道草その13 極南界問題について  2008.3.24  棟上寅七

先日、古田先生が久留米大学市民講座の話を電話でされました。今日になって、昨年の先生の講義を聞いていて、気になったところをひょっこり思い出しました。

後漢書の「極南界也」の解釈の問題です。従来、これは「極南界なり」とそのまま理解されていました(古田先生も含めて)。それを、先生は、「南界を極わむるや」と読むべきと新しい解釈を出されたのです。

しかし、凡人寅七の「也」の意味の解釈からは、前者の「極南界なり」の方が妥当のようにも思えるのです。

そこで、「也」の用法を調べてみました。結果は、中国の文語文では、古田先生の読み方が正しい、と思われました。調べたところを、筋道を追って報告します。


後漢書の倭奴国の記事に次のように「極南界也」とあります。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬

この解釈は、次のようです。
建武中元二年倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人みずから大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜うた。(岩波文庫 石原道博)

対するに、古田説は次のようです。
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の南界を極むるや光武賜うに印綬を以ってす。(古田武彦説)

確かに従来の読み方ですと、倭奴国は朝貢したので印綬を下賜した。倭奴国は倭の極南界である。ということです。それですと、金印を渡した理由が薄弱、南の端っこに倭奴国があるという不自然さがあります。そんなに金印を簡単に下賜したのだろうか、という問題が残ります。

古田先生の説だと、倭人国の南界を極めたので、褒美として印綬を下賜する、ということですから、前者の①②の理由が消え去ることになります。この南界を極める、というのが、裸国・黒歯国などの魏志倭人伝の記事を指すのでしょうか?それとも九州島を南の果てまで征服統一した、ということを指すのでしょうか?この記事からだけではどちらとも判断しかねますが。

ところで問題になるのは、「」という字の意味です。

われわれ日本人が「也」を使うのは、断定的にいう場合が多いと思います。一金000円也、というように、従来説もそのような取り方です。

」の古代中国での使い方については、古田先生も用例その他は出されていません。漢文の知識のある方々には、当然の読み方なのでしょうか?寅七みたいな戦後の教育を受けた者には、古田先生の読み方がいまひとつピシッと来ませんでした。
中日大辞典
幸い30年前少し中国語を勉強したこともあり、辞典類も書棚の奥に残っていましたので調べてみました。考えるトラシチ

」は中国語でもいろんな使い方がある語のようです。次のように7つの使われ方が示されていました。

も、もまた であると同時にまた それでもなお、でもやはり さえも(否定的に) でも、まあ(軽く) 文語の語気詞
句中の停頓を表わす

の文語の語気詞には次の5つの使われ方がある、としてあります。

a。決断を示す (此城可克也 此の城は克服できる)、(行不得也 できません)
b。注意を促す (不可不慎也 慎まざるべからざるなり)
c。感慨を示す (是可言也 言うことができる)
d。疑問を表わす (此為誰也 これは誰であるのか)
e。語気の停頓を表わす(大道之行也天下為公 大道の行われるや天下を公となす)、(斯人也誠篤好学 この人物は誠篤にして好学)

この最後のe。の「也」の意味が、古田さんの解釈と一致します。

従来の古田さんのこの極南界問題は、なぜ極南界という遠いところに後漢書の范曄はんようは認識したのか、倭国の入り口から5000里の位置を漢の長里で考えたからであろう(失われた九州王朝 極南界問題P45~)、と説明されてきました。范曄は錯覚していなかった、ということになるのでしょうか。今度古田先生にお会いすることがあったらお聞きしたいと思っています。

                            (この項終わり)
 
追記 古田先生のこの件の見解をネット検索しました。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen2.html に詳しく出ています。
                             
                              
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