道草その3 ダヴィンチコード雑感  

このところ、「ダヴィンチコード」や「ハリーポッター謎のプリンス」など頭休めに読んだり、渡辺謙・樋口可南子の「明日の記憶」を、家内と一緒に映画館で涙をとめどなく流したり、ということで、研究会もちょっとお休み状態でした。

古事記・日本書紀を読んで奇妙に思えるのは、双方共に銅鐸文化についての記事が無いのは一応置いておいて、古事記と日本書紀の記事の違いです。

古事記はその前文にありますように、『天武天皇の詔を受けて、昔からの諸記録を、記憶力の良い稗田の阿礼に記憶させ、太安麻呂が選録した』とあります。しかし、天武天皇が詔を出した、歴史書の編纂を始めた、というこの記事が、日本書紀に全く見えないのは不思議です。

古事記自体も公式文書にならなかったようで、後年、鎌倉時代に真福寺というお寺で発見されたということですが、一時は偽書扱いも受けているようです。

この記・紀の記事の違いが有ることを理由に、従来『「だから記・紀は当てにならない。7世紀の大和朝廷の史官の創作物だ』などとまで、言われててきました。

天武天皇は有名な壬申の乱の主人公であります。自分の王朝の正当性を主張する意味で削偽定実という方針で安麻呂に作らせた訳です。しかし、出来上がったものが気に食わなかったのでしょうか。

それとも、その後、文武天皇に替わって、文武天皇が気に食わなかったのでしょうか。新たに日本書紀編集させたのか、古事記と平行して編纂させたのか、これも不明です.

古事記完成は元明天皇の代(712年)、日本書紀はその後の元正天皇の代(720年)に完成されたそうです。ともあれ、古事記は時の権力者の意図を満足させられなかったから日の目を見なかったのでしょう。

ダヴィンチ風寅七人体図

ところで、レオナルド・ダ・ヴィンチ風の人体図などを出して済みません。

最近映画化されたダン・ブラウンという方の推理小説ダ・ヴィンチ・コードの中に、歴史書の本質的な性格として、登場人物に次のように言わせています。

歴史は常に勝者によって記されるということだ。二つの文化が衝突して、一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。自らの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。ナポレオンはこう言っている。歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない。本来、歴史は一方的にしか記述できない

記・紀についても言えると感じます。権力者は何が気に食わなかったのか。何故古事記は駄目で、日本書紀が正史となったのか。

古事記になくて日本書紀にあるもの、を分析するとその原因がわかってくる、と古田武彦さんは解析していますが、私の読んだところでは、古事記と日本書紀で、大きく違っているところは次の諸点です。


 景行天皇の遠征


古事記の景行天皇の事跡には,、ご自分の事跡は殆どなく、息子小碓命(ヤマトタケル)の活躍譚に多く割かれています。
ところが、日本書紀には景行天皇が九州に熊襲征伐に親征されたことが非常に詳しく述べられています。

 神功皇后 の事跡

古事記には、皇后の新羅征討と百済に屯倉(みやけ)を置いたと簡単に述べている。

しかし、日本書紀には天皇でないのにわざわざ一巻を皇后のために割いている。その中の主な事項は、

A)熊襲が降伏し、その後、筑後山門に夏羽と田油津媛との兄妹を討伐した記事がある。
B)新羅征伐の際の新羅の人質返還のトラブルで、再度新羅を攻めたことを記している。(その後も貢物の多寡で、百済・新羅を討伐的行動を再三行ったの記事がある)
C)魏志に曰く、という形で、倭の女王の朝献・建忠校尉梯携の遣使と印綬授与・太夫伊声者の派遣上献の記事がある。
D)百済記に曰く、という形で、貴国と新羅との争いを記事にしている。貴国から派遣されたサチヒコが新羅が準備した美女二人にたらしこまれ、新羅ではなく百済を攻めた。百済が、貴国の天皇に、話が違う、と抗議し、貴国は改めて別のモクラコンシを派遣して百済の領土を回復させた。
E)晋の起居注(中国の天子の言行・勲功などを記した日記体の政治記録)に曰く、という形で、武帝泰始2年倭の女王貢献の記事を載せている。

 任那など朝鮮半島の記事 

古事記には、神代の巻にスサノオが新羅の追放・仲哀天皇が新羅を知らなかった件・神功皇后の新羅征伐以外全く朝鮮半島の記事がない。
『任那』の言葉は全く出てこない。

日本書紀には、前述のように、朝鮮半島諸国や中国王朝の史書の倭国についての引用記事が多い。(しかし。宋書の倭の五王””倭王への六国安東大将軍授号等の宋書の引用記事はない。)

その他

古事記には、仁賢天皇以降、各天皇の事跡の記述がない。(何故事跡が書かれていないのか)
日本書紀には各天皇の事跡が書かれている。しかし、特に武烈天皇の事跡など暴虐の君主像が日本書紀に描かれているのは何故か。

以上の諸点は、今後の槍玉に上がる玉たちの研究で追い追い明らかにしていきたい、と思います。

古田武彦
さんは、日本書紀の編集者は、国内の史料として、いろいろな史書を参考している。その証拠が日本書紀に、一書に曰くという沢山の一書が有ったことを示す注記や日本旧記に曰くというような具体的書物名まで現れている。古事記は、外部の史料を参照せず、天皇家内部の伝記をまとめたのであろう、と推論されています。

景行天皇九州遠征・田油津媛討伐などは、筑紫の大王の王朝内の歴史書を切り取って、自分の王朝の事跡とした、と論証されています。

なにをいい加減なことを言っている、と、お思いになる方が多いかと思います。是非、朝日文庫から出ています盗まれた神話をご一読されることをお勧めします。

きっと、「ダヴィンチコード」以上の謎解きの知的興奮を、皆様にお届けすることでしょう。        (この項終わり)

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