道草その19 古田武彦先生との六問六答    文責 棟上寅七

 (2009年7月4日、久留米大学古代史市民講座で講演された古田先生に、翌日の昼食時にいろいろお聞きしたことの備忘録)

1:2004年時点で17箇所120枚に及ぶ無文銀銭の出土は、大和・近江が圧倒的で西日本では皆無のようです。
この偏在現象についての考察というか仮説というものは、九州王朝説の方々からも提示が無いようです。
以前貨幣研究プロジェクトを立ち上げられましたが、その成果のまとめは?

 A:無文銀銭はない。改鋳ないし削り取られている。
和同開珎に二種類ある。開の字が異なっている。一方が真似をした可能性がある。
何故「和同開珎」という言葉になったのか、これらのことも含め、プロジェクトのまとめを本にしようと思っている。


Q2:焼ノ峠古墳(福岡県筑前町)のまわりが整備された、という新聞(西日本新聞)に、築造年代は3世紀前半、とありました。
筑前町教育委員会に問い合わせたら、『箸墓が最近の炭素法での調査結果、年代が遡る、ということになった。その箸墓年代をきめていた土器編年法も遡ることになり、焼ノ峠古墳だけでなく、この時代の所謂前方後円墳、津古生掛古墳(小郡市)や那珂八幡古墳(福岡市博多区)なども年代が見直され、それぞれ繰り上がる、ということになっている』、という説明でした。そうなると、3世紀後半には卑弥呼の墓が築造されますが、前方後円墳が同時期に築造されていた、とすれば、どういう仮説が成り立つのでしょうか。

 A:箸墓の年代が繰り上がると論理的にそういう結果になる。箸墓の炭素法による年代決定が必ずしも合理的ではない。調査に用いた標本の問題。果たして箸墓の副葬品などであるかどうか。


Q3:日本書紀の継体紀にある百済本記から引かれたという「日本天皇および太子・皇子、倶に崩薨す」という記事。日本国号の起源に関してこれが果たして原本にあったのか、という問題。原本には「大倭」などとあったのを日本書紀の編集者が「日本」に書き改めた可能性もあると思うのですが。

 A:その点は分からない。私は今、この百済本記の記事は、武烈天皇が継体にやられた時の記事ではないか、と考え始めている。武烈天皇に子が無かったとは思えない。日嗣の御子が無かった、と古事記にはある。継体が殺してしまった可能性がある。


Q4:縄文語辞典的なものをまとめられるご予定は?

 A:今東京の多元的研究会の会報「多元」に連載している、「言素論」が纏まったら本にしようと思っている。


Q5:枕詞昔は実際の形容詞であった、と「敷島」の例を挙げられます。シキは福岡県の志摩町の「師吉」、シマは古代の斯麻(志摩町)と言われ、敷島の倭(=チクシ)となる、と先生は仰います。古代では、このような2段地名を表わす場合、小→大と記すのでしょうか? 通常の表記であれば、大→小で島敷の倭となるのではないでしょうか?

 A:その見方には2つの問題がある。一つは、現在の地名で大小を考えていること。二つ目は、感覚の問題。例えば伊予の二名の問題。二名という小さな土地で四国全体を現す、という当時の感覚。瀬戸内海からフタナという港に入り、そこを四国(の入り口)と理解する感覚の問題です。


Q6:古事記の国生み神話で、天沼矛は銅鐸ではないか、と仰いますが?

 A:久留米大学の講演で話したように「天つ神が天沼矛をイザナギイザナミに渡し、それで海をかき混ぜると、コヲロコヲロと画き鳴らして引き上げると云々」は、矛ではその形容はおかしい。古事記には、大国主命がスサノヲの命が持っていた「天詔琴」を持って逃げ、出雲の国を建国する。この「天詔琴」が「天沼矛」であろう。かき鳴らし音を立てるのは矛では無理。

(その他、@仏教芸術は仏陀が出家するその苦悩を表現したものが無い、今の仏教芸術には不満だ。Aコブト語で書かれたトーマス福音書の方が実際のイエスを描いている。Bギリシャ神話のトロイアの木馬の話は後世継ぎ足されたという私の考えは、今回福岡市美術館で「ブルガリアの黄金文明展」を見て、より確信できた。など計2時間半ほどに亘って話を聞かせて頂きました。)