木宮泰彦の『日華文化交通史』にみえる倭国論 中村通敏
― 本論は「九州古代史の会 NEWS 倭国通信 No.180 2016・3・20 に掲載されたものである ―
私たちは、九州王朝というか倭国王朝というかは別にして、古代の筑紫に一大政治勢力が存在していたことは、中国の史書を見る限り明らか、と思っていますが、なぜこのような明らかのことを定説に依る先生方は理解できないのだろう、と腹立たしく思っています。
日本の伝承に全くなく国史にも記載されていない事柄、一つには「邪馬壹(臺)国」、それに「倭の五王」、それと「タリシホコ」です。この三つを、中国の史書と日本の伝承との齟齬を論理的に収めるには、「北部九州には、白村江で唐軍に敗戦するまで、王国が存在した」という仮説ですっきり解けると思うのですが、世の中の定説派は、頑なに大和朝廷が日本列島を一元的に支配していた、と主張しています。
しかしながら、では例えば、なぜ倭の五王達の絢爛豪華な叙爵記事や、倭王武の堂々たる常総分が日本の記録にないのか、ということを論理的に説明している定説派の歴史家を見つけることはむつかしいのです。
ところで昨年、2012年まで作業が続けられていた日中歴史共同研究の成果が、両国委員の論文併記という形でまとめられて、外務省からホームページで発表され、昨年、勉誠社から出版されました。(福岡市総合図書館でも閲覧できます)
その中の中国側委員の王勇氏の論文に木宮泰彦『日華文化交通史』を参照されている部分を見受けました。私は自分の不勉強を恥ながら、福岡市総合図書館の蔵書を検索し、幸い在庫していたので読むことができました。
この『日華文化交流史』は大正15年~昭和2年にかけて出版された『日支交通史・上下』を昭和30年に表題にまとめて出版された、800ページ余の大著です。
本古代史の会員の方々には「木宮康彦」は周知のことからしれませんが、私には初耳でした。卑弥呼を筑紫の女王とし、『魏志』唐遺伝の魏使の倭人国への航路記事を論じる歴史家は結構いますが、「倭の五王」が大和朝廷の天皇たちであるということを、名前の一字をこjつけて倭の五王と大和朝廷の天皇方と結び付け、江田船山および稲荷山古墳出土の鉄剣銘をむりやり雄略天皇に結び付けるという非論理的な方法以外に論理的に説明している論者は知りませんでした。
『魏志』倭人伝に記載のある邪馬壱国、『後漢書』にある邪馬臺国、などについて古来論議されています。しかし、例えば水戸光圀の『大日本史』では、日本の記録に無い外国史料、『魏志』・『宋書』の記事すべて、『隋書』の「タリシヒコ」関係の記事は全く採録されていません。日本の国史は日本の資料に拠ればよいというのでしょうか。これは北畠親房の『神皇正統記』以来の歴史叙述の主流のやり方のようです。
しかし、江戸時代にな日本は神国なり」のクビキにもゆるみが生じたともいえるかと思いますが、古来日本列島は一元的に大和朝廷によって収められていた、ということに反する意見も出てきます。
いくつかの論文が出されていますが、古事記研究者としても名高い本居宣長の『馭戎慨言』が有名です。宣長は、中国史料と正直に向き合った結果、邪馬臺国や女王卑弥呼について、「それらは大朝廷とは関係ない、西の辺の者の仕業であり卑弥呼とは熊襲の女酋」と論じました。
宣長の半世紀後、鶴峯戊申がもう一歩進め、彼の『襲国偽僭考』では、
倭国は熊襲の国であり、古代九州に「襲国」「襲人」と称する政治勢力が存在したことを主張しました。
鶴峯によると、彼らは養老五年(721年)に滅亡するまで、漢字を用い、中国王朝に朝貢し、自ら年号を立てたと主張しています。ここでは、近畿天皇家をさしおいて、熊襲の王が自ら「天皇」と名乗るような行為が「偽僭」であるとされています。
木宮泰彦の『日華文化交通史』を読んでみましたが、鶴峯の系譜を継ぐというより、宣長の系譜に属するものといえるかと思います。そこには、『漢書』にみえる倭奴国も、『後漢書』にみえる邪馬臺国も「倭国」であり大和朝廷とは関係ない北九州に本拠を置く「倭国」であり(邪馬臺国は筑後山門郷)、『魏志』にみえるように卑弥呼は倭国の女王である、と論じています。なぜ木宮が、鶴峯の系譜でなく宣長の系譜に戻ったのでしょうか。
江戸幕府を倒した明治新政府は、「修史事業」という国史編纂事業に取り掛かります。その編集者は重野安繹・久米邦武・星野恒などが関わりますが、この三人が著した『国史眼』は日鮮同祖論の先駆け的な論文とされ、かつ邪馬台国筑後山門郷説で一致しています。
この修史事業が進行している途次に、久米邦武の論文「神道は祭天の古俗」からの筆禍事件が生じます。久米は帝大教授を辞職し、ひいては「修史事業」も中止という結果になります。明治半ばからは、歴史研究は、教育勅語、国家神道の時代となり、その時代のクビキに自由度を失っていったようです。
ところで木宮康彦の、四世紀に中国史書に現れるいわゆる「倭の五王」たちの記事の論考はどうなのか、というところに話を戻します。
この点になると、鶴峯戊申の「九州王朝説」と異なり、宋朝との通交はこれは大和朝廷の天皇が間接或いは直接に行ったもの、としています。その論旨で、彼なりの論理を通そうと努めています。要約しますと、次のようになるかと思います。
【崇神天皇以降、大和朝廷の勢力は西にも浸透していき、その勢いは半島にも及んだことは、好太王碑文に見られる倭軍の襲来や、後年任那日本府も設けられたことからもわかる。日本の国内の記録には、大和朝廷が倭国を経略した内容は見られないが、北九州の倭国を支配下に置かなければ、任那に日本府を置くなどできないし、大和朝廷がじわじわっと倭国を経略したものであろう】としています。
その証拠として木宮は、【『旧唐書』の「或云う、日本もと小国、倭の地を併せた」という記事を取り上げ、併合の時期は不明だが、大和朝廷が倭国を経略したことを示す】、としています。
しかし、【大和朝廷が直接宋朝と通交したかどうかは疑問もある。朝鮮半島の任那日本府の高官たちが独自に、もしくは朝廷の内意を得て、宋朝と通交したものであろう。当時の日本の外交や通商に携わるのは、楽浪や帯方方面からの渡来人およびその一族であり、聖徳太子がそれを正されるまで、彼らはかなり恣意的に活動していた。
『日本書紀』に宋との通交の記載がないのは、聖徳太子以来の日中対等の精神が書紀編集者にあり、また、その上表・授爵という中国の属国であるような屈辱的な内容なので記さなかったのであろう】としています。
王政復古の明治になり、万世一系の神国が強調される世になり、鶴峯戊申の「北部九州の倭国論」を継承するには厳しい世の中になったのかもしれません。
木宮泰彦は、今まで述べたように、好太王碑文の「倭の侵攻」や「任那日本府設立」が大和朝廷の下でなされた、という仮説を事実として受け取り、遡って理由を探し求めた結果を述べています。また、『旧唐書』の記事「日本が倭国を併合した」には、その時期が書かれていないことに目をつけて、宋朝と通交の時期以前に日本が倭国を併合したのであろう、としています。
ところで、「任那日本府」を大和朝廷が設立したという証拠は全くないし、『日本書紀』でも雄略紀八年に【高麗が新羅を攻め、新羅が任那王に使いして日本府の行軍元帥に救いを求め、それに応じた任那王や膳臣斑鳩他が新羅を救った】というところに一ヵ所出てくる日本府です。任那に常置されていた機関とは思えないのですが、それはともかく、『旧唐書』の前史『隋書』になく、『旧唐書』になってはじめて出てくる「日本が倭国を併合」なのですから、理性的に判断すれば、隋国の滅亡後の事件と判断してしかるべきでしょう。
これらの点については批判されてしかるべきでしょう。しかし、木宮自身が、旧唐書にみえる倭国併合について、【但し、それがいつの頃であったあったかは、容易に定め難い。書紀にみえた景行天皇の熊襲御征伐は、豊前・豊後・日向・肥後の地方の土蜘蛛や熊襲を御征伐になっただけで、北九州の倭国の経略については、国史にその痕跡らしい物語を認めることは出来ぬ】と述べているのは正直な意見と思います。雄略天皇の時代に、北九州の倭国が直接宋朝と通交していた、という仮説を立てるには、明治の世の中では厳しかったのかもしれません。結果的には、木宮説は本居宣長説とほぼ同じ結果、となっています。
なお、日中歴史共同研究では、木宮泰彦などを一応取り上げているものの、日中双方とも、邪馬台国=ヤマトで一致しています。
中国側委員が鶴峯戊申を取り上げないのは日本側に対する慮りからでしょうか、それとも単に木宮泰彦の『日華文化交通史』は、中国語版が出ていて参照し易かったからでしょうか、それはわかりませんが。
それにしても、中国側の委員が中世の論争を取り上げているのに、日本側の委員は全く取り上げていません。『隋書』にみえる、「俀王は天を兄とし日を弟とする」、という叙述の意味について長々と自らの解釈を述べるだけ(川本芳昭委員)なのは情けない思いがします。(勉誠出版『日中歴史共同研究』「七世紀の東アジアの国際秩序の創成」100頁)
ともかく今回、木宮康彦の『日中文化交流史』を読んで、日本の伝承にない中国支所の事件についての定説派の立論の基礎が、まったくいい加減なものだということを改めて知り、鶴峯戊申の倭国論を正当に展開するには、古田武彦まで待たなければならなかったのだなあ、と故古田武彦の偉業に改めて感じ入っているところです。 (完)