岩波文庫『新訂魏志倭人伝他三篇』石原道博編訳の批評  中村通敏

 この岩波文庫『新訂 魏志倭人伝他三篇』は、1951年11月に第一刷が発行され、1985年に「新訂版」として第43刷が発行されている。

 手持ちの文庫本には、2006年5月第76刷発行とあり、まさにロングランの岩波文庫の見本みたいな本である。

 この本は、『隋書』を日本語の読み下し文に翻訳し、ところどころ注釈を加えている本である。問題点というか、その注釈が当を得ているかどうか、というところを見ていきたい。なぜなら、この岩波文庫の読み下しをそのまま使って歴史叙述をする歴史家が多いので、正しければよいのだが、間違っていたとか、不確かな解釈を転用することによって、それが「岩波」ブランドの解釈となり、その解釈が拡大流通していく危険性があるわけだ。そこで定説の牙城ともなっている。

 岩波文庫『新訂 魏志倭人伝他三篇』(1985年版)は、「新訂」とあるが、その旧版(1951年11月初版)も、和田清・石原道博の共著となっている。

 この「新訂」の本と旧版との違いについて、石原道博は次のように述べている。 1、常用漢字の使用。 2、原書の影印を載せた。 3、現代語訳をつけた。 4、倭中関係史年表を付けた。 5、参考文献に一九五一年以降の文献もできるだけ上げた。

 つまり、読み下し文の文注など、本の骨格は変わっていない。1969年に『邪馬壹国』論を、「史学雑誌」に発表した古田武彦の論文は参考文献としては上げられているが、その他の『「邪馬台国」はなかった』や『失われた九州王朝』は挙げられていない。同じ著者の『訳註中国正史日本伝』1975年国書刊行会』では、参考図書に上げられていたのだが・・。(かといって古田説を何も取り上げてはいないのは同じ)

 ところで、共著者和田清となっているが、『隋書』俀国伝に関しては、石原の前著『訳註中国正史日本伝』を読むと内容ほぼ同じだ。この文庫本の『隋書』については石原が主執筆者と思われる。

 この文庫本の前書きに、『岩波・魏志倭人伝他三篇』は1951年の発売以来1983年には、42刷まで255,000部に達した、とある。おそらく、現在でもニーズはそう変わっていないものとすると、2017年の現在では、50万部に達しているのではないか。それだけ、古代の状況を知らせる情報を詰めた、この岩波文庫本で『隋書』の内容が、間違いなく届けられるような訳文や注釈になっているのか。間違っていたら大問題なので、注意深く検討していきたい。



 石原道博の解説に見える問題点

 石原道博は、まず、『隋書』の読み下し文を紹介する前に『隋書』に記述されている倭国についての『隋書』の記述の問題点や、それが生じた原因などの推測を、「解説」として31頁から36頁にわたって述べている。

 その中で特に重要と思われる箇所を五カ所、(A)~(E)に項目を分けて記す。

(A)俀を倭、北を比に変更していること。

 石原道博は次のようにまず解説で述べている。

 唐初にできたのが『晋書』『梁書』と『隋書』で、『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、多少の新資料を加え、総合的に記述されている。これは『宋書』や『南斉書』が、その一時代のことを述べているのと趣をことにしている点であり、ことに『隋書』には日中の交渉が密接になった関係もあって、新しい事実がすこぶる多く記されている。古い事実については、多く『後漢書』にもとづいている。

 高祖文帝の開皇二十年(六〇〇)に「倭王あり、姓は阿毎〈あめ〉、字は多利思比孤〈たりしひこ〉、阿輩雞弥と号す。使いを遣わして闕に詣る」という日本側に伝聞のない記事も、『隋書』巻二・高祖紀の同年正月の条に「突厥・高麗・契丹並びに使を遣わして方物を貢ず」とあるから、隋が国内を統一して海東諸国を綏撫〈すいぶ〉しようとする その機会をつかみ、日本もまた大陸の情勢をうかがうため使をつかわしたのであろうか。

 たまたまこの年は 日本と新羅との関係がもっとも悪化し、境部臣が新羅征討におもむいており、二年のちには来目皇子、ついでその兄当麻皇子が、それぞれ征新羅将軍として画策するところがあったことも、あわせ考えるべきであろう。


 この文章の中で二カ所、「俀」と「北」に、原文と違う文字が使われている。なぜなのか。

 第一は「倭」である。この文庫本には影印の「原文」が付けられている。そこにはすべて「倭」ではなく「俀」とあるのだ。もう一つは「比」という字も影印を見ると「北」だ。なぜ「俀〈たい〉」を「倭」に書き変えたのか。

 その説明に次のような注書がされている。

 『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。付録、原文参照。(65頁)

 この論理は、当時我が国は「倭国」という名前であった、というのが前提となっている。その論証は中国の史書たとえば『宋書』では「倭国」となっているから、それでよいのだ、ということだと取れるようだ。

 しかし、『隋書』の二十三年後に編さんされた『北史』をみると、「倭国」でなく『隋書』と同じように「俀国」とあるのだ。二十三年というのは殆ど人の一世代に当たる。少なくとも子供が親になる一世代という時間の間は、「倭国」ではなく「俀国」とされていた証拠ではないのか。

 しかも、『隋書』自体に「俀国」への行路が書かれている。そこには「倭国」という国の名は出ていない。竹斯国や秦王国の名は出ているが、「倭国」や「大和国」などは見えない。

『隋書』は、俀国の都の名としては「邪靡臺」で、『魏志』にいう「邪馬臺」だ、と言っている。言い換えると、『隋書』は、俀国は三世紀の邪馬臺と同じ王朝だと言っているのではないか。

『後漢書』にも「その大倭王は邪馬臺に居す」とある。『後漢書』がいうように、大倭王というのは「大倭国」の王に他ならない。大倭国をどう読むのか、というのには諸説ある。「だいゐ」と読むのか「だいわ」と読むのか、という論争もあるようだが、『隋書』が「俀国」と表記しているのであれば、この七世紀初頭の時期でも、中国と通交していた国の名前は『後漢書』の描く時代と同じく「だいゐ国」であったという論理になる。石原道博にはそのような論理思考は浮かばなかったのか。

 
 もう一つの原典の漢字の書き換え「北」→「比」について。

 左に掲げる影印のコピーは石原道博岩波文庫本に掲げられている、原本の影印から関係個所をとりだしてコピーしたものである。

影印:多利思「北」孤


影印:阿「軰」臺  

 石原道博は、「北と比は書き誤り」説がすでに定説となっているので説明不要としたのか、理由を記さず、多利思比孤とかってに原文を書き変えている。

 しかし、『隋書』原典の影印をよくみると、書き誤りが生じたのではない、という証拠が影印に存在するのである。これに今まで誰も(古田武彦氏も含めて)気付いていないことに驚く。
 
 原文影印の多利思北孤の「北」は、見方によっては「比」に見えないこともない。しかし、左の影印の「阿軰臺」の「軰」を見ると、カンムリの「北」の部分が、「多利思北孤」の「北」と同じ字体で書かれていることは、素人でも見れば明らかだ。

 付言すると、『北史』では、「俀」は『隋書』と同じく「俀」だが、「多利思北孤」は「多利思比孤」と「北」が「比」に替えられているし、「阿軰臺」は「阿輩臺」と変えられている。『隋書』の原文に「阿軰臺」と「軰」という輩と同じ発音の字を選んでくれたおかげで、「書き間違い説」を封じることが出来るのである。『隋書』原典の書写者に感謝する次第だ。


(B)「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時云々・・・の解釈」

 倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政〈まつりごと〉を聴き跏趺〈かふ〉して坐し、日出づれば、すなわち理務を停め、いう倭が弟に委ねんと」とある記事は、文帝も「これ大いに義理なし」といっているが、これは中国の「天子」の思想にたいし、倭王は「天弟」ないし「日兄」という対抗意識からあらわれたものではあるまいか。いわゆる「日出処天子」や「東天皇」という呼称の伏線が、ここにかくされているように思われるのである。

 なお、この記事は「群卿百寮、早く朝〈まい〉り晏〈おそ〉く退〈い〉でよ、・・・」(十七条憲法第八条)のことも多少反映しているかもしれない。

 この解説では、俀王の対抗意識のあらわれと言っている。しかし、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」の国書からみれば確かにそうとも言えよう、しかしこの場合は、俀王の執務状況を説明しているのではないか。「夜明け前に俀王は執務し、夜が明けたら弟に委ねる」、とあるのを、対抗意識ととらえるのは、おかしい。宗教上の政治と俗事上の政治という兄弟執政システムの説明だと、『隋書』の表現を、そのまま捉えたらよいのではないか。

 また、“いわゆる「日出処天子」や「東天皇」という呼称”と『隋書』に出てこない「東天皇」という語を並列的に出してくるのも読者を混乱させる叙述のように思われる。その上で、聖徳太子の憲法十七条憲法の、官吏は朝早くから執務せよ、というのに関連させるのはこじつけ過ぎのように思われる。聖徳太子架空説にかなり根拠があるとされる現在、安易に「聖徳太子」に結び付けるのは如何なものか。


(C)煬帝が裴世清らを答使として日本によこした理由

 
煬帝が「蛮夷の書、礼〈あや〉なし」として、はなはだ悦ばなかったにかかわらず、裴世清らを答使として日本によこしたのは、どういうわけであったか、を考えてみよう。

『隋書』倭国伝には、これを直接説明するような記事はみあたらないが、同書巻八二・南蛮伝・赤土の条をみると、「煬帝即位するや、能く絶域に通ずる者を募る」とあり常駿〈じょうしゅん〉・王君政〈おう・くんせい〉等が赤土国に使いしたことを記している。同書巻八一・東夷伝・流求の条をみると、同年に「羽騎尉〈うきい〉朱寛をして海に入り異俗を求訪せしめ」た名高い記事があり、ほかにも西域にも使者を送った記事がある。

 これは歴代中国帝王の世界国家思想のあらわれとして、外蛮を撫慰〈ぶい〉するという伝統的なやり方であり、ことに虚栄心の強かった煬帝の心を動かしたものと思う。日本遣使のことも、彼のこうした対外政策の一環として理解さるべきであろう。

 この『隋書』東夷伝流求の条について、「名高い記事」があるとしているが、その名高い記事の概略の説明を省いているのはなぜなのか。

 この『隋書』東夷伝流求の条の「流求」とは台湾のことだとする定説がある。この「流求の条」を読むと、その国には王がいて城があり、地名の遺存もあり、常識的に琉球列島を指すと思われるのだが、その論争に入るのが面倒なのか、現在の日本国の一部である沖縄県を、当時の中国との通交から外すという判断は理解に苦しむ。


(D)『日本書紀』にみえる。「皇帝、倭皇に問う云々」の書中の皇は、もと王とあったのを改めた、としている

 裴世清がもたらした答書は、『日本書紀』にみえる。「皇帝、倭皇に問う、使人長吏大礼蘇因高等至り、懐〈おも〉いを具〈つぶさ〉にす」に始まる名高いものであるが、書中に皇とあるのは、もと王とあったのを改めたのであろう。

 この『日本書紀』が紹介する隋の国書にある「倭皇」は、もともとは「倭王」だった、と推測を述べられている。我が国の「天皇」称号の起源が定かではないのでこのように述べたのであろうが、その推測の根拠をなんら示していない。

 なぜなら、当時大和朝廷は「天皇」という称号を使っていた、という証拠にこの『隋書』の記事がなるのだから、軽々しく、倭王であったはず、と断言するのは如何なものか。


(E)『北史』『南史』の倭国伝の評価について。

 石原道博は言う、『北史』『南史』の倭国伝について一言しておく。結論的にいえば、『北史』は『梁書』・『隋書』に、『南史』は『宋書』・『梁書』によっており、その文字の校定以外にはなんら史料価値を認めることができない。いわば正史中もっとも史料価値の低いものである。ことに『北史』のごときは『隋書』の裴清の記事を誤写し、一二一字を脱落しているほどである。

 この『北史』の石原道博の評価は一見非常に低いように見える。しかし、この文庫本では、『北史』の記述に従って以下のように、『隋書』の文字の校定に用いている、史料価値が少ないと評した『北史』なのに、その理由も示さずに。

  『隋書』             『北史』

   堆              邪

   多利思孤            多利思

                  裴世清

  「身+冉」羅国           羅国

   阿軰臺              何輩


 石原道博は、自身が評価する、“信用のおけない『北史』”から、『隋書』の、「多利思北孤」「阿軰臺」などを、『北史
』の方の記述を正とされるのはなぜなのか?


 和語に近い発音の国名・職名・人名などを探し出し、それに合わせるために、あまり信用はおけない『北史』だが、『隋書』より『北史』の方が、利用価値があるから借用しておこう、との考えが底にあるようにみえる。

 例えば、『隋書』にある阿軰臺は、そのまま読めばアハタィで、阿波田とか粟田などの和名が浮かぶ。粟田真人など同時代の有名人もいる。それなのに、無理に何輩台と『北史』の記事に変えて、「オホシカウチノアタイヌカテ」の音の一部をあらわしたものか、などという説を紹介するのは、文献学者として如何なものか。

 次に、『隋書』本文の読み下し文に付けられた「注釈」について、納得がいかないところを拾い出してみる。


 石原道博の『隋書』の注釈に見える問題点

 その注釈の主なものは、いわゆる定説に近いものを石原道博は「私見によれば」と紹介しているのだが、その多くが理性的に判断するとおかしいところが多い。

① 俀王 阿毎多利思比孤について:天皇の諱に足彦というのが多いから、阿毎・多利思比孤は天足彦で一般天皇の称号であ
ろう。


② 号 阿輩雞彌について:
オホキミ、あるいはアメキミであろうか。松下見林は推古天皇の諱の訛伝とするが、どうであろうか。

③ 太子、利歌彌多弗利について:不詳。事実は聖徳太子をさすわけである。和歌弥多弗利(ワカミタヒラ稚足と)でも解すべきか。

 このように、俀王と太子の名前について石原道博個人の意見を述べています。


①について(【国書・御璽】の認識について)

 この石原道博の判断からみると、まず、俀王の名前を隋朝側が何から得たのか、その考察ができていない。

 当然開皇二十年の遣使も、次の大業三年の遣使も、当然文書外交が並行して行われたことは、当のこの岩波文庫本の『魏志倭人伝』の石原道博編訳の読み下し文を読めば明らかだ。そこには次のようにある。

 女王が使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺〈しけん〉の物を伝送して女王に詣らしめ云々

 このように石原道博自身が、三世紀のころより中国と日本列島との間にはすでに、文書による通交がなされている、と伝えている。残念ながら、石原道博には、中国史書の訳文はできても、その史書が描く文化的歴史状況を把握できていなかったようだ。

 少なくとも、大業三年の俀国からの使節がもたらした、「日出づる処云々」の国書には俀国王の「御名御璽」があった筈。それに加えて、使者との問答で、詳しく国王の姓・国王の字・国王の号を知ったのであろう。このような、いわば基本的な事柄について、碩学の石原道博が認識していなかったのが謎である。

② の号について

 阿輩雞彌をそのまま「アハケミ、アハキミ」という和語でまず探すべきではないか。仮に、粟君とすれば、粗食に甘んじる天子、ということにもなるし、阿波君、安房君などもあり得るだろう。「大王」というような尊称で使者が伝えたということも当たらないということは、「大王」という漢語由来の語が日本列島にはすでに定着していた筈、ということは、江田船山や稲荷山の両古墳出土の鉄剣銘に「大王」という漢語がすでにわが国には定着していたのだ。

③ の太子の名については、和田・石原の先輩竹内理三(一九〇七~一九九七年 東京帝大国史科卒 九州大学教授を経て東京大学史料編纂所所長)が『翰苑』の注釈本を一九六二年に吉川弘文館より出している。

 そこには「和哥弥多弗利」という注釈が出ている。古写本の写真も出ている。「長子号哥弥多弗利、華言太子」いう古写本の「号」と「哥」の間の右横に、朱字で、「和」と記入されている。


  長子号哥弥多弗利の影印と朱字の記入部分



 朱字で書かれた部分の拡大写真


 石原道博は一九八五年の新訂版のときに、和歌彌多弗利説を書き加えている。しかし、「竹内本」の結論を鵜呑みにするのではなく、『翰苑』の原典の写真版を注意深く読んでいれば、その和歌彌多弗利説の根拠に問題があることが分かったはずなのだが。

 この影印をみれば、『翰苑』の原典は「長子哥弥多弗利」とあることがはっきりしているのである。「長子はカミタフリ」と言っているのである。


 訳文の中の「文注」の注釈について

 次に訳文の中の「文注」の注釈について「タリシヒコの謎に関係すると思われる語句について拾い上げてみる。すでに問題点として意見を述べた語句は外す。大体において定説とされているところで、自分も受け入れられる説を「文注」として説明しているようだ。多くの古代史本に引用されることも多いこれらの語句を列挙し、一言その問題点を指摘しておく。

㋑ 邪靡堆:『北史』には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう。

㋺ 内官に十二等あり:聖徳太子の制定された冠位十二階であろう。『日本書紀』には云云。

㋩ 軍尼:クニ 軍尼は国で、国造のことであろう。

㋥ 伊尼翼:イナギ(稲置)か。伊尼翼は伊尼冀の誤りであろう。

㋭ 大徳:この読み方は、末卑騰吉寐〈マヒトギミ真人公〉であった。

 

㋑『呂氏春秋』という秦時代のいわば百科事典(呂覧ともいう)に、靡は、麻に通ずる、 靡は亦、麻に作る、とある。漢和大辞典によれば、「靡」には「マ」のほかに「ビ・ミ・バ・メ・ヒ」などの音がある。ヤマタイ以外の読み方の可能性もある。つまり、靡の読みにはマもある。摩の間違い説は間違い。

㋺ 内官十二階について

石原道博は、この『隋書』の冠位の記事の記載を、わが国の『日本書紀』が記す冠位十二階を述べたものとしている。しかし、『日本書紀』の記述によれば、推古一一年(六〇四年)一二月に制定し、翌年正月初めて諸臣に授けた、とある。

『隋書』の記述によれば、俀国の最初の使者がいろいろと俀国の事情を述べた中に、この冠位についての情報もあったと取れる。つまりそれは開元二〇年(六〇〇年)以前に俀国には冠位が制定されているのだ。六〇〇年のころ推古朝では、まだ冠位十二階は制定されていなかった、のではないか。また、それに、『隋書』が伝える俀国の十二階の冠位と、『日本書紀』が伝える推古朝の冠位とは、位の順位も違っている。『日本書紀』の冠位制定の時期が記述が正しければ、中国との直接通交するためには冠位制定が必要と思った大和朝廷が、俀国に真似て冠位制定をしたということになろう。

 ㋩ および㋥ 軍尼と伊尼翼

『隋書』では俀国の統治組織として、「軍尼」や「伊尼翼」がある、と記している。それを大和朝廷の統治組織の役職名に無理に当てはめて解釈しようとしている。だから、「尼」を「ニ」と読んだり(軍尼)、「ナ」と読んで(伊尼翼)。なおかつ、翼を冀の誤記として、「キ」と読める似た字を当てはめ、無理に大和朝廷の役職に似合う読みに合わせようと努力している。ところで、尼が「ナ」と読まれた例は他にあるのか。石原道博は無言だ。

 余談① 俀国と魏志の戸数

『隋書』俀国伝の「八〇戸に一伊尼翼、一〇伊尼翼は一軍尼に属し、一二〇軍尼がいる」を計算すると、総戸数は九万六千戸となる。これは三世紀の倭国を記した『魏志』の記事の北部九州の国々の戸数と比べてみると、『魏志』に戸数を記されているのは、「対海国千余戸」「末盧国四千戸」「伊都国千余戸」「奴国二万余戸」「邪馬壹国七万余戸」で合計九万六千余戸とぴったり合う。偶然か? 

 ㋭ 冠位第一等の大徳について『翰苑』にある『括地志』の記事を引用して、“真人公が第一等でそれは中国の大徳と同じ” と読んでいる。

この読み方は、末卑騰吉寐〈マヒトギミ真人公〉であった、とするが、大徳という最高位は真人である、と『翰苑』の記事を参照している。

『翰苑』は太宰府天満宮に「巻卅夷蕃伝倭国」のみが残っていて、貴重な史料として国宝に指定されている。その『翰苑』に引用されている『括地志』は唐代に編集されている大規模な地理書である。 このところの原文は次のようなものだ。

括地志曰〈かつちしにいわく〉 倭国 其官有十二等〈そのかんにじゅうにとうあり〉  一曰〈いちにいわく〉 麻卑兜吉寐 華言大徳〈かげんのだいとく〉 二曰〈ににいわく〉 小徳 三曰大仁 四曰小仁 五曰大義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼 九曰大智  十曰小智 十一曰大信 十二曰小信

と、このように、倭国の冠位について述べている。そのまま読めば、 石原道博が言うように、“大徳をマヒトキミと読む”、のではなく、“真人公が第一等でそれは中国の大徳と同じ”と言っているのではないか。

真人が八色の姓で定められたのは天武期といわれる。この『括地志』が伝える冠位の記事は推古期よりもずっと新しいものではないか、と思われる。


石原道博解説のまとめ

この岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝他三篇』に見られる『隋書』俀国伝の編訳は、次のような特徴を持つと言える。

(a)『日本書紀』など日本の伝承に合うような解釈を探している。

(b)そのためには、日本の伝承に少しでもあうように、原文の字を適当に変更する。

(c)大和朝廷が一元的に日本列島を支配していた、という史観に基づいた判断をしている。

(d)『日本書紀』に記載がない中国の記録については、中国側の記録ミス誤伝誤記などという判断をするか、不詳としている。

(e)『隋書』俀国伝のいわば「定説」の集大成的なもので、若干編者の判断を「私見」として加えているが、当を得た「私見」とはいえない。

(f)「タリシヒコ」の国書に御名御璽があったはず、ということを無視している。

(g)一九八九年までの関係資料を新たに参考として「新訂」としているが、古田武彦の「多元的古代」に関する論文は無視されている。 

 
 余談② 白文の読み下しの難しさ

 石原道博氏の『隋書』俀国伝の批評を始めるに当たり、その読み下し文が正しいのかどうか、自分の解釈ではどうなのだ、と読み下し文を試み、漢文学の素養の無さを自覚させられた。

 多利思北孤の遣使記事以前で行き詰まってしまった。当時の俀国の婦人の服装などについての記事のところで。

 婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有竹為梳編草為薦雑皮為表縁以文皮

この中に、どうしてもわからなかった漢字があった。この文の中の、「」である。大したもので、岩波文庫の石原道博先生も、講談社学術文庫の藤堂明保先生も、それらの難解字を訓読されて、読み下し文にされている。ところが、この二人の解釈が違うのだ。まず、石原先生の解釈は、この原文は「」単独でなく、「」という熟語で「ちんせん」と読み、意味は「ひだ飾り」である、とされる。

 他方、藤堂先生は、「
」と「」の間で文章は切れている。「」の読みは「せん」で意味は「ふちどり」である。「」は、読みも「せん」で、意味は、細くする意で、次に続く文章の動詞。さて、石原・藤堂の両説、どちらが正しいのか。ところで古田武彦氏はどう読み下しているのか、探してみた。『九州王朝の論理』明石書房二〇〇〇年五月刊に次のようにあった。

婦人は髪を後ろに束ね亦裙襦・裳を衣、皆〈せんせん〉有り。竹にて梳を為し、草を編みて薦〈しとね〉と為す。

読みは藤堂説に同じで、複合語とするのは石原説に同じで、三者三様なのだ。

『隋書』原文には句読点はない。しかし、日本人が発明した句読点を、現代中国は活用しているようで、中国正史の簡体字訳を見てみた。そこには次のように、句読点が入って文章が区切られていた。

人束于后,亦衣裙襦,裳皆有竹聚以梳。荐,表,以文皮。これによると、藤堂先生の文章の段切りが中国流に合っている。

しかし、「」の読みについては石原先生の「ちん」なのか藤堂・古田両先生の「せん」なのかはわからない。古田先生は、よく「諸橋の大漢和辞典」を引いたらと生前よく言っていた。しかし、福岡市総合図書館蔵書にはない。ブログでぼやいたら古代史仲間が親切にも久留米の図書館で探してくれて。結果をメールで教えてくれた。【諸橋轍次大漢和辞典と渡部温標註康煕字典にでていた。前者では、読みは「セン、ゼン」又は「ケン、ゲン」、字義は「へり、ふち」又は「きぬをかさねる」とあり、後者では、 読みは「セン」、唐韻では「士-戀切」となっているので「sh」+「ian」で「シェン」それが日本の読みで「セン」となったのでしょうか。字義は類篇で「縁也」、釋名で「撰也。靑-絳為之縁也。」とあります】と。つまり藤堂先生が正鵠を射ていた。

私は、石原先生が「ちん」と読まれたのにも何らかの理由がある事と思った。(カタカナのケンはチンに似ている。それが間違いのもとかもしれない)。

石原先生には、岩波文庫以外にも『訳註中国正史日本伝』で『隋書』俀国伝の訳註書がある事を知り、調べてみたが、この本でも岩波文庫同様の訳文だった。何か手掛かりはないか、と最初からチェックしたら「はしがき」にその鍵があった。そこには【訳は書き下し風の現代文とした。はじめは、すくなくとも意訳した達意の現代文にしようと努力したが、じっさい訳してみると、わたくしの力不足もあって、すこぶる困難なことがわかった。そこで、むつかしい熟語などはそのままにして、ふりがなをつけたり、カッコ( )内にかんたんな訳を加えたりした】と、極めて正直に、中国語原文の読解に悩まされたことを述べられていた。石原大先生でもお手上げだった、ということを読んで、やっと肩の荷が下りた。   
                                (完)