道草その11 古田武彦さんとの一問一答 文責 棟上寅七
*後半に金印の謎ー五方皆得を追加しました。2007.11.09
2007年11月3日 pm1時〜4時 福岡・志賀島で、地元主催の「金印シンポジウム」が開かれました。
パネリストは次の方々です。
岡本顕實 (元毎日新聞記者)
折居正勝(志賀島歴史サークル会長)
塩屋勝利(福岡市教育委員会文化財部委員)
久米雅雄(大阪府教育委員会文化財保護課)
9月28日西日本新聞 の記事をご紹介します。
授かったのは「奴国」か「委奴国」か 「金印」の謎に迫る 11月、志賀島で公開シンポ 島民ら企画「活性化に」
『博多湾に浮かぶ志賀島で発見されたが、出土状況などに多くの不明な点を残す金印「漢委奴国王」。謎を探ろうと、同島民らが11月3日、定説に異議を唱える識者を県外から招き、長年調査に取り組んできた地元の研究者らと議論する公開シンポジウムを開く。その後も、主張の異なるパネリストを招いて開催を続け、島おこしにつなげていく考えだ。
今回のシンポジウムは、金印の文字から史実を探ることに主眼を置く。パネリストの大阪府教委主査の久米雅雄氏は、「漢委奴国王」は「奴国」でなく「委奴(いと)国(伊都国)」を指し、志賀島外から出土したとする持論を展開。対する福岡側からは、発掘調査を続ける元福岡市教委課長の塩屋勝利氏らが出席し、定説の正当性を主張する。』
金印シンポジウムは、、志賀島上げてのお祭り的な行事になって、小学校の体育館は満員でした。パネリストの先生方は、古田先生が見えておられることを知って、かなり緊張状態のように見受けられました。
時間一杯パネラーの話がありました。発見時の状況・刻字の読みの問題などなど、まあ通説に沿った話でした。質問時間は殆どありませんでした。
質問したいことは沢山あったのですが、パネリストのお一人が、金印は封泥に使われた、と云われたので、それだけは、パネラーの古代印章の権威者久米先生の意見お聞きしたく、無理に質問しました。封泥に使われた証拠はない、紙が使われる以前の中国では使われていた、ということでした。
古田武彦さんは、一般聴講者としてお見えになりました。寅七は縁ありまして、当日お昼をご一緒し、シンポジウム終了後も、コーヒーを飲みながら、いろいろお話を聞かせていただきました。
寅七の各種の脈絡も無い古代史に付いての質問に、丁寧にお答えいただきました。折角のお話ですから、と、次のように「一問一答」形式にまとめてみました。内容は読みやすいように補足し整理しました。
九州年号について
(Q)古田武彦さんは、「失われた九州王朝 1973年」「法隆寺の中の九州王朝 1985年」「失われた日本 1998年」と、それぞれの著書に、「倭国(九州)年号」について書かれています。参考された史書として、最初は本では朝鮮の海東諸国記をメインに、次いで、鶴峯戊申の襲国偽僣考を、後のでは、鎌倉時代の二中歴を使われています。検討を進めていかれた結果、史料の信頼性では二中歴ということでしょうか。
(A)その通り。二中歴が、継体というところから始まり、終わりもはっきりしている。
(Q)「法隆寺の中の九州王朝」で釈迦三尊の光背銘に記せられている元号「法興」について、倭国年号とされ、隋書に出てくる「多利思北孤」の定めた年号とされます。しかし、この法興は「襲国偽僭考」に別系統として記されているのようで、「二中歴」には出てきていません。法興という年号のところは、2系列で、隋書が描くタリシホコの兄弟摂政時の年号という理解なのでしょうか
(A)その通り。
(Q)2通りの年号、ということは、2つの権力構造が並列していた、と考えることになりますが。
(A)その通り。
(Q)九州王朝でもなく近畿王朝でもなく別の王朝が存在した、例えば吉備王朝、という別個の王朝とは考えられないのでしょうか
(A)今の史資料からの判断では、それはないと思う。
(Q)2系列の年号を持った王朝はあまりないのではないでしょうか
(A)唐の周(武則天)時代、日本の南北朝などの例がある。
注)古田史学の会報2000年2月14日号に「両京制について」という古田武彦さんの論文が出ています。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou36/furuta36.html
「無文字、唯刻木結繩」について
(Q)隋書?国伝に「無文字、唯刻木結繩」という記事があります。倭国には百済から仏教と一緒に文字が到来するまでは、木を刻み縄を結んで記録としていた、という記事です。ものの本によれば、インカ帝国は公式記録に「結縄」(キープ)を使っていたとあり、これと隋書の倭人の結縄文化との関連性についてはどうお考えでしょうか。
(A)考えられないことではないし、面白いと思うが、何せ日本に全くその記録・伝承・説話など全く無く、隋書の記載記事だけなので、判断できない。
銅鐸について
(Q)銅鐸という精巧な鋳造技術が中国からもたらされたとすると、文字も同時に伝わっていたのではないか、と思われるのですが。
(A)銅鐸は、中国での銅鐸の元祖と思われる物にも、文字が残されていない。日本の銅鐸に文字が無いから文字が伝わっていなかった、とは云えないし、伝わっていたとも云えない。鏡には文字を刻する習慣があったが、銅鐸には無かったのかも知れない。
黄金鏡について
(Q)福岡の一貴山銚子塚の黄金鏡について、考古学会はあまり重要視していない。古田先生は、これこそ王墓の証拠とされる。しかし、熊本にも黄金鏡が、時代は遅れるが出土しています。そうすると、その地にもそれなりの王が存在した、ということになりますが。
(A)黄金鏡は、他に大分でも出ている。それなりの権力者の象徴であったということ。私は銚子塚の黄金鏡の金がどこからもたらされたのか興味がある。成分分析で産地が特定できたら面白い。時代的に、魏から卑弥呼が貰った金8両が使われたのではないか、と推測しているのだが
前方後円墳について
(Q)その形状から銚子塚と呼ばれるのが多いけれど。
(A)蒲生君平が前方後円墳と名付けそれ以来使われている。私は、どちらが前方とは云えないと思うので、方円墳と呼ぶのが良いと思う。
金印について
(Q)1世紀の漢委奴国王の金印は、3世紀の伊都国の祖先に与えられた、その後、卑弥呼の国に統属させられたという(久米雅雄説)は、この部分だけなら論理的に古田説と矛盾しないのではないでしょうか。
(A)1世紀〜3世紀間にそのような大事件があれば中国は記録している筈だが、中国の史書からは、委奴国〜邪馬壱国は連続した王朝としか読めない。
(Q)金印の発見状況に疑問があるとおっしゃっていますが、それについての古田説の正式発表はどのような形でされるのでしょうか。
(A)11月10〜11日の八王子セミナーで概略発表の予定。その後何らかの形で一般に発表するつもり。(概略お聞きしました。非常に面白い推理小説並みのお話でした。が、まだ先生が公式発表されていないので、この場で書くことはやめておきます)
「邪馬台国」はなかった、の復刻版は
(Q)「邪馬台国」はなかった、の復刻本の出版の計画のその後の進展状況についてお聞かせください。
(A)若い人に読んでもらおうと、漢字には出来るだけルビをふることにし、その後の研究の進展にあわせた古田新注を付けたい。今ミネルバ書房から原稿第1稿が来ていて今から目を通すことにしている。なるだけ早く出したい。
佐賀三日月村について
(Q)甕はミカと読む、卑弥呼も日甕ではないか、と先生はおっしゃいます。吉野ヶ里付近は甕棺の出土が多いことは知られています。ところで、佐賀県小城市に三日月町というのがあります。肥前窯業史という本に、甕棺が多く出土することに触れて、「三日月村は古名、甕調(みかづき)」と甕の生産地と書かれていました。先生はご存知でしょうか。
(A)初めて聞いた。興味ある地名です。
昨日のことですのに、もっと一杯お話を伺ったと思いますが、思い出せるのはとりあえず以上です。又思い出しましたら、追加します。
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追加です!。題して”金印の謎ー五方皆得”の古田武彦説の概要です。(2007年11月07日 福岡コミュニティ放送 から)
古田武彦さんの「金印の謎」が昨日福岡コミュニティ放送で発表されました。寅七も21時から90分間のお話を聞きました。ですから、もう皆さんに概要をお伝えしてもよいかと思います。
古田武彦さんは、金印の発見についての定説には不審な点がいくつもあり、いくつかの伝承・証言が無視されているとされます。
@金印の発見時の古文書、甚兵衛さんから郡役所への口上書の数々の不審点
A仙崖和尚の「天明4年丙辰・志賀島小幅」に書かれた内容と「口上書」との相違点
B細石(さざれいし)神社の宮司が、金印は神社の宝物であった、という証言
C金印は王墓から出ているのに志賀島の田ん圃からという不審(今回の金印シンポのパネリストの塩屋勝利氏は、志賀島の調査を永年行ったが叶の浜付近にはその痕跡は全くないといわれる)
D天明時代に井原ヤリミゾ遺跡が発見され、近在の農夫が出土品を勝手にとった、という記録がある(今回の金印シンポのパネリストの久米雅雄氏も言及している)
E亀井南冥の子供 昭陽の話として、「南冥が金印を買った」ということが残っている
F南冥はその約3年後、理由不明で藩より閉門蟄居を命ぜられ、終生家を出ることがなかった。
以上の諸点をクリアーできる推論として、次のように「五方皆得の話」として古田説を展開されています。
井原・平原などの弥生遺跡(王墓)から出土したのではないか。
金印発見者が地域の神社の細石神社に納めたのではないか。
社宝が、何らかの理由で人手に渡り、売りに出された。
漢学者亀井南冥がそれを15両で買い取ろうとしたが、100両といわれ値が折り合わなかった。
福岡藩がそれを知り、金印の鑑定を、南冥と藩校の修猶館の両者にさせた。
南冥は、中国からヤマトノ国王に下賜されたものであり、出土の経緯を南冥が創作した。
修猶館側は、源平の壇の浦の戦いで安徳天皇が入水された折、紛失されたものが流れ着いたのであろう、とした。
南冥の方が理に適うとされ、南冥は面目を施し主催する学校、甘棠館(かんとうかん)の方の名が上がった。
藩は50両で買い上げ、天下の秘宝を手に入れることができた。
売り手は、おそらく20両くらいで、(社宝を)手に入れたのであろうからかなりの儲けになった
志賀島は那珂郡であり、郡役所の津田源右衛門も面目を施した
発見者とされた甚兵衛も白銀5枚?をもらえた。
このように関係5者がそれぞれ得をしたことになる。
以上です。短波放送を車の中、メモも取れなかったので間違いも多いかと思いますが、ストーリーはほぼ以上のようなことだったと思います。明日明後日の八王子セミナーでこの件で講演され、その後古田史学会報などで正式なものが出ることと思います。
尚、この謎解きは、三浦祐之さん(槍玉その20 古事記講義 で登場いただきました)が、「金印偽造事件」幻冬社新書として今年出版されました。同じような記録・伝承を使って、片や「偽造金印説」、古田さんは「南冥金印出土状況創作説」と全く結論は違っています。だから古代史は面白い、と思います。
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