道草 その4 委奴国 久山説?
槍玉その2 福岡県の歴史 で 金印「漢委奴国王」についていろいろ検討していた折に 気付いたこと、思いついたことなどを整理していまして、他の先人同様、地名比定・語呂合わせから、邪馬壱国久山起源説 に至りました。
中国の史書に出てくる「委奴国」「邪馬臺国」を、それぞれ、「イト国」「ヤマト国」と読んで、日本の各地の「いと」や「やまと」の地名の場所をそれぞれに比定する、ということが昔から沢山の学者や文人によってなされていることを知りました。
例えば、「イト国」は伊都、怡土の地がそれだ、「ヤマト国」は、大和、山門、山戸の地がそれだ、というように。
そういう「地名読みでそれらの国を比定できる」のであれば、当方もひとつ名乗りを上げてみましょう。
以下に棟上説をご紹介しますので、”道草”を皆さんも食ってみてください。
さて、志賀島で発見された金印は、”漢委奴国王”と彫ってあります。
その読み方についていろんな説があります。通説では、”漢の委の奴の国王 カン ノ ワ ノ ナ ノ コクオウ”と読ませています。
しかし、「委」 の読みは 古代中国では ヰ(wi) であり その後も変わっていないそうです。
倭 も古代中国では ヰ(wi) でしたそうですが、4~5世紀では ワ(wa) と変わったそうです。
疑問を感じますのは、国の正式名は委奴国であって倭奴国ではないのではということです。
後漢書では倭奴国と記されていますが、国王金璽に略字が使われるのでしょうか。
仮に、通説に従ったとして、金印の文字を「漢の委の奴の国王」 と三段階読みとした場合、カンのヰのヌ(ノ、ド)のコクオウ であり、カンのワのヌのコクオウとは読めない筈と思うのですが、皆さんどうでしょう。
二段階読みの場合、漢の委奴国王は、カンのヰドのコクオウ 乃至 カンのヰヌ 又は ヰノ のコクオウと 読まれるべきでしょう。
地名比定でヰド国と読んで伊都国ではないか、と一時通説になりかけたそうですが、伊はイであってヰにあらず、奴はトと読めないうことからでしょうか、沙汰止みになった、ようです。
しかし、筑前国には他にも、ヰノの地名、ヰノ川が存在します。
現在の地名は、福岡県糟屋郡久山町猪野字別所です。ここに伊野神社があります。
神社の前には、清冽な猪野川(福岡県2級河川)が流れていて今6月の時期は蛍が飛び交います。
この猪野川は、下流は多々良川となり博多湾にそそぎます。このタタラ川という名前から古代製鉄が行われた地域であることはほぼ間違いないようです。
後ろには、神功皇后が国見をしたという伝説のある遠見岳(標高323m)がありますし、久山町から豊前方面に抜ける峠はヰヌナキ峠(犬鳴峠)と呼ばれています。
この神社は、言い伝えによりますと、足利時代末期(16世紀中ごろ)、伊勢皇大神宮の祭祀を司っていた豊丹生有時が、罪を得て豊前英彦山に流され、その時、ご大神の神体を豊前に移したそうです。
その後、有時の子供兵庫太夫の代になって、今の猪野の地に移し、伊野皇大神宮としたそうです。
従って、神社自体に、”委奴”との関連を結びつける社伝などはないそうです。
しかし、この地を兵庫太夫が選んだとき、その地に移すに相応しい”良き地”であったことは間違いないだろう、などと想像するときロマンを感じます。
久山町のHPに簡単な紹介があるのを見つけました。ここをクリックして伊野皇大神宮の項を見て下さい。
また、”邪馬壱(ヤマヰ)国”の地名比定につきましても、久山町の大字”猪野(ヰノ)”の北側一体は、大字”山田”であり、久ヤマ町、ヤマ田 と”ヤマヰ”国の条件を全て満たしています。
また、この久山町山田には、「斎の宮」という古跡もあります。神功皇后が山田の谷に陣を張ったという伝承があります。この場所は、仲哀天皇が熊襲の矢に当って亡くなった、という伝承のある香椎宮のすぐ裏手にあたります。(HP読者くろべえさんからご教示いただきました)
この「斎の宮」も前述の久山町のホームページに紹介されています。
それに、この近くで銅矛の鋳型が出土しています。香椎と山田の中間の、八田というところからです。福岡市立博物館のホームページにアクセスすると詳細に出ています。
そんな、こんなで、久山町が、邪馬壱国国名発祥の地?の可能性がある、と言ってもおかしくはないと思いますが???。
伊野皇大神宮入口
左に”猪野”財産区事務所の看板が見える。
社殿裏の古神殿跡地
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