀とする農耕民族がいて、朝鮮から九州に鉄剣を持ち騎馬文化と共に渡ってきた民族によって消された。その征服民族が古墳文化を作っていく。』とまあ、江上先生の騎馬民族征服王朝説の引き写しです。

まあ、この本は、邦光さんが江上波夫さんの騎馬民族王朝説に触れて浮かんだメルヘンでしょう、槍玉に取り上げるまでもないかなあ、と思いました。









(10)江上波夫+佐原真 「騎馬民族は来た?来なかった?」 小学館 1990年

【2008・5・01】
Amazonで注文した本が届きました。¥1円というのが本当だったのはちょっとした驚きでした。送料手数料込みで、341円でした。立派な単行本で、1990年刊行当時の値値段は1450円(消費税3%込み)と結構な値段が付いていました。

本の裏カバーに、著者のご両人の写真が載っていましたので、ホームページの槍玉の著者の紹介に使わせてもらえるなあ、と1円買えて得をした気分になりました。

この本の中で、江上さんが、どうして騎馬民族国家説を唱えるようになったか、についてそのあたりの事情が述べられています。

昭和5年東京帝国大学東洋史学科を卒業後、東方文化学院研究所員として中国大陸に渡り、東北部・モンゴル地域を調査し、日本人との類似が多いことに気付いたのが原点だそうです。敗戦後、歴史に菊のご紋タブーがなくなり、昭和28年(1948年)に騎馬民族征服王朝説を公にされたそうです。

時流に乗って、黒岩重吾・邦光史郎・高木彬光・松本清張・豊田有恒などの、古代史関係作家にとどまらず、安本美典・白石太一郎など古代史研究家の多くに大きな影響を与えているわけです。ご本人は「征服王朝」とは自分で云ったことはない、騎馬民族が朝鮮半島から九州に渡り、農耕民族を馴化しながら東上し、最終的に近畿に武力を用いずに王朝を建てた、と説かれます。

文献については、ご自分の説に合うところのみ取られていて、考古学的遺物の騎馬民族との関連が少しでもあることは積極的に取り入れていらっしゃいます。うまくつながらないところは、ミッシングリンクで、そのうち見つかる、ということで成り立たせています。

何故、荒唐無稽とも見えるこの説が一時期、古代史界を風靡したのでしょうか?その時の時流を分析しないと理解できないようです。確かに今のモンゴルの人たちと、日本人はよく似ています。すぐ頭に来る朝龍関のタイプも、寅七の周りにも結構いますしね。(本人も?)


(11)窪田蔵郎 「鉄から読む日本の歴史」 講談社学術文庫 2003年

【2008・5・29】
古代の鉄のことを知ろうと、Amazonで「鉄から読む日本の歴史」という文庫本を見つけ、注文していたのが届いていました。

著者は、日本鉄鋼連盟に長年勤められた、窪田蔵郎さんと仰る方で、その方面の知識が沢山おありのようです。北部九州は大陸との地理的名関係で、鉄器文化が先駆けて花開いた、とされています。

が、そのことが当時の政治権力と、どうかかわりがあったか、までは考察されていません。また、わが国は湿度が高く、鉄は副葬品以外での出土は極めて稀とされて、鉄の考古学的出土がなくても鉄文化が無かったとは云えない、木製農具の製作には鉄製工具が存在した、とされますが、それ以上の検討はありません。











   その1 終わり