道草 その8 壬申の乱 現代語訳

この道草その8について、何故こんな道草を食うのか、2007年2月14日のブログ「棟上寅七の古代史本批評」http://ameblo.jp/torashichi/entry-10025719176.htmlで、このことについて次のように書きました。

壬申の乱の本を槍玉に上げようと思い、自分の勉強で、岩波文庫の日本書紀の天武紀のところをあらためて読んでいるところです。

何故、近江朝に対して反乱しなければならなかったか、という大義名分が全くないのは不思議といえば不思議です。勝者の天武天皇側の記録ですから、いくらでも造ろうと思えば造れたでしょうに。

ついでに、読みにくい岩波文庫本を、自分の理解のためにも、又、ジイサマが何をしているか孫たちに少しは理解してもらえるかも、と、寅七流現代語訳を始めています。

出来上がったら、ホームページに道草その8として出そうと思っています。

乞うご期待とまではいえませんが、ともかく振り仮名を振るだけでもひと仕事以上の仕事です。

修正版について

プロバイダーが変わったりして、いろいろとリンクなどが切れたりしていて、この道草もフォントがかなり乱れているのに気付きました。

無理にHTML文書で振り仮名を入れるには、時間的にも能力的にも難しい年齢になっていますので、とりあえず、ルビではなく、古代の人名など括弧で示すことにしました。ご了承ください。2015年11月6日 棟上寅七


日本書紀 第二十八巻 天武紀上 (壬申(じんしん)の乱) 

現代語訳 棟上寅七〈むなかむとらしち〉 岩波文庫日本書紀(五) より

(一)
ヌナハラワキノマヒト(天武天皇)は、ヒラカスワケ(天智天皇〈てんぢてんのう)と同じ母から生まれた弟です。

幼い時の名を、大海人〈おおしあまのみこ〉といいました。小さい時から姿形がよく、大きくなった時には雄々しく、天文や占いを能〈よ〉くしたそういです。

兄の天智天皇の娘、菟野〈うの〉皇女をお后としました。

西暦661年(天智天皇元年)に皇太子の地位につきました。

西暦671年(天智天皇十年)10月17日に、天智天皇が発病し、痛みが激〉しくなりましたので、蘇我安麻呂〈そがのやすまろ〉が使者となっり、皇太子大海人皇子を志賀〈しが〉の近江〈おうみ〉宮殿に呼びよせました。

蘇我安麻呂は大海人皇子に平素〈へいそ〉から好意を持っていましたので、大海人皇子に、「よく考えてお話しするようにと伝えました。

大海人皇子は、何か陰謀でもあるのかな、と疑って慎重な態度をとることにしました。

天智天皇は「今後のことは全て大海人皇子にお願いする」といいますが、皇太子は、「自分〈自分」はどうも運がない者ですし、病気がちです。これでは国を指揮していくことはできないと思います。どうか皇后倭姫王〈やまとひめのおおきみ〉を後継者とされ、大友皇子を皇太子にされたらよいと思います。私は、本日出家して陛下のために功徳〈くどく〉を積みたいと思います」と答えました。

天智天皇がこれをお許しになりますと、大海人皇子はすぐさま出家し坊主姿になり、自分の手下の武器すべてを国庫に納め入れました。


10月19日に、大海人皇子は奈良の山奥の吉野宮〈よしののみや〉に向かって出発し、左大臣の蘇我赤兄〈そがのあかえ〉、右大臣の中臣金連〈なかとみのかねのむらじ〉、大納言〈だいなごん〉蘇我果安〈そがのはたやす〉たちが宇治まで見送りました。

大海人皇子は、この日の夕方、嶋宮〈しまのみや〉に入りました。

ある人は、どういう意味でか、「虎に翼をつけて放した」と言いました。



(二)

10月20日に吉野に着きますと、ついてきた部下たちに、「わたしは今から仏の道の修行に励むつもりなのだ。わたしに従がって修行したい者は残ってよいが、わたしに仕えて出世したいと思う者は、近江〈おうみ〉の都に帰って仕官した方がよい」と告げました。

しかい、都へ帰ろうとする人は誰もいませんので、もう一度みなを集めて同じことを繰り返しましたら、半数が留まり半数が近江の都に帰ることになりました。

12月に入り、天智天皇がお亡くなりになりました。


西暦672年(天武元年)3月18日に、安曇稲敷〈あずみのいなしき〉を筑紫〈ちくし〉に派遣し、天智天皇の喪を唐から進駐してきていた郭務悰〈かくむそう〉らに伝えました。

郭務悰らは喪服に着替え、東の方にむかって三度の哀悼〈あいとう〉の声を発し、礼拝しました。

3月21日には、ふたたび、礼拝式を行うとともに、書簡をいれた函〈はこ〉と進物〉を届けてきました。

5月12日 近江の朝廷は、甲冑弓矢を郭務悰に贈りました。その日に差し上げた品はそのほかに、絹1673匹〈ひき〉、布2852端〈たん〉、綿〈わた〉660斤〈きん〉などです。

5月28日に高句麗〈こうくり〉が富加抃〈ふかべん〉らを派遣し朝貢してきました。

5月30日に郭務悰らは唐へ帰国しました。


この5月のある日、朴井雄君〈えのいのをきみ〉が、大海人皇子にいうには「わたしは私用で美濃〈みの〉の国へ行ってきかした。その時に、近江朝大友皇子〈おおとものみこ〉側が、美濃・尾張〈おわり〉の二つの国の司〈つかさ〉に”天智天皇の御陵〈みささぎ〉を作るために人夫を準備せよ”と言って、その実〈じつ〉、兵を集めさせていると聞きました。

朴井雄君は、これは御陵を造るのではなく、何か大変事がきっと起きると思います。もし速やかに、ここ吉野を立ち去らねば、危険に直面するのではないか、と申し上げました。

又、別の人はこうも言います。

近江京〈おうみきょう〉から、倭京〈わのみやこ〉に到る間に、見張り所を設けているし、宇治の橋守に命じて大海人皇子の手の者の食糧輸送を妨げてもいる、といいます。

大海人皇子はよく調べてみて、それらが事実であることを知ります。

そこで皆を集めて、「わたしは皇位を譲って世を遁〈のが〉れているのは、ただひとりで病をなおし、せめて長生きをしてこの身を終わらせたい、と思っていただけなのに、それなのに、思いもよらずに禍〈わざわい〉が降りかっかってこようとしている。どうして、何も言わずに滅ぼされていいものだろうか」と憤慨して言いました。
羽を生やした虎


(三)

6月22日に大海人皇子〈おおしあまのみこと〉は、村国男依〈むらくにのよおり〉・ワニベの君手〈きみて〉・ムゲノ広〈ひろ〉に次のように命じました。

「近江朝〈おうみちょう〉のやつらが、わたしを殺そうと企〈たくら〉んでいる。お前たち三人は、急いで美濃の国へ行き、安八郡〈あはちこおり〉の多品治〈おおのほむじ〉にわたしの機密命令を示しめ〉してその安八磨郡〈あはちまのこおり〉の兵を集めさせよ。なお、国司たちのも兵を集めさせ、一刻も早く近江・美濃の国境の不破関を塞がせよ。わたしも直〈ただ〉ちに出発する」とおっしゃいました。


6月24日に東に向かうことになります。そのときひとりの家来が言うには、「近江朝の連中は、大体汚いこころを持っています。必ず天下に告げまわって、道も通交しにくくなっていることでしょう。兵力を持たずに、徒手で東国〈とうごく〉へ行きつくことは難しいでしょう。わたしは事がうまく運ばないのではないかと心配です」と。

大海人皇子は、もっともだと思い、村国男依らを呼び返そうと思いました。そして、大分君恵尺〈だいぶのきみえさか〉・黄書大伴〈きふみのおおとも〉・逢志摩〈おうのしま〉の三人を、飛鳥古都留守居役の高坂王〈たかさかのおうきみ〉の所に行かせ、駅馬〈はいま〉の使用許可を願わせました。

そして「もし、許可の印の鈴が貰えなかった場合は、逢志摩はこちらに復命に帰ってくること。大分君恵尺は、近江に急行し、我が子高市皇子〈たけちのみこ〉・大津皇子〈おおつのみこ〉を連れてこい。伊勢〈いせ〉で合流しよう」と命じました。

大分君恵尺らは、大海人皇子の命令といって、許可のしるしの鈴をもらおうと願い出ましたが、高坂王は許可してくれませんでした。それで、大分君恵尺は近江へと向かい、逢志摩は鈴を貰えなかった、と復命しました。

この日に大海人皇子一行は出発し、東国へと向かいました。急なことで、馬などの準備もできず、徒歩での出発でした。

丁度知り合いの犬養大伴〈いぬかいのおおとも〉の鞍付きの馬に出合い、それに乗ることができました。お后の菟野〈うの〉皇女は輿〈こし〉に載せてお供することになりました。


津振川〈つふりかわ〉というところで、やっと大海人皇子の御用馬が追いついてきました。

この時に従っていたのは、草壁皇子〈くさかべのみこ〉・忍壁皇子〈おしかべのみこ〉・朴井雄君〈えのいのをきみ〉などなどニ十余人であり、女子供は十余人でした。


その日に宇陀〈うだ〉の吾城〈あき〉にたどりつきました。
吉野宮から、大伴馬来田〈おおとものまくだ〉・黄書大伴〈きふみのおおとも〉の両名も追っかけて到着しました。

この時に、官田〈かんでん〉の管理者、土師馬手〈はじもうまて〉が、いっこうの食事を供〈きょう〉してくれました。


(四)

宇陀の甘羅〈かむら〉村を過ぎたところで狩人二十余人と出会いました。一行の中に、朴本大国〈えのもとのおおくに〉という狩人の長〈おさ〉がいたので、その狩人全員をお供に加える事ができました。

また、美濃王〈みののおおきみ〉にも連絡が付き、一行に参加させることができました。


官領の米を運ぶ、伊勢の国の荷物を運ぶ、馬五十頭に、宇陀の郡役場のところで出会いました。米を捨てさせ皆を乗せることができました。

宇陀の大野というところに来たところで日が暮れました。山道は暗くて進むことができません。その村の垣根を取り壊して松明〈たいまつ〉としました。夜中になって、名張〈なばり〉の到着しました。

名張の宿場に火を付けて燃やし、村中に大声で、「大海人皇子が東〈あずま〉に向かっているところだ。その手助けに、お供として参加しないか」と伝えましたが、参加しようとする者は一人もいませんでした。

横河というところに来た時に、黒い雲が現れ、三十メートル四方くらいに天に広がりました。大海人皇子は怪しんで、燭〈ともしび〉を掲げさせて、自分で筮木〈ぜいぼく〉で占いました。そして「占いに出ている卦〈け〉は、天下が二つに分かれるという徴〈しるし〉。しかし、結局はわたしが天下を制するという徴である」と皆に告げました。

そして、一行は伊賀に急行し、伊賀の駅馬〈はいま〉を焼き払います。伊賀の中山というところに至ったところで、当地の郡司〈こおりのつかさ〉たちの手勢〈てぜい〉数百人が参加を申し出てきました。
壬申の乱

6月25日の夜明けに莿萩野〈たらの〉というところまで来て行軍を一時停止し、食事をとりました。

柘植〈つげ〉の山口で、高市皇子が、鹿深〈かふか〉を超えて到着し出会うことができました。高市皇子にお供してきたのは、民大火〈たみのおおひ〉・赤染徳足〈あかそめのとこたり〉・大蔵広隅〈おおくらのひろすみ〉などの八名です。

加太〈かぶと〉を超えて、伊勢の鈴鹿に到着しました。ここで、国司〈くにのみこともち〉三宅石床〈みやけのいわとこ〉などと、鈴鹿郡〈すずかのこおり〉で合流することができました。

伊勢の川曲〈かわわ〉の坂で火が暮れました。お后が付かれたのでしばらく輿〈こし〉を止めて休みました。しかし、夜に入り雲が出て、雨模様になり、永く急速することができず、再び更新を開始しました。

ところが気温が下がり、雷雨となり、激しく降ってきました。行進に従う一行は皆衣服が濡〈ぬ〉れそぼって寒さにふるえ上がりました。それで、三重〈みえ〉の郡〈こおり〉に着いたところで、家一軒を燃やして、凍〈こご〉えた者を温めてやりました。

この夜半に、鈴鹿の関守が使いを寄こして、「山部王〈やまべのおおきみ〉・石川王〈いしかわのおおきみ〉の二人が参加したいときたので、関所に留め置いていますが」と言ってきました。大海人皇子は迎えに路益人〈みちのますひと〉なる者をやりました。



(五)

6月26日の朝、三重の朝明〈あさけ〉川の岸辺で、天照大神〈あまてらすおおみかみ〉を拝みました。この日、路益人〈みちのますひと〉が報告するには、「関に留めおいた人たちは、山部王・石川王たちではなく、大津皇子〈おおつのみこ〉たちです」ということでした。

盧益人に連れられてきた者は、大津皇子のほか、大分君恵尺〈だいぶのきみえさか〉・難波三綱〈なにわのみつな〉・駒田忍人〈こまだのおしひと〉などなどでした。大海人皇子は大いに喜ばれました。


朝明〈あさけ〉の郡役場に来た頃、美濃に行かせた村国男依〈むらくにのよをり〉が駅馬で到着して言うには、「美濃の軍勢三千人徴発し、不破〉の関所に通じる道を抑えることができた」ということです。

大海人皇子は村国男依が任務をきちんと果たしたことを褒め、郡役場で、指示を出します。

まず、高市皇子を不破に行かせ、郡を監察させること、山脊部小田〈やませぶのをだ〉・安斗阿加布〈あとのあかふ〉を東海方面に派遣して、東海の部隊を集めること、稚桜部五百瀬〈わかさくらべいほせ〉・土師馬手を派遣して、信濃方面の部隊を集める事にします。

この日は、大海人皇子は桑名の郡役場を宿舎とし、留まることになりました。

この時分には、近江朝の人たちは、大海人皇子が東国へは行ったことが聞こえてきて、群臣みな驚き、都中〈じゅう〉が大騒動になります。

ある人は、東国に行って大海人皇子に参加しようとするし、ある人は人里離れた山中に隠れようとしたりします。

大友皇子〈おおとものみこ〉は群臣に「どう対処しようか」と相談します。ひとりが進み出て、「ゆっくりと対策を立てていたら遅れをとります。いそいで騎馬の軍勢を集めて後を追うのが一番です」と言います。

大友皇子はそれには同意しません。韋那公磐鋤〈ゐなのきみいわすき〉・書直薬〈ふみのあたいくすり〉・忍坂大摩侶〈おしさかのおおまろ〉三人を東国へ、穂積百足〈ほずみのももたり〉・その弟五百枝〈いおえ〉・物部日向〈もののべのひむか〉の三人を飛鳥〈あすか〉へ派遣します。

そして、佐伯連男〈さえきのむらじおとこ〉を筑紫へ派遣し、樟磐手〈くすのいわて〉を吉備〈きび〉の国へ派遣することにし、戦の準備をします。そして、佐伯連男と樟磐手に対して大友皇子は、「筑紫の大宰〈だざい〉栗隈王〈くるくまのおおきみ〉と吉備国守〈くにのかみ〉当麻広嶋〈たいまのひろしま〉の二人は昔、大海人皇子の下にいたこともあったし、わたしに背くような疑わしいところが感じられる。もし、わたしの命令に服さぬようにみえたら即座に殺せ」と命じました。

樟磐手は吉備の国に行き、命令書を渡す時に、当麻広嶋を欺〈あざむ〉いて刀を外させました。そして樟磐手は刀を抜いて当麻広嶋を殺しました。

佐伯連男は、筑紫に行きましたが、栗隈王は命令書を受け取り、それにこたえて言いました。

「筑紫の国はもとより、辺境の賊からの禍から国を守るのがつとめです。わたしどもが柵を築き、堀を深くし、かつ、海に面して防御しているのは、国内の賊のためだけではありません。今、命令に従って部隊を動かせば、国の守りがおろそかになってしまいます。もし予想外の出来事が生じたら、国自体が傾いてしまいます。そうなってしまえば元も子もありません。大友皇子の命令に背くのではありませんが、軽々しく兵を動かしたくないのはこのような理由からです」と。

その場には、栗隈王の二人の王子、三野王〈みののおおきみ〉・武家王〈たけいえのおおきみ〉が刀を持って両脇に控えていて、退〈の〉こうとはしません。佐伯連男は、刀を握り締めて進もうとしましたが、逆に自分が殺されると思い、結局命令を果たせずに、むなしく帰らざるを得ませんでした。


東国方面へ向かった近江側の韋那公磐鋤〈ゐなのきみいわすき〉らは、不破の関のところまで行き着きました。韋那公磐鋤は、伏兵〈ふくへい〉がいるのではないか、と独りだけ遅くれてゆっくり進んでいましたが、その時本当に伏兵が山中より現れ、書直薬〈ふみのあたいくすり〉たちの後ろを遮断しました。韋那公磐鋤は、書直薬達が捕えられたことを知り、やっと逃げおおせるることができました。

大伴馬来田〈おおとものまくた〉・その弟大伴吹負〈おおとものふけひ〉は、近江方にとって状況が良くないことを見てとり、病気と言って飛鳥の家に戻りました。そして、次の天皇は必ずや吉野にいる大海人皇子であろうと思い、兄の馬来田がまず、大海人皇子側に従うことにしました。ただし、少人数の親族や豪傑など数十人だけを連れていくことにし、弟吹負たちは、大友皇子側に留まり、一応建前〈たてまえ〉をたて、禍をやり過ごそうと思いました。



(六)

6月27日に、高市皇子〈たけちのみこ〉が桑名の郡役場にいる大海人皇子〈おおしあまのみこと〉に使いを立てて、「ご在所が遠すぎるので、ご命令を実行するのにも非常に不便です。もっと近いところに来ていただきたい」と申しました。

即日、大海人皇子は、お后は桑名にとどめて、不破に入られました。不破の郡役場に到着のころには、尾張の国司、少子部連鉏鉤〈ちいさこべのむらじさひち〉が、二万の軍勢を率いて馳せ参じてきました。

大海人皇子はサチヒの行動を褒め、その軍勢を分けて、各街道筋を塞ぐことにしました。

不破郡の野上〈のがみ〉に到着したとき、高市皇子が迎え出て、「昨夜、大友皇子が派遣した急の使いが通りかかったのを、伏兵を用いて捕えました。捕えたのは書直薬たちでした。どこへいくのかと聞いたら、吉野にいらっしゃる大海人皇子に対するために、東国の軍勢を集める使いの韋那公磐鋤の一行でした。しかし韋那公磐鋤は伏兵に驚き逃げ帰ってしまったそうです」、と大海人皇子に伝えました。

大海人皇子は高市皇子に向かって、「近江朝には左大臣・右大臣その他たくさんの賢い群臣がいて、みんなで方針を決めている。それにくらべこちらには、一緒に計画を練る者がいない。いるのは若い子供だけだ。どうしたらよいだろうか」と言います。

高市皇子は腕まくりし、剣を抑えて大海人皇子に向かって言いますには、「近江の群臣の数が多いと言っても、父上の霊力にに逆らうことはできないでしょう。父上は独りではありません。臣高市が天地〈あめつち〉の神霊を頼り、父上の命を受け、諸将を率いて彼らをやっつけます」と。

大海人皇子はその言葉を褒め、息子高市皇子の手を取り、背を抱え撫でながら、「慎重に怠〈おこた〉りなくやれ」と言いました。ご褒美に鞍を付けた馬を授け、そして軍事計画の全てを伝えてやりました。

高市皇子は、自分の持ち場、和蹔〈わぎみ〉に戻りました。

大海人皇子は、仮本営を野上〈のがみ〉に置きます。この夜は雷雨で大雨となりました。大海人皇子は「天の神、地の神よ、私を助ける気があるのなら、雷と雨とを止めてみてください」と祈祷しました。大海人皇子の祈祷の言葉がおわるやいなや、雷雨がピタッと止みました。

6月28日に大海人皇子は和蹔〈わぎみ〉に出掛け、戦略を練り、再び野上に戻ります。


6月29日に大海人皇子は和蹔に出掛け、高市皇子に命じて軍勢を集め、全員に号令をかけ、その後、野上に戻りました。

この日に、大伴吹負〈おおとものふけい〉はひそかに、飛鳥宮留守居役の坂上熊毛〈さかのうえのくまげ〉と相談し、部下に言うには、「わたしが高市皇子と偽り名乗って、数十騎を連れて飛鳥寺の北の路から出て、兵站部〈へいたんぶ〉へ行くので、内部からそれに応じる、ということになった」と。

早速武器を揃え、部隊が南門から出ました。まず、秦熊〈はだのくま〉という男をふんどし姿で騎馬で走らせ、飛鳥寺の西の兵営の中に向かって、「高市皇子勢、不破よりきます。多数の軍勢をひきつれています」と大声を上げさせました。

留守居役高坂王〈たかさかのおおきみ〉と挙兵連絡役の穂積百足〈ほずみのももたり〉たちは、飛鳥寺の西側に防御拠点を構えていました。ただし、百足のみは小懇田〈おはりだ〉の兵站庫〈へいたんこ〉にいて、兵員を近江に送る役をつとめていました。その時、、秦熊が大声で叫ぶ声が聞こえてきて、兵営のなかの兵たちはみな散り散りに逃げてしまいました。

その後すぐ、大伴吹負が数十騎を率いて到着しました。そこで坂上熊毛やその他の者たちと話し合い、連合することになり、部下の者たちもこれに従うことになりました。

そこで、高市皇子の命令を聞かせ、百足を小懇田の兵器庫から呼び寄せました。百足は馬に乗ってゆっくりと来て、飛鳥寺の西の砦〈とりで〉に近づいた時、「馬より降りろ」と命じられました。百足が降りるのに手間取っていると、襟首〈えりくび〉つかまれ、引き落とされ弓で射られ、刀で切り殺されました。

そして、穂積五百枝〈ほずみのいおえ〉、物部日向〈もののべのひゅうが〉をとらえ、監禁しました。彼らはその後許され、軍中に留〈どど〉め置かれました。

また、高坂王〈たかさかのおおきみ〉、稚狭王〈わかさのおおきみ〉を呼び寄せ、一行に従わせました。

大海人皇子の不破の宿舎に大伴安麻呂などが行き、ことの次第を報告しました。大海人皇子は大喜びし、大伴吹負を将軍に任命しました。

三輪君高市麻呂〈みわのきみたけちまろ〉、鴨君蝦夷〈かものきみえみし〉や、その他沢山の勇士たちが地響きを立てるようにして大伴吹負将軍のもとに集まりました。そして、近江を襲う戦略を検討し、兵士たちの中から優れた者を選んで、別働隊の将と参謀としました。



(七)

7月1日に、まず乃楽〈なら〉に向かいます。


7月2日に大海人皇子〈おおしあまのみこと〉は、紀阿閉麻呂〈きのあえまろ〉、秦熊〈はだのくま〉などに数万の兵を率いさせて伊勢の大山から山越えで、大和に向かわせました。

また、村国男依〈むらくにのをより〉、書根麻呂〈ふみのねまろ〉などに数万の兵を率いさせ、不破から直接近江に侵攻させる。その軍勢には、近江軍と見分けにくいので、赤色の布を衣服の上に着用させませた。

その後、別に、多品治〈おおのほむじ〉に命じて、三千の兵を莿萩野〈たらの〉に駐屯させました。

田中足麻呂〈たなかのたりまろ〉を派遣して、甲賀・伊賀を通る倉歴〈くらふ〉道を守らせました。

近江朝側は、山部王〈やまべのおおきみ〉・蘇我果安〈そがのはたやす〉などに命じて、数万の軍勢を率いて不破を襲撃しようと、犬上川〈いぬかみがわ〉のほとりに陣を構えました。しかし、山部王は仲間割れし、蘇我果安などによって殺されてしまいました。この内部の乱れで、近江軍は進撃できなくなりました。

蘇我果安は、犬上より都に戻り、責任を感じて頸〈くび〉を刺して自殺しました。

この時、近江朝側の将軍羽田矢国〈はたのやくに〉、その子、大人〈おうし〉が一族を率いて降伏してきたので、斧鉞〈まさかり〉を授けて将軍に任命し、北方の越〈こし〉の国へ侵入させました。

これより前のことですが、近江朝側は精兵をすぐって、玉倉部村〈たまくらべのむら〉を攻めてきたので、出雲狛〈いずものこま〉を派遣し撃退〈撃退〉させました。


7月3日に、大伴吹負将軍は乃楽山〈ならやま〉に駐屯することができました。その時、荒田尾赤麻呂〈あらたをのあかまろ〉が将軍に申すには、「飛鳥京は元の本営があったところであり、堅く守らなければならないところです」と。将軍はその言葉に従い、荒田尾赤麻呂、忌部子人〈いみべのこびと〉を派遣して飛鳥を守らせることにしました。

荒田尾赤麻呂らは、飛鳥京に行き、道路の橋の板を外して矢楯〈やだて〉を造り、今日の町はずれにそれを立てて守りを固めました。


7月4日 大伴吹負将軍と近江の将の大野君果安〈おおのきみはたやす〉と乃楽山で戦いましたが、大伴吹負側は大野君果安に敗れて、将兵共に皆逃げて、大伴吹負将軍はやっと脱出できました。

大野君果安は追撃して八口〈やくち〉という高所から飛鳥京を見ると、街区毎に楯〈たて〉を立ててあり、伏兵もいるように思われるので、しばらく迷っていましたが引き返しました。


7月5日は、近江朝側の別将の田辺小隅〈たなべのおすみ〉が、甲賀の鹿深山〈かふかやま〉を超え、旗や幟〈のぼり〉などは巻いて、鼓も鳴らさず、伊賀の倉歴〈くらふ〉に潜行しました。

夜半になり、声を立てぬように枚〈ばい〉を口にくわえ、柵に穴を開け、一挙に陣中に入り込みました。自分たちと、守る側の田中足麻呂の軍兵とみわけ難いと心配し、人ごとに「金〈かね〉」と言わせるよういにしました。刀を抜いて切りつけて、「かね」と言わなければ切り殺しました。

田中足麻呂の軍は、混乱し、急に起きたことなので為〈な〉す術〈すべ〉もありませんでした。ただ田中足麻呂だけは、聡く気付いて、独り「かね」と言ってうまく逃げることができました。


7月6日に、田辺小隅はさらに進撃して、タラ野の駐屯地を襲おうと急行しましたが、将軍秦熊が精兵で迎え撃ち、田辺小隅は敗走し、再び来襲することはありませんでした。


7月7日に、村国男依らが近江軍と横川〈よこかわ〉で戦い、これを破り、近江方の将、境部薬〈さかいべのくすり〉を斬りました。


7月9日に、村国男依たちは、近江方の将、秦友足〈はだのともたり〉を鳥籠山〈とこのやま〉で討伐しこれを斬りました。
この日、東国道将軍の紀阿閉麻呂〈きのあへまろ〉たちが、飛鳥の大伴吹負将軍が近江方に敗れたことを聞いて、兵を分けて置始連莬〈おきぞめのむらじうさぎ〉に千余騎を率いさせて、飛鳥京へ急行させました。


7月13日に、村国男依たちは、野洲〈やす〉川のほとりで戦い大勝し、社戸大口〈こそへのおおくち〉・土師千嶋〈はじのちしま〉たちを捕虜にしました。


7月17日には、栗太〈くるもと〉というところで近江軍を破り追撃します。


7月22日に、大海人皇子の軍勢は瀬田〈せた〉に至りました。そこに大友皇子および群臣たちが、橋の西に陣どり、広大な人が前をしていて、その後衛は見る事ができないくらいです。旗幟〈はたのぼり〉などが野をうずめ、ほこりが天まで舞い上がり、鉦鼓〈かねたいこ〉の音は数十里先まで聞こえるほどで、列をなしている大弓がどんどんと矢を放ち、まるで矢の雨が降り注ぐようでした。

近江方の将、智尊〈ちそん〉が精兵を率いて、先鋒として防御にあたっていました。瀬田の橋の中央を9メートルほど切り落として、一枚の長い板を置いていました。勇士、その名は大分君〈だいぶのきみ〉稚臣〈わかおみ〉というのが、長い矛を捨てて、鎧〈よろい〉を重ねて着けて抜刀〈ばっとう〉して急いで板を渡って、板に取り付けていた綱を切り、矢を受けながら敵陣に突入しました。

近江軍は乱れて散り散りになり皆逃げようとします。近江方の将軍、智尊は、刀を抜いて退却しようとする者を斬りますが、止めることはできず、結局、将軍智尊も橋のたもとで切られてしまい、大友皇子、左右の大臣などわずかの人がやっと逃れることができました。

村国男依たちは、滋賀の膳所〈ぜぜ〉あたりまで進軍してきました。この日に、羽田矢国、出雲狛などは、協力して琵琶湖西岸の三尾砦〈みをのとりで〉を攻め落としました。


7月23日に、村国男依たちは、近江側の将、犬養五十君〈いぬかいのいそのきみ〉および谷塩手〈たにのしおで〉を粟津〈あわづ〉の町なかで斬りました。そうなると、大友皇子は、逃げ隠れするとこrがなくなり、山前〈やまさき〉というところに隠れ入り、自ら首を吊って死にました。その時には、左右大臣も群臣も逃げ散り、物部麻呂〈もののべのまろ〉ほか三人の供のみ従がっていただけでした。


(八)

前に戻り最初の頃、大伴吹負〈おおとものふけい〉将軍が、乃楽〈なら〉に向かっていて、稗田〈ひえた〉というところに来た時に、部下の一人が「河内〈かわち〉より沢山の軍勢がやってきました」と報告がありました。そこで、坂本財〈さかもとのたから〉・長尾真墨〈ながをのますみ〉その他に、三百の兵を率いさせて派遣し、河内に通じる要所の龍田〈たつた〉で防御することにしました。

また、佐味少麻呂〈さみのすくなまろ〉に数百の兵を授け、逢坂〈おうさか〉というところに駐屯させ、鴨君蝦夷〈かものきみえみし〉にも数百の兵を授け、石手道〈いわてのみち〉の要衝〈ようしょう〉を守らせることにしました。

この日、坂本財たちは、平石野〈ひらしのの〉に野営していましたが、近江朝側の部隊が高安〈たかやす〉砦にいる、と聞いたので出発しました。近江の軍は、坂本財たちが来襲することを知って、全ての倉庫などを燃やし、皆逃げ散ってしまいました。それで、坂本財の部隊はその砦を宿舎とすることができませんでした。


7月2日の未明のことですが、西の方を見渡しますと、長尾街道、竹内街道の双方から多数の軍勢が進軍していて、旗幟もはっきりと見えます。その時「近江側の将、壱岐史韓国〈いきのふびとからくに〉の軍勢だ」と報告が来ました。

坂本財らは、高安の砦を出て、衛我〈えが〉川を渡って、壱岐史韓国の軍勢と、川の西岸で戦いましたが、坂本財らの兵の数が少なく、敵の進撃を止めることができませんでした。

これより前のことですが、紀大音〈きのおおと〉を派遣して、懼坂道〈かしこのさかみち〉に坂本財らが退却して、紀大音の宿営に合流しました。

河内の国司、来目塩籠〈くめのしおかご〉は、不破の大海人皇子に付こうと思う心があって、兵を集めていました。壱岐史韓国が河内に来て、それを聞きつけて塩籠を殺そうとしました。塩籠は事が露見〈ろけん〉したことを知り自殺しました。


7月4日には、近江朝側の軍勢が、方々の街道を通って多数侵攻してきたので、迎えて戦うこともできず、陣を解いて退却しました。同日に、吹負将軍は近江軍に敗れ、ただ1,2騎を連れて逃げのびました。金綱井〈かなづなのい〉と言うところまで退いて陣を構え、散り散りになった兵を呼び集めました。

しかし、近江軍が逢坂道〈おうさかみち〉方面に向かっていると聞いて部隊を引かせて西へ向かいました。当麻〈たぎま〉の部落に至ったところで、壱岐史韓国の部隊と葦池〈あしいけ〉の岸辺で戦いました。此の時、来目〈くめ〉という豪傑が現れて、抜刀して先頭に立って戦場に突っ込み、他の兵士たちが後ろから後ろからと続きました。近江側の兵はみな逃げ、後を追いかけ多数を殺しました。

大伴吹負将軍は、そこで部隊中に「今回の戦いの目的は、ひとびとを殺そうと言うことではない。目的は近江の元凶〈げんきょう〉をやっつけることなのだ。みだりに殺してはならない」と命令しました。壱岐史韓国は部隊を離れ、独りで逃げていくのを、大伴吹負将軍はそれを遠目に見て、来目に弓で射させましたが命中せず、結局走って逃げきらせてしまいました。

大伴吹負将軍は、もとの飛鳥の駐屯基地に帰還できました。


(九)

このころ、東国からの応援部隊が続々と到着し始めました。飛鳥に入る上・中・下の街道の守りに分けて駐屯させ、中道は大伴吹負将軍たちが担当しました。しかし、近江側の将、犬養連五十君〈いぬかいのむらじいきみ〉が中道を進軍してきて、村屋部落に陣を構え、別将廬井鯨〈いおいのくじら〉に二千の兵を授けて、大伴吹負将軍の陣を攻めさせました。

この時、大伴吹負将軍の旗下〈きか〉の兵が少なく、その攻撃を防ぐことができず苦戦していました。
大井寺の徳麻呂〈とこまろ〉など5名が従軍していて、先頭に立って弓を射るので、廬井鯨も進撃することができませんでした。

また、三輪君高市麻呂〈みわのきみたけちまろ〉・置始菟〈おきそめのうさぎ〉が上の道を守っていましたが、箸陵〈はしはか〉のあたりで近江軍と戦い大勝し、その勢いに乗って、廬井鯨の部隊の後ろに回り攻めると、廬井鯨の部隊はすべて四散〈しさん〉し、多くの兵士が殺されました。

廬井鯨は灰白色の馬に乗って逃げましたが、馬が泥田にはまり身動きができなくなりました。大伴吹負将軍は、近くにいた甲斐の武士に向って「あの灰白色の馬に乗っているのは廬井鯨だ、急いで追って弓で射よ」と命じました。

すぐさま甲斐の武士は走っていきましたが、廬井鯨のところに到着しようとした時には、廬井鯨が馬に鞭〈むち〉打ち、馬がやっと泥田から抜け出ることができ、馳〈は〉せて逃げることができました。

大伴吹負将軍は、再び元の本営に戻り、陣を構えましたが、以後、近江の軍勢が押し寄せることは遂にありませんでした。


この頃より、金綱井〈かなづなのい〉に陣を張った時に、高市県主許梅〈たけちあがたぬしのこめ〉が、急に口が利けなくなり、3日の後、神がかりして「吾は高市の社〈やしろ〉にいる事代主神〈ことしろぬしのかみ〉なり。又、身狭〈むさ〉の社にいる生霊神〈いくたまのかみ〉なり」と言います。

そして、「神武天皇御陵に馬と兵器類を奉納せよ」との神意〈しんい〉を告げました。それに加えて、「吾は大海人皇子の前、後ろに立って、不破の仮本営まで送り届けたのだ。今も、大海人皇子軍の中にいて、守護しているのだ」と告げます。

そして、「西の方から軍勢が近づいて来ている、用心せよ」と、言い終わりますと、神がかりから覚めました。

そこで早速、県主許梅を神武天皇御陵に行かせてお祓いをし、馬および兵器を奉納し、高市・身狭の二社の神様をお祭りしました。

その後、壱岐史韓国の部隊が西から進撃してきましたので、世の人は「二社の神様が教えてくれたのがぴったり当った」と言いました。

また、村屋の社の神様が神官にのりうつって言うには、「今、わが社〈やしろ〉の正面より軍勢が来襲しようとしている。それゆえ、社の中道を塞ぐべし」と。その通り、幾日も経たずに、廬井鯨の部隊が中道から攻めてきたので、世の人が言うには、「村屋の神様が教えてくださったのはこの事だった」と。

このたびの戦が全て終わった後で、将軍たちは天皇に、この三柱〈みはしら〉のかみさまが教えてくれたことを報告しました。天皇は、この三柱の神社格を上げてお祭りするよう詔〈みことのり〉を発しました。


(十)

7月22日には、大伴吹負〈おおとものふけい〉将軍は、既に奈良盆地を制圧し、逢坂〈おうさか〉を超えて難波〈なにわ〉に向かって部隊を進めました。その他の別動部隊は、大和の上中下の三街道を進軍し、淀川の南の山崎に駐屯しました。

大伴吹負将軍は、難波の小郡〈おごおり〉の地に留まり、西方諸国の国司〈くにのつかさ〉たちを呼び集め、諸国の国司が管理する、屯倉〈みやけ〉のカギ、駅馬の使用権の証明の駅鈴、その駅馬を使う割符〉〈わりふ〉などを上納〈じょうのう〉させました。

7月24日に、諸々の将軍たちは、全員が近江朝側の左右大臣その他、逆らった罪人たちはみな捕えられました。

7月26日に、諸将軍たちは、大海人皇子〈おおしあまのみこと〉の不破の本営に出向き、切り取った大友皇子の頭を本陣に献じました。

8月25日に、高市皇子〈たけちのみこ〉に命じて、近江朝の群臣の罪状を宣告〈せんこく〉させました。それにより重罪の八人を極刑に処すということになりました。右大臣の中臣金連〈なかとみのかねのむらじ〉を浅井の田根〈たね〉と言うところで斬りました。

この日に、左大臣蘇我赤兄〈そがのあかえ〉、大納言〈だいなごん〉巨勢比等〈こせのひと〉及びその子孫、あわせて、中臣金連の子、蘇我果安〈そがのはたやす〉の子、みな配流〈はいる〉の刑に処しました。これなどの人以外はすべて赦〈ゆる〉しました。

これより前のことですが、尾張の国司、少子部鉏鉤〈ちいさこべのさちひ〉は山奥に入り自殺しました。大海人皇子は「サチヒは功があり、罪はないのに、なざ自殺したのだろうか、陰謀に加わっていたのだろうか」とおっしゃいました。

8月27日に、大海人皇子は、鉱石のあった者には、褒めたたえて恩賞〈おんしょう〉を与えられました。

9月8日に、大海人皇子は都への帰路につきました。伊勢の桑名に宿泊し、10日は阿閉〈あへ〉に宿泊され、12日に倭京(飛鳥)に到着し、嶋宮〈しまのみや〉に落ち着きました。

9月15日に、嶋宮から岡本宮〈おかもとのみや〉にうつられました。

この年に岡本宮の南に新しく宮殿を造営し、冬にそこに遷〈うつ〉りました。この宮殿を、飛鳥浄御原宮〈あすかのきよみはらのみや〉と言います。

11月24日に、新羅の客、金押実〈こんおうじつ〉たちに、筑紫にて宴を設けます。そして客人それぞれに、身分に合わせた贈物を差し上げました。

12月4日に、いろいろと功績のあった者の内から選んで、小山位〈しょうせんのくらい〉より上は、それぞれ差を付けた冠位を授けました。

金押実らは新羅に帰国しました。

この月に、韋那公高見〈いなのきみたかみ〉が亡くなりました。



『日本書紀』第二十八巻 あまのぬなはらおきのまひと(天武)天皇 上巻 終わり

(明くる年、673年、天武二年、二月二十七日 大海人皇子は、飛鳥浄御原宮で天皇に即位されました。)