道草その12 鎌足と鏡王女  棟上寅七が語る眞説

はじめに

黒岩重吾さんの「古代史の真相」の中で、藤原鎌足(かまたり)の謎が述べられています。寅七は昨日、確か新庄智恵子さんも藤原鎌足について書かれていたなあ、と思って本を探して読み直しました。黒岩さんが謎とされる、天武天皇から下賜された采女(うねめ)を何故欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して迎えたのか、長男を何故僧籍に入れ、次男不比等(ふひと)を跡継ぎにしたか、不思議である、とされます。

新庄智恵子さんや古田武彦さんのお話に、寅七の想像も入れて、史書や伝承にも反しない、次のようなあら筋のストーリーが浮かび上がってきました。題して「鎌足と鏡王女」です。

黒岩さんが得意とされた推理小説的な謎解きのお話です。なぜ鎌足は、出自不詳なのにあんなに目覚しく出世できたのか?なぜ鎌足は、天皇からお手つきの女性を下賜されて大喜びしたのか?なぜ鎌足は、長男を僧籍に入れ次男不比等(ふひと)を跡継ぎにしたのか?これらについて黒岩重吾さんは、次男不比等が天武天皇の胤であったのではないか?という推測を述べられているだけです。

それでは、寅七がその謎解きに挑戦してみましょう。(大上段に振りかぶって大丈夫かな?)
幼い頃の鏡王女
(一)
まず、中臣鎌足、後の藤原鎌足は筑紫王朝の俊英官吏であった、という仮定から話は始まります。筑紫の王朝?と不思議に思われる方もいらっしゃるもしれません。中国の史書に古くから「倭人の国、倭奴国、倭国」などとでている王国で、万葉集などで、遠の朝廷として出てきている王朝です。
鎌足の出自について、黒岩さんも述べていますように大織冠伝(たいしょくかんでん)と、大鏡(おおかがみ)という史料では異なっています。前者では、「大倭国 高市藤原」で、後者では「鹿島」となっています。

ここで古代史の「理屈」の話になり堅苦しいかもしれませんが、少し我慢してお聞き下さい。この藤原家の家伝書 大織冠伝(たいしょくかんでん)にある「大倭国」とはどこか、ということが問題だと思うのです。

黒岩さんも、ウイキペデイア百科事典も、もちろん「大倭国」=「大和国」という解釈です。しかし寅七にはそう簡単に決めてよいだろうかと思うのです。この大倭国とは、中国の史書に出てくるあの「倭国」ではないか、と思われるのです。

「大倭国」とは文字に通りに「ダイワ若しくはダイヰ」ではないだろうか。中国語は濁音がはっきりしませんから、「タイワ又はタイヰ」ではないかと思われます。もしそうであれば、話は全く変ってきます。

「大倭」は「大なる倭国」という意味ではないでしょうか。第二次大戦前まで日本は「日本帝国」と名乗っていたのと同じように。志賀島で発見された金印にあるように、中国から「委奴(ゐの)国」とよばれた倭国が、おのれの美称として「大倭(たいゐ)」国と名乗ったのでしょう。

その後、7世紀初頭になって、その「大倭国」から天子を名乗るタリシホコから国書が届きます。有名な「日出ずる処の天子、日没する処の天子へ云々」で始まる国書です。それが気に喰わなかった隋の煬帝(ようだい) は、同じ読みで「弱い国」という意味の「?(たい)国」と名付けた、という説(先般久留米大学の市民講座でも、古代史家兼川晋さんが力説していました)は説得力があります。

しかし、大織冠伝にある「高市藤原」という地名は奈良ではないか、と一般に思われるようです。しかし、奈良には高市郡という地名や高市早苗衆議院議員のように「高市」はありますが、「高市藤原」は現存していないようです。

藤原鎌足の出生にまつわる伝説も、鎌足の産湯の井戸と云われるものが、明日香村小原というところに残っているだけだそうです。その井戸も近年の調査の結果、それほど古くはないとされ、出生地は常陸鹿島説が強くなっているそうです。

新庄智恵子さんという方が、その著書「謡曲の中の九州王朝」で、調べた結果を書かれています。新庄さんは、万葉集489の注に「高市崗本宮、後崗本宮」という記事があることから、この特殊の「崗本」の地とは、須玖崗本遺跡の福岡県春日市の「崗本」ではないかとされます。

又、異説として「大鏡」に、鎌足の出自は藤原家伝と異なり「鹿島」としてあることから、黒岩さんも常陸鹿島ではないか、とされるのですが、新庄さんは、佐賀県の肥前鹿島の可能性もある、指摘されます。福岡と佐賀という両者の近さから、出生地と生育地がそれぞれの伝承になった、と考えられるからです。奈良と茨城ではそうはならないでしょう

このように、古代の地名を現代の地名に簡単に比定することには、いろいろ問題があることを知らされます。これらのことから、鎌足は筑紫(一説には対馬の藤原という説もあるそうです)の出身としても、そうおかしいことではないでしょう。藤原鎌足は九州出身として話を進めます。

(二)
当時、朝鮮半島は、北部の高句麗(こうくり)、南部は東側の新羅(しらぎ)、西側の百済(くだら)と3者が相争っていました。(最近の韓国の大統領選挙の結果を新聞で読んで、現在でも、、北は北朝鮮、南部の東側は現在野党ハンナラの地盤、西は金大中以来のノムヒョン現政権の地盤と、その地域割りが、古代と驚くほど似通っているのに驚いています。)

ところが均衡を破って、倭国と親交の深かった、百済国が新羅国に攻め滅ぼされます。そこで、倭国(筑紫王朝)が百済復興救援を計画します。百済から人質として倭国に滞在中の百済の王子 豊璋(ほうしょう)を帰国させ、百済王朝を復活させようというものです。

大倭国の大王幸山(サチヤマ)は、近畿の大王家はじめ東国の毛野(けぬ)大王など全国に協力を依頼します。この時の近畿の実力者は、後の天智天皇、中大兄皇子です。皇子が病弱の斉明天皇の名代で全てを取り仕切っていましたので、筑紫に赴き協議に入ります。応援の軍勢も各地から到着し始め、筑紫の地は騒然としてきます。

中大兄は筑紫での長期滞在中に、中臣(なかとみの)鎌足(後の藤原鎌足)の優秀さ、外国語は出来るし、書物もよく読んでいるし、駆け引きにも長けているのに目をつけ、筑紫王朝のサチヤマに、近畿に先進地域筑紫の文明を教授願いたいとか何とかうまい事いって、鎌足を自分のところに貰い受けることに成功します。

ところで、筑紫王朝のサチヤマは、根っからの九州人で、率先垂範、熱血指導で、常に戦でも先頭になって戦わないと気がすまない質でした。その性格は、祖先、5世紀の大王、倭武が宋朝に出した上奏文によく現われています。「吾らの祖先は自ら甲冑を身につけ率先して戦った云々」と書いてあるのです。

それに反し、中大兄はクレバーというかスマートでした。大化の改新などの改革や、小倉百人一首の秋の田のかりほのいほの苫を粗みわが衣手は露にぬれつつの和歌の作者でもあり、水時計なども作って時の記念日などになって今でもその業績の一端がのこっています。

ところで、女主人公、鏡王女の素性はどういったところの王女なのでしょうか。

(三)
実は鏡王女の父、鏡王は、筑紫王朝の係累の、唐津の鏡の地の王でした(火の国八代にも鏡の地名があり、肥後モッコスの流を汲む寅七としてはそちらに持って行きたかったのですがここは、古くからの朝鮮半島との通商の拠点唐津とするのが順当でしょう)。

その王女鏡王女は、筑紫の大王のところに、幼い身ですが行儀見習いで御所に上がっていました。その筑後の朝倉の御所で、時折見かける格好のよい親切な若者、中臣鎌足を好ましく思い兄と慕っていました。鎌足もこの利発で可愛い少女を可愛がっていました。

ところが、今回の作戦に東国や近畿の応援を頼んだので、近畿などから沢山の王族もやってきます。これらの王族の安全保障のために、筑紫王朝側も、王族を人質として出すことになります。鏡王一家や、 万葉歌人として後世著名となる額田王(ぬかだのおおきみ)一家などが否応なしに近畿に行かされることになります。

ところで、サチヤマの百済再興作戦は、中大兄皇子にとってとても勝ち目のある戦とはとても見えませんでした。下手すると巻き込まれて近畿の地も危ないぞ、と思っていました。天佑というか、母が苦悩するわが子を助けてくれたのか、中大兄の母、斉明天皇が亡くなりました。サチヤマ大王に、国に帰って喪に服したい、と了解をもらい、吉備・近畿の軍勢を連れてうまく引き上げる事ができました。

百済王子との義に感じてなのかどうか、サチヤマ大王は九州と東国だけの軍勢で朝鮮半島に繰り出します。百済王国復興という大義名分だけではとても勝ち目は無く、唐+新羅連合軍に、「白村江(はくすきのえ)の戦」での海戦だけでなく陸戦でもやられ4戦全敗し、完膚なきまでやられてしまいます。

この結果、従軍していたサチヤマは哀れ唐軍の捕虜になり、遥か長安(ちょうあん)の都に連れ去られてしまいました。

唐は戦後処理に劉仁願(リュウジンガン)郭務?(カクムソウ)など数千人の軍勢を筑紫に派遣します。そして、近畿王朝側とと郭務?と折衝の任に当ったのが、中大兄の弟大海人皇子と鎌足です。鎌足としては、恩義のある筑紫王朝を何とか存続するために、大海人は唐と中大兄がうまくいくことに全力を尽くします。

唐としても海を越えて改めて征服戦を行うより、中大兄を通じて間接支配したほうが得策であるし、何せ唐を天敵視している高句麗とも対峙していて、こちらにもに注力しなければならない状況なのです。おまけに新羅もいつ反旗を翻さないともかぎらない情勢なのです。大海人と鎌足の働きもあり、唐としては、近畿王朝を抱き込み、再び唐に反抗しないようにするという策をとることになりました。

(四)
郭務?が唐の代表として戦後処理に筑紫に滞在中に、中大兄は弟大海人皇子と鎌足を使って、筑紫王朝の諸制度を近畿中心に移し変えるとか、筑紫王朝や百済亡命貴族など重要人物を近畿に連れて行き、筑紫に力が残らないように努めます。

そして、筑紫の勢力が弱まり、唐が安心できるようになるまでに7年以上の月日がかかりました。ズーッと後年のことになりますが、昭和の時代になって、アメリカが日本を占領し、講和条約が出来るまでにも6年余掛かっています。やはりこれくらいかかるのですね。

略見極めがついた時点で、唐朝はサチヤマを帰国させることにました。虜囚生活は約10年に及びました。形としては、筑紫王朝のサチヤマ大王の権力が、近畿王朝の中大兄皇子に禅譲された形となりました。中大兄皇子もやっと晴れて天皇位を名乗ることができたのです。それまでは、唐朝に遠慮してか、天皇は空位のままでした。これは寅七がいい加減なことを云っているのではありません、日本書紀にも「称制」として天皇位が7年間空位だったと書いてあります。

そして天智天皇が亡くなり、あの有名な壬申の乱が起こります。天智の弟、大海人皇子が、佐賀の吉野ヶ里の沖の有明海に停泊している軍団を束ねる、郭務?のところに庇護を求めて走ります。世の人は「虎に翼を付けて放てり」と、大海人皇子が吉野に行った事をこう評しました。結局は、郭務?をバックにした大海人皇子が、兄天智の息子、大友皇子を殺す、ということで事件は終結します。こういう内乱状態の中で、鏡王女はどう生きて行ったのでしょうか。


(五)
こういう状況の中で鏡王女は成人していきます。そして、10ねんの月日が流れ、美少女は、匂うが如くの、飛鳥京一の女性との評判が立つようになります。しかし、白村江の敗戦に心痛める王女でもありました。

或る日、敗戦処理で、近畿王朝と打ち合わせに来たサチヤマが、鏡王のところに突然現れ、10数年ぶりにサチヤマは成人した鏡王女に会います。サチヤマは10年前の凛々しい青年大王から、老年期に差し掛かった老いた姿です。

鏡王女は、10年前に「必ず筑紫へ連れ戻す」という約束はどうなったのか詰ります。サチヤマは「今後いつ九州の地に帰れるかわからない、天武と鎌足を頼って生きていくよう、王女を諭し、今世の別れで一夜を共にします。

このような状況の下、当時としては、天武の後宮に采女 (注 参照)(うねめ)として入るのは自然のことであったでしょう。

注)ウキペディア百科辞典による説明 采女とは、各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜った。

天武は、後宮に入れ、安見児やすみこと名づけてやりますが、どうも自分に馴染んでくれない。おまけに、この王女は既に、筑紫王朝の胤、サチヤマの子、を宿しているのが分ってきます。それを知って、天智は鎌足と善後策を相談します。結果的に鎌足が、粗漏のないように扱うからと、自分に下賜してもらうように、天智に納得させます。

鎌足は、大恩ある筑紫王朝の胤を宿している鏡王女、かってそれとなく恋していた鏡王女を自分が庇護できる立場になったことを喜びました。その喜びの気持ちを歌った和歌が万葉集にある安見児の歌です。吾はもや
安見児(やすみこ)得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり(万2-95

(六)
ところで、鏡王女が生んだ子供は不幸にも男子でした。生まれた男子は世に出せぬ子であり、僧侶にすることに鎌足は決断します。この定恵は素晴らしい頭脳の持ち主で、遣唐使の一員に選ばれます。唐でもその才能に目を付けられ、仏教の奥義の取得の為に長期滞在となります。

サチヤマ大王もなくなり、鎌足も老いてきます。鏡王女は、淋しさから定恵の帰国を鎌足にお願いします。その望みが叶って、帰国はできたものの、可哀相にこの長男
定恵(じょうえ)は、筑紫王朝の種は摘み取っておかなければという、物部一族の暗殺者によって若くして、23才の時、 暗殺され亡くなります。

幸い、次男の史人(フヒト)は鎌足の息であることが判然としていましたので、類は及びませんでした。それでも鏡王女は、フヒトを山科の吾が隠居所に手元において放しません。精神的にもおかしくなってきます。

幸い天武天皇と鎌足は大海人皇子時代に、対唐折衝で苦労した仲です。今、近畿王朝の足元固めをしようとする時期、鎌足のずば抜けた才能が必要な時期、に事を構えることはしたくありません。天武天皇はフヒトを不比等と名を変えさせ、自分の側近に取り立てて鎌足の機嫌をとります。

又、鏡王女は、天武の暗黙の了解の下、サチヤマ王と定恵の姿を刻んだ仏像を朝夕拝みながら、鎌足の死も、不比等が実力者にのし上がっていくことにも無関心に、山科の地で一生を終えました。

元はと云えば、筑紫王朝の伝統的な朝鮮半島政策が生んだ王朝滅亡、とその蔭で不幸な一生を強いられた女性のお話、でした。鎌足という稀有の男性の出世物語という従来の説とは随分違うお話になりました。


黒岩重吾さんは「古代史の真相」で、このあたりについて、不比等(次男)が天武の子であったので出世した、とされます。それと比べ、長男が筑紫の大王の子であったという寅七説はいかがでしょうか。物語の粗筋というつもりにしては一寸理屈ぽかったかなあ、と反省しています。

これに、同じく天智が弟大海人皇子(天武)と争った、額田王の話を絡めたら一大メロドラマになるのでしょうが、寅七の手に余ります。ストーリーテラーが何せ色気が抜けてしまいかけている寅七ですから。

以上で、寅七の「鎌足と鏡王女」のお話はおしまいです。安見児と鏡王女は一応同一人物と、この話ではしていますが、二人は別人で、天武天皇から下賜された、いう説もある、ということを付記しておきます。

どうだったでしょうか、対馬出身の古代史好きのAさん、今度会ったときに忌憚ないご感想お聞かせください。

以上で、寅七の「鎌足と鏡王女」のお話はおしまいです。

参考図書
古代史の真相        黒岩重吾
「邪馬台国」はなかった   古田武彦
失われた九州王朝     古田武彦
壬申大乱           古田武彦
謡曲の中の九州王朝    新庄智恵子
異議あり日本史       永井路子
韓半島から来た倭国    兼川晋/李錘恒